エロなし/ノンケ攻/女装
膝を曲げて、うずめて、スカートの裾をいじって、くもった声がする。「オレはお前のそういうところに救われたんだよ」
五年後、再会した親友は女の子になっていた。
「あ」
俺が声をあげると、ヤツは何やら白く塗った顔を真っ青に変えて一目散に駆け出した。「あ、コラ!」まるで教師みたいな台詞を言って俺も走り出す。ネオンがあちこち光る夜の街は人が多く、ヤツは慣れたようにその合間を縫っていく。負けじと追いかけていく。カンカンとヒールを地面に叩きつける音が聞こえた。よくあんな細いヒールで走れるな。陸上部だったとはいえ走りにくいだろうに。ていうかスカートすげえひらめいてるけどいいの? 中見えていいの? 中どんな風になってんの? そんなことを考えているうちにヤツは細い路地に入っていく。いくら早くても、やはりヒールと俺のスニーカーでは差があるのか、距離が縮まっていく。その腕を掴むのに数分もかからなかった。案の定じたばた暴れられる。逃げたいのか掴まれた腕を引っ張っている。
「ッ離せ!離せよ!」
「はい」
「ばバカッぎゃあ!」
離せと言うから離したら、ヤツはバランスを崩して前のめりに倒れた。ずさっと結構派手な音がした。手と足が全力で地面にこすれた音だ。うわ痛そう。
「うわ痛そう」
「誰のせいだよ!」
素直に言葉にしたら怒られた。ああ懐かしいな。よくこんなやりとりをしていた。あのとき、だって。
しゃがみこみ、俺―――藍田(あいだ)は、ヤツ―――五年前、同じ中学で、同級生で、親友であったはずの雅(みやび)と向かい合う。被り物なのか、肩下まで長い金色の髪。女物の何かで塗られて白くてなっている肌。まぶたに色がついてる。口唇もつやつやと赤い。ピアスとネックレスをつけている。派手ではないものの、女の子らしい柄の入った白のニットと赤いスカート。転んだせいで、あちこち破けてしまった黒のタイツ。スカートと同じ赤色の、細くて高いヒール。息を荒くして肩を上下させながら、それでも俺を睨みつけている瞳。
「……ちょっと失礼」
「あ?」
ぺらんとスカートをめくる。「ひっ」とどこかから甲高い声が聞こえた。暗い路地で周りに人はいないから大丈夫。俺はまじまじと中を見つめ、安堵の溜息をつく。
「よかった、ちゃんとついたままか」
「…………」
「下着はボクサーか?タイツの中だからよく見えんが」
「………………の」
「ん?」
目線をあげると、親友の顔が真っ赤に染まっていた。白かったり青かったり赤かったり忙しいな。と思うと同時進行でヤツの拳が振り上げられる。真っ直ぐにストレッチど直球に俺の頬が殴られた。
「このデリなし野郎!!!」
ああ、本当に懐かしいな。あのときもそう言われて殴られたんだ。
あのとき、俺たちが親友でなくなった日。
反動で空を見上げることになりながら、俺は五年前を想起する。
■■■
「いやいや、無理だ無理」
中学の卒業式の日、俺は手の平をフラフラ振って即答した。
「俺は女が好きだから、女にしか起たんし」
最初ヤツはポカンと口を開けていた。呆然とするとはああいうことを言うんだろう。だんだんと呆然は赤に染まって、俺の頬へ拳が全力フライングされた。
「このデリなし野郎!!!」
デリなし野郎とは何だ。
それに気づいたのはヤツが走り去って、ひとりで家に帰ってからだった。デリカシーがない野郎。デリカシーなし野郎。デリなし野郎。なるほどなるほど。でも語呂悪くないか?
そう伝えることも出来なくなったと知るのは、数日経ってからだ。
□□□
「それでも家にあげてくれるお前を慕っているんだと思うぞ俺は」
「うるせえ黙れ」
雅の悪態を右から左へ受け流しながら部屋へ上がらせてもらう。彼の住む場所はあの夜の街から五駅ほど離れた場所にあるワンルームだった。一人暮らしをしているらしい。とても散らかっているわけでもなく、かといって漫画やら何やらが適当に置かれてる男子大学生らしい部屋だ。物珍しく見回していると睨まれてので、そそくさとテーブルの側に座る。雅は被り物……ウィッグ、というものだけ取り、向かい側にワンピース姿のまま足をおっぴろげて座った。さっき俺にはグーパンチだったのにいいのかよ。ていうか中身は普通に黒の短髪なのか。中学生の頃の面影が一気に濃くなる。
俺の視線は無視され、コンビニで買ってきた諸々の入ったビニール袋をテーブルに置かれた。
「あのまま帰したら、なに言いふらされるか分かったもんじゃねえから。だから口止めのために奢るんだからな」
「俺が言いふらしたりすると思うのかお前というやつは」
「言いふらすつもりはなくても話の流れで不用意なことを言ってしまう奴なんだよお前というやつは」
まだ分かってなかったのかよ、と舌打ちと一緒に呟かれてしまう。まあ否定はできないので言い返さないでおく。雅がまだブツブツ文句を言いながらビニール袋から中身を取り出していった。ビールに始まりハイボール、ウィスキー、日本酒、さきいかにチーズ蒲鉾、おつまみに分類される菓子えとせとら。あとチョコレート。
「コンビニでも思ったが、結構オヤジ臭いラインナップを選ぶんだな」
「ウィスキーとチョコレートとかいう変な組み合わせ選んだのはお前だろうが」
「何を言う。ウィスキーと甘いものはとても良く合うんだぞ」
「え、マジで」
「そば焼酎もウィスキーと風味が似ているから美味いんだがな。ちなみにお湯割がおすすめだ。あとで試してみるといい」
「へえーじゃああとでちょっとくれよ、ってそうじゃない!!」
雅がノリツッコミの上でダンッとテーブルを叩く。こういうことをしてくれる優しさと単純さは相変わらずらしい。
「オレはこんな仲良しこよしな会話をしたいんじゃないんだよ」
「俺はほどほどに仲良しこよししたいが」
言葉を返すと、雅の怒った顔が無くなり、ジッとこちらを見つめられる。彼の無表情はあまり得意ではないが、負けじと見つめ返してみる。
「……お前、ほんとに、よくそんなこと言えるよな」
「そんなこととは」
「だから、……だって」
言いかけて、口を閉ざす。眉間にシワが寄っている。目が伏せられる。まっすぐ見つめたままでいると、はああと雅は何度目か分からない溜息をついた。ビールを手に取り、慣れた手つきで開ける。
「ああもう、いいや。とにかく飲むぞ。とにかく飲むぞ」
「なぜ二回言うんだ」
「こんな状況、飲まなきゃやってられないっつの」
つまり雅にとって、この状況は受け入れたくないということ。そのことに対して、俺は何も言わない。黙ってウィスキーに手を伸ばそうとすると、雅が未開封のビールを突きつけてきたので、仕方なくそちらを受け取った。
「で、なんで女装なんかやってるんだお前」
「このタイミングで聞くのかよ!」
■■■
「お前と同じ高校行こっかなぁ」
中学二年生のとき、確か、二月ごろ。進路希望の書類云々を出さなければいけないときだった。雅はまだ進路を決めかねているようで、放課後の帰り道にそんなことを言い出した。「なんでだ」と聞くと、前を歩いていた雅はちらりと俺の方を振り向き、なぜかすぐに目を逸らす。
「お前と一緒の高校だったら楽しいだろうなって、それだけ」
「……急になんだ。要求は肉まんか?」
「素直な気持ちを受け取れよ。オレはピザまんが好きだ」
「買わんぞ」
「わかってるって」
雅がこういう冗談を言うのは珍しい気がする。だから何か、特別な意味があるのかもしれない。だけど、そういうことを汲み取れる力は俺にはない。少し考えてから、考えているようでやはり答えは出ないまま俺は言葉をこぼす。
「俺と同じ高校はやめておいた方がいい」
「なんで」
「俺が志望するところは進学校で、行きたい大学への推薦が取れやすいからだ。なのに俺がいるからとそこに決めるのは、お前の将来を狭めることになるだろ」
「……藍田はさあ」
「なんだ」
「オレと一緒の高校行きたいとかは思わねえの」
「思わなくはない」
雅が立ち止まるので俺も止まる。じっと雅が俺を見据える。そうだ、このときも雅は無表情な、まじめな、顔をしていて、「けど」俺はその意味をやはり汲み取れないで。
「お前の偏差値では俺の志望校に絶対届かないだろ」
目の前の男が言葉を失った、ように見えた。言ってからいつも気づく。俺を責める目で言われる。お前は素直で正直で、愚直が過ぎる。
怒られるだろうかと一歩後ろへ下がろうとする。しかしその前に雅はぶぶっと盛大に吹き出した。それからケラケラと笑い出す。お腹まで抱えだす。急にどうした?
「なんで笑う」
「ははっ、はは……あーいや、そうだよな。お前はそういうやつだよ」
「怒りすぎて笑っているのか」
「そうじゃねえって」
バシバシと俺の肩が叩かれる。俺の肩が揺れる。
「お前はそのままがいいよ」
「……なんだそれは」
「お前はそのままがいいってこと」
「二回言っただけだそれは」
「お前のそういうところが、オレは好ましいって言ってんの」
このましい、という言葉を聞き慣れず、俺はすぐに呑み込めない。そのあとちゃんと呑み込めたはずなのに、そう思っていたのに。本当の意味では何も分かっていなかったということを、俺は卒業式の日に知ることになる。
□□□
「これは何だ」
「ファンデーション。肌に塗るやつ」
「これは?」
「アイシャドウ。瞼に塗るやつ」
「これは」
「チーク。ほっぺに塗るやつ」
「これは」
「フェイスパウダー。肌に塗るやつ」
「……ファンデーションと同じでは?」
「ぜんっぜん違うっつのバッカじゃねえの」
雅の化粧品紹介をつまみに酒を飲むことになったのに、それほど時間はかからなかった。というか結局女装の理由をはぐらかされて、別の路線に話を逸らされてしまったという方が正しい。ファンデーションとフェイスパウダーの違いを延々と語られたが、俺にはさっぱり分からなかった。それを伝えると「バッカだなーお前はー!」と大声で背中をバシバシ叩かれた。コイツ酔うの早いな。既に三本目のビールをがぶ飲みしている。
「こういうの、ぜんぶ自分で買ってるのか」
「当たり前だろ」
「店に入るの躊躇しないのか」
「薬局で売ってるやつあるし、化粧品売り場でも『カノジョにプレゼントする』って言ったら楽しそうに色々教えてくれるぞ」
「手の込んだことを……」
「意外と面白いんだぞ化粧って。奥が深いぞ。聞くか?」
「お前が女装している理由を教えてくれるなら」
楽しそうな雅の顔が一気に沈んだ。眉間の皺を指刺すと、ほっぺを強くつままれる。そこそこ痛い。
「すぐデリケートな部分に首を突っ込むなお前は」
「俺のせいか」
つままれながら言うと、ますます雅の皺が寄った。つまむ力が弱くなる。
「俺があんなことを言ったせいか」
「ちげえよ自意識過剰」
頬から手が離れる。三本目を飲み切ったのか、今度は酎ハイに手を出している。
「……って、言えたらよかったけど」
きっかけはお前だよ、と、弱々しい声で言った。あまりにらしくない声で、俺は言葉を返せない。酎ハイをぐいと飲む姿を見守るしかない。
「あのあと、オレ、すげえ落ち込んだっていうか、すげえ、もやもやして。女の子としかっていうお前の言葉が頭から離れなくて。最初はただやけくその気持ちで服屋に言ったんだよ。で、一番大きいサイズの服一式買って、ちなみにリボン付きのトップスとプリーツのスカートとタイツと」
「そこ詳細いるか?」
「今も置いてあるから後で見ろ」
「置いてあるのか……」
「で、家で着たんだよ。誰もいないときにこっそり」
「似合ってたのか」
「似合うわけねえだろこんな男の顔と髪で」
自嘲気味に雅は口元を緩める。俺はどんな顔をしていいか分からず、自分のハイボールを飲む。
「で、なんかすげえ惨めになってきて、悔しくなってきて、こんちくしょうってなって、いろいろ勉強したんだよ。服とか化粧とか、ネットで調べたら意外と女装の方法とか書いてあってさ」
「なんで勉強熱心さをそこで発揮したんだ」
「ほんとだよな」
中三のときに頑張ってたらお前と同じ高校に行けたのかもしれないのに、と、寂しげな声は、本気なのか冗談なのか。誤魔化すように雅はカツラを掴んで俺に見せつけてくる。
「こういうウィッグとか被って、ちゃんと化粧して、そうしたらさ。だんだん似合うようになってきたんだ。歩いてても女に間違えられたり、『可愛い』って言ってもらえたりしてさ。それが面白かったていうか嬉しかったっていうか……。いつのまにかオレ、女装が楽しくなってたんだ。親には今でも内緒だし、ていうか、誰にも秘密にしてたけど。ああいう夜の街にはそういう奴がいたり、店があったりするから、そこでだけこういうことするようになった」
「……あそこで働いてたりするのか?」
「いや、バーのアルバイトとかしてみようかなって考えてはいるけど、今はまだ。適当にぶらぶらしてるだけだよ」
そこで不思議そうに首を傾げて俺を見てくる。「……もしかしてお前、オレが夜の仕事してるとか思ってたわけ?」図星を突かれ俺は思い切り目を逸らす。雅の目が追いかけてくる。観念して俺は両手を上げた。「思ってたというか、心配をだな」するとギャハハと雅が声を上げて笑う。
「お前への失恋を今まで引きずって、オレが自暴自棄になって夜の仕事してるって? それこそ自意識過剰だわ」
「あのな、俺はそれなりに心配してだな」
「そこで『それなり』って言うお前が、ほんとお前らしいよな」
「俺は……」
「きっかけはお前だって、言っただろ。きっかけなんだよ。結果的にオレは楽しく趣味で女装してんの。お前が何か気負う必要なんにもねえって。まあ秘密にはしておいてほしいけど」
自分のスカートの裾をヒラヒラつまんで雅は言う。俺が黙っている間に酎ハイを空っぽにしている。そういえば、と思い出したように雅は俺の方を見た。
「よくオレだって気づいたよな、お前。それなりに化けてるつもりだったんだけど」
「そりゃあ、まあ」
「知り合いから見たらそんなもんなのかもな。見つかんねえように気ィつけよ」
一人で納得したのか、ふんふんと頷きながらチョコレートを食している。酎ハイとチョコレートは合わないのでは? と思っていたらウィスキーに手を伸ばし始めた。「お湯割りがおすすめだぞ」と言うと「なるほど、沸かしてくる」と素直にキッチンへ向かう。相当酔ってるなコイツ。背中を見送りながら、俺もお湯が沸くのを待つことにする。
■■■
中学一年から三年生まで、雅とはクラスがずっと一緒だった。さらに言えば陸上部であることも一緒だった。話す機会も多く、相性がいいと、俺は感じていた。気づけば常に行動を共にしていたし、お互いの情報を熟知していた。身長や体重、短距離のタイムの数値。今はまっているもの、好きなゲーム、マンガ、食べ物。家庭環境。進路。知らないことの方が多いと思っていた。雅もそう思っているだろうと、思っていた。
「オレ、男が好きなんだ」
だから卒業式の日、不意にそう言われたとき、俺は考えを改めた。きっと雅は、俺が雅のことを何も知らないと思っていたであろうと。
「……初耳だが」
「初めて言った」
「男が好きというのは、そういう意味でか」
「そういう意味だ」
卒業式という日に、誰もいない教室に引きずられたときは何ごとかと思ったが、そういうことか。てっきり高校は別になるけど、これからも仲良くしような的なことを言われると想像していたのに。俺は腕を組み、今までの記憶を想起する。雅との会話を思い出してみる。いろいろあった三年間。
「だから男子たちのエロ本談義にあまり乗り気ではなかったのか」
「何か考え込んだと思ったら第一声がそれかよ!」
「いやそう思ったのだから仕方ないだろう」
はあああと何故か盛大な溜息をつかれる。肩をがっくり落としている。さっきまで緊張しているのか、真剣な面持ちだったくせに何なんだ。
「ていうか、コメントそれだけか?」
「それだけとは」
「だから、こう」
「お前が何を好きになろうと、雅は雅だろう」
言うと、雅の目が丸くなる。
「俺の好ましい雅だ」
俺はどこまでも鈍く、うとい。雅の頬が赤くなっても、耳まで赤くなってもその意味に気づかなかった。言葉にされるまで気づかなかった。雅の目があちこちと動く。おそるおそる俺に向けられる。「じゃあ」と、少し震えた声でも、俺はまだ。
「オレがお前を、好きでもか」
好き、という言葉を、雅から聞いたことは何度もある。ゲームが好き。漫画が好き。走るのが好き。ピザまんが好き。俺には、好ましい、だったのに。
「オレはお前が好きだ」
俺の中に生まれたのは、驚きとか、動揺とか、そういうものではなかったと思う。ポカンとか、キョトンとか、そういう。そういう音の感じのもの。
「……雅が、俺を」
「おう」
「好き」
「おう」
「そういう意味で」
「そういう、意味で」
雅が緊張している。口をきゅっと引き締めている。俺は腕を組んだまま、汲み取ろうと、考える。
「つまり雅は、俺とそういうことをしたいのか」
「そ、ういうこと」
「キスとか、セックスとか」
絶句というのはこういうことかと言わんばかりに、雅は絶句した。顔全体を真っ赤にして。
雅はそういうことを、俺と、したい。
俺と雅が。
想像して。
「いやいや」
想像、できなくて。
「無理だ無理」
いつものように、雅が好んでいると言った、素直で正直で、愚直が過ぎる俺のまま。
「俺は女が好きだから、女にしか起たんし」
赤い顔が、あっという間に消えた。ポカンと、雅は口を開けた。違う赤色の顔に代わるまで、俺は雅を傷つけたということにすら気づかなかった。雅の泣きそうな顔を見たのは、これで二度目だった。
「―――このデリなし野郎!!!」
殴られたって、全速力で走り去られたって。俺はそれが絶交というものであったと、愚直で鈍い俺は、時間が経たないと気づけない。
□□□
「この際だから言うけどお前はそこそこイケメンなんだからなあ」
雅という人間は酔うと隣人に絡んでくる体質らしい。さっきからスカートなのも気にせず足をおっぴろげ、俺の腰を蹴ってくる。「暑い」の一言でさっきタイツも脱いでいた。なのでボクサーがそこそこ丸見えなんだが、これ朝になって俺怒られたりしないだろうな。歴とした八つ当たりになるから避けたい。
「お前がそういうアレでソレな性格だからモテなかっただけで、『顔だけは良いのに』って言う奴けっこーいたんだからな。本当だぞ。性格はマジでアレなのに顔だけはって」
「俺は顔だけの男ということか」
「そーだそーだ」
「お前にとってもそうだったのか」
「ちっげーよバカじゃねーのバーカバーカ」
また蹴られる。ウィスキーを飲み始めたあたりから大分酔っているとは思っていたが、いつもこんな感じになっているのだろうか。俺がいないときでもこうなんだろうか。広がったスカートをつまんで元の位置あたりに直してやる。数えるのもやめてしまった何本目かの酎ハイを呷り、「大体お前は」と特に気にする気配もなく雅が続ける。
「お前は、そういう察しが悪すぎるんだ。オレのことだって全然気づかないし」
「お前が言わないからだ」
「でも思春期野郎の態度なんて気持ちが丸分かりにも程があるだろ」
「俺にそういう能力がないことを、お前が一番知っていると思っていた」
「それは」雅はふてくされた顔をして俺を睨む。「そうだけど」蹴っていた足を自分に寄せて体育座りになる。言いづらそうに、雅の顔がしぶくなっていく。
「あの言い方は、……さすがにオレでも傷つく」
卒業式の日。雅にこんなことを言わせてしまうくらい、俺が雅にしたこと。息が詰まりながら、「俺は」考えていた言葉を吐き出す。
「あのあと、『だからお前と友人としていたい』と、続けるつもりだった。今までのままでいたいと。お前を傷つけるつもりなんてなかった。俺の、正直な気持ちだった。いつもの俺だった。それが」
雅の視線が突き刺さる。息苦しさが治らずに目を逸らす。
「それが雅を傷つけるということを、考えもしなかった」
沈黙がうまれる。アルコールで曖昧になっていたものが、あっという間に蒸発する。雅が口を開くのに、それほど時間はかからなかった。
「分かってるよ」
諦めと、情が混じった声。
「分かってるし、分かってた。お前は女の子が好きなの、知ってたし。断られるの覚悟してたし。いつものお前の言い方をするだろうなっていうのも、覚悟してたはずなんだけど。それでも、お前に拒絶されたっていうのが、思った以上にキツくてさ。だから本当は、お前は悪くないよ」
雅を見る。やけに優しく、笑いかけられる。
「オレはさ、そういうお前が好きだったんだから。お前がそうじゃなきゃ、好きにならなかった。そのままでいてほしいって、今でも思ってるんだ」
だって、と、弱々しく、雅が呟く。
「お前はさ、覚えてないかもだけど」
膝を曲げて、うずめて、スカートの裾をいじって、くもった声がする。
「オレはお前のそういうところに救われたんだよ」
■■■
中学一年生のとき、学校の休みの日にお前、オレの家へ遊びに行ったときあっただろ。確かオレの持ってるゲームやろうって話になったんだ。で、家にオレの両親がいて、仲が悪そうに見えたんだろうな。まあ実際そうだったし。お前はオレに、「お前の両親は仲が悪いのか」って聞いた。「すこぶる悪い」ってオレは言った。
「ふたりとも言うんだよ。オレのために別れたくないって、オレに言うんだ。ふざけんなよって話だよ。なんでお互いもう嫌いなのに、一緒にいる必要があるんだよ。そんなんだったらさっさと別れろよって話だよ。もう好きになれないなら、好きになってくれないなら、その方がいいっつの。その方が、ふたりとも、絶対すっきりするし、絶対、しあわせになるし。オレだって、その方がよっぽど、安心だっつの」
つい長く喋っても、お前は「なるほど」と呟いただけだった。それから実際に両親が離婚することになって、それを伝えてもお前は「そうか」と言っただけだった。
で、どこが火元か知らないけど、そのことがクラス中の噂になった。可哀想って目が、たくさんオレに向いた。オレが平気だって言っても、大丈夫だって笑っても、哀れみというものが消えてくれなかった。オレじゃなくて、なぜかお前に離婚のことを聞く奴もいた。可哀想だよねって言う奴もいた。息苦しくて、まるでついこの間までの家の中みたいで。うるせえって大声で言いたかった。言ってやろうって思った。
そうしたら。
「なんで雅が可哀想なんだ」
お前はそう言ったんだ。
「雅は、両親は離婚した方がいいと言っていた。その方が両親は幸せになるし、そうなった方が自分も安心すると」
素直で馬鹿正直で、思ったことをそのまま口にするお前が。
「雅は、そういうことを思いやれる人間だろ」
振り向いて、まっすぐにオレを見て。
「そうじゃないのか?」
心底不思議そうに、言ったんだ。
その瞬間、息苦しさも何もかも消えた。ぐちゃぐちゃになっていたオレの気持ちが、まっすぐに戻るのが分かった。だってオレ、本当に安心したんだ。離婚するって決まってから、どこかすっきりした顔してる親父と母さんを見て、ああよかったって思ってた。幸せになってほしいって思った。その気持ちを、認めてくれる人が、ここにいた。
それがお前だったんだよ。
□□□
「すげえ小さいことだけど、お前は何にも覚えてないだろうけど」
雅は震えた声で続ける。
「あのときのオレにとって、一番大切で、一番欲しい言葉だったんだ。お前がただオレを信じてくれたことが嬉しくて、どうしようもなく嬉しくて、そんなの、好きにならないわけない」
だから、と、言葉がつづく。
「だから、オレ、もうお前と会いたくない」
膝に顔をうずめたまま。
「会って、わかった。やっぱりオレ、お前のこと引きずってる。あのときのお前がオレの支えになり続けてる。好きだなあって、今でも思う。気負う必要ないって言ったの、嘘だ。これするたびに、お前のこと思い出してた。このオレを見てお前が、どう思うか、考えるのが怖かった。オレ、お前に、気負ってほしくないんだ。だって無理だろ。オレとお前じゃ、どうしようもないじゃん。それだって、告白したときから、ずっとずっと、ちゃんと分かってた」
雅、と名前を呼ぶ。
「オレこんな辛い気持ち、したくないし、お前だって、変に気遣うの嫌だろ。気遣うの死ぬほど苦手だろ。ていうか出来ないだろう。そういうところも好きだなあって思っちゃうオレだから。だから、だからさ。もう」
みやび。
「なんだようるさいな」
やっと顔をあげた。ので、口に、口を、くっつけた。
雅が固まる。瞬きもせず俺を見ている。「できたな」と呟くと、再起動したように瞬きが始まる。
「なに、を、してんだお前」
「キスを」
絶句する顔を見るのは二度目だ。俺は深呼吸をする。吸って、吐いて、自分が緊張しているのを自覚する。
それでも。
「みやび」
このときを、ずっとずっと、考えてきたから。
だから、言わなきゃ。
「お前も知っての通り、俺は気遣いというものができない。自分の思っていることを隠す、誤魔化すということができない。親に何度も直せと言われた。先生にも叱られた。クラスメイトに責められることもあった。直そうとしてみたこともあった。だけどダメだった。言わないと、言葉にしないと、伝えないと、身体の中に何かが溜まって、詰まって、苦しくて息ができなくなる。吐きそうになる。だからしょうがないと思った。俺はこういう俺でしかいられないから、俺は、誰からも叱られながら生きていくしかないと」
雅の頬に触る。何度も考えて、練って、練習した言葉を全部思い出す。
「だけどお前は、そのままでいいと言った。こんな俺を好ましいと言ってくれた。初めてだった。初めて俺を認めてくれる人がいた。それが雅だ。
今まで苦しかった何もかもが抜けていった。あの日のお前の言葉があれば、お前が俺のそばにいてくれれば、今までもこれからも、俺はちゃんと生きていけると思った」
「……なに言ってんの」
「卒業式の日、お前は俺を好きだと言った。俺は分かってなかった。それがどんなに大切なことか、重要なことか。俺は俺が何を言おうと、雅が俺から離れることはないと過信していた。お前は俺のことを思いやってくれたのに、俺はお前のことを何も考えていなかった。
だから、考えたんだ。五年間ずっと」
「なあ、なに言ってんの」
「お前の言葉の意味も、今までのこともこれからものこと、俺がどうしたいか考えた。お前と一緒にいられるためにはどうすればいいのか考えた。このことだけは誰にも言わずに、どんなに苦しくても吐かないで、ずっとずっと考えた。何度も考えて、想像しようとした。何度も何度もそうした。そうしたら」
「なあってば」
「想像できたんだ」
雅が息を飲む。俺は雅と向かい続ける。
「お前が望むことを、想像できるようになった。お前と一緒にいるための方法を、できると思えるようになった。だから、お前に会いに行くと決めた。想像はできたから、次は実践だと思った。知り合いに聞き回って、お前の通ってる大学を見つけた。でも大学まで探しに行ってもお前を見つけられなかった。どうしたものかと悩んでいたら、妙な噂を聞いた。夜の街でお前に似た女の子を見たことがあると。手がかりはそれしかなかった。俺があんなことを言ったから、もしかしてという気持ちもあった。だから今度はそこを探した。どんな姿でも、一目見ればお前だって分かる自信があった。ずっとずっと探していた。それで、今日、やっと」
考えていたはずの言葉は既にめちゃくちゃで、それでも五年間考え続けたことを言いたくて、雅に伝えたくて。伝えなきゃいけなくて。
「やっとお前を見つけた」
「……おまえ、ほんとに」
「想像通り、キスもできた。だから、次は」
「自分がなに言ってるのか、分かってんのか」
ぼろんと雅から大きな雫がこぼれる。ぼろぼろと立て続けに落ちていく。
「つまりお前は、オレと一緒にいたいって言ってんだぞ」
「最初からそう言っているが」
「言ってねえよ!」
「一緒にいたい」
言ってないと言われたから、言う。
「俺は俺を認めてくれた雅と一緒にいたい。だから雅を好きになりたい。雅が苦しまないように、雅が望むことをしたい」
止まらないらしい涙を雅は自分の袖で拭った。化粧の所為なのか、目元が黒く滲みはじめている。「雅、目がパンダのように」「うるせえ知ってるそんなこと」頬に触れていた手を振り払われた。こんなに泣きじゃくる雅を初めて見る。雅の泣きそうな顔を見たのは、さっき雅が話したあの日と、卒業式のときだけだ。
「なんで」と、雅が目元を拭い続けながら言う。
「なんでお前そのこと決めるのに五年もかけてんだよ」
「想像できるのに五年かかった」
雅の鼻がずずっと鳴る。テッシュを取ろうとしたら、その手を掴まれる。
「なんなんだよお前」
ぐずぐすの声が、俺に向けられている。
「なんでそんなことに五年もかけちゃうんだよ」
雅の額が、俺の肩に押し付けられる。
「なんでオレは嬉しくなっちゃってるんだよお」
自分の心臓が、動くのが分かった。ぎゅうぎゅうに締め付けられるのが分かった。その感情の名前を知っていた。
雅の両肩に手を置き、少し離してから口付ける。抵抗されない。相変わらず止まらない涙とぐしゃぐしゃの顔が俺を見ている。
「雅」
「あんだよ」
「続きをするか」
「つづき?」
「セ―――」
言い終わる前にグーで小突かれた。雅がまた鼻水をすする。
「……できるのかよ」
「想像はできた」
「抜くのは?」
俺はいつまでも嘘をつけない。眉間の皺を見て、ぐしゃぐしゃの顔が笑う。「ほんとお前ってやつは」それから今度は雅から口唇を押し付けられる。雅の腕が俺の首に回る。額と額がくっつく。
「そういうお前だから、オレはずっとお前が好きなんだと思うよ」
どちらからでもなく、また口付けた。
□□□
目を覚ますと女子がいた。金色の髪。リボンのついたトップス。プリーツという名前らしいスカート。履き直されたタイツ。……どこかで聞いたことあるような。
女子は俺が起きたことに気づいて、いたずらっぽく笑う。
「おはようインポ野郎」
聞き慣れた男の声。聞き慣れない言葉。思わず眉間に皺を寄せると、面白そうに指で刺された。ぐりぐりされる。
「……すまん」
「謝んなっつの」
「なんでまだスカート履いてるんだ」
「後で見ろって言ったのに、そういえば見せるの忘れてたなと思って」
よく見ればウィッグを被っているし、ぐしゃぐしゃに黒くなっていた目元が綺麗に白く戻っていた。わざわざ朝から直したのかお前。
俺がベッドから上半身を起こすと、お披露目と言わんばかりに雅はくるりと回転する。スカートがふわふわと揺れる。腰に手をあて、もう片方の手で金髪をさらりと払う。
「どうよ」
「……似合う」
「つまり?」
「女子に見える」
「さらに言えば?」
「……足が細い?」
「言うなれば?」
「その辺の女子より女子らしい」
「まとめると?」
「かわいい」
「ふふん」
ふふんって声に出して言う奴はじめて見た。上機嫌なまま雅が俺の隣に座る。なにかの匂いがするけれど、俺にはそれが化粧品の何かの匂いとしか分からない。
「性質なんてそんな簡単に変わんねえよ」
諦めを含んだような声に、思わず俺は雅の腕を握る。でも、こういうときは手を取るべきだったのかもしれない。そう考えているのが顔に出ていたのだと思う。雅が小さく吹き出す。
「だから、ゆっくり頑張るよ」
「なにをだ」
ぐいと雅の顔が近くなる。匂いも、紅い口唇も近い、と、思った後には重なっている。
「お前がオレを好きになってくれるように」
その優しくてくすぐったそうな顔を、知っている。好ましく、ずっとずっと欲しかったもの。
「……あ」
「ん?」
「起った」
きょとん、という音がした。雅が自分の髪を触る。トップスを見る。スカートを見る。それから一気に顔が沸騰した。
いや多分おそらく、その要素もあるかもだが、そうじゃなくて。弁解する暇もなく、拳が振りかざされる。
「この―――」
でもきっと、俺は。
「デリなし野郎!!!!」
お前のそういう顔も好きなんだと、そう、思う。
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