【小説部門】 8位
私はこの本を最初に手に取った時点では「デコイ」しか読んでいなくて、「エス」シリーズで何が起きていたのかとかそういうことを知らないまま、篠塚という人物に対しても「デコイ」に出てきた時の印象だけ。
それでも篠塚という人物が誰かと交わるというのが想像できなくて、どんな物語になるのかと興味を惹かれました。
警視庁公安部外事第一課第四係のウラに属する江波郁彦は、ある日、秘匿追尾をしていた相手に尾行を見破られるという失態を犯してしまう。
そして、上司に呼び出された江波はそこで警視正・篠塚英之を目にする。
篠塚は江波をある事件の犯人に指名するが、江波はあることから篠塚に対して反感にも似た感情を持っていて…。
最初は確かに反する気持ちが強かったはずなのに、篠塚の人間性に触れていき、少しずつ篠塚という男のいろいろな面や優しさを見せられて、新たな気持ちが生まれていく江波。
江波と接することで何かを得ているようにも見える篠塚。
それでも篠塚の進む道はそれ以前に彼自身によって定められていて、少しも揺るぎようがない。
揺らぐ要素がありつつも、それに飲まれないように自制しているというか。
篠塚が妻子を失ったことについて今でも複雑な思いを持っていて、それが彼の人生に大きくのしかかっていることがわかる。
今回、篠塚の対としての主人公として登場する江波。
江波という人物は読み終えてみればすごくかわいい人物に見えて仕方なく。軽薄そうな今時の若者といった風にも見えるのに自分の気持ちに実に素直にも見えたり。
それまで付き合ってきた相手に対して、男同士というせいもあってか「好き」と口にすることさえしなかった江波が、篠塚に対しては何度もちゃんと「好きです」と告白している姿はそれだけで彼の本気がひしひしと伝わってくる。
何度伝えたところでそれが実るものではないとわかっていても伝えたい想いがあって。
最初は反発していた気持ちがあったはずなのに、篠塚という人物を知るにつれて気持ちがどんどん傾いていくのが見えて。
そうして真っ直ぐに気持ちを伝えられるところが江波の良さなんだと思います。
また、兄である神津との関係性も彼の魅力の1つといえるでしょう。
自分の出来が兄の仕事に与える影響を常に考えて、兄の人生に汚点を残さないようにと心掛けて。
互いに肉親としてとても情が深いというか、男兄弟としては珍しいくらいにすごく仲の良い兄弟のようで。
江波が何もかも包み隠さず話してしまうほど、兄の身に起きたことに自分のことのようにショックを受けてしまうほどに強い絆が2人の間にはあったりして。
どこか兄に従順なようにも見える江波もまたかわいい。
一方の篠塚という人物は本当に罪作りな人としか言いようがない。
彼の口調はどこか江波に対して優しい父親のような雰囲気もあるのだけれども、江波がゲイだということ知った上での行動と考えればそれはそれで誘惑される材料にも見えます。
告白されて、それを断った後でも態度が変わらないというか、相手にある意味思わせぶりに接してしまうところが特に罪作り。
しかし、元を正してよく考えてみると、大概において食事に誘ったりしてるのは篠塚の方だったりして。
その裏には、恋人のことで傷ついた江波を慰めたいとかそういうものもあったのかもしれないし、普段は接することがないような若者との交流ということもあったのかもしれない。けれど、やはりそこには何か特別なものが生まれていて。
ほかの誰かと接するのとは別に確かに篠塚の中で江波に対して芽生えているものがあって。
なのに、先に選んでしまった信念を曲げないところが篠塚らしいというかなんというか…。
どんなに淋しくても1人を選んでしまって、それを貫き通すところに『男』を感じます。
浅川の赤ちゃんを抱いてその尊さを体感しているところ。
江波の肩に頭を預けて眠るところ。
愛おしいと感じつつも、どうにか自制して離れるところ。
そして、「このさびしさに君は耐ふるや」なラストシーン。
どれもこれもが印象的。
『BL』というカテゴライズに果たしてこの物語がどこまで属するのかは疑問だけれど、そんなことは抜きにしても読みごたえのある面白い作品で。
ラブストーリーというより人間ドラマ。
篠塚という1人の男の生き様を書いたお話だったなぁと読後は満足感でいっぱいです。
下手に『BL』という枠に囚われることなく、篠塚の篠塚らしさを失わせない物語に仕上げて下さった作者さまに感謝。
読者的にもこの結末が篠塚としてはベストだったのではないかと思います。
「エス」「デコイ」とシリーズが順にCD化されてきたこの作品群。
『BL』という面で考えれば難しいのかもしれませんが、是非この作品もCDで聞いてみたいと思う読者は多いのでは?
もちろん、私もその1人です。
三木さんのお声で大人の男の生き様をじっくり聞かせて欲しい!!