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第4回 BL小説アワード「再会」

白い秋

丹前を羽織った肩が、啜り泣きを堪えながら微かに震えている。けれど、咲太郎はそれに気がつかないふりをするしかなかった。もしひと言でも話しかければ、自分も泣きながら先生に縋ってしまいそうだった。

おりべ美緒
グッジョブ

 その人は「先生」と呼ばれていた。教師なのか、医者なのか、それとも代議士なのか、誰も教えてはくれなかった。けれど、そのどれも先生にはそぐわないような気がした。
 先生は、ハッとするほど美しい人だった。細い眉は完璧な弧を描き、その下の切れ長の目は、涼やかに透き通っている。瞳がいつも僅かに潤んでいるせいか、ほんの少しだけ青みがかっているように見える。細い鼻梁はあくまでも上品なのに、口唇はいつも紅を差したように色濃く染まっていた。
 咲太郎は、先生の歳も名前も知らなかった。先生と呼ばれるからには、もう三十やそこらになっていてもおかしくない。けれど、全身を取り囲む淡い色彩は、もっとずっと幼い、どこか頼りない印象を与えた。いや、幼いというよりも、まるで仙人がふっと湧いて出たような存在感のなさとでも言おうか。
 独り身なのか、先生を見舞う女性はいなかった。その代わり、先生より少し若い、ちょうど咲太郎と同じくらいの年の男たちが、入れ替わり立ち替わりやってくる。ときにはずいぶん品のいい年配の男性が、二、三人連れだって現れたりもする。
 病室にいる先生は、いつも華奢な身体を袷の寝巻きにくるみ、織りの美しい伊達締めをしゅるっと無造作に締めていた。そんなこざっぱりとした格好をしているのに、どこかしどけない色気を感じるのは、きちんと詰めた襟元から覗く首筋が、目を奪われるほどに白いからだろうか。
 ――いったい、何をしてる人なんだろう。
 直接本人に訊けばいろいろと教えてくれるに違いないのだが、勇気が出なかった。そんなことを詮索すれば、いかにも自分が先生に興味を持っているという感じで、気恥ずかしい。
 咲太郎が先生に出会ったのは、半年ほど前のことだった。戦況が厳しくなるにつれ、療養所に勤務していた医師たちも戦地にかり出され、だんだんと手が足りなくなってきた。ましてや、若者がのんびりと学生生活を送るような贅沢は許されなくなっていた。療養所の所長を務める父・昌弘からも「学校にいるより、よっぽど学ぶことがある」と言われ、午前中は医学校で勉強し、午後は診療所に通って助手のまねごとをすることに決まった。
 初めて療養所を訪れた咲太郎に、父はカルテを見せようとはしなかった。「お前はまだ一人前ではないのだから」というのが理由だった。今どき免許があるかどうかなど細かいことを気にする者などいないのだが、頑ななところのある父からの厳命だった。こんなご時世だからこそ、自分の意地を通したいという父の気持ちが判らなくもない。だから、咲太郎は反論しなかった。たとえカルテを見たところで、患者たちに施せるような治療は何もない。いつまで生きられるかも判らぬ彼らの素性を知れば、かえって辛くなるだけだった。
 咲太郎が許されたのは、父のお古の白衣を羽織ることだけだった。もう真っ白ではなくなっていて、洗いざらしのよれよれのものだったが、着てみればそれなりに格好がつく。新品を用意してもらえなかったのは、まだ見習いだということもあるけれど、父も咲太郎も背が高く、六尺を超えるほどだったせいもある。父はいつも身丈に合うものを特別に誂えていたのだが、今は新しい生地が庶民の手に入るような状況ではなくなっていた。
 咲太郎は毎日、決まった時間に病室を訪ねた。入り口に近い病室から順番に見て回り、何か欲しいものはないか、足りないものはないか、聞いて回る。ときにはたわいもない会話を入所者たちと交わしながら、最後に一番奥にある先生の部屋にたどり着く。
 咲太郎がドアを開けると、先生はいつも窓辺に座って外を見ていた。窓のすぐ傍には、レースのような葉をみっしりとつけたアカシアの木が植わっていて、殺風景なガラス窓に柔らかな陰を落としていた。また、高台の端に位置するこの部屋からは、誰も訪れることのない淋しげな砂浜を望むこともできた。
 けれど、先生の目に映っているのは、青緑に茂る木の葉でも、色褪せたような白い砂でも、冷たく澄んだ海でもないような気がした。もっとどこか遠く、先生にしか判らないところへ想いを馳せているような、そんな顔をしていた。
「先生、今日はどうですか」
「――おかげさまで、ずいぶん良いようです。ありがとう」
 本当に加減が良かろうが、微熱に悩まされていて辛かろうが、先生はいつも同じ答えを返す。か細い声が口元からこぼれ落ちるとき、非の打ち所のない美しい顔が、僅かに微笑む。それがあまりにも儚げで、本当に自分の目で見たのか、それとも幻だったのか、疑わしく思えるくらいだった。
 挨拶が終わると、先生はまるで咲太郎の来訪を合図にしていたかのように、床頭台へと椅子に座ったまま手を伸ばす。淡い緑青色に塗られた引きだしの中に、見舞客のひとりが持ってきた怪しげな漢方薬が入っているのは、咲太郎もよく知っていた。
 療養所にいるからといって、何らかの治療を受けるわけではない。薬を処方されることもなく、手術を受けることもない。ただベッドに横になって、毎日を無為に過ごす。いつか必ずやってくる、死を待ちながら。
 そして最期の日は、すぐ目の前まで迫っていた。その残酷な事実をほんのひとときだけでも忘れられるのなら、効きもしない薬草でも水薬でも、好きなものを飲めばいい。咲太郎はそう思っていた。
 寸分違わぬ同じ事をくり返す毎日。それが退屈などころか待ち遠しく感じたのは、先生のおかげだった。今日もまたあの人に会えると思うだけで、医学校から療養所に向かう足取りが軽くなった。
 今日もまた、いつもと変わらぬ儀式が咲太郎を待っていた。挨拶を交わした後、先生は引き出しから半透明の小さな薬包を取り出した。中身の粉薬はくすんだ灰色で、見るからに苦そうだった。咲太郎が白湯の入った久谷焼を手渡すと、先生は眉をひそめながら口をつけた。ゴクリと喉が鳴った瞬間、先生はゴホゴホと咳き込んだ。労咳患者特有の、イヤな咳だった。
「大丈夫ですか」
 寝巻きを着た背中をさすったが、咳はなかなか止まらない。背骨の凹凸が数えられそうなほど痩せた身体を二つ折りにして咳き込む様子は、見ているこちらが苦しくなるほどに痛々しい。
「さあ、これを飲んでください」
 もう少しだけ白湯を口に含ませると、ようやく咳が治まった。控え目に突き出た喉仏が激しい上下を止める。
「――ありがとう」
 先生は咲太郎が来たときと同じ口調で礼を言うと、自分の両肩に手を回して、縋りつくように力を込めた。まるでそうしていなければ、自分の身体がすうっと秋の大気の中に消えてしまうとでも思っているのかのようだった。
 まだほんのりと上気した瞼で瞬きをすると、先生は病室の壁に飾られた日めくりに目を遣った。看護婦の誰かが毎日忘れずにめくっていくのか、暦はきちんと昭和十九年十月六日、金曜日を示していた。
「先生……」
 ためらいがちに呼びかけた咲太郎は、その先を続けることができなかった。今日はこのまま部屋を去るわけにはいかない。けれど、どう言葉をかければいいのかも判らない。ただひと言、「外地に赴くことになりました」と告げれば、何もかも察してくれるはずだ。それなのに声が出てこない。月曜には軍服を着て汽車に乗り、軍医として満州に渡る。たったそれだけのことなのに。
 咲太郎のところに卒業証書、医師免許、そして召集令状が同時に届いたのは、ほんの二週間ほど前のことだった。咲太郎の父のような年配の者以外は、官営病院の医師だろうが、町医者だろうが、みんなもうとっくに戦地に送られていた。医師不足は相当深刻なようで、最近では、「繰り上げ卒業」なるものがまかり通るようになり、咲太郎のように本来ならまだ在学中であるはずの学生までが戦場に駆り出されるようになっていた。
 これだけの人数が動員されてもなお終結するめどの立たない戦争だ。学生たちは皆、それがどういう意味なのか薄々感じていた。ラジオや新聞がどんなに勇ましいことを伝えようが、その空々しさがよけいひどくなるばかりだった。
 咲太郎は、自分が生きて戻れるとは思っていなかった。仮にいつ終わるともしれない戦争を生き延びたとしても、先生が終戦の日を迎える可能性は低い。ただでさえ食糧不足が深刻になっているのに、この病状ではどこまで身体が持つのか判らない。
 咲太郎は、自宅の鴨居にぶら下がった真新しい軍服に思いを馳せた。土日は町内の壮行会やら親戚の集まりやらで、療養所を訪ねるような余裕はない。先生に会えるのは、これが最後だった。
「今日は定家忌ですね」
 黙り込んだ咲太郎の代わりに、先生が口火を切った。窓の外を見つめたままで、誰に言うともなく呟く。
「ていかき、ですか?」
 咲太郎は訳が判らず聞き返した。
「藤原定家が亡くなったのは、旧暦の八月二十日だったそうですよ」
「ああ、その定家ですか……」
 咲太郎が病室の壁に視線を戻した。確かに、日めくりの下のほうに『旧暦・八月二十日』と書いてある。咲太郎は自分の無粋を呪った。文学作品を読むような趣味はなく、ましてや和歌に詳しいわけでもない。けれど、せめて藤原定家ほどの著名な歌人なら、すぐに思い浮かべられるくらいの教養は持ち合わせていたかった。
 それに比べて、このどこか浮き世離れした先生には、いにしえの歌がぴったりだった。血なまぐさい戦況を並べ立てるラジオ放送や、かん高い戦闘機の爆音なんかより、ずっと似つかわしい。
「咲太郎さん」
 先生に名前を呼ばれたのは、これが初めてのような気がした。名乗った記憶がないので、どこで聞き知ったのかも判らない。看護婦たちがうわさ話でもしているのを小耳に挟んだのか。
「ちょっと、お願いがあるのです」
 先生は天鵞絨(びろーど)の椅子に座ったまま、咲太郎のほうへ向き直った。こちらを見つめる真っ直ぐな視線は、いつになく鋭い。
「なんでしょう」
 咲太郎は驚きを隠せなかった。先生と交わすのはいつもたわいのない話ばかりで、こんな真剣な顔で何かを頼まれたことはなかった。
「少し、外に出たいのです」
「およしになったほうがいいですよ。もう日が傾いてますから」
 入所者の外出が禁じられているわけではなかった。けれど、戸外でうろつくほどの体力が残っている患者はほとんどおらず、せいぜい宿舎の周りのそこここに設けられたベンチに座って日光浴をするくらいが限度だった。
「海岸まで行きたいのです」
「え?」
 療養所の西側にある階段を下って、海まで歩いていくのはかなり骨が折れる。それに夕暮れどきの海風は、思いのほか冷えるものだ。食欲が落ち、やせ細ってしまった先生にはどう考えても無謀な行動だった。
「お身体に触ります。またになさっては如(いか)何(が)ですか」
 咲太郎はもう一度やんわりと諭(さと)したが、先生は聞く耳を持たなかった。
「お願いです。無理は承知の上ですから」
 先生は、どこにこんな力が残っていたのかと思うほど力強く、咲太郎の腕を掴んだ。来たときにはぼんやりと揺らいでいた瞳にも、熱を帯びた光が差している。明らかにただ事ではない訴え方だった。
「でも、先生……」
「どうしても、行かなければならないのです」
 先生は頑として譲らない。咲太郎はほうっと小さくため息をついた。
「それほどまでにおっしゃるんでしたら、暖かくして行きましょう。でも、具合が悪くなるようでしたら、すぐに戻りますからね」
「――判りました」
 咲太郎は先生が座っていた椅子の背から、綿の入った丹前を手に取った。少し毛羽立った厚みのある生地は羅紗だろうか。柔らかな風合いと深みのある萌葱色とが、質のよさを物語っている。
 先生がゆっくりと椅子から立ち上がるのを見て、咲太郎は痩せた肩に丹前を着せかけてやった。先生が意を決したように襟元をきつく合わせると、少し寸法の大きなそれが、先生の腰までゆったりと包み込む。咲太郎はほっと胸をなで下ろした。これなら冷たい潮風に体温を奪われることもないかもしれない。
 けれど、なぜ先生が大きすぎる丹前など持っていたのかに気づいたとき、たった今感じた安堵が、ずしんと重苦しい衝撃となって、咲太郎の腹の底に沈んでいった。
 ――先生は、こんなに痩せておしまいになったのだ。
 きっと療養所に来る前には、これが身体にぴったりと合っていたのだ。先生の体調が思わしくないことは知っていたけれど、こうしてその証拠を見せつけられると、やはり気が滅入る。
「先生、急ぎましょうか。日が落ちると真っ暗になってしまいますから」
 咲太郎は沈む気持ちを無理やり押し殺すと、わざと明るい声を出した。
 ふたりは連れだって療養所の裏口から外へ出た。薄暗く沈んだ木立の間を抜け、高台の外れにある階段まで歩く。今日は一日中あいにくの曇り空で、どんよりと重い雲が水面に触れるほど低く垂れ込めていた。これではどう考えても先生の身体に触る。咲太郎はひんやりと湿った空気を、憎々しく思った。
「あっ」
 階段に一歩足を踏み出した先生の身体が、ふらりと大きく揺れた。咲太郎は慌てて細い肩を自らの胸元に抱き寄せた。筋力の落ちた先生には、風雨にさらされて斜めになった石段を降りるのは至難の業だ。
「気をつけてください。僕が支えていますから」
「ありがとう」
 咲太郎は先生の肩を抱いたまま、石造りの階段をひとつひとつ、慎重に下っていった。最後の段を降りた瞬間、腕の中に包み込むようにして支えていた身体から、すうっと力が抜けた。いくら咲太郎が一緒とはいえ、かなり急な階段を行くのは怖かったのだろう。
「先生、もう大丈夫です」
 咲太郎が声をかけると、先生はこちらを見上げて、僅かに目元を緩めた。端整な顔に浮かんだ表情には、大仕事をやり遂げた達成感と、大失敗をせずにすんだ安心感とが入り混じっていた。
「どちらへ向かいましょうか」
 咲太郎は辺りを見回した。何もない、寂(さび)れた海辺だった。近くに集落はない。これといって見るもののない寒々とした場所を、わざわざ訪れる者もない。
「あっちへ行きましょう」
 先生はほっそりとした手を、つっと西のほうへ伸ばした。青白く窶れた指先が、折れてしまいそうなほど細い。
「ほら、あそこに茅屋があるでしょう」
 どうしたわけか、ずっと先のほうにぽつんと掘っ立て小屋のようなものが建っている。砂浜のすぐ脇なので、住むにはふさわしくないところだ。漁師が作業をするのに使っていたのだろうか。いずれにせよ、遠くから見てもすぐに判るくらい荒れ果てている。長いこと、誰も手入れをしていないのだろう。
「よくご存じでしたね。あんなところに小屋があるなんて」
 咲太郎の問いには答えず、先生はおぼつかない足取りで砂浜の上を歩き出した。咲太郎は急いで後を追い、もう一度肩に腕を回した。先生に怪我をさせたくはなかったし、こうしていれば冷たい海風からも守ってやることができる。
 本来ならものの二、三分ほどの距離を、咲太郎は先生を庇うようにしながらゆっくりと進んでいった。ようやく小屋の前まで到着したときには、辺りがぼうっと白く霞みはじめていた。
「先生、霧が出てきましたね。これでは濡れてしまうかもしれません」
 ところどころ戸板の剥がれたあばら家だが、吹きさらしの砂浜に立っているよりはましだ。咲太郎は立て付けの悪い扉を開けて、先生に中に入るよう促した。
 幸いにも、小屋の中はからりと乾いていた。やはり疲れていたのだろう。先生は崩れるように床の上に座り込んだ。
「先生、お加減はどうですか。無理なすったんじゃないですか」
「平気です」
 そう答えた声は、意外にしっかりしていた。咲太郎は少し安心して、先生の隣りに腰を下ろした。さっきまでしっかりと抱き寄せていたはずなのに、二の腕に触れる先生の肩が氷のようにひんやりとしているのが気になる。咲太郎は一瞬ためらった後、冷えた身体を抱き寄せた。先生は何も言わず、咲太郎のなすがままに任せていた。
「寒くないですか。すきま風が吹いてきますけど」
 目の前の壁板に一カ所大きな裂け目ができていて、そこから潮風が吹き込んでくる。壁穴の向こうには、荒涼とした風景が広がっていた。低く垂れ込めた雲と淡く漂う霧、そして白い砂浜に打ち寄せる色褪せた海。どこまでが空で、どこからが海なのか、境目すら見えない。ときおり寄せる波すら白い泡となって、砂の中に溶け込んでいく。
「――見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」
 何を思ったか、先生は呼気の混ざった美しい声で、そう詠みあげた。
「それ……定家でしたっけ」
 海辺の秋の夕暮れ。みすぼらしい小屋のほかには、サクラもモミジもない。そんな侘しい歌だった。
「正にこの風景そのものですね。何もない、淋しい秋って感じで」
 咲太郎がそう言うと、先生はやけに真剣な顔つきで眉根を寄せた。
「そうでしょうか。本当に淋しい歌なんでしょうか」
「えっ?」
 咲太郎は驚いて先生の顔を見返した。
「今、私の瞼の裏に浮かんでいるのは、人(ひと)気(け)のない海でも、崩れかかった小屋でもありません。『花も紅葉もない』と詠ってしまったからこそ、満開の桜と、真っ赤に溢れるモミジ葉のほかには、何も考えられなくなる。そうじゃありませんか」
「ああ、確かに……そうですね」
 咲太郎がそう言うと、先生はにっこりと微笑んだ。それがひどく嬉しそうで、それなのに今にも消えてしまいそうなほど儚げで、咲太郎は先生を抱いた腕に力を込めた。華奢な身体は抵抗することなく、すっと咲太郎の胸深くに抱き込まれた。
「――咲太郎さん」
「先生……」
 この人に、ずっと憧れていた。自分にできることといえば、毎日欠かさず彼を見舞い、病室に閉じ込められたその美しい姿を見つめていることだけだった。それでも、ふたりだけの静謐な時間が、何よりも大切だった。
 けれど毎晩ひとりで自室に戻った後、咲太郎の中に湧き起こってくるのは、憧れなどという純粋な言葉では表せない衝動だった。本能に突き動かされるがままに込み上げる疚しい欲望。先生の華奢な身体を抱き寄せ、口唇を奪い、唾液を啜り、素肌の感触を確かめ、汗と体液にまみれながらお互いの快楽を求め合う。そんな妄想にうつつを抜かしながら、幾度となく自らを慰めた。
「――今日で最後なのですよね」
 先生はほんの一瞬だけ上目遣いにこちらを見上げたかと思うと、甘えるような仕草で白い頬を胸元にこすりつけた。
「先生、どうしてそれを……」
 もうこのまま何も言わずに去ろう。そう思っていた矢先だった。少しの間だけれど、こうして先生とふたりきりになれたのだ。このひとときを大切な宝として、そっと心にしまって出立しよう。そう決心したばかりだった。
「咲太郎さんには、もう会えないのですよね」
 切羽詰まった声だった。まるで自分に何も告げずに外地へ赴こうとしていた咲太郎を責めるかのように、先生はひしと胸元に縋りついてきた。
「せめて今だけでも……一度だけでもいいから、咲太郎さんを独り占めしたかった……」
 咲太郎は愕然とした。なぜ先生がこんな無理をしてまで、今日ここに来なければならなかったのか。その訳がようやく見えてくる。
「先生、僕のために……」
 咲太郎とふたりきりの時間を過ごすため。それだけのために自分の身を顧みず、こんなところまでやってきたのか。
 咲太郎は胸の中に沈んでいた先生の両頬をそっと両手で包み込んだ。ゆっくりと口唇を寄せると、先生は瞼を伏せて横を向いた。
「――それだけは、いけません。咲太郎さんに病を感染(うつ)すわけにはいかないのです」
「ですけど……」
 この人の全てが欲しい。咲太郎は下唇をきつく噛みしめた。毎日患者たちに接してきたのだから、菌を恐れるのはいまさらな気がした。そんな咲太郎の気持ちを察したかのように、先生は何度も首を横に振った。
「こんな身体でよければ、何をしてもよいから……それだけは許してください」
「でも……」
 もう、先生には会えないかもしれない。先生の命があとどれだけ残されているのかも判らない。そして戦地に向かう咲太郎の命も保証できない以上、たったひとつの接吻など恐れるに足りぬのではないか。
「……では、咲太郎さんのお好きなように」
 先生は、半ば諦めたようにそう言った。
「――判りました。先生のおっしゃるとおりにします」
 咲太郎は迷った末、抜けるように白い首筋に口唇を押しつけた。薄くなめらかな皮膚の下で血潮が脈を打つのが伝わってくる。鼓動が驚くほど速い。素肌もほんのりと上気して、熱を帯びている。
 もう、とまらなかった。咲太郎はさっと白衣を脱いで床板に敷くと、先生をその上に横たえた。寝巻きの襟元からは、白衣の古びた布地よりずっと鮮やかな肌が覗いていた。その匂い立つような色香に、目の前がくらりと揺れた。
 咲太郎はまどろっこしい思いで残りの衣服を剥ぎ取ると、ほっそりとした四肢の上にのしかかった。丹前の胸元を開き、寝巻きをはだける間すら惜しい。咲太郎が先生の身体を覆っていた布地を乱暴な手つきで取り除くと、その下で小刻みに上下していた薄い胸が露わになった。
 染みひとつない真っ白な肌。その純潔さは触れるのをためらわれるほどなのに、桜の花びらのように淡く色づいたふたつの突起が、猥りがましく立ち上がっている。そのひとつにそっと舌先を乗せると、先端がピクリと震え、ほんのわずかだけ色を増す。
「ああ、先生……ここが悦いんですね」
 反対の突起を指でやんわりと捏ねてやると、先生は背中を弓なりに反らせながら身悶えた。
「っぁ……んぅ……」
 固く結んだ口唇の間から、悩ましいあえぎがこぼれ落ちる。目元を仄かに染めながら必死で声をこらえようとする姿が、咲太郎の欲望をますます煽り立てる。
 咲太郎は、組み敷いた身体を余すところなく愛でた。透き通るように白い肌を指先で弄り、舌で味わい、口唇で吸い上げると、その度に触れたところが紅く染まり、咲太郎に歓喜の色を伝えてくる。
「ぁっ……」
 咲太郎が先生の中心に手を伸ばすと、伏せていた薄い瞼が震えた。そこは既にしっかりと形を成し、切なそうにとろり、とろりと蜜を滴らせている。
「先生も、僕のことが欲しいと思ってくれてるんですね」
 硬く勃ち上がった咲太郎自身からも、透明な汁が滲んでいた。濡れそぼったふたつの欲望をひとつに束ねてじっくり扱き上げると、ふたり分の淫情がいっそう熱く燃え上がる。
「あぁ……さき、たろう、さ、ん……っ」
 掠れた声に名を呼ばれると、下肢の強ばりがずんと重くなる。相手の身体のことを思えば、これ以上の行為は慎むべきだった。けれど、ずっと秘かに想い続けていた人をこの腕に抱けるのは、一生に一度きりなのだ。もっと先生が欲しい。先生の全てが欲しい。募りくる恋しさがあまりにも激しくて、咲太郎は自らを諫めることができなかった。
「先生……貴方とひとつになりたい。貴方の中に挿入(はいり)りたい」
 無理を承知で懇願すると、先生はその端整な顔を火照らせて、「ふっ」と悩ましげな吐息を漏らした。
「ぁあ……さきっ……さん……ずっと、咲太郎さんが、欲しかった……」
「先生……っ」
 咲太郎は、ふたりの淫液にまみれた指先を、そっと双丘の間にあてがった。慎ましやかに窄んだ秘蕾を宥めるように撫でてやると、桃色に染まったそこは、咲太郎を誘うかのようにひくん、ひくんと痙攣する。
 一本、また一本と指を足し、固く閉じていた隘路を慎重に拓いていく。敏感なところに触れるたび、先生は細い指で咲太郎の腕を掴んで、むずがるように首を振る。快感と苦悩とが交互に押し寄せてくるのか、先生は目を潤ませながら懸命に堪えている。その健気な姿を見ていると、狂おしいほどの愛しさが込み上げてくる。
「先生……もういいですか」
 視線を逸らしたままこくんと頷いた先生の膝を抱え直すと、咲太郎は自らの欲望をぬかるんだ肉襞の中にゆっくりと埋(うず)めていった。ほんのわずかずつ腰を進めるたびに、きつく結んだ紅い口唇から艶めいた嬌声が漏れる。辛そうな呼吸と額の汗に耐える先生がひどくいじらしくて、咲太郎は痩せた背中に腕を回すと、自分の胸元にギュッと抱き込んだ。
「さ、き……ろう……ん」
 張り詰めた屹立の全てを肉襞の中に収めたとき、先生は喉を振るわせながら咲太郎の名前に縋った。先ほどまで真珠のように楚々と光る歯に噛みしめられていた口唇は、はっとするほどなまめかしい緋色に充血していた。
 咲太郎は、唾液に濡れた先生の口唇に、自らのそれを重ねた。ほんの一瞬だけ、刷毛でなぞるような接吻は、もう久しく口にしていない好物の砂糖菓子のように甘く、儚かった。
 先生は、咲太郎の口づけに抗おうとはしなかった。ただ、潤んだ瞳から涙をひとしずく零すと、咲太郎の首筋に両腕を絡ませた。
 ――先生は、僕の全てを受け入れてくれたんだ。
 そして、己の全てを与えてくれたんだ。咲太郎は華奢な四肢をひしとかき抱き、やんわりと揺すった。まるで、ふたり分の生命をかき集めるような交わりだった。咲太郎と先生の人生は、ちびた線香に灯した炎のように残り少ないものなのかもしれない。それでも、今だけはお互いに縋りつかずにはいられなかった。
「ぁはあ……っ」
 一段と高い声を上げて先生が絶頂を極めた。それを追いかけるようにして、咲太郎も想いの丈を吐き出した。
 このときが、永遠に続けばいい。汗まみれの身体を寄せ合いながら、咲太郎はそう願わずにはいられなかった。
 ――なんて美しいんだろう。
 まだ睫毛をそそと震わせている先生は、この世のものとは思えぬほど清らかに見えた。どうしたわけか、それが咲太郎にはひどく悲しかった。こんなに美しいものが、長く俗世に留め置かれるはずがない。そんな想いに取り憑かれ、咲太郎の胸の奥がつきんと痛んだ。



 咲太郎が事務机に座ったまま振り返ると、最後の患者を送り出した新米医師の三波が、部屋を出ていくところだった。
 今日の診察はこれでおしまいだ。咲太郎は壁にかけられたカレンダーに目を向けた。昭和三十五年十月十日、月曜日。旧暦、八月二十日。
 また、あの日がやってきた。
「今日は、定家忌だね」
「ていかきって何ですか?」
 先生とそんな会話を交わした自分は、三波と同じくらいの年頃だった。もう、ずいぶん前のことになる。
 十六年前の今日。海辺の小屋での逢瀬はあっという間に過ぎ去り、咲太郎は先生を病室に送り届けた。先生は天鵞絨の椅子に腰掛けると、カーテンを開け放したままの窓に目を遣った。外はもう真っ暗で何も見えないはずなのに、咲太郎に背を向けたまま、決してドアのほうを振り返ろうとはしなかった。
 丹前を羽織った肩が、啜り泣きを堪えながら微かに震えている。けれど、咲太郎はそれに気がつかないふりをするしかなかった。もしひと言でも話しかければ、自分も泣きながら先生に縋ってしまいそうだった。
 結局、咲太郎は別れの挨拶をすることもなく、後ろ髪を引かれる思いで療養所を後にした。
 満州に到着してからも、先生のことを思わぬ日は一日たりともなかった。どこまでも続くだだっ広い荒野は、あの日の夕暮れに見た冷たい海とどこか似ていた。何もない大地を目にするたびに、先生のすべらかな肌と、熱を帯びた息遣いと、掠れたような甘い声とが鮮明に蘇り、夜ごとに咲太郎を悩ませた。
 先生の病室を訪れるたびに自分を迎えてくれた静謐な時間。あの日々を取り戻せるのなら、死神に魂を売り渡してもいい。何度そう思ったことだろう。ただ無我夢中でお互いを求めた、一度きりの逢瀬。あの柔らかな口唇にもう一度触れることができるのなら、どんなことでもする。何度そう願ったことだろう。
 本土を離れてしまってから、あのとき先生が口ずさんだ和歌の意味が痛いほど胸に滲みた。愛しい姿が目の前にないからこそ、瞼の裏の光景がより鮮やかになる。まるで憑かれたように、あの日の映像が頭の中でくり返される。あの和歌の中に歌われた、サクラとモミジのように。
 咲太郎は、そのまま満州で終戦を迎えた。けれど、その直前に侵攻してきたソビエト軍が戦闘が終わってからも居座り続けたため、引き揚げは混乱を極めた。
「ああ……」
 咲太郎は思わずため息をついた。北の大地に留め置かれ、いつ国に帰れるとも知れず、眠れぬ夜を過ごした。焦りと諦めが交互に襲ってきて、終わりのない悪夢のように苛まされた。今戻れば、先生に会えるかもしれない。いや、もう遅すぎる。千々に乱れる心を持て余しながら、じっと耐え続けた。
 ――また、白い秋が来たんだ。
 重く垂れ下がる雲。それを覆い尽くす濃霧。執拗にくり返す波の音。砂をじっとりと濡らす泡。そして、先生の美しい肌。白い風景。
 もし三波に白い秋が来たと言ったら、どう答えるだろう。どこか抜けたところがあるけれど、人のいい三波のことだ。秋はモミジとかイチョウが紅葉しているのが思い浮かぶから、赤とか黄色のイメージだ。ニコニコと愛想の良い笑みを見せながら、そんなことを言うんだろうか。
 咲太郎は診察室の窓から見える風景に目を向けた。正面玄関の脇に植えられたナナカマドが、燃えるように赤く色づいている。その鮮やかさが眩しいほどだった。
 ――確かに、世間一般ではそうかもしれないな。
 けれど、あの一度きりの夕べのせいで、咲太郎にとっての秋は白いものに変わった。先生と呼ばれていたあの人に出会ったことで、その後の人生の全てが変わった。
 療養所で出会ったあの人が華(か)月(げつ)という雅号で知られ、新進気鋭の歌人として一世を風靡していたこと。病室を訪れていた見舞客は先生の弟子や歌壇の重鎮たちであったこと。本名は北(きた)原(はら)葉(よう)といい、あの海辺から少し入ったところにある村落の外れに庵を構えていたこと。それら全てを知ったのは、終戦から四年が過ぎ、咲太郎がようやく満州を抜け出して、本土にたどり着いてからのことだった。
 咲太郎はゆっくりと立ち上がると、ぱりっと糊のきいた白衣を脱いで手提げ袋にしまい込んだ。明日は洗濯したての白衣に袖を通すことができる。その贅沢がときどき信じられなくなることがある。
 自分が生きて戻れるとは思ってもみなかった。そして父が隠居した後も、こうして同じ場所で患者を診ることになるとは予期していなかった。
 ――本当に、いろいろなことが起きるものだ。
 もちろん、戦後すぐストレプトマイシンという抗生物質が考案され、結核が不治の病でなくなるなんて、想像もしていなかった。
「先生」
 咲太郎は開けてあった診察室の窓から身を乗り出した。自分が先生と呼ばれる立場になってからも、呼び名は変わらなかった。まるで避暑地を散歩するかのような優雅な足取りで正面の門をくぐった先生は、こちらに向けて優雅に手を振って見せた。
「咲太郎さん」
 相変わらず、美しい人だった。さすがに十六年も経てば目元には微かな笑いジワが浮かび、髪にもチラホラ白いものが交じるようになる。それでも、彼の姿を目にするたびに、胸の奥がじんと甘く疼く。
「たまには外で食事でもしませんか」
 先生は窓枠にほっそりと嫋やかな手をかけながら、どこかウキウキとした口調で言った。
「ええ、そうですね。今日は定家忌ですから」
 咲太郎はそう答えた。よく考えてみれば、『定家忌』という言葉が秋の季語だと教えてもらったのも、先生に再会した後だった。
「診察は、まだ残っていますか」
「いえ、もう終わりました」
 まさかこうして先生と、海辺の庵で残りの人生をともに生きていくことができるなんて、夢にも思わなかった。
 先生にもう一度会いたい。それだけを念じて、戦場を生き延びた。療養所に残った先生も、同じ想いでいてくれたのだと信じたい。先生も、咲太郎も、もう一度お互いに会えることだけを願い、生きながらえた。あの海辺で必死にかき集めた、ふたり分の生命のかけらを大切に握りしめて。
「先生……貴方を、愛しています」
 今年もまた、先生と一緒に白い秋を過ごすことができる。咲太郎は喜びをかみしめながら、先生の頬にそっと手を添えた。重ねた口唇は、今でも甘い砂糖菓子の味がした。

おりべ美緒
グッジョブ
2
西はじめ 16/12/08 22:44

美しい情景にうっとりしちゃいました!
この時代背景もお話の切なさに含まれていて良かったです
冬の前の凛とした季節感も感じられて世界にのめり込んでしまいました
面白かったです!

mina… 16/12/10 07:55

美しくも儚げで読み始めてすぐに引き込まれました。
久しぶりに純文学を手に取ったような読み応えのある作品で短編とは思えないくらいです。最後には安堵の涙が出るほどでした。
読み終えて余韻に浸れる素敵な作品だと思います。

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