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第4回 BL小説アワード「再会」

傘を差すひと

タイムワープ/ヤクザ/ハッピーエンド

「誰かを助けられずに死なせるのは、もう嫌なんだ」

谷崎トルク
グッジョブ



 出所したその日は朝から雨が降っていた。風は刺すように冷たく、吐く息が口元で白く纏まった。コートの前を掻き集めても寒さは変わらない。背の高い門を潜り抜けると鈍色の空が迫るように広がっていた。
 ここに入ったのは二年半前。詐欺罪で実刑をくらった。初犯にもかかわらず執行猶予がつかなかったのは俺がヤクザだったせいだ。オレオレ詐欺の受け子と出し子を手配していた事務所にサツが乗り込み、組員たちはいつものようにビルの窓から逃げたが、運悪くエレベーターに乗っていた俺は一階であっさりと捕まってしまった。
 ――必ず迎えに行くから。
 そう約束してくれた〝家族〟はどこにもいない。
 迎えの来なかった雨の降る道を、俺は傘も差さずに一人とぼとぼと歩いた。
 元々、ついてない人生だった。
 父親の顔も名前も知らない。もらったのはただ一つ、空飛(そらひ)という名前だけ。空っぽで飛ぶ? いかにもアホがつけそうな名前だ。意味も中身も空っぽな、俺にピッタリのキラキラネーム。俺はこの名前が好きではなかった。
 母親は親父の話をあまりしたがらなかった。というか、母親とまともな会話をした記憶がない。俺の母親はご多分に漏れず水商売で生計を立てている女で、家にはほとんど帰って来なかった。ご飯を作ってもらった記憶も、優しい言葉を掛けてもらった記憶もない。虐待こそされなかったが、どんな子育てだったかと聞かれれば今で言う所のネグレクトだろう。
 小学校低学年までは家にしょっちゅう児童相談所の職員が訪れ、部屋の中を掻き回した挙句、母親がいると言っても信じてもらえないので本当に面倒だった。洗濯カゴやゴミ箱はもちろん、生理用品の有無まで調べられるので、小学生の俺はそろそろ児相が来そうだなと思うと、母親の下着を洗濯カゴに入れ、化粧品のゴミを作り、生理用品をコンビニまで買いに行った。もちろん、母親と電話で口裏を合わせるのも忘れずに。
 そんな生活のせいか中学に上がる頃にはすっかり荒み、そこら辺にいる不良がやりそうな事は全部やった。飲酒や喫煙に始まり、シンナーやクスリも嗜んだ。盗みにカツアゲ、脱法ドラッグの売買、エロ親父を狙った美人局……オールラウンダーの不良だ。高校にも行かず、同じような境遇の仲間たちと夜の街で遊んでいるうちに自然とヤクザから目をつけられた。唯一、地元の工業高校に進学していたダチが「ウチの高校にドラフトに来るヤクザの親分だ」と尊敬の目で見た男――それが根岸組の組長、根岸勇蔵だった。
 根岸はいかにもヤクザという風貌をしていた。白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、口の周りにヒゲを生やし、小太りで一見鷹揚に見えるが、近づくと目が少しも笑っていなかった。
 ――おまえ、可愛い顔してんのに歯がないな。
 その時の俺はちょうど喧嘩で歯を折られて、前歯が四本なかった。笑うと歯茎が見え、赤ちゃんみたいだと周囲からはからかわれていた。
 ――おまえ、うちに来い。まずその歯を入れてやる。赤ん坊からガキに昇格だ。しょうがねぇな。俺がおまえの親父になってやる。
 親父になってやる。
 その言葉を聞いた瞬間、頭の後ろがじんと痺れて胸がいっぱいになった。温かい毛布で体を包まれたような気がした。自分に初めて父親ができる、そして兄弟ができる。それは不良仲間と組んでいたチームでは得られない血縁関係を越えた硬い「絆」だった。
 ずっと欲しかった絆。家族のように深い絆。けれど、その絆は本物ではなかった。
「馬鹿だな……俺」
 ヤクザは所詮、ヤクザだ。上納金を納められない上に、サツにあっさりと捕まるアホな組員など誰も必要としてない。ヒエラルキーの最下層にいた自分は息子でも弟でもなく、ただの駒だった。替えの利く便利な駒。成る事もできなかった最弱の「歩」。
「本当に馬鹿だ」
 冷えた鼻を啜りながら灰色の道を歩いた。入所した時の所持品に傘はなかった。ここまで来て、買うのも馬鹿らしい。肩がじっとりと濡れているのも気にせず、ただ歩いた。国道まで出ると電化製品やアパレルや靴の量販店が並んでいるのが見えた。その奥にファミリーレストランの看板が覗いていた。金は持っている。二年半の間にムショで稼いだ作業報奨金があった。とりあえず食事をしよう。俺はそのファミレスへ向かった。
 店に着くと店員から「お一人様ですか?」と訊かれた。小さく頷くと奥の席に案内された。笑顔のウエイトレスを見てビックリした。人から笑顔を向けられるのも二年半ぶりだ。自分がいかに不自然な世界にいたのかを実感した。
 メニューも色鮮やかで目がチカチカする。食欲はあるはずなのにどれを選んでいいのか分からない。何かを自分で選ぶという作業もしばらくしていない。どうしていいのか分からなくなり、おすすめと書かれたメニューの一番上のものを選んだ。
 注文を済ませて店内を見る。レジの横にクリスマスツリーが飾られているのが見えた。
 そうか、十二月なのか。
 最初の頃、出所の日を指折り数えていたが、だんだんどうでもよくなり、最後は外に出るのが怖くなった。母親は俺がヤクザになった一年後、十八の時に事故で亡くなっていた。酔っ払ったまま風呂に入ってそのまま溺死したのだ。最後の方の母親はアル中でまともな生活をしていなかった。母親の死はゆるやかな自殺だったと思っている。仕方がない。俺も母親も生まれた時から運に見放された人生だった。亡くなった時はそれほど悲しくなかった。その時の自分には〝親父〟も〝兄貴〟もいたからだ。
 しばらくすると注文した料理が運ばれてきた。サラダとスープ、グラタンとチキンのステーキ、どれも美味しそうだった。夢中になって食べているとすぐになくなった。五分も掛からなかった。早食いもあそこにいた後遺症なのだろう。ふとフロアの中央に目をやると楽しそうに食事をしているカップルや家族が目に入り、居た堪れなくなった。
 さっさとデザートを食べて外へ出よう。そう思った時、店内に流れていた音楽が突然切れ、代わりにバースデーソングが流れた。照明がわずかに暗くなる。なんだろうと周囲を見回すと、三人家族のテーブルに花火付きのケーキを運ぶウエイトレスの姿が目に入った。小学校ニ、三年くらいの男の子がそれを見て歓声を上げている。目の前に置かれたケーキの花火はまだパチパチと瞬いていた。
 綺麗だ……。
 隣に座っていた父親が息子の頭を撫でた。皆、笑顔だった。ウエイトレスが「ハイポーズ」と掛け声を出し、カメラで写真を撮った。この店のサービスなのだろう。店員も対応に慣れている。
 不意に涙が込み上げた。
 くそ、なんでだ。馬鹿馬鹿しい。
 込み上げてくる感情を誤魔化すために、俺はテーブルの下の拳をぎゅっと握り締めた。
 たかがケーキだ。安い花火がついただけのファミレスのケーキだ。ちっぽけな、本当にちっぽけな幸せだ。それなのになんでこんなに羨ましいのだろう。
 狡いと思った。悔しいと思った。どうして俺はあそこにいないんだろう。あそこにいる二人になれなかったんだろう。父親に愛される息子に、そして息子を愛する父親になれなかったんだろう――。
 泣くのを我慢していると喉の奥がぐっと詰まった。苦しい。胸が痛い。目の裏側が焼けるように熱かった。もうここにはいたくない。
 俺は立ち上がると乱暴に伝票をつかんでレジに向かった。店員からデザートがまだです、と言われたが無視して外へ出た。
 国道へ出ると雨がいっそう強くなっていた。
「くそ……ついてねぇな。ホントに」
 入所したのは六月で着ていた服は半袖だったが、さすがにそれで寒空に出すのは可哀相だと思ったのか保安課の職員が出所の際、引き取り手のなかった受刑者のコートをこっそり渡してくれた。それでも寒い。黒いトレンチコートは裾までぐっしょり濡れ、意味をなしていない。これなら着ていない方がましだ。
 空腹は満たされたが、心は飢えに満ちている。
 ――これからどこへ行こう。
 そう思って乾いた笑いが洩れる。行く場所などありはしない。帰る場所も自分を待ってくれている人間もいない。母親も家族もいない。つまり俺はいらない人間だ。この世に必要のない人間だ。
 ――死んでしまおうか。
 もし行く場所があるとするならそれは天国だ。前科者が天国に行けるかどうかは知らないが、とりあえず罪は償った。天国の手前くらいまでは行けるだろう。
 目的もなく歩いていると道路に掛かった長い橋の上で足が止まった。欄干の下を覗いてみると深そうな川が見えた。流れも早く、高さもある。ここから飛び降りたら死ねるだろうか。
 どこからともなく、やれと言う声が聞こえてくる。
 そうだ、こんな人生終わらせてやる。二十三年――ちょっと早かったが後悔はない。充分楽しんだし、充分苦しんだ。もういい。本当にもういい。
 欄干の手すりにつかまる。手が痺れるほど冷たかった。雨は相変わらず降っている。滑る手に苛つきながらなんとかそれを乗り越えた。足の踵だけで立っている。手を離せばそれで終わりだ。下から風が吹き、轟々と鈍い音がした。
 ――バイバイ。
 誰に向けての言葉か分からないが口の中で小さく呟いた。
 特別じゃなくていい。生まれ変わったらせめてファミレスのケーキで誕生日を祝ってもらえるような人間になりたい。
 バイバイ、人生。バイバイ、俺。
 手を離すと、黒い川に吸い込まれるようにゆっくりと体が斜めになった。頭が下になったなと思った瞬間、意識が途切れた――。

 夢……夢だろうか。
 川に落ちたはずの自分が橋の欄干を背もたれにしてアスファルトの上に座っている。投げ出した手と足に力はない。ただ、雨に打たれたまま項垂れて静かに座っていた。
 ふと目の前に影が差した。見上げると傘を差した男が立っていた。なんだろう。顔が暗くてよく見えない。背が高いのと黒いスーツを着ているのだけは分かった。
 ――おい、クソガキ。なんでここに寝てる。
 口を動かそうとするが上手く喋れない。唇がぴったりと張りついて動かないのだ。
 ――なんだ、おまえ。口が利けないのか。
 突然、革靴の先で膝を蹴られた。つま先が揺れる。けれど、痛みを感じない。
 ――おい、コラ。聞いてんのか。
 男は苛立った声で何度も蹴りながら話し掛けてくる。早く飽きてどっか行ってくれと思ったが男は執拗だった。
 不意に男が腰を下ろした。男が差す傘の中に自分も入る。顎をつかまれると必然的に視線が合った。鋭く平坦な目。言葉は荒いが視線に感情の起伏が全くない。よく知った目だった。
 ――おまえ、可愛い顔してるが……なんだ、お仲間か。どこの組のモンだ。
 コラ、ヤー公と頬を軽く叩かれる。それでも俺は手足をだらんとさせたままだった。体に力が入らない。死んだのだろうか。だったら目の前にいるのは死神だ。どう見てもヤクザだが……死神にもヤクザの形態があるのだろう。
 死んでもこっちの世界から抜け出せないのかと苦笑いが洩れる。いや、違う。俺がヤクザだったからこんな奴が迎えに来たんだろう。死神でさえ人を選ぶのだ。
 ――コラ、起きろ。目ぇ、覚ませ。
 もう一度、脚を蹴られる。
 ――コラ、目ぇ開けろつってんだろ、コラ……。
「おいコラ、いい加減に起きろクソガキ!」
 急にはっきりと男の声が聞こえた。驚いて瞼を開けると、目の前にさっきの死神がいた。
「お、やっと目、覚ましたか」
 頬をぺしぺしと数回、叩かれる。痛くはない。どうやら俺は死ねたらしい。よかった。
「……よ、よかった。ここは天国?」
「は? おまえ、何言ってんだ」
「……て、天国じゃねぇの?」
「天国って……あー、やっぱりヤバい奴だったか」
 男は大きな手を額に当てるとわざとらしく溜息をついた。随分、フランクな死神だ。仕草も喋り方も普通の人間に見える。
「助けた時も夏なのに黒いコートなんか着てたからなぁ。おまけにびしょびしょだったし。ヤバイとは思ったが……やっぱりか。おまえ、ヤクでもキメてるのか?」
「……俺、死んだんじゃねぇの?」
「死にそうになってた所を俺が助けたんだろうが。なんだ、覚えてないのか」
 そう言われて喉がひゅっと音を立てた。死んでない。俺は死んでない……。
 慌てて自分の手を見た。確かに綺麗だ。どこも怪我をしていない。痛みもなくちゃんと動く。同じように他の場所も、なんの問題もなかった。
 橋の真ん中から下の川へ飛び降りたんじゃなかったのか。思い出そうとしたが何も思い出せない。欄干を乗り越えて反対側に立った所までは覚えていたがその先の記憶がなかった。
 確かにここは天国ではなさそうだ。落ち着いて周囲を見渡すと、そこは古いマンションの一室のように見えた。キッチンと続きになっている狭いリビングにはドアが二つついている。隣の部屋は寝室か何かで、奥のドアの向こうには風呂とトイレがありそうだ。
 今いるリビングにはキャビネットの上に大きなテレビがある以外、特に気になるものはなかった。安そうなガラステーブルとソファー、汚れたラグ。この男は金持ちではなさそうだ。
「あんた、誰?」
「それはこっちのセリフだろう。おまえこそ誰だ」
「俺は……」
 名前を言いそうになって言葉に詰まる。どう見てもこの男は堅気には見えない。どっからどう見てもヤクザだ。匂いで分かる。間違いない。
「ちょっと、スマホ貸して」
 自分の事故の記事が載っていないか調べたくなった。それにこの男の正体も。根岸組と敵対していた組の者だと色々面倒だ。
「すまほ? なんだそれ?」
「え? だからスマホだよスマホ。スマートフォン」
 ムショに入っていたがそれぐらいは知っている。出る時に簡単な使い方も教えてもらった。
「すまーとふぉん? なんだそれ。初めて聞くな」
「え……あんたスマホ知らないの。冗談だろ……」
 そう言うと男がムスっとした。慌てて電話を掛ける仕草をする。
「だから、電話だよ電話。携帯電話」
「なんだケータイか。それならそうと最初から言えよ」
 男はダイニングテーブルの上を乱暴に掻き回した。煙草やライターを飛ばしながら何かを手にする。ほいよ、という声とともに銀色の塊が飛んできた。
「あんた……コレ……」
 言葉より先に吹いた。二つ折りの携帯電話、表にiモードとか書いてある。ガラケーですらない。俺が小学生の頃、使ってたやつだ。
「テレビもブラウン管だし……あんたは懐古趣味なの? これレトロを通り越して化石だよ。使えんのが不思議なぐらいだ」
「は? クソ、おまえバカにすんなよ。これはなぁ、一週間前に機種交換したばっかりの最新式のケータイだぞ。新しすぎて分かんねぇだけだろ。iモードっつってなぁ、天気やニュースも分かるんだぞ。凄いだろ」
「…………」
 言葉が出ない。どういう事だろう。男が冗談を言っているようには見えない。表情から本気で怒っているのが分かる。これ以上、怒らせるのは得策ではない。会話の流れを変えるためテレビのリモコンを手に取った。
「これ、つけてもいい?」
「……まぁ、いいけど」
 ちょうど、朝の時間帯で各局がニュースをやっていた。アーティストのライブ情報が目に入る。懐かしい。俺が小学生の頃によく聴いていた歌だった。
「懐かしいなこれ。確か三百万枚くらい売れたんだよな。あの頃はよかったな。CDが売れていい曲も多かった」
「おまえ……やっぱり、クスリやってんだろ。この曲、先週出たばっかりだぞ」
「え?」
 そこで気づいた。テレビを見ていてさっきからずっと違和感があった。内容が古く、どれを見ても懐かしいのだ。
「まもなく開催されるシドニーオリンピックでは――」
 アナウンサーの声が聞こえる。シドニー? こないだ終わったのはリオじゃなかったのか。嫌な予感がする。
「新聞ある?」
「ああ、あるけど。おまえ、文字読めんのか」
 男は喉の奥で笑いながらそれを投げて渡してくれた。
 恐る恐る最初のページの一番上を見る。
 ――2000年6月18日 土曜日
 手が震える。指先がすっと冷たくなった。
「嘘……だろ」
「なんだ、日付がどうかしたのか?」
「信じられない……これ、冗談じゃないよな」
「冗談? どういう意味だ。今朝、配達されたちゃんとした新聞だぞ」
 社名を見ると大手の新聞社の名前が書いてある。どう見ても作り物じゃない本物の新聞だ。
「ちょっと……トイレ」
「あ? ああ。そっちの奥だから。ごゆっくり~」
 新聞を持ったままトイレに入った。震える手でそれを握り締める。どうやら俺は2016年の12月から2000年の6月へ、なんらかの理由でタイムスリップしたらしい。信じられない。映画やアニメでよく見るあれ……今じゃ、誰も見向きもしない使い古された設定。どうせなら異世界転生してチートなヒーローになりたかった。
「くそ……なんでこんな――」
 スマホもない時代にタイムワープ。しかも、同業であるヤクザに拾われた。
「ついてねぇな……ホントに俺は」
 トイレの中で頭を抱えているとドアをドンドン叩かれた。
「おい、長くねぇか。いつまでウンコしてんだ、コラ。早く出て自己紹介の一つでもしやがれ」
 無視しているとさらに強く叩かれた。
「おい、どうしたんだよ、おい」
 男の声は焦っていた。しばらくすると叩く手が止まった。
「……大丈夫か?」
 不安そうな声が聞こえる。俺は仕方なくトイレのドアを開けた。

「2016年からタイムワープして来た? あはは。おまえ、完全に頭飛んでんな」
 男は腹を抱えて笑っている。汚いラグの上で転がったせいか、黒いカットソーに無数の埃がついた。
 俺が無言で固まっていると、男は腹を押さえたままチラリとこちらを見た。切れ長の目尻に涙が滲んでいる。
「信じてない」
「おまえ、ホントに面白えなぁ。頭クシャクシャの博士と共謀してこっちの世界に来たのか。乗って来たデロリアンはどうした?」
「……何それ、知らない」
「え? これ知らないのか。そうか……やっぱりおまえ、ショックで混乱してるんだな。記憶がごっちゃになってんのか」
 男は軽く首を捻った。カットソーの袖についた埃を払っている。
「でもまぁ、死にたかったのは本当だったんだな。死んだ魚の目で雨に濡れたまま座ってたからさ。橋の上で風がきつかったし、ほっといたらヤベぇだろうと思って。六月でもまだ寒いからな。冬だったらあれだ。完全に死んでたぞ、おまえ」
 座ってたんじゃない。俺はあそこから飛び降りようとしたんだ。
 そう言おうと思って言葉に詰まった。結局、俺は死んでない。死んでないって事は飛び降りなかったという事だ。
 自分の弱さを見せつけられた気がして酷く情けない気持ちになった。
 俺は死ぬ事もできない、クズ野郎だ。根性のない弱虫だ。
「ゴミ……」
「あ?」
「ゴミだ……」
「どうした?」
「五味空飛。それが俺の名前だ」
 そこまで言うと男は急に笑顔になった。
「そうか、空飛か。いい名前だな」
 俺が反論しようとすると男が手を伸ばしてきた。
「俺は嘉山蓮二、レンジって呼んでくれ」
 大きな手が近づいてくる。
「あ、最初に言っとくが電子レンジって言ったら殺すからな」
「……俺もゴミって呼ばないでくれ」
「分かった。じゃあ、ソラって呼ぶな。それでいいか?」
「……うん」
 俺が頷くとぎゅっと手を握られた。大きくてカサついていたが温かい手だった。

       ×××

 蓮二は変わった男だった。歳は俺より三つ上の二十六歳だったが、それよりももっと大人に見えた。背が高く、顔が整っている上に目つきが悪いため、三つ揃えのスーツを着ると極道の若頭に見えた。日常の所作は乱暴ですぐに物を投げる。なんでも投げて渡す。蓮二が使っている小物には必ず細かい傷があった。
 それなのに知的で繊細な所がある。寝室に入って驚いた。ベッドは小さなセミダブルで、その周辺に所狭しと大小さまざまな本棚が並んでいた。それでも入りきらない雑誌や本が、パソコンの周辺や床の上にまで堆く積まれ、部屋の中は何かの基地のようになっていた。業界新聞も含めた数十社の新聞、経済理論のハードカバー、ビジネス系の雑誌、四季報、英語で書かれた専門書……どれも蓮二が言うにはきちんと分類されているらしい。
 部屋を掃除する際もルールがあるから無駄に触るなと注意され、特にパソコンに至っては電源をつける事さえ許されなかった。株取引でもしているのだろうか。とにかく、安いシノギで稼いでいるようなチンケなヤクザではないようだ。
 拾われて一週間を過ぎても外に出してもらえなかった。頭がおかしいから心配だ、と一人で出歩くのは禁止された。仕方がないので一日中、部屋で過ごした。朝起きて朝食を作り、蓮二を見送る。部屋とトイレと風呂を掃除して、洗濯もする。アイロンも生まれて初めて掛けた。蓮二が買い置きしてくれた食材を使って夕食を準備し、男の帰りを待つ。
 なんだよ、コレ。嫁かよ。
 一ヵ月を過ぎる頃にはそんな生活にも飽きていた。元の世界に戻ろうにも、その方法が分からない。これじゃあ軽い軟禁状態だ。気持ちも体も塞ぐ。仕事から帰って来た男に文句を言うと、蓮二はダイニングテーブルに座ったまま動かなくなった。
「なんだ、おまえ。外に出たいのか?」
「出たいって言うか……仕事がしたい」
「仕事って組のか?」
「もちろんそうだよ。だって蓮二、ヤクザじゃん」
「そりゃそうだが……」
「美味しくねぇの?」
「え?」
「それ、美味しくない? 一生懸命作ったんだけど……」
 男の箸を持つ手が止まっていた。
「いや、そうじゃない。これは美味い。けど――」
 イカと里芋の煮物はテレビでやっていたのを真似して作った。組にいた頃に仕込まれたのもあるが料理は嫌いではない。蓮二が喜んで食べてくれると凄く嬉しい。自分の中に雌の部分がある事に今更ながら驚いた。
「足引っ張んないからさ。仕事、手伝わせてよ。なんでもするよ。雑用でも……なんでも」
 本音を言えば家で一人になるのが嫌なのだ。ただ一人、蓮二の帰りを待つ。蓮二は帰って来るのが次の日になる事も多く、週末は朝帰りする時もあった。そんな日は理由も分からず腹が立った。連絡ぐらいくれてもいいのにと。
「家の事も、もちろんするから」
「それは……そうだが」
「ここで待ってるだけじゃ嫌だ。蓮二さんともっと一緒にいたい。蓮二さんの役に立ちたい」
 自分で言って吃驚した。けれど、これが素直な気持ちだった。
「組の事務所にか……まぁ、連れてくのはいいが、おまえはなぁ」
 蓮二はそこまで言うと言葉を濁した。箸で味噌汁をぐるぐると掻き回している。
 なんだろう。理由が分からない。気になって尋ねた。
「だから見た目だよ、見た目。おまえの」
「俺の見た目?」
「そうだよ。つーか、おまえだって組にいたんだろ。だったら多少は分かってるはずだが」
「どういう事?」
 蓮二は、はぁと溜息をついた。
「おまえ、誰かのイロだった事、ねぇのか?」
「ああ、あれ。男にケツ貸すとかそういうの?」
 組にいた頃も、正直に言えばムショでもそういう事はあった。けれどあれはセックスじゃない。誰が強いのか、誰がてっぺんにいるのか、それを証明するための雄のマウンティングにすぎない。猿やゴリラが個体間の優位性を誇示するためにやる、あれと同じだ。
「そういうのも含めてだ」
「うーん、ケツ貸せって言われたら貸すしかねぇし、別に減るもんじゃねーから」
 そこまで言うと急に蓮二の表情が険しくなった。眉間に皺を寄せたまま目の前にある唐揚げを睨みつけている。
「ああ、でもちゃんと性病には気をつけてるよ。ホントに。する時はフェラでもゴムするし」
 料理では刃物も使う。生活を共にしているのでそれが心配なのかと思った。
「だから病気の心配は――」
「黙れ」
「え?」
「もういい。黙ってくれ」
「あ……うん。なんか、ごめん」
 その後、蓮二は一言も口を利いてくれなかった。目も合わさずに食事を済ませ、使った食器を乱暴にシンクに投げ入れると寝室の引き戸を勢いよく閉めた。
 なんだろう。意味が分からない。
 その日の夜、ベッドに入るといつもと違う気配を背中に感じた。俺と蓮二は部屋にベッドが一つしかないため、拾われた日から一緒に寝ている。最初の二、三日は戸惑ったが最近ではそれもなくなっていた。それなのにどうしてだろう。胃の底が浮いたみたいにそわそわする。
「ソラ……」
 突然、耳元で名前を呼ばれた。熱い吐息が掛かって心臓がドキリと音を立てる。
「な……何? 寝れねぇの?」
 蓮二は時々、眠れない日があるようだった。素直に寝る日もあるが、夜中に何度も目を覚ます事もある。今日はその眠れない日なのかと思った。
「おまえ、さっきさ、あんなのは愛じゃないって言ったな」
「うん……」
 男同士のそれは愛じゃないと言った。そんな連中は変態なのだとも。
「じゃあ俺はおまえに軽蔑されんのか?」
「軽蔑って、どういう事?」
 しばらくすると腰の辺りに違和感を覚えた。熱くて硬いものが後ろから押しつけられている。
「こういう事だよ、ソラ」
 もう一度、ぐいと押される。蓮二のものはスウェット越しでも分かるほど硬く漲っていた。
「溜まってんの? 手でしてあげようか? なんなら口でも――」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
 後ろからぎゅっと抱き締められる。蓮二の口から切なそうな吐息が洩れた。なんだろう。意味が分からない。こんな風に誰かから大事そうに抱き締められたのは初めてで、蓮二の抱擁の真意が微塵も分からなかった。したいんだろうか? だったらすればいいのに。俺を使えばいいのに。
「おまえは人を愛した事がないのか?」
「愛するとかよく分かんない。誰かに愛された記憶もないし……優しくされた記憶もない」
「愛するってのは、自分よりそいつが大事だって思う事だ。自分が不幸になっても相手が幸せならそれでいい、相手が幸せな所を見るだけで心の中がふわーって温かくなるんだ。分かるか?」
「うーん。やっぱ分かんねぇ。猫見るとそんな気持ちになるけど」
「……猫か」
「うん。猫ってあったかいじゃん」
 自分の言葉が宙に浮く。蓮二は小さく息を吐くと俺を抱き締めたまま眠ってしまった。変な気分だ。ドキドキするのに落ち着く。背中があったかい。脚を絡め取られてすっぽりと胸の中に入れられている。
 人の体ってこんなにも温かいんだ――。
 指の先までじんと熱くなるような奇妙な感覚に、俺は驚いていた。

 数日後、蓮二が子猫を拾ってきた。声を聞いた時、ペットショップで買ってきたのかと思ったが、差し出された猫は目が潰れ、毛並みが悪く、ガリガリに痩せていた。
「ちょっとこの猫、どこで拾ってきたの? なんか汚ねぇし。とりあえずシャンプーしてミルクも飲ませないと……」
「シャンプーなら風呂場にあるだろ」
「トニックシャンプーなんかで洗ったら可哀相だろ。そんなのも知らねぇのに拾ってきたの? 猫用のシャンプーとかミルクもあるから――」
 振り返るとドアが閉まる音がした。ヒュンと冷たい風が吹く。急いで買いに行ったのだろう。
 俺の両手に収まっていた子猫は細い声でみゅうと鳴いた。小さな白い猫だった。
 名前はシロ。蓮二がつけた。ソラとシロ。纏めて呼ばれると自分まで猫になったみたいで妙な気分になった。確かに飼われている事に変わりがなかったが、時々、蓮二が猫に向かってソラと呼ぶのが気に入らなかった。猫も混乱しているのかどっちが自分の名前かよく分かってないようだ。ただ、シロが家に来てから自分の気持ちも少し落ち着いた。外に出たいとか、組の仕事をしたいとかそういう事を積極的に思わなくなっていた。
「シロ、ほら、にゃーんは?」
 ベッドの上でシロを抱き上げた。瞳が空色で肉球はピンク色だ。毛並みも白く艶やかで凄く可愛い。
「にゃーんだろ、シロ。猫はご主人様に呼ばれたら、にゃーんって可愛く鳴くのが仕事だ。それで餌がもらえるんだぞ。分かったか?」
 体を左右に揺らしても返事をしない。そればかりか自分の前足を舐める事に必死になっている。
「駄目だなぁ。俺もおまえも。もうちょっと頭と愛想がよけりゃ、いい人生歩んでたのにな。はは」
 ぎゅっと抱き締めるとそれが嫌だったのかシロは俺の指をがぶりと噛んだ。そのまま凄い速さで本棚の後ろに隠れる。
「あー、もう」
 埃っぽい所に入ると心配だ。本棚の後ろに手を伸ばして引き出そうとすると、斜めになった棚から大量の書類や本が滑り落ちた。それでもシロは出てこない。俺は溜息をついた。
「全く、猫にも馬鹿にされんだからな」
 散らばった書類を片付ける。すると奥からビデオテープが出てきた。雄尻爆弾とか男根祭りとかタイトルが凄い。ゴリゴリのゲイビデオだ。
「やっぱ、蓮二さんそっち系なのかー」
 そういう意味で拾ったんならさっさとやればいいのにと思った。じゃなきゃ拾った意味がない。どうして蓮二は俺を助けてくれたのだろう。その理由が分からなかった。
「あれ……」
 潰されたクリアファイルの中に一枚の写真があった。カラーだが色が褪せている。三人で写った家族写真だ。赤ん坊を抱いた母親とその隣に父親らしき男が写っている。遊園地だろうか。後ろにピンクのダンボが見えた。
 父親らしき人物は白のスーツに黒のシャツを着ている。……まぁ、極道だろう。それに比べて母親は儚げで大人しそうな美人だった。幸せそうな顔で写真に写っている。赤ん坊は眉がキリッとしていた。多分、蓮二だ。
 よかった。蓮二の両親は幸せだったんだな。
 なぜか俺まで笑顔になる。嬉しい。凄く嬉しい。
 蓮二の親が俺の両親みたいじゃなくてよかったと、心の底から思った。そんな事を思うのは生まれて初めてだった。

「あのさ、蓮二はなんでヤクザになったの?」
 仕事から帰って来た蓮二に尋ねた。ラグの上に座った蓮二はウイスキーをストレートで飲んでいる。
「親父がヤクザだったから。そんだけ」
「ふーん。凄い、シンプル」
「だろ?」
「うん」
 蓮二は隣に座れという仕草をした。俺はシロを抱いたまま蓮二の隣に腰を下ろす。
「おまえはどうなんだよ?」
「俺は……他の奴らと大体同じ理由だよ。親がクズで社会に馴染めなくて、行く場所がそこしかなかった」
「そうか……だったらやめるんだな」
「え?」
「ヤクザをやめろ。おまえはまだ若い。このままヤクザを続けてもロクな事にはならない」
「ヤクザの蓮二さんに言われてもなぁ」
「大体、おまえは向いてない。優しすぎる」
「はは、俺が? やさしーの? 冗談だろ」
 蓮二は笑っていなかった。その顔を見たら喉の奥がぐっと詰まった気がした。どうしてだろう。鼻の付け根が痛い。
「俺もやめる。いつか……やめる」
 蓮二はグラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干した。
「……蓮二さんはさ、なんで俺を助けてくれたの?」
「あのまま、ほっといたら死ぬと思ったからだ。それだけ」
「ふーん」
「だって、気分悪いだろ。次の日、新聞で死亡の記事読んだりしたら」
「でも、蓮二さんのせいじゃないじゃん」
「確かにそうだが……嫌なんだ」
「嫌?」
「誰かを助けられずに死なせるのは、もう嫌なんだ」

       ×××

「ヤクザをやめるのには金が要る」
「知ってるけど」
 リビングにある扇風機は風が強くなったり弱くなったりしている。壊れているのだろうか。全然、涼しくない。
「ホントにやめんの? つーか、やめれんの? 殺されたりしない?」
「金があればやめられるし、それを元手にして新しい会社も作れる」
「ふーん」
「おまえ、2016年から来たんだろ。それを利用してなんかできないか」
「なんかって言われてもなー、こっちの世界では俺、七歳だからさ。あんま記憶ねぇんだよな。競馬とか知ってたら稼げんだけど」
「その当時、流行ってたものとか思い出せないか?」
 その言葉を聞いてふと思いついた。当時、流行っていたゲーム。音楽。漫画。数々のヒット商品。
 俺は思い出したものを蓮二に伝え、蓮二はそれを参考に株を買いまくった。最初は上手くいかなかったが徐々にコツをつかみ出し、それが功を奏して蓮二は纏まった金を手に入れる事ができた。罪は犯していない。ちゃんと稼いだ金だ。その金で炊飯器と少し豪華なシロのケージも買った。
 幸せだと思った。怖いくらい全てが上手くいっていた。このままお互いヤクザをやめて、共に働き、シロと三人で仲良く過ごす。ちょっと歪だけれど、ちゃんとした家族になる。幼い頃からの夢が叶いそうな気がしていた。

 九月の半ばの土曜日。俺と蓮二は二人で買い物に出掛けていた。あの扇風機がとうとう壊れたのだ。
「もう夏、終わったのに……いらなくねぇ?」
「来年また使うだろ。今の時期に買った方が安く買える」
「まぁ、そうだけどさ」
 国道沿いの家電量販店で安い扇風機を買った。段ボールに持ち手を付けてもらい、それを運びながら二人で殺風景な歩道を並んで歩いた。そのうちに陽が傾き、道の向こうに夕陽が見え始めた。
 空がオレンジジュースみたいだなと言おうとしたその時、突然、蓮二に突き飛ばされた。体が傾く。ひぐらしの鳴き声とともに耳鳴りがした。蓮二の手から扇風機が落ちる。それがスローモーションのように見えた。
「ソラっ!」
 ヒュンと空を切る音がする。蓮二が伸ばした左手に何かが落ちた。銀色の何か。長くて冷たい――
 太刀だと思った瞬間、蓮二の左手の小指が飛んだ。赤い血が吹き出す。色があまりにも赤いので現実味がなく映画を観ているようだった。
 指を切り落とされた蓮二はそれでも落ち着いていた。切りつけてきた男を回し蹴り、一瞬で落とした。ドサリと男が倒れる音がした。
「行こう……」
「行こうって……蓮二さん……どうしたら」
 ポケットからハンカチを取り出して渡す。蓮二はそれを小指に押し当てた。
「どうせヤクザをやめるんだ。ちょうどいい」
「ちょうどいいって……そんな」
 ふと思い出した。この国道の奥に救急病院がある。確かドクターヘリが出動するような大きな病院だ。
「蓮二さん、歩いて向こうの病院へ行こう。指もきっと繋がるから」
「あ……ああ、そうだな」
 蓮二に肩を貸しながら国道沿いの歩道をよろよろと歩いた。指一本で命を失う事はない。ただ出血が怖かった。しばらく歩くとあの橋が見えてきた。あの日、俺が飛び降りようとした橋。中ほどまで歩くと蓮二は足を止めた。
「指痛いの? 大丈夫?」
「ごめんな、ソラ」
 蓮二は苦しげに呟くと俺の体を欄干に押しつけた。
「ど、どうしたの急に?」
「さっきのはただの挨拶だ。あいつらは俺を片付けるつもりだ。すぐに何人か集めてここに来る」
「……そんな、まさか」
「俺の母親は他の組のヤクザに殺されたんだ。俺は母親を守ってやれなかった。俺はそれをずっと後悔して生きてきた。だから、おまえまで傷つけたくないんだ」
「ねぇ、病院行こう。すぐそこだから」
「バーカ。病院なんてねぇよ。2000年にはな。それができんのはもっと後だろ」
 俺は息を呑んだ。
「……知ってて騙したの?」
 蓮二は答えない。
「最初は嘘だと思った。おまえが2016年から来たとか……正直言うと信じてなかった。でもそれでもよかった。俺の傍にさえいてくれればそれでよかった」
 押さえつけられている腕にさらに力が掛かる。
「こっから落としたらあっちに帰れんだろ。帰れよソラ」
「嫌だ帰らない」
 腕が痛い。それよりも胸が痛かった。
「あの日なんでおまえを助けたか、それを教えてやるよ。あの日、おまえに呼ばれたんだ。震える声で『おとうさん』ってな。消えそうに小さな声で……本当に可哀相だった」
「――手ぇ離せよ、畜生っ!」
「俺もおまえも親父がちゃんとしてればヤクザになんかならずに済んだ。でもな、ソラ。自分の人生を決めるのは親じゃない。自分自身だ。環境を理由にするな。今すぐヤクザをやめろ」
 踵が浮く。もう耐えられない。欄干に押さえつけられた背中が滑るのが分かった。
「ソラ、ありがとな。大好きだったぜ」
 一瞬だけ、唇が触れた。それは掠め取るように過ぎていった。
「俺……分かったのに。あんたが言ってた、あったかいとかいうやつの正体……分かったのに! 畜生っ!」
 視界が揺れた。夕陽が迫ってくる。もう駄目だ。耐えられない。
「離せよ、馬鹿! 電子レンジ!」
 叫んだ所で意識がなくなった。

       ×××

 寒い。暗い。雨が降っている。
 俺は橋の上に足を投げ出して座っていた。あの日に戻ったのだろう。気温と雨の匂いが同じだった。けれど、あの日のままじゃないのは分かる。着ている服が違う。このTシャツは蓮二に買ってもらったものだ。
 俺はあの日、ここから飛び降りて死のうと思っていた。自分の人生に絶望して死んでもいいと思っていた。それでも構わないと、ここから飛び降りて蓮二と出会ったのだ。
「蓮二……」
 名前を呼ぶと胸が詰まった。蓮二はやっぱり死んだのだろうか――。 

 どれだけ時間が経ったのだろう。
 不意に目の前に黒い車が停まった。高そうないい車だった。中から人が出て来る。スーツを着た背の高い男だ。男は傘を差すとゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
 目が合う。その男の左手には小指がなかった。
 涙がこぼれた。
「十六年、長かったぞ」
「知るか」
「おまえ変わらないな……」
「そっちはオッサンじゃん」
「うるせぇ」
 男は笑った。
「なぁ、ソラ。ヤクザやめるよな?」
「……うん」
 蓮二はアスファルトに座り込んでいる俺の前にしゃがみ込むと、そっと傘を差し出した。
 俺は泣きながらその胸に飛び込んだ。

 世界にたった一人でいい。
 
 恐怖の雨が降っても、痛みの雨が降っても、傘を差してくれる人がいれば生きていける。
 生きていこう。前を向いて、生きていこう――。

 俺はその日、雨の日に傘を差してくれる男と再び出会った。





(了)

谷崎トルク
グッジョブ
3
Ruminaru 16/12/13 16:19

読み始めたら止まらず最後まで一気読みでした。二人が少しずつ心を通わせていく描写が自然で、キャラクターにリアリティーがあって、まるで美しい映画を見ているようでした。短編なのに長編を読んだかのような読後感で、キスシーンと最後のセリフのやりとりは泣いちゃいました( ;∀;)
こんな素敵な再会があるんですね~。感動しました。とにかく人物と情景の描写がずば抜けてうまかったです。鳥肌が立ちました。 欲を言うなら二人のHシーンが読みたかったです(笑)

シャンティー 16/12/16 06:24

ヤクザとタイムスリップ…一見ミスマッチなんですが、人物.情景.心情描写が優れているので違和感無く読めました(^^)
序盤の空飛の情景描写は胸が痛いですが、蓮二と出会って一緒に暮らしてからはドキドキしたり、幸せだと感じる空飛の安心感が伝わってきました。
後半の橋の上でのシーンから再会のシーンは、感銘を受けました!
蓮二がまた傘を差してくれて良かったー!!
「生きていこう」に力強さを感じました☆

いるま 16/12/19 23:03

冒頭の回想から戻る頃には、もう主人公の人生に引き込まれていて、丁寧にエスコートしてもらったような感じでした。優しくて美しいお話で、幸せな気持ちになりました。

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