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第4回 BL小説アワード「再会」

again

微エロ/幼馴染

「今だから言えるけど、俺の初恋は由鶴、お前なんだよ。知らなかっただろ?」

伊織 あすか
グッジョブ

「あぁっ…、ん、ぁあっ」
 人肌特有の湿った温もりを素肌に感じ、少年は熱い吐息と共に悦に濡れた声を上げた。
 シーツを握りしめた手は白く、だが組み敷かれた細身はうっすら汗が浮かぶほど真っ赤に火照っている。押し開かれた蕾はヒクヒクと震えながら、健気にも男の屹立を根元までしっかりと受け入れ、離すまいと媚肉を絡みつかせていた。
「んぁあ、…ぁあっ」
「由鶴、その声堪んない…っ」
「…あ、あぁ、あっ」
 勢いよく胎内を穿たれ、ギシギシと軋むベッドで少年の身体が上下に跳ねる。彼を組み敷く男が、端正な顔に艶冶な笑みを浮かべて少年の耳元に唇を寄せた。
「そろそろ限界…今日は中に出していい?」
 恥じらいながらも少年がコクリと頷き、潤んだ双眸を瞬かせて男の名を呼ぼうと口を開きかけた刹那ーーー

「ストーーーップ!!」

 雰囲気をぶち壊すのも構わず、東雲 由鶴は″高校生の自分″に跨って腰を振る男を全力で突き飛ばした。
 無事だった(?)己の姿に胸をなでおろし、あらん限りの憎悪を詰め込んだ目で男を睨みつけた。
「何が中に出していいだぁ?俺に触るんじゃねぇよっ!この節操なしがっ!!」
 若かりし頃の自分が先ほどまで縋り付いていた男の頬を思いっきり一発殴り、思いつく限りの罵詈雑言を吐き捨て、由鶴は目を覚ました。



「はぁ、…はぁ」
 悪夢から無事生還したのか半信半疑で、乱れた呼吸を懸命に整えながら由鶴は己の状況を確認した。
 由鶴の視線の先には木目の浮かぶ年季の入った見慣れた天井があり、ベッドには自分しか寝ていない。覆いかぶさっている奴も居なければ、裸なんて事もなくパジャマを着ている。
 汗ばんで肌に張り付く布の感触が気持ち悪いが、それ以外問題は見当たらない。
 だが、メンタルは酷い有様だ。
「あー、マジ最悪」
 何年も前の己の情事を見せつけられ、由鶴は寝起き早々ベッドでうんざりとため息をついた。
 大学を卒業して母校の私立黒山羊学園高等学校に就職して3年。教師と言う職業柄、学生時代に覚えた色事は控えて久しく、禁欲生活は継続している。
 元々淡白な方だと自負していたが、気がつかぬ間に溜まっていたのだろうか?
 淫夢など見た経験など無いに等しいのにと、由鶴は忌々しげに舌打ちした。
(しかも相手が″アイツ″って……)
 確実に人選ミスだった。
 テスト問題を作るために明け方近くまで酷使した身体がまだ眠たいと訴えているが、午前6時を示す目覚まし時計は後数分もすれば起床時間を知らせるためにけたたましく叫び出すだろう。
 疲れを癒すどころかいや増した由鶴は、疲労感を誤魔化すべく、ベッドサイドに置いていたタバコを手に取り紫煙を燻らせた。1日三本までと決めている貴重な一本が早くも消費されていく。
「つーか、色々リアルすぎんだろ……あぁ、ホント夢でよかった」
 あれは我が人生における唯一の黒歴史と言っても過言ではない。
 幼馴染との爛れた関係なんて、若気の至りと片付けるには重たすぎる過去だ。
 幼少の頃から心を惹かれた相手はことごとく男で、遅かれ早かれ後ろで得る快感を知ることになっただろうが、実際に容赦なくそれを教え込んだのはあの男だ。
 初めて男を知った時の感覚は鮮烈で、それ故に忘れようとしても時折思い出したように顔を覗かせるから、タチが悪いとしか言いようがない。
 今も夢の余韻から抜けられないのか、秘部が何かを食みたそうにひくんっと震えているが、これはきっと気のせいだ。
 ピーピー鳴り出した目覚まし時計を八つ当たりMAXで叩き、タバコを灰皿に押し付けて由鶴は洗面所に向かった。
 鏡に映った顔は疲れてますと言わんばかりに目の下に隈を拵え、いつもは二十歳そこそこにみえる容貌に影をさしていた。癖のない髪は櫛で梳かさなくても真っ直ぐなのに、魘されたせいか鳥の巣みたいになっている。
 由鶴はもう何度目か分からない深いため息をつき、シャワーを浴びて手早く身支度を整えた。
「ーーーん? 誰だ? こんな朝早くから」
 朝食を済ませて食器を片付け、持ち帰った教材を鞄に詰めていよいよ出かけるかという頃、玄関のチャイムが鳴った。
「すみませーん。白猫便です! 早朝便でご依頼を受けたお荷物をお届けに伺いましたぁ!」
 通販で商品を頼んだ覚えはないけどなと首を傾げつつ、由鶴は玄関へ向かった。
「はいはーい、今開けます」
 内鍵を外し、施錠を解除する。
 後から思い返せば、何故覗き穴から相手を確認しなかったのかと、この時ほど悔やむことはなかった。していたら絶対に死んでもドアを開けたりしない。
 狼だとわかっていたら七匹の子ヤギだって絶対に開けなかったはずだ。
「ご苦労様ですーーぅうっ?!」
 その時の衝撃たるや筆舌に尽し難く、ドアノブを握ったまま由鶴は硬直した。
「会いたかったよ、由鶴。7年ぶりだな」
「?!!!」
 配達に来たお兄さん…ではなく、勝手に人の夢にズカズカと踏み込んで腰を振っていた色情魔がーーそこにいた。
 嘘だ間違いだと目を擦るが、悲しいかな。視力2、0の眼鏡いらずの両目はしっかりと男を捉え、無情にもこれは現実だと由鶴に突き付けていた。
 見た目は文句の付けようがない正統派イケメンで、海外進出もしている大手家電メーカーの跡取り息子。そして由鶴の元カレにして幼馴染ーーー水瀬 壱弥がボロアパートに降臨した。



 数学教師なのに、由鶴の頭の中ではベートーベンの交響曲第五番『運命』が鳴り響いていた。
 だが、ジャッジャッジャッジャーン!!なんて優雅にピアノを弾く技術もなければ、呑気に旋律に乗せて運命を嘆いている余裕なんかない。
 耳に残りやすいそのリズムは運命がドアを叩く音を表現しているらしいが、ドアはすでに開かれている。
 諸悪の根元は久々の再会でテンションが変なふうに上がっているらしく、由鶴を認めるなり飛びついてきた。
「ぐぇっ!」
「あー、この感触懐かしい。由鶴、シャンプー変えてないんだな」
 180センチを超える長身に見合う長い腕に、由鶴より厚い胸板。すっぽりと壱弥の腕の中に収まってしまう体格差がただただ憎い。
 だが、それより何より夢の中で感じた温もりが現実のものとなったことが、由鶴の思考を麻痺させた。
(やばい、キャパオーバーで頭痛がして来た…)
 取り敢えず冷静になれと自己暗示をかけ、由鶴は落ち着く為の深呼吸を1つした。
 壱弥の胸に両腕を突っ張り、無理矢理引き剥がす。次いで、なにしに来たんデスかと、冷静に問いかけるべく由鶴は顔を上げたが一歩遅かった。
 壱弥はスーツケースをガラガラ引き摺りながら、由鶴の横をすり抜けていく。
「立ち話もなんだし、上がらせてもらうよ」
「お、おい?!ちょっ、ちょっと待てっ!」
 きちんと靴を揃えて「お邪魔します」と挨拶した所は褒めてやってもいいが、問題はそこじゃない。
「へぇ、こんなとこに住んでるんだね。ちょっと意外かも」
「いや、だから何勝手に上がってんだよ、出てけよ!つーか、何しに来たんだよ。いつ帰国した?!お前、家業手伝うからって、イギリスに留学して経営学学んだ後、そのまま経験積むとかであっちで就職したんじゃねぇのかよ!」
 由鶴が鼻息荒く一気にまくし立てたのは、友人から伝え聞いた情報だが嘘ではないはずだ。それは正しかったらしく、否定はされない。
 だが、代わりに憎らしいほどの美声で壱弥は問題発言をかましてくれた。
「一時帰国したんだよ、姉さんが結婚するからそれに出席するためにね。そういうわけだからさ、今夜泊めて?」
「は?どこが、『そういうわけ』になるんだよ。それなら実家に帰れよ。なんでわざわざウチに来てんの?意味わかんないんだけど。ってか、どうやって俺の住所調べたんだよ、教えてねぇよな?!」
「藤森に聞いたら普通に教えてくれたけど?」
「……っ?!」
(アイツかぁぁあ!)
 共通の友人にあっさり個人情報をバラされた由鶴は怒りのボルテージが上がるのを自覚した。
「っていうか狭いね?ボロいし、築何年?俺の家のクローゼットくらいの広さしか無いんじゃないかな…。由鶴、こんなんでよく生活できるな」
「うるせぇよ、このボンボンが。俺の城にケチつけんな!六畳二間だってなぁ、一人暮らしにしちゃあ十分な広さなんだよ」
「ベッドも小さい。あれ、シングルだよね?」
 居間と続き間になっている寝室をみて壱弥が指差す。
「狭くない?」
「狭くねぇよ、俺ひとりならな!」
 だからお前なんかが居座るスペースはすこっっしもねぇんだよーーと、座布団にちゃっかり座り寛ぎ体制に入った壱弥に、由鶴は腕を組んで見下ろし嫌味を込めて吐き捨てる。
 だがそれは完全に失言だった。
「へぇ。ひとりで寝てるんだ? 中学生になってもぬいぐるみがないと眠れなくて、修学旅行の時は俺に抱きついて寝てた寂しがりやの由鶴が…ねぇ?」
 卓袱台に頬杖をつき、何もかも見透かしたような壱弥の微笑に由鶴はたじろいだ。
(思い出せ、こいつのペースに乗せられていい事なんかあったか? 答えはNOだ!)
 どうすればいいかなんて簡単だ、追い出せばいい。平穏を守るにはそれしかない。
「とにかくだな、俺はお前を泊まらせる気なんてこれっぽっちもーー」
「ってか、遅刻するんじゃない?仕事大丈夫?」
 由鶴の言葉を遮った壱弥が優雅に指をさす。その指先に思わず視線をやり、由鶴は絶句した。
 時刻はもう8時5分前を示していた。
 就業時間は8時。
 此処から職場までは走っても10分はかかる。完全にアウトだ。
 蒼白になった由鶴を一瞥し、壱弥がふっと鼻で笑う。
「教師が遅刻しちゃあ生徒に示しつかないんじゃない?俺のことは気にせず行っておいでよ。俺は由鶴が帰るまでここで留守番してるしさ」
 さも当然のように居座る宣言した壱弥に、由鶴の怒りは沸点に達した。
「呑気に言ってんな!お前のせいだろっ。いいか、帰ってくるまでにでてけよ?!絶対に泊めてやんないからな!」
 ビシッと指を壱弥に突きつけ、由鶴は慌てて鞄を引っ掴む。
 ドアを閉める際、玄関の鍵が一本しか無い事に遅ればせながら気がついた。
 特に盗まれるようなものはないが戸締りはしておくに越したことはない。だがスペアキーなど持ってはいない。
 しばし悩んだが、これ以上無駄な時間を浪費するわけにもいかず、苦肉の策で「鍵閉めて出てけよな。んで、ポストに入れとけ!」といい置き、由鶴は鍵を壱弥に投げつけて慌ただしく職場に向かった。
「いってらっしゃい」と背中にかけられた呑気な声は完全に無視した。



「あー、今週もようやく終わった」
 遅刻をしたせいで学年主任にこっ酷くお説教を食らうも、本日の業務を何とか無事に終わらせた由鶴は校門に向かっていた。
 カラスが鳴いたら帰りましょな夕刻ではあるが、まだ校庭には部活動に励む生徒の姿が見受けられる。顧問を受け持っていない由鶴は、今日も今日とて同僚の姿を尻目に一足先に帰宅する。
 今日は金曜、明日は休み。故にいつもより足取りが軽やかだ。
 だが、門をくぐる直前。白いレクサスにもたれ掛かるやけにスタイルのいいスーツ姿の男が視界に入り、由鶴はうんざりと肩を落とした。
「何でいるんだよ、お前」
「由鶴、コート忘れて行ったから届けに。あの後すぐ追いかけたんだけど、間に合わなかったからさ。それと鍵、ポストじゃ幾ら何でも不用心だから持ってきたんだよ」
 随分と見覚えのあるコートを持ってるなと思ったが、それは自分のものだったらしい。
「着て?風邪ひくよ」
 壱弥が肩にかけてくれたコートに、由鶴は無言で袖を通した。壱弥の体温が移ったのか、ほんのりあったかい。
「その車どうしたんだ?うちに来た時は、車じゃなかったよな?」
「レンタカー借りたんだ。乗って?」
「乗ってってなぁ…」
 壱弥に甘く微笑まれ助手席のドアを開けられたら、大抵はふらふらと乗るのだろうが由鶴は違う。
 寧ろこの男とこれ以上関わりたくなくて、由鶴は嫌そうに顔を顰める。
 どこに連れて行く気か知らないが、乗るつもりはない。
「悪いけど俺は帰る。腹減ったしビールが飲みたい」
 それじゃあもう用はないよなと通り過ぎようとしたが、一歩も進まぬうちに壱弥に腕を掴んで引き止められた。
「なんだよ?まだなんかあんの?俺はお前にこれっぽっちも用事なんかないんだけど?」
 7年ぶりだろうと関係ない。突き放すように冷たく言い放つと壱弥が苦笑する。その顔が少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか?
「久々に会ったんだから、少しくらい構ってよ。たまにはいいだろ、昔話に花を咲かせるのも。飯奢るからさ。店、予約したんだ。時間無いから早く乗って?」
 言うこと聞くまで離さないとばかりに掴んだ指に力を込められ、由鶴は嘆息した。
「お前の強引なトコ、相変わらずだな」
「由鶴の素直じゃないところもね。さぁどうぞ、お姫様」
 女扱いするなと怒鳴ってやろうかとも思ったが押し問答するのも馬鹿らしくて、由鶴は助手席に座って踏ん反り返った。
「不味いもん食わせたら承知しねぇからな」


 
「由鶴、由鶴…そろそろ起きて?」
 肩を揺さぶられ、まだ眠たいなと思いつつ由鶴は渋々その声に従った。
「んんぅ…?」
「あ、やっと起きた。 おはよう由鶴」
 耳元で聞こえた壱弥の声に、まだ夢と現を彷徨っていた由鶴は思いっきり目を見開いた。
 一気に覚醒した頭に突如警報が響き渡り、由鶴は即座に飛び起きる。
 見覚えのないベッドに清潔感溢れる室内。生活感がまるでないここは、おそらくどこかのホテルだろう。
 久々に飲んだワインの味が美味くて、調子に乗って飲みすぎたらしく、昨夜の記憶が曖昧だ。
 たらふく飲んで食ってそれからどうなったのか考えたが一向に思い出せない。
 いつから起きていたのか知らないが、自分を上機嫌で見つめる男を由鶴は鋭く一瞥した。
「お前がなんで俺の隣で寝てんの?もしかして、俺になんかしたんじゃねぇだろうな?」
「してないよ。わざわざ聞かなくても、それくらい分かるだろ?」
 くすくすと楽しそうに笑って揶揄ってくる壱弥に顰め面を返し、由鶴はふんっとそっぽを向いた。
 上着とネクタイ、そしてベルトを外されているもののちゃんと服を着ている。体のどこにも違和感を感じない。つまりは、良心的に介抱してくれたと言うことになる。
「俺、昨日酔い潰れた…んだよな?悪かったな、迷惑かけて」
 素直に謝ると思っていなかったのだろう。壱弥が一瞬驚いたように眉を上げ、そして破顔した。
「別にいいよ、気にしないで。誘ったのは俺だし。由鶴と飲めて嬉しかった。それに由鶴の寝顔まで見れたからチャラにしてあげるよ」
 よいしょと寝転んでいた壱弥が起き上がる。
「お互い年をとったはずなのに、由鶴は相変わらず可愛くて綺麗で驚いたよ」
 由鶴の頬を撫でながら愛おしげに微笑む壱弥の甘やかな囁き。昔と変わらぬ眼差しに見つめられ、懐かしさを感じるとともに由鶴は目眩を覚えた。
『由鶴…、俺の由鶴』
 昔、こんな風に頬を撫でられ、額にキスをしてくれた時の光景が脳裏を過る。
『愛してる由鶴』
 壱弥の言葉に純粋に嬉しさを噛み締めた16歳の頃。壱弥とこの先もずっと一緒にいるんだろうなと漠然と思っていた。
 だが、この男は愛を囁いたのと同じ口で、ある日突然、終わりを告げたのだ。
『俺たち別れよう。それが俺たちにとって一番いい選択だと思う』
 どんな時も手の届く場所にいた壱弥がそう言いながら由鶴から離れていった7年前の出来事は今でも鮮明に思い出せる。
 あれは高校卒業間近の冬の事。
 冬になると、なんで俺達は別れたのかと時折考えることもあったが、最近はそれすら面倒になった。
 もう終わった関係に意味などない。勝手に始めて、勝手に終わらせたのは壱弥だ。そんな男に女々しく未練なんて持ちたくない。
 由鶴は小さく自嘲し、過去を振り払うように頬を撫でる壱弥の手を払い除けた。
「由鶴?どうかした?」
 訝しげな壱弥に、由鶴は小さく首を振った。
「どうもしない。取り敢えずありがとう。俺、帰るわ。ホテル代は払っとく」
 給料前だし支払いはカードにするかと考えつつ由鶴は腰を上げた。
 だが、由鶴は一歩踏み出す前に腕を掴まれベッドに沈んだ。再び対面した天井に何事かと思う暇もなく、壱弥が腹に跨ってきて由鶴はギョッと目を剥く。
「お前っ、なにすんだよ」
「まだ帰さないよ。と言うより、帰れないだろ?」
 ニヤリと嗤い、由鶴の鼻先に突きつけられたのは壱弥に預けておいた由鶴の家の鍵。
 だが、重要なのはそれじゃない。チリンとこの場にそぐわない可愛らしい音が壱弥の手の中で鳴った。
「これ、お婆ちゃんから貰った大切な鈴だろ?昔から肌身離さず持ってたもんな」
「…だからどうした?」
「帰るって言うんなら止めないけど、これは返さないよってこと。それでもいい?」
「…っ!」
 キッと目を吊り上げ壱弥を睨みつけるが、壱弥はそれを涼しい顔で受け流す。
 由鶴は両親が共働きで、半分祖母に育てられたようなものだ。壱弥も由鶴がお婆ちゃんっ子と知っている。祖母の形見である鈴を由鶴が大切にしている物と分かった上で駆け引きの材料に選んだのだ。
 普通に誘っても由鶴が素直に従わないと計算した上での暴挙だ。
 人望厚く、誰にでも好かれていた人間と同一人物かと疑いたくなる所業だが、壱弥の切れ長の目が本気だと告げていた。
 鍵を預けたのは迂闊だったと嘆いたところで後の祭りだ。
「どうしたら返してくれんの?」
「今日一日、俺に付き合って。そしたら返すし、もう家に泊めてくれなんて言わない。由鶴を困らせるようなことも言わないし、しないって約束する。だから、ね?1日だけ幼馴染に戻ろうよ、由鶴」
 卑怯な手を使うくせにどこか切なげで、必死に訴えるように壱弥が見つめてくる。言葉よりも雄弁に語る目を直視できず、由鶴は顔を背けた。
 恋人ではなく幼馴染に戻ろうと言った壱弥の言葉に少しばかりの寂しさを感じながらも、そんな事はおくびにも出さず、由鶴は「分かった」と短く答えた。



 2人で朝食を済ませた後、休日の街にスーツは不似合いだと、壱弥はショッピングモールへ由鶴を連れていった。
 ホテルからさほど遠くないそこは、学校帰りに壱弥とよく訪れた場所だったが、由鶴も来るのは随分と久々だった。
 店舗も入れ替わりが激しいのか、見知っている店舗もあればそうでない店舗もあり、否応なく時間の経過を痛感させられる。
「由鶴はコレなんかが似合うと思う。サイズとか大丈夫なはずだけど、一応試着してみて」
 店内を見渡していた由鶴に、真剣に商品を物色していた壱弥が洋服一式を差し出だしてくる。今居るのは、シンプルながらに洗練された洋服を多く取り扱うセレクトショップだった。
「試着室、あっちにあるから」
 承諾したとはいえ壱弥の言いなりになるのが許せず、不貞腐れた顔で由鶴は壱弥を睨む。大人げないと分かっていても意地っ張りな性分はすぐには直しようがない。
 壱弥は苦笑しつつ、由鶴を更衣室へと押しやった。
「無理矢理付き合わせてるって分かってるから笑ってまでとは言わないけど、膨れっ面は直して欲しいな。外で待ってるから、着たら見せて」
 服と一緒に試着室に押し込まれ、カーテンが閉められる。一方的で強引なエスコートに文句を言うのも面倒で、由鶴は渋々ながら試着し、鏡で己の姿を確認した。
(…何かムカつく)
 壱弥が選んだ服は、嫌味なほどに由鶴にしっくりと合っていた。
 裏起毛のブルーを基調とした保温性に優れたパーカーと、ベージュのパンツ。細身のそれは細い足腰を際立たせ、壱弥の若々しさを引き立てていた。
 童顔と自覚があるだけに、普段はできるだけ大人っぽく見えるような服を選んでいたが、壱弥には今の服の方がよく似合う。
 着替えを終え、勿体ぶっても仕方ないので由鶴はさっさとカーテンを開けた。
「着たぞ」
「うん、よく似合ってるよ由鶴。サイズも問題なさそうだね。由鶴が嫌じゃないなら、それにしたら?」
「そういうお前は決まったのか?」
「もちろん」
 見やれば確かに、壱弥の腕にはジーパンと深緑色の編み込みが美しい模様を描くタートルネックのセーターが引っ掛けられていた。
 一見地味にも見えるが、華のある壱弥ならば難なく着こなせるだろう。端正な顔立ちと長身も手伝ってモデルさながらに見えること間違いなしだった。
 だが、素直に認めるのも癪で、由鶴は斜に構え、壱弥の選んだ洋服を睥睨して小馬鹿にしたように難癖をつけた。
「じじ臭っ。元々老け顔なのにさらに老けて見えるぞ、それ。もっと赤とかピンクとか明るい色にすれば?」
 壱弥が絶対に選ばない色を由鶴は敢えて例えにあげてみる…が、相手のが一枚上手だった。
「そうだなぁ。由鶴がワンピース着てくれるって言うなら、俺も考えてもいいよ?実はあっちに由鶴に似合いそうなフリルのついたのがあったんだよなぁ」
 ニヤリと笑いながら「持って来ようか?」と壱弥が面白そうに聞いてくる。本気とも冗談とも取れる壱弥の声音に、由鶴はすかさず言い返した。
「誰が着るかそんなもの!似合うわけねぇだろ」
「大丈夫。学祭の時のジュリエットの衣装、めちゃくちゃ似合ってたし。あの頃から全然体型も顔立ちも変わってないから、余裕でいけるだろ」
「似合ってなかったし!お前のロミオは似合いすぎて逆に薄ら寒かったけどな!だいたいお前が俺をジュリエットなんかに推薦するからあんな悲劇を生んだんだっ!」
 男子校のくせに文化祭で『ロミオとジュリエット』を演目に選んだ時点で教師陣のセンスの無さを感じたが、それより何よりジュリエットを演じる羽目になった事は今でも許しがたい。配役決めをくじ引きにしてくれていたなら良かったものを、推薦なんて理不尽極まりない選出方法にした結果、由鶴は壱弥のせいでジュリエットに選ばれたのだ。
 ロミオに選ばれた壱弥が腹いせに由鶴をジュリエットに推薦したせいで、悪ふざけに乗っかったクラスメイトの半数以上が由鶴に投票した。
 こうなったら完璧に演じてやるという由鶴の反骨精神が災いし、あまりに上手く演じすぎたせいで暫くの間、同級生や知らない下級生にまで告られて、休み時間の度に必死に逃げ回ったという後日談までついている。
「あの時は最悪だった。学校に行くのがどれほど苦痛だったか…。まぁ、1ヶ月くらいでパタリと止んだから良かったけどな」
「そういえばあの時、由鶴に集るハエども追い払うのに苦労しなぁ。まぁ俺の場合自業自得だけど」
 しみじみ語る壱弥に由鶴は目を丸くした。
「……は?お前、追い払ってたの?」
 当時のこいつは由鶴が男に追いかけ回されて辟易しているのを見て、「恋人がモテるってちょっと自慢だよね」なんていいながら高みの見物を決め込んでいたのに?
 初耳なんだけどと由鶴が睨みつけると、しまったと壱弥が口を手で覆うが、時すでに遅し。「あ〜今のは忘れて」と顔を真っ赤にする壱弥に、由鶴は追及の手を緩めてなるものかと、にじり寄って追い討ちをかけた。
「お前、あの状況楽しんでたんじゃないのか?何で追い払うんだ?あわよくば俺が他の男とデキればいいと思ってたんじゃねぇの?丁度その頃、お前も他校の女子といい感じになってるって噂で聞いたし。俺に熱心に言い寄ってきたしつこい男の話しした時だって、興味なさそうに聞き流してたよな。お前、俺に飽きてたんじゃねぇの?」
 文化祭で知り合った他校の女子に、壱弥が熱心に会いに行っているという噂がまことしやかな囁かれていた。
 本人に確認はしなかったが、あれは事実ではなかったのか?
 訝しさを隠しもせず由鶴が問えば、壱弥は寝耳に水とばかりに口を開けていた。
「は?他校の女子ってなにそれ?由鶴がいるのに、わざわざよそ見するわけないだろ。由鶴は知らないだろうけど、俺はこう見えて嫉妬深いの。由鶴が恋人になってくれてからはお前が他の友達と喋るだけでイライラしてたよ。由鶴に嫌われたくなくてやせ我慢してたけどな。それに由鶴の話を聞き流した覚えはないよ。受験勉強で寝不足が続いてて、うっかり聞き流したのかも知れないけど」
 聞き捨てならない台詞に、今度は由鶴が耳を疑った。
「ちょっと待て。は?どう言うことだ。要らないって俺を捨てたのはお前の方だよな。女が良かったんじゃねぇの…?」
 何故か記憶と噛み合ってない気がする。由鶴は少しだけ上にある壱弥を見上げ、眉を寄せる。壱弥も腑に落ち無いのか、訝しげに眉を寄せていた。
「捨ててないよ。終わらせたのは俺だけど、俺が由鶴を捨てるわけない。寧ろ俺を捨てたのは由鶴の方だろ」
 納得できないまま、由鶴は衝撃に耐えかねてズルズルとその場にしゃがみこんだ。
 どうにも話が噛み合わない。壱弥は由鶴が不要になったから別れたと思っていたのに違うのだろうか。
「訳わかんねぇ。…取り敢えず帰るぞ」
「は?今日は一日中付き合ってくれるって約束だよね?!」
「それは後日果たす。だから今は帰る。話したいことがある」
 由鶴はさっさと試着を中断した。帰らないと喚く壱弥の手を引っ張り、一目散にレンタカーを止めた駐車場めがけて走り出した。



 壱弥に自分の家に行くように指示を出し、走り出した車の中で由鶴はずっと無言を貫き通した。
 頭の中が混乱し変な動悸すらしていたが、沈める方法が思いつかない。
 家に着くなり壱弥から鍵を奪い返し、居間で一服して紫煙で肺を満たして少しだけ人心地がつけたが、肝心な部分は何ひとつスッキリしていない。
 卓袱台を挟んで向かいに座る壱弥を一瞥し、灰皿で限界まで吸ったタバコを押し付けて火を消す。
「聞きたい事があるんだけどいいか?」
「なに?」
 聞くのは怖いが、今を逃せば一生聞けない気がして、由鶴は内心躊躇いながらも拳を握りしめた。
「お前、俺のこと要らなくなったから捨てたんじゃないの?」
「由鶴さっきも聞いたよね、その質問。何度だって言うけど俺がそんなことするわけないだろっ!」
 怒りも露わに怒鳴られ、由鶴は怯えてビクッと肩を揺らした。一度だって自分に対して向けられたことのない絶対零度の眼差しと自嘲気味に歪む口元は、普段の壱弥からは想像もつかないほどの激昂と哀愁を孕んでいた。
「なんで怒るんだよ…。実際に別れてくれって言ったのはお前だろ?」
「由鶴には俺が邪魔だと思ったから。だから俺がいない方が幸せになれると思ったから身を引いた。けど捨てたつもりはない」
「意味がわかんないんだけど。お前がいない方が俺が幸せになれる?なんだよそれ」
 由鶴の視線の先でしばし沈黙を守ってい壱弥が戸惑いながらも、意を決したように口を開いた。
「由鶴はさ、俺が本気になればなるほど怯えてただろ?近づけば近づくほど距離を取ろうとしたし、体を重ねても心の一番深いところには絶対触れさせてくれなかった。それが俺には辛かったんだ。それが別れた理由の1つ。それともう1つ。由鶴、他の男と寝たよね?」
「?!」
「あれが決定打になった」
 壱弥と他校の女子との関係が囁かれ始めた頃、真偽の程を確かめる事もせず、自分というものがありながらと由鶴は怒り任せ、その場の勢いで関係を持った同級生が一人いた。
 自分の演じたジュリエットに一目惚れしたとかで、抱かせてくれとせがむ男に一度だけだが体を許したことがある。
 全ては由鶴を放ったらかしにした壱弥への当て付けと、もしかしたら壱弥以外を好きになれるのではないかという現実逃避にも似た浅はかな気の迷い。結果として壱弥じゃないと駄目だと分かり無意味に終わったが、まさか気づかれていたとは思わず由鶴は絶句した。
「物心ついた頃からずっとそばにいるからさ、些細な変化でさえ気づいちゃうんだよね。俺は由鶴に知られないように必死に隠してたけどね」
「何を隠してたんだよ」と、由鶴は視線で問いつめる。壱弥はもう隠す必要性を感じなかったのか、すぐに教えてくれた。
「絶対知られたくなかった秘密。今だから言えるけど、俺の初恋は由鶴、お前なんだよ。知らなかっただろ?」
「俺がお前の、初恋?」
「そう。ついでだから白状するけど、由鶴と付き合うまで何人もの女性と関係を持ってきた。自慢じゃないけどモテたからね。由鶴と別れてからも憂さ晴らしに何人か付き合ってみたけど、俺が彼女たちに求めていたのは愛情じゃない。由鶴の身代わりを求めてた」
 驚愕の事実に由鶴は一度ゆっくりと瞬きをし、早鐘を打つ胸元を握りしめた。
「俺がいつも目で追ってたのは由鶴で、そばにいてほしいと願ったのは由鶴だけ。だから、由鶴が男に興味があると分かった時は、自分にも可能性がある事を喜んだし、誰にも渡したくないって思った」
「お前はいつから俺のこと好きだったんだよ」
 壱弥が告白してきたのは高校生になったばかりの頃。だが、いつから好きだったのかと改めて聞いた事はない。
「それ聞く?多分引くよ?」
「言えよ、いつからだよ」
「泣いて縋ってくる由鶴を見た時。幼稚園で同じクラスになって、よく一緒に遊んでたじゃん?その時にね、由鶴、友達と喧嘩して泣かされた時に真っ先に俺に抱きついてきたんだ。先生でも迎えにきていた大好きなお婆ちゃんでもなく俺にね。俺の名前呼んでしがみついてさ。その時の由鶴の泣き顔がすごく綺麗で、由鶴を泣かしていいのは自分だけ、守るのも自分だけだって誓ったんだよ。由鶴に対する独占欲。幼稚園児が抱く感情にしては少し歪んでるだろ?」
 その時の感情を表すように暗く深く、歪んだ笑顔で壱弥は続けた。
「俺の周りにはいつも嘘の笑顔と優しさで溢れてて、俺はそんな歪な世界で生きてきた。水瀬家の息子は俺だけで、将来家業を継ぐ事は生まれる前から決められていて、周囲から寄せられる期待も大きくて。それに応えられる能力があっただけに、俺はその重圧に息苦しさを感じながらも努力したんだ」
 初めて聞く壱弥の苦悩に、由鶴は黙って耳を傾けた。一般庶民の由鶴と従業員を数多抱える会社の跡取り息子の壱弥の抱えている問題は、多分由鶴には想像すらできない。
「両親でさえ息子である前に後継者として見てた俺を、一人の人間として純粋に求めてくれた最初の相手が由鶴だった。単純に聞こえるかもしれないけど、俺にとっては重要な事だったんだ」
 壱弥は一度言葉を切り、苦しげに眉根を寄せながら話を続けた。
「でも、由鶴が他の男と寝たのを知って、由鶴は俺以外の誰かを愛せると分かって。俺みたいなしがらみの多いめんどくさい奴より、他の男を好きになった方が由鶴は幸せだろうな、解放しなきゃなって思ったから別れを切り出したんだよ。身を切る思いっていうの?初めて体験したけど、二度はごめんだと思った」
 それが事実だと全てを話し合えた壱弥は寂しそうに微笑んでいた。
 そんな表情をさせているのが自分かと思えば、ひどく嫌になる。だが、今は自己嫌悪に浸っている場合ではないと、由鶴は己を叱咤した。
 ここまで相手に言わせておいて自分は本心を隠したままなんて卑怯だ。
「俺も今だから言えるけど、お前の言う通り俺は怯えてたよ。お前を誰かに取られやしないかって、お前と付き合うようになってから毎日不安だった。俺の全部明け渡したら、次の瞬間には飽きて捨てられるんじゃないかっていつも気が気じゃなかった。だから必要以上に近づけさせないよう細心の注意を払って距離を保ってた。いつでも堂々としてたお前とは違って、あの時の俺は自信もなければ他人に誇れる物なんて何1つ持ってない無力なガキだったからな」
 壱弥との関係が幼馴染から恋人になって、最初は戸惑いもあったけれど両想いと知れて嬉しくて堪らなかった。
 だけど、自分に惜しみなく愛を囁く壱弥の想いに幸せを感じる一方で、誰からも慕われモテる壱弥を盗られやしないかと由鶴は日々不安にかられていた。
 でも、今ならわかる。
 教師になって分かった。
 悩みながら必死に、手探りでも前に進もうとしていく生徒達。それぞれのスピードで、迷いながらも答えを導き出そうと葛藤していく不器用な彼らの姿は、かつての自分の姿に重なった。
 あぁ、みんな不安なんだ。
 どんなに大人びていても所詮は子供。
 壱弥だって不安だったんだろうと今ならわかる。同じように悩み、苦しみながらも、由鶴といることを望んでくれたその意味。
「俺の態度がお前を不安にさせて、俺の怯えががお前を傷つけた。お前の優しさに俺は甘えてただけで、ちゃんと見てなかったのかも知れない。お前も苦しんでたのに、何も気づいてやれなくてホントにごめん」
 由鶴の言葉を静かに、ただ黙って耳を傾けてくれる壱弥に、由鶴は言わなければならない想いがある。
 壱弥が腰を上げ、俯く由鶴に寄り添うようにして肩を抱いてくれたけど、由鶴は頬を伝う涙を拭う時間さえ惜しかった。
「沢山間違ったし、もう遅いかもしれない。今更かもしれないけど。言わせてくれ」
 由鶴は顔を上げ、すぐ近くにある壱弥を見つめた。
 最初は壱弥が言ってくれた言葉を、今度は由鶴が言う番だ。
「7年間、忘れようとしたけど無理だった。俺はお前しか愛せない」
 壱弥と決別してから、誰に抱かれても心も体も満たされなかった。寂しさを紛らわすように他の男と何度も体を重ねたけれど、傷が深まるばかりだった。
 会いたい。
 壱弥に会いたい。
 会いたい。
 そればかりが募っていく一方で、でも会いにいく勇気もなくて。なのにどんな理由であれ、そんなずるく臆病な由鶴に会いたいと壱弥は来てくれた。
 だから、言わなければいけない。
「ずっと会いたかった。叶うなら、まだ遅くないならもう一度、俺を好きになって欲しい」
 由鶴の頬を伝う涙をぬぐいながら、壱弥が首を傾げる。
「俺でいいの?今、俺に決めたら一生由鶴を手離さないけど」
「お前聞いてなかったの?俺の告白…」
 まだ俺の本音を疑うのかと由鶴が涙目で睨めば、壱弥の苦笑が返ってきた。
「聞いてたけど、勘違いかも知れないからもう一回言って?」
 もう一度と乞われ、あまりの恥ずかしさに体温が一気に上昇したのを感じたが、由鶴は俯きそうになる顔をしっかりと上げた。
 思いの丈を込めて一つ一つ大切に想いを込めて言葉を紡ぐ。
「俺は壱弥を愛してる」
「ははっ…やっと聞けた…。ずっと由鶴の口から聞きたかった言葉を。それに名前も、やっと呼んでくれたな」
 くしゃりと顔を歪めた壱弥に腕で抱きしめられて、由鶴も壱弥を抱きしめた。
「愛してるよ由鶴。俺も由鶴しか愛せない」
 気持ちを確かめ合い、取り戻した幸せを噛み締めた瞬間、由鶴の瞳からまた涙が溢れた。
 壱弥の香りが鼻孔を擽り、壱弥の温もりが由鶴の心を安心させるように柔らかく包んでくれる。
 ああ幸せだな、ずっとこうしていたいと由鶴は願ったーーーがその幸せは長くは続かなかった。
 由鶴の感動の涙を一瞬にして凍りつかせるような爆弾発言を、壱弥がしれっとかましてくれたのだ。
「思い切って会いに来てよかったよ。実はさ、姉さんの結婚式で戻ってきたって言ったの嘘なんだ。俺、今度見合いする事になって、それで過去に踏ん切りをつけるために由鶴に会いにきたんだ」
 初恋を諦めずに済んでよかったと壱弥はご満悦だが、由鶴はそうはいかない。
「はぁあ?!聞いてねぇんだけど!!」
 幸福感が一瞬にして吹き飛び、一気に怒りが沸き起こる。壱弥の胸ぐらを掴んで凄むと、彼はヘラリと笑った。
「由鶴、なんか怒ってる?」
「当たり前だバカ!その見合い絶対断れよ?!」
「もちろん分かってるって。だから由鶴もよそ見しないで?」
 自信満々な壱弥の顔が眼前に迫り、由鶴はむくれながらも無言で目を閉じた。
 最初から情熱的に触れる唇に、歯列を割って入り込んでくる壱弥の舌に、泣きそうな程の懐かしさと愛おしさを感じながら由鶴も想いに応えた。
「…ん、…壱弥っ」
「…由鶴、…っ」
 心も体も溶けて無くなりそうな愛しい温もりに互いに酔いしれる。思う存分壱弥を堪能しながら、由鶴は取り戻したそれら全てを大切に抱きしめた。
 出会いと別れを繰り返し、再び始まった物語がどんな結末を迎えるか誰にもわからないけれど、まずは手始めにベッドを買い替えるかと、夢の中よりも逞しく成長した壱弥の背にしがみつきながら由鶴は思った。

伊織 あすか
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