エロなし
「えーっと、間違っていたら非常に申し訳ないんだけど」「なんですか?」「ストーカーは貴方ですよね?」
満員電車はいつだって憂鬱だ。
暑いし、臭いし、知らない他人とピッタリと密着して過ごす数十分は不快でしかない。
ましてやそれにプラスして知らないオヤジにケツを触られるというオプションが付けば、最悪を通り越して最早死にたくなるレベルである。
鮨詰めで動けないのをいいことに、オヤジは俺の尻を撫でる。
布越しに伝わってくるゴツゴツしたオヤジの生暖かい手の感触に、嫌悪感と吐き気でどうにかなりそうだった。
あと何分我慢すれば終わるだろうか?
いっそ恥をかいても痴漢だと叫ぶべきか?
耳元に掛かる気持ち悪い荒い呼吸に、覚悟を決めて叫ぼうと振り返った時だった。
「気分が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」
優しい声と共に俺とオヤジの間に割り込む様にその人は現れた。
百七十センチの俺よりは十五センチは背が高い、すらっとしたスーツが似合うイケメンだった。
「あの……」
「気持ち悪かったでしょう?もう大丈夫ですよ。僕がここで盾になりますから」
男は俺を気遣ってか、具体的に痴漢だと口にはしないまま、オヤジに鋭い視線を向けた後、俺を安心させるように優しく笑った。
痴漢オヤジは慌てたように人をかき分け逃げていった。
ああ、助かったのか。
俺は酷く安心して、知らない内に詰めていた息を吐き出した。
「ありがとうございます」
「いいえ、大変でしたね」
男の優しい言葉と笑みに、最悪だった気分が浮上した。
イケメンは心までイケメンなんだなぁ~っと馬鹿なことまで考える余裕が生まれていることにほっとする。
相変わらず鮨詰め状態の車内は不快だが、密着する相手がキモいオヤジからイケメンリーマンに変わるだけでこうも気分が変わるのか。
香水なのか何なのか、この人スゲーいい匂いするし。
電車が駅に到着すると更に人が乗り込んでくる。
ぐいぐい押されてイケメンに縋り付くような情けない体勢になっても、文句一つ言わずふらつく俺を支えてくれた。
「すみません」
「大丈夫ですよ」
耳元で聞こえる吐息混じりの声はセクシーでなんだか変な気分になってしまう。
それが少し恥ずかしくて、頬がカッと熱くなる。
ほんとはもっと何か話してみたかったけど、何も言えないまま二駅が過ぎ、下車する時には人に流されイケメンを見失った。
せめてもう一度ちゃんとお礼が言いたかったのに。
残念な気持ちをため息と共に吐き出して、俺は気持ちを切り替えた。
「今日もお仕事頑張りますか」
マイナスから始まった今日はイケメンのおかげでプラスに変わった。
俺は晴れやかな気持ちで改札を抜け、歩き慣れた道を進む。
よく晴れた金曜日の朝だった。
ブラック企業だ過労死だと騒がれるこんなご時世に、週休二日の超クリーンな職場はありがたいが、どうせなら人が溢れる土日じゃなくて、平日が休みなら尚更嬉しいのにと考えるのは、贅沢すぎる話だろうか。
それでも日曜日よりは増しかと土曜に訪れた映画館はやはりそれなりに混んでいて、文句の一つも零したくなる。
人混みが嫌ならDVDで見ろよと言われそうだが、やはり最初の一回は映画館で見たいのだ。
まあ混んでいるのはロビーだけで、中に入ればそれほどでもないと予想はつく。
何せ俺が見たいのは、ハリウッドの超大作と話題のアニメ映画の影でひっそり上映されている国内ではほぼ無名の監督の作品である。
有名な俳優も出ていなければ、大々的に宣伝されるわけでもない、県内でこの映画館でしか上映されていないくらいのマイナー作品なのだ。
人に話してもそんな映画あるの?と微妙な顔をされるのが悔しい。
確かにみんなが知っているような超ヒット作はない。
それでもディープな映画ファンには知られているし、海外での人気は高い。
監督の作品はどれも素晴らしいと大声で叫びたいし、何なら作品一つ一つを事細かに語って聞かせてやりたいが、生憎マイナー作品の話を聞いてくれるような奇特な知り合いは居ない。
ファンとしては非常に悲しい。
まあ、いい。映画は一人でも楽しめるのだから。
自分で自分を慰めながら、カウンターでコーヒーとチュロスを購入する。
甘いものと苦いものの組み合わせは最高だと思う。
だからレジの学生バイトの女の子に「おじさんなのにチュロス食べるの」みたいな顔で微笑まれても気にしない。
確かにキミに比べたらおじさんだろうが、二十六でもチュロスは美味いんだからほっといてくれ。
準備万端。さて、映画を見るぞ。
気持ちを切り替え歩き始めた俺の視界の端に、見逃せない何かが映った気がした。
気になりそちらに視線を向けると、既視感のある人影がトイレから出てくるところだった。
黒いシャツにジーンズと気取らない格好なのに、すらっと背の高いイケメン。
まじまじと顔を見てやっと気付く。昨日痴漢から助けてくれたイケメンリーマンだ。
うわ、スゲー偶然。
こんな所でまさかの再会なんて。
話しかけるべきか迷っている間に見つめすぎたのか、イケメンもこちらに気づいた。
驚いた顔のあと、爽やかに笑ってくれたので、俺も慌てて微笑んで、ぺこりと頭を下げた。
上映時間も迫っていたし、何だか少し気恥ずかしくて、結局声を掛けぬまま俺はその場を後にした。
「今回も最高の出来だった」
吐息と共に思わず言葉が零れ落ちた。
外出先での独り言はNGだと分かっているが、この感動を押し止めておけなかった。
今はとても気分がいいし、多少の変人扱いは甘んじて受け止めよう。
今なら感想を三日くらい語れそうだけど、生憎聞いてくれる相手はいない。
こんな時寂しさを埋めてくれるのは美味い酒と美味い飯だと相場は決まっている。
グランドピアノに横たわり赤ワインのグラスを傾けるヒロインの美しさを思い出し、今日の夕食はイタリアンに決定した。
幸いここから一駅先に美味しいピザが食べられる店がある。
久しぶりにあの店でピザと赤ワインを楽しもうと、ウキウキした気持ちで俺は映画館を後にした。
いつも混んでいる人気店だが、タイミングが良かったのか待たずに席に案内された。
お気に入りのペスカトーレと赤ワインを注文し、俺はふっと息を吐く。
感動が冷めやらぬまま、早足でここまで来てしまった。
乱れた息を整えて、出された水を呷る。
ほんの少しミントを効かせた水は、火照った体に心地よく染み渡った。
年甲斐もなく浮かれていた心が少し落ち着くのを感じた。
映画を見てから絶対に赤ワインだと決めていたが、魚介には白ワインの方が良かっただろうか?
でも今日は赤の気分だしなぁ……
「グラスワインの赤とペスカトーレピッツァを」
改めてメニューをめくりながら悩む俺の耳に飛び込んできたのは、俺と全く同じ注文だった。
そうだよな、別に魚介に赤合わせてもいいよな。
肯定されたようで嬉しくなった俺は、声の主を捜して店内をキョロキョロと見渡した。
丁度店員がオーダーを繰り返し確認していたから、声の主は直ぐに発見できた。
できたのだが……
「イケメンリーマンだ……」
思わずぼそっと呟いていた。
先程映画館で見かけたばかりのイケメンリーマンが三席向こうの席で俺と同じものを注文している。
……偶然だよな?
偶々同じ映画を見て、偶々同じようにワインが飲みたくなって、偶々同じ店に来て、偶々同じメニューを……頼むのか?
そんな偶然あるのか?
いやいや、あるだろうそれくらい。
この辺で飯が美味くて尚且つワインが飲めるっ店ならば、一番に浮かぶのはこの店。
一番人気は水牛のモッツァレラでも、ペスカトーレだって美味いし、人気もある。
そもそも同じ映画見たのかも分かんないけど、いや見たと仮定するならばあの映画館で会うのは必然みたいなもんだし……だから、えっと、うん、偶然だよな。
自分に言い聞かせるようにそう考えてみても、俺は何だか居心地が悪くて仕方なかった。
運ばれてきたピザをワインで流し込みながら、極力イケメンリーマンの方を向かないよう心掛けた。
本当なら昨日のお礼をするべきなのだろうけど、とてもそんな気持ちになれなくて、俺は素早く食事を済ませると、静かに店を後にした。
何だか無駄に緊張して、食べた物が何処に入ったか分からない。
「コンビニで肉まんでも買って帰ろう」
謎の疲れを負いながら、土曜の夜は更けていった。
日曜日はいつものんびりと過ごす。
昼過ぎまで眠り、目覚めたら遅めの昼食に昨晩から浸しておいたフレンチトーストを焼く。
焼いてる間にボタン一つでそれなりに本格的なコーヒーが煎れられる。
なんて素晴らしい世界だろうか。
このコーヒーマシンの開発者にノーベル賞をあげたいくらいだ。
甘いフレンチトーストと苦いコーヒーの組み合わせは最高だと思う。
我ながら上手に出来たフレンチトーストにテンションが上がって、定年後に喫茶店でも開こうかなんて馬鹿な夢まで描きながら昼食を済ました。
「さて、買い物にでも行くかな」
冷蔵庫の中は空っぽ。
それなりに自炊はするが、無駄なものは買わない主義だ。
一週間のメニューを決めたら必要以上は購入しない。
一人だと腐らせるのが目に見えているから。
財布とスマホとエコバックを持ち、散歩がてら隣町のスーパーへと向かう。
忙しい日は近所のスーパーで済ましてしまうが、隣町のスーパーの方が値段が安い。
スイーツコーナーが充実しているのも俺的ポイントが高くて、専ら俺は隣町のスーパーへ向かう。
まあ、隣町と言っても歩いて二十分程度だし、運動不足解消には丁度いい距離だ。
途中にある数々の誘惑に捕まらなければ、健康な未来は約束されたようなものだ。
未だ嘗て捕まらずにたどり着いたことはないけれど。
今日も例によって例の如し俺の右手には熱々の鯛焼きが握られている。
これが夏ならアイスが定番だ。
歩いた分は帳消しだろうが、美味しければそれが正義だ。
欲を言えばコーヒーが飲みたい。
甘い鯛焼きと苦いコーヒーの組み合わせは最高だと思う。
ソフトクリームとコーヒーの組み合わせもまた最高だ。
もぐもぐと口を動かしながら、その分しっかりと足も動かす。
食べ終わる頃には見慣れたスーパーに到着だ。
「さて、何を作ろうか」
かごを下げて店内をぐるっと歩き回る。
キャベツが安かったから、ミンチを買ってロールキャベツでも作ろうかな。
それだけじゃ使いきれないから、回鍋肉とお好み焼きもしよう。
残ったら普通に野菜炒めにして、鯖が安いし鯖味噌も食べたいな。
頭の中で一週間のメニューを組み立てていく。
栄養バランスは……まあ、それなりで。
粗方メニューが決まれば必要な材料をかごに入れていく。
「あっ、コーヒー買わないと」
レジに向かいかけた足を戻し、コーヒーコーナーに向かう。
豆からドリップまでなかなかの品揃えだが、マシンを買ってからマシン用のリフィルを購入している。
カフェインレスも人気らしいが、個人的には削らない方が気に入ってる。
黄金ブレンドは、名前負けしない美味しさだ。
目的の商品を見つけ手を伸ばすと、同じタイミングで手を伸ばした誰かとぶつかった。
「あっ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
条件反射で謝って、お互いに見つめ合う。
まるで時が止まったような錯覚に陥った。
何故イケメンリーマンがここにいるんだ?
驚きすぎてまじまじと見つめると、相手も鋭い目つきでこちらを見つめた。
店内にはスーパーのちょっと間抜けなテーマソングが流れているけど、ここだけまるで別世界のように殺伐とした空気が流れていた。
三日連続で偶々合う確率はどのくらいだろうかと、考えても分からない答えを必死で探してみる。
けれど考えたところでたどり着く答えは、“もしかしてストーカー?”なんて不穏なものでしかなくてぞっとする。
この物騒な世の中だ。突然スーパーで刺されたっておかしくはない。
でもこんなイケメンが俺みたいな普通の男をストーカーするのだろうか?
電車で痴漢に遭いはしたものの、別に女っぽいわけでも、可愛らしいわけでもない。
やっぱりストーカーは勘違いで、只の偶然なのか?
でも、何か言いたそうな凄い目でこっちを見つめてくるし。
どうしよう……
「あのッ!!」
「はいぃっ!?」
意を決した様に話しかけられ思わず返事が上擦った。
何を言われるのか分からず身構えていると、イケメンリーマンは恐る恐るといったように言葉を続けた。
「そのっ……貴方はとても綺麗ですし、魅力的だと思います」
「はっ?えっ、あっ、ありがとうござい…ます」
「好意を向けられることは嬉しいのですが、その……ストーカーは犯罪だと思うんです」
「はあ、そうですね……って、ん?あの、えっと、ちょっと話が見えないんだけど」
「ですから、気持ちは嬉しいのですが、後を付けられるのは困るんです」
言いにくそうな顔で告げられた言葉を頭の中で整理してみた。
……うん、何回考えても俺がストーカーだって言われてる気がする。
理解力が足りないのか?
「えーっと、間違っていたら非常に申し訳ないんだけど」
「なんですか?」
「ストーカーは貴方ですよね?」
「えっ!?」
イケメンの顔が驚きと困惑で歪む。
折角のイケメンが勿体ないなと考えるくらい許して欲しい。
現実逃避くらいしたくなる。
だって多分俺らお互いに盛大に恥ずかしい勘違いしてるんだから。
「あー……あの、今時間ありますか?」
「はい、特に予定はありませんが……」
「取り敢えずお互いに買い物を済まして、そこの喫茶店でお話しませんか?多分俺ら同じ様な勘違いをしてるみたいなんで」
俺の提案にイケメンは顔を赤らめながら頷いた。
うん、分かるよその気持ち。
俺も今すっっっごく恥ずかしいから。
お互い顔を赤らめ微妙な空気を放ちながらも手早く買い物を済ませた。
俺のエコバックはこんな時にも大活躍する保冷バックだ。
無料の氷を一緒に入れておけば、肉も腐らず安心の優れもの。
保冷バックを考えた見知らぬ誰かにもノーベル賞をあげたいもんだ。
くだらないことを考えたら、やっと心が落ち着いてきた。
お互い商品を詰め終わると、見つめ合って苦笑いしながら隣り合ってスーパーを後にした。
スーパーの三件隣には、コーヒーの旨い昔ながらの喫茶店がある。
店内には数名の客が居たけれど、新聞を読んだり連れと話したりと自分の世界を楽しんでいた。
この感じならこちらの会話を聞かれることもなそうだ。
「何にしますか?痴漢から助けてもらったお礼もちゃんと出来ていないままだったし、ごちそうしますよ」
「いえ、そんな大したこともしていないのにお礼なんて……」
「大したことですよ。俺は助けてもらって嬉しかったから。だから、お礼させてください」
そう言ってメニューを差し出せば、少し戸惑った後優しく笑って受け取ってくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えてブレンドを」
「あっ、ここのオリジナルブレンド美味しくてオススメ。甘いものは好きですか?」
「まあ、それなりに」
「じゃあ、パンケーキも頼みましょう。分厚いのにふわふわでバターがとろ~っと蕩けて、一度食べたらやみつきです!」
「貴方の話を聞くだけで美味しそうだ」
幼い子供を見守るような顔で微笑まれて、何だか恥ずかしくなってしまう。
ブレンドとパンケーキを二つずつ注文すると、少し赤くなった顔を誤魔化すように水を飲んだ。
仕切り直しと言うように咳払いをすると、俺は気持ちを切り替えイケメンに向き直った。
「まず、何から話せばいいかな……あ、肝心なことを忘れてた。今更感がハンパないけど、改めまして、俺は緒里あきらです。一緒の緒に古里の里って書いておざと。あきらはひらがなで」
「緒里さん。僕は北川聡介。えっと字は、方角の北に流れる川、聡いに介助の介でそうすけです」
俺が自己紹介をすると、イケメン改め北川さんは同じように自己紹介してくれた。
それだけで分かる、この人すごくいい人だ。
こんないい人をストーカーだと疑った自分が恥ずかしい。
お互いの誤解をすっきり解くためにも順を追って話をしよう。
「自己紹介も済んだところで、改めて先日はありがとうございました」
お礼と共に頭を下げると、北川さんは慌てて頭を上げるよう促し、照れたように笑った。
「お役に立てたのならよかったです」
「俺は通勤でいつもあの電車を使ってるんですけど、痴漢なんて滅多に遭わないからどう対処しようか困ってて、本当に助かりました」
「滅多にって……偶にならあるんですか?」
「おっと、墓穴を掘りました。まあ、恥ずかしながら物好きな変態も居るらしく」
「緒里さんくらい綺麗だと大変なんですね」
真面目な顔で同情されて頷きそうになったが、お世辞でもこんだけ整った顔の相手に容姿を褒められると居心地が悪い。
あと何か胸がドキドキする。
ドキドキ?
いや、うん気のせい。
きっと気のせい。
何だか落ち着かない気持ちをタイミングよく運ばれてきたコーヒーとパンケーキに意識を向けて立て直す。
コーヒーのいい香りとバターの香ばしさが混ざり合って心が落ち着いた。
甘いパンケーキと苦いコーヒーの組み合わせ最高だと思う。
その証拠に北川さんも目の前のコーヒーとパンケーキに夢中だ。
イケメンさえも夢中にさせるなんて恐ろしい子。
うん、落ち着いた。
自分のペースを取り戻し、中断していた話を戻す。
「北川さんもあの電車よく使ってるんですか?」
「いえ、いつもはもう少し遅い電車に乗るのですが、あの日は会議の準備のために早く出たんです」
「そうなんですか。取り敢えずこれで電車で出会ったのは偶然だと証明されましたね」
確認するように尋ねると、恥ずかしそうなでも少し安心したような顔で頷いてくれた。
「じゃあ次は映画館ですね」
「はい。同じ路線を使っているならまた電車で顔を合わせることくらいはあると思っていたのですが、思ってもみなかったところでお会いしたので本当に驚きました」
「俺は基本土日が休みなんです。あまり人混みが好きじゃないから普段は家でダラダラ過ごしてるんですが、今回は大好きな監督の最新作が上映されていたから映画館に行きました。県内ではあそこしか上映されていなくて」
「もしかして緒里さんも『暁を奏でる』目当てで?」
「“も”ってことは、北川さんも?」
「はい、フランツ監督の大ファンなんです。処女作から最新作まで全部見てます」
「本当ですか!?俺、自分以外のファンに初めて会いました」
「僕もです。まだ日本での知名度は低いですし、上映館も少ない上にDVDも発売されないから誰も知らなくて」
「そうなんです。だから俺は海外版のDVDを取り寄せて揃えました。再生用にデッキも用意して」
「なるほど、その手がありましたか。僕はDVDが発売されないと分かっているから、短い上映期間中に何度も映画館に通いましたね。観る度に新たな発見があって飽きないけれど、やっぱり過去の作品も観たくなるからジレンマを感じていて」
「すっごく分かる。特に最新作観ると処女作から順に見比べたくなって。あっ、もし良かったら今度DVD貸しますよ。何ならデッキごと。字幕なしでも大丈夫ならですけど」
「いいんですか!!」
「勿論。初めて会えた同士なので色々語り合いたいし……って、話がまた脱線しましたね。映画についてはまた後日改めて語るとして、映画館で出会った理由は解明できました」
まさか同じ監督のファンだとは思わなかったけど、驚いたのはお互い様で、北川さんも興奮を隠す様子もなく頷いた。
「でも同じ作品を見ていたなら次は何となく予測が付きました」
「グランドピアノと赤ワインですよね。あれを観たら飲みたくなりますよね」
「名シーンです。あの辺で一番に思い浮かぶワインの飲める店があそこだったから。……まさかメニューまるかぶりするとは思わなかったけど」
「僕も驚きました。魚貝が好きなので、あの店ではいつもペスカトーレを頼むんです。初めは緒里さんが居るのに気づかなくて、料理が運ばれてきて食べ始めたら全く同じものを食べている人に気が付いて、それが貴方でそのっなんと言うか……」
「あー大丈夫です、気を使わないで。正直俺もぞっとしたんで」
「すみません」
しょんぼりと下げられた頭に庇護欲を掻き立てられて思わず笑ってしまった。
この人大人の男って感じなのに、何だか可愛い。
「初めは気にしていなかったけど、行く先々で出会うからもしかしてと……過去に似たようなことがあったもので少し過敏になっていたみたいで」
「ああ、北川さん超絶イケメンだからストーカーの一人や二人居そうですもんね」
「いえ、僕なんてそんなっ」
顔を真っ赤にさせた北川さんは、恥ずかしそうに目を泳がせた。
こんなにイケメンならてっきり褒められ慣れていると思ったのに、初な反応を返されると逆にこっちが照れてしまう。
熱くなった頬を誤魔化すように、俺は平静を装い話を続けた。
「止めが今日のスーパーですね。俺は基本的に自炊してるので毎週のように来てる常連なんですよ。住んでいるのは隣町だけど、ここの方が安くて品揃えがいいから散歩も兼ねて」
「僕は近くに住んでいるのですが、あまり自炊はしないので滅多に来ないんです。今日はコーヒーが切れてしまって。いつもならネット購入で済ますのですがすぐに飲みたかったから偶々訪れたんです。そしたら緒里さんに会って、これはもうストーカーに違いないと思い込んでしまって……」
言葉尻が小さくなって、ついには真っ赤な顔は隠すように両手で覆われた。
やっぱり何だかこの人すごく可愛い人だ。
見た目はクールでクレバーなエリートイケメンリーマンって感じなのに、中身は何だかほわほわして危なっかしい。
男の俺でも胸がキュンとしてしまいそうな。
……これがギャップ萌えってやつなのか?
「そんなに気にしないでください。勘違いしたのはお互い様なんだから」
「いえ、でもどう考えても僕の方が酷い勘違いを……貴方に好かれているのかもと思ったらとても嬉しくて、ちょっとした優越感を感じてしまったりもして、でもやはり後を付けられるのは困るからとあんな……」
ん?
なんか少し変じゃないか?
男にストーカーされてきもいとか怖いとかじゃなくて、嬉しくて優越感って……
「でも全部が自分の勘違いで、自惚れてしまって、本当に自分が恥ずかしいです」
「えっと、俺の勘違いじゃなかったら、今の方がよっぽど恥ずかしいことを口にしている気が……」
「え?」
北川さんはきょとんとした顔をして、何かを考えた後、只でさえ赤かった顔を更に真っ赤に染め上げた。
耳の先まで真っ赤っ赤。
何この人本当に可愛い。
「えっと、ごめんなさい、忘れてください。好きとかそう言うことではなくて、もちろん嫌いなわけではなくて、むしろ好きなのですが、じゃなくて、えっと、えっと、こんな綺麗な人に好意をもたれるのが嬉しいというか、いやでもそれは勘違いで、だから、えっと……」
真っ赤な顔で大慌てする北川さんは、空になったコーヒーカップを上げたり下げたり大忙しだ。
喋れば喋るほど墓穴を掘っている気がするし。
本当になんて可愛い人なんだ。
釣られて俺までドキドキしてしまう。
あーとかうーとか唸りながら北川さんは深い深い墓穴を掘り続ける。
初めて会った時から綺麗で見惚れたとか、もう一度会えて嬉しかったとか、今だって話せるのが嬉しくて、趣味まで同じで運命を感じるだとか、聞いてもいない甘い言葉が可愛い口からぽろぽろぽろぽろ次から次へと零れてくるから、そのすべてを飲み込んでしまって何だか胸がいっぱいだ。
出会って三日の同性なのに、何だか俺まで運命を感じてしまう。
間違いなく俺はノーマルだったはずなのに、何かもうこの可愛い人にメロメロだよ。
いや、思えば初めから結構メロメロだったの?
「そう言えば、北川さんって何歳なんですか?」
「えっ?え?あっ、歳ですか?三十です…けど…」
「俺は二十六なんで、北川さんの方が年上ですね」
「緒里さんは僕より年下なのに、とても落ち着いていますね。羨ましいです」
パタパタ顔を仰ぎながらそう言ってへにゃりと笑う北川さんに益々胸がキュンとする。
可愛い、可愛い、ほんと可愛い。
「北川さんは年下はお嫌いですか?もしお嫌じゃなければ、お友達からお願いできませんか?」
「え?それは勿論嬉しいです。映画の話ももっとしたいですし」
「いや、そうじゃなくて。生憎ストーカーではありませんが貴方に好意を抱いているので」
「はい。へっ?……はぁッ!?」
面白いほど狼狽える北川さんに、内緒話をするように駄目押しで囁いてみた。
「友達からスタートして、いずれ特別になりたいと思っていますが迷惑ですか?」
落ち着きなくあちらこちらに視線を向けた北川さんは顔を覆って俯いた後、指の隙間からちらりとこちらを向いて、消え入りそうな小さな声で「お手柔らかにお願いします」と呟いた。
真っ赤な顔の可愛い人をこれからどう口説こうか考えると、甘いものを食べた時みたいに体中に幸せが広がった。
取り敢えず最初の一手は決まっている。
「次の休みにうちで一緒にDVDを見ませんか?俺の手作りでよければ、晩御飯もご馳走しますよ。そうだな、魚介たっぷりのパスタなんてどうです?もちろん泊まってくれてもかまいません」
甘い甘い餌をぶら下げ、下心たっぷりに誘ってみた。
込められた下心に可愛い可愛いこの人がどれくらい気づくかわからないけど、まあのんびり頑張ることにしよう。
一緒にコーヒーを飲みながらのんびり過ごす休日は、きっと想像するより楽しいはずだ。
可愛い可愛いこの人とコーヒーの組み合わせは最高だと思う。
そんなことを考える日曜日の夕暮れ。
夕日より真っ赤な可愛い人は、俺の言葉に恥ずかしそうに頷いた。
END