展示室A/展示室B
生まれ変わって目がさめて、お前がいないと気づく、それからお前を探す長い旅。
「展示室Aと展示室B、壁一枚で隔てられてるんだ。二人は永遠に会えない」
寒々とした小雨降る昼下がり、私の隣で彼は言った。
象舎内のベンチでぴったりと寄り添う我々は、いたはずの象の空白を眺めていた。
この場所の女主人だったレディ・ヴァージニアは昨年の夏、老衰で天国に召され、以来象舎は空っぽだ。いなくなって一年以上たち清掃もされているというのに、干し草と飼料と排泄物と巨大な生き物が発する気配がまだ残っている。
気の滅入るようなこんな日に、何もない象舎を訪れる者はいない。それは人目を忍ぶ我々にとって好都合だった。
私は誰が見てもさえない中年男で、家のローンの支払いにあくせくしている毎日だ。妻や子どもの顔色をうかがい、やぼったく、生徒たちのみならず同僚からも小ばかにされる存在だ。それでも今日はせめて少しでも彼によく見られたいと、シャツを買った。量販店の安物だが、新しいものは私の気持ちを奮い立たせ、彼をデートに誘うことができた。
彼も私同様、あかぬけたところのない若者だった。洒落た格好をするなど、生活の中、どこを切っても存在しない。せいぜい清潔を心掛けるくらいしか手立てはない。
しかし今日着ているこざっぱりとした紺のセーターは、彼にとても似合っていた。着古したものだろうと関係ない。私はそんなもので心が躍る。彼もきっとそうだ。
どこからみてもさえない公立高の教師と、生活におしつぶされそうな青年。それでも二人、象舎の前で現実を忘れることができた。
彼は厳かに続ける。
「その前に話さないといけないね。第一王子と第二王子は愛し合っていたんだ。もちろん許されない秘密の恋だ」
熱帯の資源豊かな国の、閉ざされた王宮。褐色の肌の精悍な若者と、勝気な性格の見目麗しい少年。兄は父王の若き日のおとしだねで、王位継承権はなく、弟は今は亡き先代の王妃の面影も濃い、王国の正統な後継者だ。
初めて出会ったのは、回廊に囲まれた中庭だった。
少年はおつきのものから逃げだし、水盤の陰に隠れ一人泣いていた。癇癪もちの王子は、その日些細な事で腹をたて、それをきっかけに、亡き母への恋しさが募り、涙をとめられずにいた。
寝着のまま、裸足で泣いている王子に、偶然通りかかった兄は涙のわけを尋ねた。王子は兄と知らず、兄は王子と知らず、二人は一目で、恋に落ちた。
「目に浮かぶようだね」
私はしみじみと言った。彼の話をきくと、情景を細部まで思い描くことができた。
王子は涙にぬれた瞳で、驚いたように顔を上げ、兄を見たのだろう。その美しい面差しと、激しい気性に兄は心揺さぶられる。二人はこれまではっきりとお互いの姿を見ることはなかった。立場の違いから二人は遠ざけられ、広い王宮で無関係に生きてきた。
雨が天井をうつ音が優しいノイズとなって私と彼を包みこむ。私は心静かに彼の話の続きを待つ。
「第一王子と第二王子はじきにお互いが腹違いの兄弟だと知った。わかったところで、一度火がついた恋心を止められるわけはない。もちろん誰にも秘密だ。父王に隠れ、従者に口止めし、こっそりと会い続けた。
ところがある日、弟は病に倒れた。兄はもちろん弟に近づくことを禁じられた。何か伝染するたぐいの病気かもしれないからね。でも聞く耳を持たなかった兄は、何度も弟を見舞った。時には寝室に忍びこんで一晩中背中を撫でた。そんな看病の甲斐もなく弟王子はあっさりと死んでしまったんだ。兄は嘆き悲しみ、後を追うようにして亡くなった……」
きらびやかな王族の衣装と装身具でを飾りたてられた第二王子の遺体は、豪奢な棺に横たえられる。愛しい弟を失い、気がふれんばかりの上の王子。悲嘆にくれる王とお妃、泣き崩れる大勢の家臣たち。不幸は続く。兄王子までも身罷る。民は、国は、喪に服す。
二対の若く美しい瞳が何かを映すことはなく、その唇は何もささやかない。人々の流す涙も枯れはててしまった。
一人の少年を弔うための華々しい葬列を思いながら、私は彼の傷んだ指先を握りしめ、手の中で温めようと必死だった。先ほどからそうしているのに、芯から冷えきったままで、ちっとも温まる気配はない。なぜかと考えて、すぐに気づく。
私の指も彼と同じくらい冷えているのだ。
……これでは温めることができるわけがない。
「父王は二人の恋を知っていた。生きている時は、二人を、特に兄に厳しく接した。でも二人をたて続けに亡くして初めて、若くして死んだ子らを哀れに思った。兄の棺を弟の墓にいれてやったんだ」
「天国で結ばれるようにと?」
私が尋ねると彼は自信たっぷりにうなずく。
「そういう話って、誰かが必ず死ぬ。そう、誰かが死なないと、みんないろんなことがわからない」
彼の吐く息が白い。
「二人は死をもって安息を得たはずだったんだ」
ところが、永遠だと約束された死者の蜜月は1000年に満たなかった。予期せぬ形で終わりは訪れた。
戦争が起こり、国は滅びた。別の大陸からはるばるやってきた学者たちによって、二人の墓はあばかれた。根こそぎ略奪され、すべて自国に持ち去られた。二つの棺も海を渡った。
調査という名の屈辱を受けた後は、冷たい石の建物に展示された。
それが展示室AとB。すべてを見ようものなら、最低一週間はかかる巨大ミュージアムの片隅の部屋。
一枚の薄い壁を背中合わせにして隔てられたその場所に、それぞれの棺がガラスケースに入れられて設置された。
お互いの気配を感じながら、決して姿を見ることのできない絶望。二人、また離れ離れになってしまった。
そこまで言うと、彼は立ち上がって、傘をさした。私も自分の傘をさすとレディ・バージニアの幻影に別れを告げた。
爬虫類館はたくさんの種類のワニが水槽の中、平和に暮らしている。
「さっきの話、終わり?」
低くうなるモーターの音。外とは違ってむし暑い。とても太ったワニが一匹、目だけでこちらを見る。
「まだ続くよ」
「聞きたい」
彼の話によると、二人は自分たちの境遇をたいそう嘆き、強く願ったらしい。
どうか、次に生まれ変わるとしたら、動物に生まれますようにと。
ともかく人間に辟易していた。動物ならなんのしがらみもなくどこへでも行け、自由に愛し合えると信じた。博物館の神様は二人の思いを聞き入れた。
「博物館の神様?」
私が笑いながら聞き返すと、彼は得意げに言いきった。
「そう。博物館には神様がいるんだ。自分たちがしたことを少しは申し訳ないと思っていて、連れてこられたものたちの魂を救済する」
私は愉快な気持ちになった。
「で、何の動物になったの」
「二人は犬になった」
「犬」
私は想像をめぐらせる。
「散歩中に出会う。お互いに気づいて必死に吠えるけど、飼い主は知らん顔」
「それは……ひょっとしてリードでつながれてる?」
「その通り」
「ひどいじゃないか。自由を夢見たはずなのに」
「願いは具体的じゃないとだめなんだ。博物館の神様はそこまで完璧じゃないからね」
二匹の犬は一目でお互いに気づいた。しかしどうしようもなかった。運が良ければ散歩ですれ違うことができて、ふんふんとお互いの匂いを確認することができる。しかしそれ以上でも以下でもない。遠い昔からの運命の恋人同士だなんて、本人たち以外、いったいだれが気づくというのだろう。
「犬は……犬は失敗だったね」
「だから今度はやっぱり人間になりたいと願った。ただし、身分など関係のないとても自由な国、自由な時代に生まれたいと」
「今度は幸せになれる?」
私は心配になって聞いた。彼は首をすくめる。その反応に、次の人生もなかなかの試練が待ち受けているのだわかり、私は溜息をついた。
そんな私を彼が元気づけるように微笑みながら催促する。
「……ねえ、そろそろバタフライ・ケージに行かない?」
ワニとカメレオンと長い名前のトカゲに別れを告げて、また傘をさす。雨は先ほどより激しくなっている。先を行く彼のほっそりとした背中を見つめて歩く。彼は心なしかうきうきしているように見える。
バタフライケージはこの動物園の目玉の施設だ。大きなドームの中で、何種類もの蝶が飼育されている。季節は永遠に春。中には人口の小さな滝と小川が流れ、とりどりの花が咲き乱れる楽園だとパンフレットには書かれている。
昆虫、特に蝶が苦手な私は、このバタフライケージに入るのにためらいがあった。
柔らかそうな羽を見ていると、なぜかそれが口に入ってくるのではと、恐ろしくなるし、鱗粉や触覚や、目、腹、細い脚、口などすべてが気味悪い。
しかし、彼に私の怯えを打ち明ける勇気はなく、仕方なしにゲートをくぐった。
入口は、斜面の上に作られ、出口に向かって坂をくだるように蛇行した小道があった。入ってすぐ、すべてを見下ろす展望スペースが設けられており、彼が柵から身を乗り出すようにして歓声を上げた。
「すごい……すごいね……」
その目の前に広がる風景に、私は苦手意識を忘れ、ただうなずく。
花がさきほこる空間に、数えきれない何頭もの蝶が、規則的な、または不規則的な動きで浮遊していた。
花の蜜を吸っているもの、小川のほとりや水盤にとまり水を飲んでいるもの。可憐な羽を優しく震えさせている。まるで丹念に彩色された美しい紙細工、あるいは刺しゅうを施された繊細な布の切れ端、それらが永遠に終わらない春の空間で生を謳歌していた。
あまりの数の多さと絢爛さに、私には一つ一つが生き物に見えない。現実のものとは思えない。
私は言葉をなくし、これまで感じていた嫌悪感が嘘のようになくなり、夢中になって中を散策した。こんな日でもこの場所には親子連れやカップルが来ていたが、みなどこか不思議な顔つきになっていた。呆然と天井を見て立ちつくす者もいる。
小川のほうに行ってみようと、私は彼の方を振り返る。
声をかけようと口を開きかけるが、何も言えずただみとれる。
水盤のそばにたたずむ彼の横顔、上気した頬、目の輝き。生活の疲れや人生へのあきらめが作る澱のようなものが、何一つなかった。彼は本来とても美しい子だと私は改めて気づかされる。
私を振り返り、見上げる顔に心を揺さぶられる。
「自由な時代に生まれたんだ」
「……え?」
「やっと自由な時代に生まれたのに、なかなか出会えなかった」
彼に見とれていた私は、最初何を言っているのかわからなかった。困惑しながら、さっきの話のことだと遅れて理解する。
「必死で探したのに、兄さまは別のやつといい関係になっていた。だからとても腹がたって、……。本当に頭にきたんだよ」
一頭の蝶が、私のところに来た。本来なら気味が悪いと追い払うところ、それがとまるにまかせた。まるで気の利いたブローチのように私の安物のジャケットの上にとまる。
「だから殺した」
私の胸にとまった蝶がひらひらと飛びたつ。
「……殺し、た?」
「そう。今はとても後悔してる。言い訳のひとつくらい聞いてやればよかった。でもぼくの気持ちもわかるでしょ?死に物狂いで探したのにさ、生まれ変わってまた出会おうって約束、すっかり忘れて、のんきな顔で他のやつとベッドでよろしくやってるんだ。そりゃ頭に血が上るさ」
イライラと言って、小川への道をくだってゆく。蝶は、彼を追うように飛ぶ。
「ねえ、待って。何の話なの」
「ぼくとあなたの話に決まってる。わからないふりとか、やめなよ」
彼は本気で怒っている様子だった。彼の話を聞きながら、恐ろしいほどの既視感に襲われていた。そして私は心からすまなく思う。
水盤の陰にたたずむ、涙にぬれた頬。どこからか紛れこんだ蝶が、水盤のふちで羽を休め水を飲んでいた。少しめくれていた寝着と、裸足のつま先。私は、ふっくらとした苔を踏み、中庭に降りる。
それらは、
私に、
我々に、
実際あったこと。
我々が何度目かの再会をはたしたのは、つい二週間前のことだった。
生徒たちをつれ、介護施設への慰問に訪れた時だ。彼は隣町に住んでいる青年で、老いた母親の車いすをおしていた。
博物館の神様を恨む気はない。
「また人間に生まれたい。人として普通の暮らしをしたい」という単純な願いが、こんなに厳しいものだなんて、我々にはわからなかったのだ。
一番最初の生が支配階級だったせいか、犬の時もそこそこ裕福な者に養われていたし、自由を夢見て生まれ変わった時も、そしてその次に人と犬として出会った時も、何の不自由もない日々をおくった。
つまり下々の者たちの本当の暮らしを知らずに、表層だけをみてその平凡さに憧れた。
私も彼も毎日擦りきれるほど働かないと、生活を維持できなかった。
今や、我々がかつて一国の王子で、家臣にかしずかれ何不自由なく暮らしていたなんて、自分たちですら信じられない。
「ごめん」
「いいよ、もう」
「でも、なにも殺さなくてもよくないかい……?」
「だから悪かったって謝ってるだろう?こっちだってショックだったんだ」
あの時、つまり二つ前の生では、私は自分の記憶をあいまいにしたかったのだ。
妾腹の子として生まれた。危うい立場で、大人たちの間を立ち回りながら成長した。何も期待されず、ただ刹那的な日々をおくっていた第一王子としての記憶。
我が腹違いの弟。
王位を継ぐもの。
ただ一人の愛おしいもの。
悲しい別れを経て、出会い直すために生まれなおした。それをわかっていながら、自由な時代の享楽的な空気に、私は安きに流された。
誰よりも王子との再会を求めながら、運命から目をそらした。王子はそんな私を探しだした。しかし私は目の前の欲望に溺れていた。全部私が悪いのだ。
自業自得でありながら、それでも私は深く傷ついた。
なぜならやっと出会えた愛しい弟、運命の恋人に殺されたのだ。その痛み、苦しみ、絶望。
結果的に私はもう一度犬になった。人間になどなってやるものか、という私なりの彼への意趣返しだった。
しかし彼はペットショップで愛に飢えて震えている私をちゃんと見つけだしてくれた。私は最初彼を許すつもりはなかったが、彼と目が合い(すぐに彼と気づいたし、彼は私と気づいた)、彼に買われ、暖かな部屋に連れ帰られ、献身的に世話をされるうちに、許してもいいような気になっていった。私という人間はとても単純にできているのだ。(もちろん当時は犬だったけれど。)
とはいえ犬の寿命は人間より短い。すぐに別れがきた。
別れを前に泣きだしてしまった彼の頬を舐めてやりたかったが、くうんとも声がでない。前脚を持ち上げるのもおっくうだった。ただだらりと舌をだし、はあはあとあえぐほかなく、どうか泣かないで、きみと私はまた出会える、今度はちゃんと人間になるから、待っていて――。
「年がだいぶ離れたね」
「あなた犬だったから。そして先に死んだからね」
チクリと言われ胸が痛む。私は彼を一人にしてしまった。かわいそうなことをした。相手の死は地獄の苦しみだ。残されたものは愛するものの不在を呪い、じりじりと時間がすぎるのを待つしかすべはない。
あんな思いをさせてしまったかと思うと、胸が痛んだ。
蝶が、彼のうつむく頭にとまった。彼はそれに気づかず下を向いたままだ。ゆっくりゆっくり震えるように羽を上下するのを、私は見るともなしに見つめた。
そっと彼の手をひいて、バタフライケージの出口に向かう。二重のゲートとネットをぬけて、外に出る。
「あ」
美しい二つの生命が、ひらひらと戯れながら寒空に飛んでいく。注意していたはずが、一緒についてきてしまったのだ。
二人どうしようもなく、空を見上げた。こんな寒い雨の空に、どこへゆくというのだろうか。
「あ……、は、……あ……っ」
凍えるように寒いなか、私たちの一部は熱く息づいている。
最初、彼の指を温めたい一心だったのだ。
晴れた日なら子どもたちの笑い声で満ち溢れている小動物たちの広場、休憩所のわきの倉庫の裏の軒下で、私は彼の指を口に含み丹念に舐める。
私の身体の中で唯一温かさを分けることができるのは、口の中しかないのだから、こうするほかはなかった。
最初身体全体をこわばらせていた彼は、じきに私へ身体をゆだねる。舐められる指を切なそうに見つめる。そうだ、私は彼と出会い直してからまだ一度も彼の唇に触れていなかった。
少し温まった指を自分のコートの両のポケットにいれる。そうすると否が応でも身体が密着した。そのまま接吻した。
彼の唇は、乾燥し、皮がむけている。優しく舐めているうちに、彼の体温が上がっていくのがわかった。最初からそうすればよかったと、難解な問題のこたえを得た思いだ。
「こんなところで許しておくれ」
寒いのにごめんと謝りながら、なるべく最小限に、衣服をずらす。
私自身も、顔をださせて、控えめにすりつけあっているうちに、進退きわまる。
後ろを向かせると、許可も得ず無言で、立ったまま彼の中に入った。
入ったまま彼の身体を抱きしめ、しばらく動かずじっとする。そこはとても温かく、ずっと接続していられたらと願わずにはいられない心地よさで、ただちょっとでも長い間そのままでいられたらと思う。
「ね……え、もう」
耐えられないというように、尻をうごめかす彼に、私は我に返る。誰がくるともわからないこんな場所で、私は愛の行為におよんでいるのだ。早く済まさねばならない。
私は、彼にしっかりと壁に手をつくよう言いつけ、突いた。
「ん……ふ、……ん、ん、」
なるべく声を出さないように、彼は自分のセーターの袖を噛んでいる。せわしなく交わり、私だけが達した。
あわててみなりを戻す。この寒さにかかわらず、彼の首筋は汗ばんでいる。そこに顔をうずめて、彼のものにふれる。たよりない私の手の動きにあわせて、彼はせつなく身体をゆする。彼の首に蜜があるかのように吸う私は、蝶というより腹をすかせた犬だ。
はあはあと荒い呼吸で舐めまくる。彼はますます袖を噛み、涙ぐむ。
「あ、っ、それ、……あ、あ、や、……あ」
やがて彼の精は勢いよく飛び、私の手に滴る。私はその手をまだ降っている雨に差しだした。彼の体液が雨と混ざり、私の手をつたって地面に落ちてゆく。
次の約束をして別れた。
このまま一生会えなくなるなど思いもしなかった。
その日は、妻に仕事と偽り、彼に会いに行った。
そんなことをするのは神に誓って初めてだった。
狙いすましたかのように、下の赤ん坊が熱性けいれんをおこし、救急車で運ばれた。妻はすぐ私の勤め先である学校に連絡し、私の嘘がばれた。
私が、怒りとあきらめと軽蔑の顔をした妻からののしられていた時、彼は消防員から説明を受けていた。
彼は彼で、老いた母親を一人残して、私に会いに行ったのだ。
彼もそんなことをするのは、神に誓って初めてのことだった。
母親は息子のいない間に煙草を吸おうとして、火の不始末から火事になった。
幸いぼやで済んだが、貧しい家庭には修復しがたい大きな打撃だった。
消防車のサイレンと救急車のサイレン。
小さな街に二つが鳴り響いて、大騒ぎになった。私たちが動物園で会っていたことはすぐに人々の噂になった。
狭い田舎町で、好奇と嘲りの目に晒され、それに対し何のてだてもなく、我々は様々なものをたくさん失った。しかし逃げる場所などなかった。
彼と私はそのまま、川を隔てた隣町に住み続けた。こっち側と向こう側でお互いの気配を感じながら。
それはまるで壁を隔てた展示室AとB。
生きているのに死んでいるような暮らし。
時は過ぎ、子どもが巣立ち、妻とも別れた。しかしその頃には彼に会いにゆく勇気もやり直す気力も、私に残されていない。
生活とは、年を取るとはそういうことだ。じわじわと何かを、奪い取られる消耗戦だ。
彼もまた、とうの昔に病気の母親を看取ったと噂で聞いた。
しかし時は彼からも確実にいろんなものを奪い取ったのだ。
我々は、ガラスケースの中で息を殺すようにして死が迎えに来るのを待っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
「だからっ」
興奮のあまりつばがとぶ。
「だからっ博物館のな、展示室Aと展示室Bで、俺らは犬で、でもお前は俺を殺すし、俺は王子でお前も王子、中庭の水盤の陰で泣いているお前を、俺は、なあ、つまりガラスケースなんだよ!悲しいだろ?ひどい話だろ?……あ、無理、俺泣けてきた……悲しすぎるこんなの絶対無理」
愛し合っているのに成就されないなんて、なんてつらく残酷なのだろう。涙がこぼれ、真樹の顔に落ちる。鼻水も。
真樹は、そんな俺を微動だにせず見つめる。そのビー玉みたいな目を見て、俺はちょっとだけ顔を近づけすぎたかもしれない、と思った。そして窓から侵入しぐっすり眠りこんでいる真樹に、一方的にしゃべりすぎたのかもしれない。
でも大事な話なのだ。しっかりちゃんと聞いてほしい。
「だいたいなあ!生活が苦しいからって、さあ!そりゃ人目とかあるだろうけどさあ!近くに住んでるんだからどうにかならなかったのかよって話だよ!!ちょうちょがさあ!!ひらひら~ってさ、お前の頭にとまってさあ!!空にさあ!!」
「……おい啓介」
「うん?」
「今何時だ」
俺はぐすんと鼻をすすりながら、時計ををみる。
「ん?ぐす……朝の五時……ぐすん」
真樹は頭をかいて、あくびをした。何も言わず、しっしと手で身体の上からどくように指示した。知らないうちにのっかっていたようだった。俺は真樹の身体の上から降りた。真樹は顔についた俺の涙と鼻水を、ティッシュでふいている。
「で?」
「ん?」
「で、なんだって?」
「だから、ね、つまり、博物館の展示室AとBなんだよ俺たちは」
俺は再度真剣に訴えた。
真樹と俺は親同士が友だちで、小さいころから兄弟のように育った仲である。家も隣。玄関通るのが面倒くさいから、二階の俺たちの部屋のベランダとベランダを飛びうつり行き来している。
クールな真樹くんとどうかしている啓介くん。世間の評はだいたいそんな感じ。
母親同士が独身の頃から友だちで同じ時期に結婚し、示し合わせたように妊娠。生まれた時から、ずっと一緒。小中高も一緒。大学だって同じところを受けて合格した。もういっそのこと結婚しちゃえ、など揶揄されるほどアホほど一緒。
つまり幼なじみというやつで、ずっと一緒に育ってきたのだが、俺は昨日、一晩かけていろんなことを思い出した。異常に長い映画、しかもシリーズものを見た感じ。疲労感とかすごくて頭がギンギンで、目覚めるなりすぐに窓を開けた。つまりこれは前世の記憶というやつに違いなかった。
俺は最初、王宮の色男。王の妾腹で地位はないけど食うには困らないみたいな最高の立場で、女の子からきゃーきゃー言われる奴だった。(すばらしかった)
ちゃらちゃら生きているところ、超かわいい弟(腹違い)と出会っちゃって運命が動く。
その後は犬に生まれかわったり、やっぱりイケメンに生まれたり、さえない男に生まれたり(俺が先生やってるとか笑える)、まあいろんな人生を経てきたわけだが、すべてがずっと宿命の恋人と出会うためのジャーニー。
なんかイケメンに生まれることが多くて、トータルで考えると、割といい感じ。
今の俺はだいぶ平凡なルックスなので、お得感がはんぱない。
あ、いろいろ思い出して鼻血でそう。
目に涙をうかべたまま、ぐへへと笑いだす俺をほったらかしにして、真樹はベッドから起きる。
俺はその姿を見て、スイッチが入った。だって真樹は俺のいにしえからの恋人!!超大作映画のもう一人の主人公。
王子時代、かわいかったな。今もすごくかわいい。あ、かわいい。かわいい人、俺の目の前にいて動いている。映画に出てた人が本当にいる!!
「まさきーーーー!!」
「ちょ、わ、こらっ」
俺は真樹に抱きついた。だってやっと出会えたのだもの。隣同士で幼なじみで運命の恋人だったなんて、もう、早く言ってくれよ。何度も生まれ変わり、また出会えた。それを昨夜長い夢を見るというかたちでやっと思い出した。
昨日までの親友が今日からはマイダーリンだ。こんな身近にあった俺の運命。
なんかさ~、好きだとは思ってたんだよな~。でもそっちの好きとは気づかなかったな~。
ちゅうしたいなあ~。
「ちゅーさせろ!再会のちゅうだああああ」
そんな俺に真樹は手刀で俺の頭をかちわった。
「とにかく、お、ち、つ、け!!」
「なんだよう。俺らはさあ!愛し合ってんだろうよう~」
真樹は俺と違ってしっかりしてるし、きれいな顔している。でも身体能力は俺の方が上で、成績も俺の方がちょっと上。ただ俺は性格がアレなので、俺はいつも真樹にくっついている方だし、尻にしかれている。つまり真樹に俺は逆らえないので、俺は仕方なしにブレーキを踏んだ。
あーーー、尻にしかれているって、夫婦!って感じ。
真樹は感極まっている俺に背中を向けてTシャツを脱いだ。
「あ、え、いいの?」
「は?」
「いいよな、俺ら、夫婦だもんな!」
「……?」
がばーといくと、真樹は本気でびっくりしているようで、声にならない悲鳴をあげながら俺の下で暴れた。
「あれ?」
「お願いだから、ちょっと落ちついてくれ、頼むから……!ステイ!!」
真樹が本気で言ったのがわかって、俺はまたすごすごと引き下がった。真樹はただ服を着替えたかっただけで、別に誘ってくれたのではなかったのだ。
俺は先走りすぎた自分にしゅんとして、正座してステイする。
真樹は、クローゼットをあけると、何かを取りだして、正座の俺の前に置いた。
俺と真樹、二人分のパスポートだった。
「おえ?」
そしてドサとザックを置いた。以前山に登った時の65Lのやつ。それにどんどん服とかいろいろ詰め込み始めた。
「お前もぼやぼやしてんじゃねえ。すぐ出発すっぞ、着替えろ」
「んあ?」
あれよあれよというまに、真樹はてきぱきと荷造りする。
「真樹」
「なんだ」
「どういうこと?」
「お前、やっと思いだしたんだろ」
「あ、うん」
「俺は生まれた時から記憶があったんだ」
「え、そうなの」
小学生の時遠足で行った動物園で、象を見ながら真樹が泣きだした。俺は真樹が泣くほど象が好きだったのかと思ったのだけど。
カツンカツンと音をたてて真樹の不思議な行動が、全部パズルのピースがおさまるように腑に落ちる。
へーと思っている俺を連れて、真樹は窓をあけ、ベランダづたいに俺の部屋へゆく。そして勝手に俺の荷造りをはじめる。俺もせきたてられるようにして服に着替える。
「あ、そのぱんつ俺あんまり」
「そう。じゃあ俺もらうわ」
「え、一回履いてるけど」
「いい、いい、そんなの」
ポケットにねじこむ。ちょっとはみ出ているのも気にせず、いろいろいれて、ほい、と俺に背負わせた。
俺は素直にそれを背負った。
まだ寝静まっている俺んちのリビングでチラシの裏に真樹は行ってきます、と書いた。
「行くぞ。あ、歯ブラシ忘れた。途中で買えばいいか」
「あ、うん」
空は白みはじめたばかりだった。
「あのさあ……」
「なに」
「どこ行くの、俺ら」
「南米のお前の知らない国」
「そうか。……何しに行くの。金どうすんの?」
「お前の母ちゃんさ、俺に負い目あんの。前さ、お前の母ちゃん俺の母ちゃんでさあ。煙草の不始末で火事になっただろ。あれお前の母ちゃんの『前』なんだ」
「?」
「だから悪かったから好きに生きろって、三年前くらいに言われて。どうやら母ちゃんも覚えてるらしいよ」
「俺の母ちゃんが俺のお前の?」
俺は蒼白になる。
「は!?俺ら兄弟!?ええ!!俺たち母ちゃんが一緒って……!!」
俺は叫んだ。そんなことってあるか!?
そんなの振り出しに戻るじゃねえか!!
「ちょ、声でか……ちがう。ちがうって。……俺らは兄弟じゃないよ」
「まじか~よかった~」
「ま、お前は難しいことは気にすんな。金はさ、俺はずっと小遣いをためてたから。あとお前もいつもお年玉は没収されてただろ?その分あるから」
「ほお~」
なんだかよくわからないが、大丈夫ならそれでいい。そういやうちの母ちゃん、いつもおやつは真樹の方にいいやつやってたな。それ関係あるのかな?まあいいか!
駅で始発待ちしながら、真樹は話をしてくれた。
「調べたんだ。流れ流れて俺らの身体は南米のとある国のミュージアムに、ガラスケースの中にいて、毎日さらしものになってる。あ、お前の顔見たぞ。なかなか面影残ってた」
「みたい!みたい!」
「ほれ」
タブレットを見せてもらった。
「お、おえええええええ」
「なんで?かわいいじゃん」
「おえええええええええ」
「とりあえず、現地に行って自分たちがどうなってるか確認しよう。そんで二つの棺をせめて同じ部屋にしてもらえないか交渉してみよう」
「?……うん」
「ともかく、俺はもう嫌だから。全部がうんざりなんだ」
生まれ変わって目がさめて、お前がいないと気づく、それからお前を探す長い旅。
お前に会って、俺のことがわかるかどうか、自分の頭が狂っているんじゃないかと思うこと。
そもそもの発端は墓を暴かれたことなんだから、二人を一緒にしてやれば、どうにかなるんじゃないかな、と真樹は言った。
真樹なりに何年も考えに考え抜いた解決策のようだった。俺に異論はない。ふと真樹が静かなので、そっと覗きこむと、真樹は声を殺して泣いていた。
「……真樹」
「お前、もう俺のこと思い出さないんじゃないかと思って」
「真樹」
いつだったっけ。ああ、犬の時だ。
そうだあの時の俺は、涙を舐めてやりたかった。心配しないで。泣かないで。また会えるからって。
泣いている真樹の手を握った。
その指が冷えていたから、ぱくんと食った。驚いて固まっている真樹をもっと驚かせたくて、もう一つの手も口いっぱいにほおばった。
「はは、きたねえな、はは」
泣きながら笑ってしまった真樹がうれしくて、俺は指に歯をたてる。
「バカ!食うな!ぎゃははははは」
「むぐご、おむぉいだへなくて、ごうぇんなー、またへて、ごうぇんなー」
むごむごと謝って、俺と真樹はげらげら笑った。
「あと、話さなきゃいけないことがある」
真樹は涙をポケットからとりだしたものでふきながら、言った。
「え、なに」
「実は俺、お前を殺したの、一回だけじゃないんだ」
広げてしげしげと見てから、きちんとたたみなおしてまたポケットにしまった。
「えー」
「『前』の話だ。家庭があるのを隠していたことがどうしても許せなくて、お前のいる病院に行った」
「病院?んんん?」
「じじいのお前が死にかけてたんだけど、呼吸器はずしてとどめさした」
「わーお」
「あとね、」
「あ、とりあえず今はいいよ。うん、またゆっくり聞くよ」
「……そうだな」
割とこの人、昔っからエキセントリックだった。王子時代もすぐキーってなって、むかつくやつは片っ端から処刑処刑言って、俺がいさめたんだった。何を言い出されるかわからん。怖い。でも、まあ、だいたいそういうのって俺が原因なことが多いから、受けとめるしか仕方あるめえ。
横顔を盗み見る。なんかしゅんとしててかわいい。
俺はわざとらしく咳ばらいをした。
「……えーゴホン、なあ、その前にさあ、することあるんじゃないかなーっと。俺ら恋人どーしってわかったばっかじゃん?」
「……」
真樹はうなずくと緊張の面持ちで腕を広げた。俺たちはハグしあった。
ずっと友だちだったから、加減がわからなくて、それは体育会系っぽい、とても力強いものになった。
「ええと」
「おう」
「あとちゅうだな」
「そうだな」
二人、ぎこちなくハグをといた。俺はどぎまぎしながら、真樹に向き合った。
えーとえーと。
「口がタコ口になってる!!」
笑った顔がかわいくて、そのまま顔を近づける。
再会のキスは何度しても甘く切なくて、少し涙の味がする。
またたく間に俺の頭の中はお花畑だ。ちょうちょがひらひらとびまくる。ヒャッホウ!!
「二人で旅行とか楽しいな!!」
俺は旅の目的はとりあえず、おいといて言うと、真樹がうなずく。
「せっくすもするだろうしなあ!!」
「声のトーン、声のトーン」
うっきうきの俺に、真樹が赤い顔をしてひじでついてくる。
「とりあえずまた会えてよかったし、とにかく、博物館の神様に話をつけにいこうぜ」
神様に、俺たち今回はちゃんと幸せになりますから、生まれなおすのはもう結構です、ってちゃんと伝える。うん、いろんなことはそれから始まる。
「前」の時、またチャンスがあるのなら「どうか二人で」
ただシンプルにそう願った。
願いは叶えられたのだから、俺に何の不満もない。あとは大事に生きるだけ。
「俺は、お前をずっと監視したい、って願ったけどね」
「顔怖いよ」
俺は言うと、人目も気にせず真樹の手を握った。とてもあったかくて、ただ嬉しかった。
「ま、なんていうか、意味は同じだよね二人とも」
「まあな」
俺らはこれから再会を終わらせる旅に出る。
もうなんというか無敵としか言いようのない気持ちだ。さっさと用事をすませたら、今度こそは本当の意味でラブラブハッピーエンド。
……なんてその時は本気で思っていた!
けれどことはなかなか複雑に絡んでいて、長い長い旅になってしまって、結果、博物館を襲撃することになるのだけど、それはまた別の機会にするよ。
(博物館襲撃前夜譚・終)