★佐田三季先生のコメント
この話は、登場人物設定表のみで書いていきました。つまり、プロット(話の設計図)がなかったのです。始まりと終わり方は決めてはあったのですが、まんなかはまったく真っ白でした。『ひとりになってしまった、ふたりの話』にしようという漠然とした方向だけで、ほとんど見切り発車でワープロソフトに向かいました。
プロットがないものですから、当然、追い詰められました。登場人物たちはどう動くだろう?と、無我夢中でした。これはブログに毎日UPしていったのですが、「暗すぎる」「なぜここまで酷い目に遭わせるのか」とメールでお叱りを受けたこともあります。問われても、そのときは明快な言葉をもっていなかったので、答えられませんでした。
いま思い返しますと、萌えからはずれてしまうのですが……どんなに苦しいこと、つらいことがあったとしても、それでもひとは生きていくだろうということを、登場人物たちにのせてみたかったのです。
このふたりはお金持ちではありません。どこにでもいる、ただのひとです。つらいことに打ちのめされれば、当然苦しみます。だけども、日々を乗り越えていけば、厳しく冷たい冬が終われば必ずあたたかい春が来るように、いつかふっと軽くなる日が来るはずだと。そんなものを心の底で望み、祈っているひとを書きたかったのです。
今回、この『つみびとの花』をBLアワードにノミネートしていただき、たいへんうれしくありがたく思っております。
評者:ともふみ
困った。コラムがちっとも進まーん!この一行だけで既に15日。無駄にPC電力を消費してるにもほどがある。
というのもこの小説、ぶっちゃけBLじゃないと思うんだもの。更には、厳密には恋愛小説とも言えない気がするのだよー!
ゆえに腐の観点から語ろうとすると、PCじゃなく私がフリーズしてしまうのである。
何やら自分の首を締める書き出しになってしまったが今更「書けましぇん」とちるちるに泣きつくわけにもイカンので、その理由を探ってみることにする。
最初に言っちゃうがこの話、不幸ネタのごった煮だ。
なにしろ物語が始まってすぐに主人公の北川を大きな悲劇が襲う。娘が保育園のバス事故に巻き込まれて死んでしまうのだ。
その昔家族を心中で、妻すらも病気で失くした北川にとっては、目に入れても痛くないほどの愛娘なのに。
「ちょっ、マジすか」と思った読者は私だけじゃないハズ。これ、今の時代のBLでやると何気に地雷だ。
トラウマが横行するこのジャンルだから天涯孤独のキャラは珍しくない。しかしその殆どが過去として扱われているのは、現在進行形で書こうとすれば否応なしに「家族を失う」という出来事そのものが中心になってしまうからだ。結果、恋愛は添え物になるだろう。
BLにおいてトラウマは恋愛成就のこやしでなければならず、その逆はあってはいけないのだ。
で、その地雷を作者の佐田さんは敢えて(かどうかは知らないが)踏んできた。すごい度胸だと思った。
娘を失った北川の前に、バスを運転していた保育士の氏家が謝罪に現れる。
もちろん彼に事故の責任はない。それでも北川から見れば、園児の安全を図らなばならなかった園側の人間には違いない。
怒りか、恨みか、さびしさからか、北川は氏家を衝動的にレイプする。八つ当たりだ。北川も分かっている。それでも、苦しみの沼で泥にまみれる連れ合いが欲しかったのだ。
罪悪感でいっぱいの氏家は、怯えながらも体を差しだす他なかった。
私はこの後、二人の愛憎に焦点が当てられるのだと思いこんでいた。
事実こうした被害者と加害者的に始まる話は多く、その関係性の変質こそがキモと言える。だが予想はあっさり外れ、早々に二人の関係は穏やかなものとなる。
北川は氏家に優しく接し、あまつさえ「好きだからそばにいてほしい」と正直に打ち明けるもんだから驚いたのなんの。普通ココもっとタメるとこだよね?
でも同時に胸にストンと落ちてきた。佐田さんは、BLではなく人を書きたいのかもしれないと思った。
実際、怒りや憎しみという強い感情を持続させるのは難しい。
ものすごいエネルギーがいるし、目の前の人形が心のある人間だと知ってしまえば、その心を無視できる者は少ないだろう。
人は情を持つからだ。
そのことを知っている作者が書く北川の心の起伏の描写は、生身の人間として実にリアリティがある。
娘のために気合をいれて可愛いお弁当をこしらえた子煩悩な父親が、罪のない男をレイプする。
流れる血を見て歪んだ快感を味わっておきながら、その数時間後にはタオルで相手の体を拭い手当てしてやり、抱きしめながら「明日になれば謝って風呂に入れてご飯を食べさせてやろう」と考える。
幸せの上にあぐらをかいた傲慢な奴だと思っていたから蹂躙したのに、相手が必ずしも幸せではないかもしれないと気づき、罪悪感が湧いてくる。
脅して体の関係を強要しているくせに、喘息に苦しむ氏家を抱いて一晩中その背中を叩いてやる。
ゆたんぽ代わりでしかなかった氏家の中に、死んだ妻と同じやわらかな笑みと、なにより死んだ娘と同じ目を見つけ、愛さずにはいられなくなる。
最初から氏家に婚約者がいると知っていながら、自分を置いて離れていく氏家に、一瞬殺意さえ覚えてしまう。
北川の言動や感情は、矛盾だらけでとても身勝手だ。
酷い男なのか優しい男なのかよく分からない。分からないけど、情が深い人間なのだと考えれば、これほどしっくりくる男はいないだろう。
下手な作家が書けばちぐはぐにしかならないだろう様々な顔を、北川という情の深い男として全く矛盾なく見せてくれている。
そしてそんな北川だからこそ氏家もまた惹かれていく。
男の孤独を知ればただ恐ろしいだけの相手ではなくなったし、父性的な優しさに触れれば、実の両親に見放され里親の元で育った氏家のぽっかりと空いた心は、満たされていったからだ。氏家もまたさびしい人間だったのだ。
とにかく驚いたのは、恋愛の紆余曲折はほとんど描かれていないこと。というより、この話にとって恋愛過程は重要ではない
と言うべきかもしれない。
惹かれあう必然性を丁寧に丁寧に掬い上げているのだ。
なぜ人を好きになるのか。その想いは一体どこからくるのか。相手を好ましいと感じる気持ちを辿ってみれば、たいていは自分の中に理由があるものだ。
例えば尊敬や憧れを裏返せばコンプレックスが隠れているように、運命の相手だからではなく、自分が好ましいと思うものを持っている相手だからこそ惹かれるのだ。
北川と氏家はまさにその典型だろう。
しかし、二人にはまだ問題が残っている。氏家には婚約者がいるのだ。
里親の娘である婚約者は、実はレズビアンであった。そう、氏家たちは、同性愛を許さないクリスチャンの両親の手前、偽装結婚するつもりだったわけだ。
婚約者というフラグにあえて恋愛関係を持ち込まなかったことに、肩透かしをくらった方もいるんじゃないかな?(私もそう)
けれど、氏家に里親というしらがみを課すことで、どれだけ氏家が特別な愛情に焦がれていたのかが伝わってくる。と同時に、逆説的に家族という繋がりが見えてくるのだ。
「好きな男ができたから結婚できない」と告げた義理の息子に、結婚を心待ちにしていた両親の反応は予想通り否定的だった。困惑し、ついには激怒し、親子の縁さえ切ってしまう。
しかし、決してこの両親は悪者として描かれていない。
彼らは親なのだ。親は子供の幸せを願っている。だから自分が幸せだと信じる道を歩ませようとする。無理解からくる否定だけではない、親の愛なのだ。
ケンカ別れした数日後、スーパーで偶然出会った母親は「べつに許したわけじゃないけど」と言いながら、買い物カゴの中身を自分のカゴに移させて、氏家の分まで代金を支払って去っていく。
お仕着せの愛情を撥ねつけて初めて氏家は、彼らが里親ではなく本物の家族なのだと気づいたのだ。
人は情を持っている。
情をもつゆえに人と人は繋がり、求め、反発し、時には絡まり合う。
その延長に、恋愛があり、家族があり、友人がいる。同僚や知人、苦手な相手や、恨んだ相手でさえもその範疇なのだ。
BLではないと感じた理由はここにあった。
佐田さんは人を書きたかったわけでもない、人の繋がりを書きたかったのだとようやく思い至った。
訂正しよう。
この本はBLでも恋愛小説でもないのではなく、BLにも恋愛小説にも収まらないのだ。
つらい現実の中であたため合う二人の心に、一緒に寄り添いながら読んで欲しい。
そして時々は、脇の人々がみせる様々な気遣い(もちろんとんちんかんなのも!)に目を向けて欲しい。
彼らはきっと、私やアナタの周囲にもいるはず。