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BL shinkaron boyslove ga shakai wo ugokasu
BLを徹底的に個人の趣味として享受している者にとっては、とても考えさせられる一冊でした。これ、論文なのですよね。BLの恩恵に与っている今のわたし達が、いつの時代の、どの作品との出会いから、この密かな楽しみを手に入れてきたのか。世代によって多様化するBLに抱く個人的な「持論」を俯瞰してみるには大変有用な著書で、例証のためにとりあげられている小説や漫画の作品群を辿るだけでも、BL史の全体像を掴むことができそうです。
個人的には未読の作品が多々挙げられていて、読み進めるとネタバレになってしまうのでちょっと苦心しましたが、論文形式に則っているとはいえ読みやすい文章ですので、構えずに読めるのではないかと思います。ちなみに、この論文が扱っている対象は商業BL小説と漫画のみで、ドラマCD、アニメ、二次創作作品については論点上、分析の対象外とされていました。以下は個人的な感想です。
レズビアンでBL愛好家でもある著者は、BLの作り手も受け手も(ほぼ)女性であることを前提として論を進めています。即ち、女性の創作活動を女性が支えている。BL作品を購入することが、女性の経済的自立を支援することに直結しているわけです。改めてこの事実を示された時、子供の頃にたくさんの女性漫画家の作品に癒され、励まされてきたことを思い出しました。大人になった今の自分が、自分で得た収入でBL作家の作品を購入し、楽しみ、これから誕生するであろう未来の作家へ道を繋いでいくことが、少女の頃の見えざる理解者であった作家の先生方への恩返しにもなっていて欲しいなぁ、と感慨深いものがありました。
他、興味を惹かれたのは、BLの台頭とともにその背面で興っていた、やおい論争とゲイ・カルチャーに関する考察。女性のBL愛好者は大方、美しい男同士の絡みにしか興味がない(好みが多様化している現在では、その限りではないと思いますが)。著者によると、作家さん達がリアルゲイ視点を意識し始め、作品にリアリティーを取り入れるきっかけとなった論争です。やおい論争は当時耳にしたことはありましたが、こうしてBL史上での位置付けを知ることができ、頭の中で繋がりました。巻末には著者と、彼女の二十年来の友人であるブルボンヌさんとの対談も収録されています。リアルゲイ(女装家でもありますね)から見るBL観が興味深かったです。また、補遺としてBL理論編の論文と、様々なゲイ映画を取りあげた応用編、二本の論文が併録されていて盛りだくさん。
カバーイラストは中村明日美子先生。『あの日、制服で』と同じように、カバー下に注目して下さい。わたしはどうしてもあの二人を投影してしまうのですが、なぜか泣けてしまいました。。
BLが女性のジェンダーロールからの解放場所として少しずつ「進化」してきた時の流れを知るにつけ、BLを単なる娯楽や、消費メディアの一つとして捉えられてしまうのはとても悲しいなぁ、というのがこの本を読んで一層強くした思いです。
ずっとべったりではないけれど、BLという言葉なんて無く「やおい」「耽美」「June」etc…と言われていた時代から、同性愛を扱った作品を読んできた世代である私にとって、著者の通ってきた読書遍歴は被る部分も多いので「そうそう!」と膝を打ちながら楽しく読みました。
特に自分が仕事の状況その他のせいで、こういったジャンルから離れていた時期(と言っても、その間も完全にノータッチだったわけではありませんが)に起こっていたこと…ちょうどBLという言葉が成立した頃前後に当たります…を俯瞰して確認できて興味深かったです。
今のBLは「進化」していて、BLムーブメントが社会を動かす可能性がある…という主張については、ちょっと大げさではないかな? と個人的には思うのですが。(私個人としては、爛熟した現在のBLムーブメントは、商業化と類型化が進み、ある種の危険をはらんでいるように感じるところもあるので)
時代ごとのブックガイドとして、またLGBT関連映画のガイドとして…資料的な意味合いでも「BL好き」の面々は読んでおくとよい一冊だとは思います。
明日美子さんの表紙とカバー下のアイデアはたいそう秀逸です。これはずっと眺めていたい。
BLに関しての論文。
著者はオープンリーレズビアンで、ジェンダーやセクシュアリティー面からアートやカルチャーを研究している溝口彰子氏。
内容は、溝口氏が体験的に読んできた書物/マンガ/BL等々を、セクシュアリティー論的に再び読み解き、「BLなるもの」を体系的に再構築する、的な一冊だと思う。
溝口氏と私個人は、おそらく世代的には同じ?いや私の方が年上かな。
というのは、溝口氏が自らのレズビアンセクシュアリティーを肯定的に受け入れた理由が、マンガ「摩利と新吾」(木原敏江氏著)の存在である、と書かれていたから。
私も「摩利と新吾」はLaLa誌でリアルタイムで読んでいた世代なので、溝口氏の過去話はいちいち頷ける。何の助けも注釈もなく理解できる感覚。
私個人は、「摩利と新吾」そして「日出処の天子」(山岸凉子氏著)の両作が連載終了した1984年をもってLaLa誌及び全てのマンガから手を引き、その後商業BLを読み出す2014年まで一切のマンガを読んでなかったから、溝口氏の繰り出す様々なBL作品の実例はほぼリアルタイム的には読んでいない。
その点で、「私」という個人は溝口氏の世代的な歴史を知る者であり、同時に今現在の若い読者たちと同じくBLの歴史を教わるようなBL初心者という位置でも本作を読むことができたわけだ。
つまりは私は年齢的には初期の古の腐女子だが、同時に今の若い読者と同じような読書歴であり、同時に若い彼女たちよりは十分に年上なので許容力もあるわけで。
本作は論文的なので読者のターゲット層がどこなのかは明確では無いけれど、過去を知っていて今をまっさらに新しく知れる、という「私」の立ち位置は本作の読者として理想的であるような気はする。
捕遺としての映画論は非常に興味深く、本作を片手に紹介されている映画を見たくなってきた。
腐女子というものは”つづ井さん”のおっしゃるように十字架を負って生きている。裸の男同士が絡み合う漫画や小説を買う時、子供の時から慣れ親しんだ作品を脳内でBLに変換してしまったとき(かくいう私はクレヨンしんちゃんのしんかざに目覚めた)、我々は真剣に自己嫌悪に陥る。なぜ、BLを求めてしまうのか。それでも私たちはBLを愛することを止められない。
それはなぜなのか。
その理由が知りたくて、この本を購入した。執筆者の言うにはBL作品の中では、男性になることが出来、結婚してから家庭に縛られて自由を奪われる現実から逃避するためだとあった。しかし、「この指摘は現代にはあまり当てはまらないのでは」と思う。なぜなら、父親から虐げられる母親を見て育った男の子たちが大きくなり「自分は父親のようにはならない」と、自主的に家事を手伝ったり、妻の趣味に理解のある男性は増えてきているからである。私個人としては納得のいかない理由づけであった。