>
>
>

第4回 BL小説アワード「再会」

甘やかしあり〼

一途攻め×孤独受け/元クラスメイト/攻め視点

悠がハサミを渡すと、将基は線に沿って紙を切り取り、十枚のカードを作った。「はい、コレ」「なに?」 悠は受け取ったそれを見て、顔に「?マーク」を浮かべる。「甘やかし券」

行原荒野
グッジョブ

 十一月下旬の夜風は、路上に座り込む身にとっては思った以上に厳しく、浴びるほどに飲んだ酒の酔いも一時間ほど経つ頃にはすっかり醒め切っていた。
 次第に寒さで歯の根が合わなくなってくる。けれど目的を果たすまでは帰れない。
 将基(まさき)は緩んでいたマフラーをしっかりと巻き直し、コートの前をかき合せた。
 予定ではもうとっくに彼は帰宅している時間のはずだった。だが必ず通るはずのこの道に、彼はいつまで経っても現れない。
 さらに一時間ほど経つと、次第に強い眠気が襲ってきて、ぼんやりとした意識で雪山遭難時の訓戒を思い出した。
(駄目だ、眠ったら)
 そのとき少し先の方から小さな足音が聞こえてきた。重くなった目蓋を必死にこじ開けて僅かに顔を上げ、常夜灯に照らされたその人の姿を認める。細いシルエットに俯きがちの視線。
(ああ、やっと来てくれた)
 朦朧とする頭の中でそう呟き、また目を閉じてしまう。
 規則正しい足音は、将基の前に来た時、一瞬だけ乱れたようだった。その人の微かな戸惑いは感じ取れたが、さほど間をおかずにそのまま行ってしまう。
(……やっぱ、ダメか……)
 失望が胸にこみ上げ、堪えていた寒さに打ちのめされそうになった時、去ったはずの足音がまた戻ってきた。
「……大丈夫ですか」
 抑揚のない、静かな声が頭上から降ってくる。それを聞いた時、将基の胸を言いようのない喜びが満たした。
(――良かった、……彼はまだ、彼のままだ)  
 だが顔を上げようとした時、ひどい眩暈に襲われて、それきりふっと意識が途切れてしまった。


 次に将基が目を醒ましたのは、見たこともない部屋のベッドの上だった。ハッとして身を起こそうとすると、鋭く頭が痛む。
 額を押さえながら慎重に身体を起こして視線を巡らすと、そこはひどく殺風景な部屋だった。ベッドの他には小さなテーブルと、背の低い本棚くらいしかない。その本棚の上には写真立てが置かれていた。
 カチャリと音がして、玄関のドアが開く気配がした。猫のように密やかな足音で入ってきた青年は、ベッドの上にあぐらをかいている将基を見つけてぎくりと立ち止まる。
「あ、すみません! ご迷惑かけたみたいで」
 将基が言うと、彼はぎこちなく首を振って、将基を見つめた。
「ベッドまで使ってしまって、ほんと、なんてお詫びすればいいか」
 あくまで他人のフリで続けると、彼の目が次第に陰ってゆくのが判った。
 その顔で彼、眞瀬(まなせ)悠(ゆう)が自分のことを覚えていたのだと判った。それは思った以上に将基の心を揺さぶった。
 あの短い日々の中で、ほんの少しだけ関わったに過ぎないクラスメイトのことを、彼は今でも覚えていてくれたのだ。
 じわじわと深い喜びがこみあげてくる。
「あれ…もしかして、眞瀬?」
 いかにもおそるおそるといった様子で訊いてみる。すると悠は目を瞠り、探るように将基を見た。まるで警戒心の強い猫のようだ。
「憶えてないかな、中学の時、ちょっとだけ同じクラスだったと思うんだけど、…違うかな。俺、黒宮(くろみや)将基っていうんだけど」
「……憶えてる」
「うわ、やっぱそうか! マジかぁ、すげえ偶然! こっち戻って来てたんだ?」
 下手な芝居をしながら、彼の口からハッキリと憶えていると言われて、抑えようのない喜びがまたこみあげる。
「あ、イテテ」
 ホッとしたら忘れていた二日酔いがブリ返してきたようだ。頭を押さえて布団にうずくまると、彼は慌てたように近寄ってきて、将基の身体を支えてくれた。
「ありがと。ほんと悪い、迷惑かけて。お前、昨夜寝られなかったんじゃないか」
「寝られなかった」
 正直な返答に小さく噴き出す。
「悪かった。俺いま営業の仕事しててさ、昨夜は接待でめちゃくちゃ飲まされて、気付いたらどこ歩いてんのか判んなくなっちまって」
 悠は買ってきてくれたらしいミネラルウォーターを、フタを開けて渡してくれる。
 喉が尋常じゃなく乾いていたので、ありがたく受け取って、一気に半分近くまで飲み干した。
「ケホッ、…ぁ、ありがと」
 軽く咳き込みながら言うと、悠はそれを受け取ってテーブルに置き、戸惑いの表情のまま将基を見つめる。
「家、近いのか」
「んー、てか、ココどこ?」
 悠は呆れた顔で町名と最寄駅を教えてくれた。将基はもちろんそれを知っていたが、いかにも驚いた風を装い、自分が数駅先に住んでいることを教え、改めて迷惑をかけたことを詫びた。
「ほんと何年ぶりだ? あれって…中二の時だったから、……うわ、九年ぶりか。久しぶり過ぎて何から話せばいいか判んないな」
 言いながら、本棚の上に置かれた写真立てに目を遣る。男性が一人で写っている写真だ。
 写真立ての前には、綺麗な翡翠色の陶器で出来た、とても小さな壺が置かれていた。
「もしかして…親父さん、亡くなったのか」
「……うん。三年前」
「そうか。……手、合わせてもいいか」
 悠が頷くと、将基は乱れたシャツとスラックスを整え、写真の前に立ち、静かに手を合わせた。
 まだ若い頃の写真なのだろう。悠の父親だというその人は、想像よりもずっと穏やかな顔をしていた。
 中学の頃、悠は父親との関係があまりうまくいっていない様子で、そのことでとても傷ついているように見えた。
 けれどこんな風に手元で供養をしようと思うほどには、悠が父親を恨んでいないのだとしたら、それは悠にとっても良いことのように思えた。
「ありがとう」
 ポツリと悠が言う。
「いや、こちらこそ、ありがとう」
 将基が振り返り、小さく微笑むと、悠は不思議そうな顔をしたが、やがて何かが伝わったのか、ひとつ頷いた。

 それから悠は将基のために、野菜がたっぷり入った濃い目の味噌汁を作ってくれた。それにより、将基の体調は昼過ぎには、ほぼ回復していた。
「めちゃくちゃ美味かったよ、眞瀬の味噌汁。これが飲めるなら、二日酔いも悪くないな」
「ダメだろ、身体壊す」
 そっけないのに親身な言葉に、将基の頬が緩む。
「悠、だったよな?」
 ピクリと悠の肩が揺れる。
「違ったか?」
「……よく憶えてるね」
「そう? お前だって憶えててくれたじゃん? 俺のこと」
「それは」
 何かを言いかけて、悠は俯いた。
 その心を知りたいと思ったが、最初からぐいぐい行くと引かれてしまうかもしれない。
「今度、改めて礼をさせて欲しい。また来てもいいか」
「いい、そんなの。大したことしてないし」
「それじゃ俺の気が済まない。あのまま外で寝てたらマジで凍死してたかもしれないんだからな。いうなれば眞瀬は命の恩人だ」
 悠は困惑顔だったが、将基の申し出は真剣だった。芝居を打つハズが、本当に迷惑をかけてしまったのだ。このままでいいはずがない。
「頼むよ。何かさせてくれ。あ…迷惑だからもう俺と会いたくないとか?」
「いや、そうじゃないけど」
 その言葉にホッとして、ここぞとばかりに、将基は「その提案」を持ち出した。
「じゃあさ、こういうのはどうかな」
 鞄から大判の手帳を取り出し、白紙ページを一枚切り取ると、真ん中に縦線を一本引き、それから等間隔に四本の横線を書いた。出来た十のマスに、同じ文字を書き込んでゆく。
「ハサミ、借りれる?」
 悠がハサミを渡すと、将基は線に沿って紙を切り取り、十枚のカードを作った。
「はい、コレ」
「なに?」
 悠は受け取ったそれを見て、顔に「?マーク」を浮かべる。
「甘やかし券」
 悠は困惑の表情で将基を見つめた。
「……肩たたき券、的な?」
「そう、それ! 買い物でも、掃除でも、マッサージでも、添い寝でも、ご用命とあらば馳せ参じます」
 おどけた口調で言うと、悠は手の中の安っぽい券をじっと見つめ、それから小さく笑った。
「おかしなヤツ」
 その控えめで可憐な笑みに、将基の心は九年前と全く同じ強烈さで打ち抜かれる。 
 記憶の中に、宝石のように大切にしまいこんでいた笑顔を、今また目の前に見ることが出来た。
 そのことに、将基は自分でも驚くほどの喜びを感じていた。





 季節外れの転入生だった。初夏の日差しが眩しい教室の前に立ち、型通りの自己紹介をした彼は、半袖シャツから伸びる細い腕と、長い前髪から覗く昏い瞳が印象的だった。
 物静かで、どこか神秘的な転入生に話しかける生徒は、最初はそれなりにいたと思う。
 けれど何を訊いてもそっけない返事しか返さず、遊びに誘っても決して輪に加わろうとしなかった彼は、そのうち遠巻きにされ、最後には誰も彼に話しかける者はいなくなっていた。
 将基はそんな彼が何故かひどく気になり、斜め後ろの席から、頬杖をついて窓の外を眺める彼の姿をよく見ていた。
 誰とも話さず、昼食の時間はいつのまにか教室からいなくなっていた。気になって見に行くと、彼は校庭の木陰に座り、図書室で借りたらしい本を読んでいた。弁当を持たされていないのだと気付いた。
 父親と二人暮らしで、その父親もほとんど働かず、生活が荒んでいるという噂を聞いていたが、それは本当だったのかもしれない。
 将基自身も母子家庭だったが、別れた父親からの充分な養育費もあったし、母親も二人の兄弟も明るい性格で、寂しい思いをしたことはなかった。
 けれど悠の様子からすると、父親との生活は決して幸福なものとは言えなかったのだろう。
 母に頼めば、弁当を二つ作って貰うことは可能だと思ったが、それはきっとやってはいけないことなのだろうと将基は思った。
 だからその代りに将基は、出来るだけ彼に話し掛けたり、顔色が悪い時は保健室へ連れていったりした。
 悠は初め、少し迷惑そうな顔をしていたが、そのうち将基のお節介にも慣れたのか、何か言いたげな目を向けながらも、将基が傍にいるのを許してくれるようになった。
 一度、放課後の部活動で怪我をして座り込んでいた時に、悠と出くわしたことがあった。悠はあっさりとその前を通り過ぎて行ってしまったが、少しして思いがけず戻って来た。
「……使う?」
 将基に向かって差し出されたのは、濡らしたハンカチと一枚の絆創膏だった。

 けれどそんな日々も、ある日唐突に終わりを告げる。丁度、今みたいに枯葉舞う季節だった。
 その日登校してきた彼の左の口許には、大きな赤黒い痣があった。色が白いために、それはいっそう痛々しく見えて、将基をひどく動揺させた。
 休み時間にたまらず話し掛けたが、彼は何でもないと言って、最後まで理由を話そうとはしなかった。将基はとにかく傷の手当てをと、彼を保健室へと連れて行った。
 午後の授業に彼は出なかった。おそらく父親が来ての話し合いにでもなっているのだろうと思ったが、掃除が終わって戻ってくると、いつのまにか彼の鞄が消えていて、将基の胸に嫌な予感が駆け抜けた。
 彼の机の下に生徒手帳が落ちているのを拾い上げ、それを制服のポケットにしまうと、将基は学校を飛び出した。
 学校の敷地と住宅街を隔てるように細い川が流れていて、そこに架かる橋を渡った先に小さな影を見つけた将基は、急いで駆け寄った。
 息を切らしてやって来た将基を、悠は少し驚いたように見つめ、それから何故か小さく笑った。それは初めて見た彼の笑顔だった。
 強く胸を掴まれて、息も出来ないほどに心奪われて、将基は何も言えずに、ただ彼と肩を並べて、夕陽に染まり始めた土手沿いの道を歩いた。
 俯いて歩く彼の横顔に残る痣が、痛ましくて、悔しくて、悲しくて、将基は爪が喰いこむほどに強く拳を握り締めていたのを憶えている。
 やがて彼のアパートの前に辿り着き、その門の所で二人は束の間立ち止まって、無言で夕陽を見た。
 それから彼は将基の方を振り返り、小さく、じゃあ、と言った。燃えあがる夕陽を背にした彼が、その時どんな顔をしていたのかは判らない。
「また、来週」
 そう言った将基に、彼は小さく手をあげた。それが最後だった。
 週が明け、担任から彼が転校したことを聞かされた将基は言葉を無くした。理由を尋ねたが、詳しくは教えて貰えなかった。ただ家庭の事情だというだけで。
 クラスメイトたちはすぐに彼のことを忘れ、教室にも彼が来る前の日常が戻った。
 他の生徒とは違う制服のままで、約半年間を同じ教室で過ごし、そしてその制服のまま去って行った彼のことを、誰も気に留めたりはしなかった。将基ひとりを除いて。
 そして、あの日に返しそびれた彼の生徒手帳だけが、ひっそりと将基の元に残ったのだ。





 あの再会の日から二人はしばしば会うようになった。将基のマンションに悠を招いたこともあるが、大抵は仕事帰りに将基が悠のアパートを訪れた。
 工場で働く悠は、ほとんどが定時あがりらしく、帰りが不規則な将基よりも大抵先に帰宅していた。最初に悠を待ち伏せた日は、本当に珍しく残業で遅くなった日だったらしい。
 簡単な土産を持って将基が訪れるたびに、悠は表情を決めかねたような複雑な顔で将基を迎え入れる。
「よ、ただいま」
 何度目かに訪れた時、将基が冗談めかしてそう言うと、悠はびっくりしたように目を瞠り、それからほとんど消え入りそうな声で、お帰り…、と言ってくれた。それがなんだか嬉しくて、以来、将基は彼がドアを開けてくれるたびにそう言っている。
 悠の冷蔵庫はいつも食材で一杯だった。それを見ると安心するのだと言う。そんな言葉にも彼のこれまでの苦労が透けて見えて切なくなった。だからこそ悠が作ってくれる、質素だが心のこもった夕飯をご馳走になるたびに、将基は深く感謝する。
 テレビもない静か過ぎる部屋は見るからに寂しげで、将基はある日ふと思いついて、明るい色使いのカレンダーを悠に贈った。年明けからのものなので、丸一年使って貰えるし、実用的な物の方が他意を感じさせなくていいだろうと思ったのだ。
 悠は恐縮して最初は受け取ろうとしなかったが、自分と揃いで買ったもので、再会の記念に貰ってくれたら嬉しいと言うと、最後には折れて、大切そうに壁に飾ってくれた。
 大きなサイズのそれは、力強く咲いた、大輪のヒマワリのように、寂しげな部屋に優しい暖かみを与えてくれた。
 悠は何も言わなかったが、気付くとよくそれを見ているので、多分気に入ってくれたのだろうと思う。
 

 街がそろそろクリスマスカラーに染まり始める頃、将基は悠を誘って近所の公園を散歩した。
 すっかり葉の落ちた木々が、長い影を落としている。
「俺、夕陽って好きなんだ」
 将基がぽつりと言うと、悠も顔をあげて茜色に染まる遠い空を見た。
「大切な想い出があってさ。思い出すと、ちょっと寂しくもなるんだけどな」
 あの別れの日の情景を思い浮かべながら問わず語りに語る。 
「ふうん……」
「眞瀬は? そういうの、ある?」
 悠は少しの間、何かを考えているようだったが、結局それは言葉にならなかったらしい。微かに首を振る。
「そっか」
 あれからも彼は、安らぎとは無縁な日々を過ごしてきたのかもしれない。

 彼がこの街に戻って来ているらしいと聞いたのは、少し前の中学の同窓会でのことだった。そこに来ていた一人が、悠に似た人を駅で見たと言うので、その翌日、仕事帰りにその駅まで行き、彼の姿を探した。
 結局その日は見つけられなかったが、それからも空いた時間を見つけては、改札口がよく見渡せる場所に立って、彼が現れるのを根気よく待った。 
 そして何度目かに、ついに改札を俯きがちに出てくる彼の姿を見つけた時、将基は時が遡ったかのような錯覚を覚えた。それくらい、彼の印象は変わっていなかった。
 背丈は多少伸びたかもしれないが、顎の細い小さな顔も、長い前髪に隠れそうな昏い瞳も、何かを堪えるように結ばれた口許も、何もかもあの頃のままのように思えた。
 声はかけなかった。その代りに、罪悪感を覚えながらも彼の後をつけ、彼が住んでいると思われるアパートを知ることが出来た。
 それから数日間、どうやって彼に近づいたらいいかを必死に考えた。素直に会いに行くことも考えたが、それだとただの再会になってしまうような気がした。あの頃のように、頑なな彼の傍で、見えない壁に阻まれるような距離を感じながら再び過ごすことになるような気がしたのだ。
 将基は、疲れた横顔を見せる彼に、少しでも荷物をおろして甘えて貰いたかった。
 そのためには何か自分が彼に借りを作り、その礼を返すというような形にして、かつ堂々と甘えるための小道具みたいな物があればいいのではないかと考えた。そして思いついたのがこの計画だ。
 今考えればそれはただ、悠に要らぬ心配と迷惑をかけただけの、非常に浅はかで稚拙な計画だったが、結果として、今こうして並んで歩くことが出来るようになったことは素直に嬉しかった。
「寒くないか」
 悠は頷いたが、彼の剥き出しになった細い首が気になり、将基は自分のマフラーを外して、悠の首に巻いてやった。 悠は微かに身じろぎ、ありがとうと呟きながら、将基を見上げた。
「昨日も、眠れなかったのか?」
「なんで? 隈できてる?」
「うん」
 将基は苦笑して目許をそっと押さえる。元々寝つきのいい方ではなかったが、この春に就職してからは特に、遣り甲斐はあるが緊張も強いられる日々に忙殺されて、頭がずっとおかしな興奮状態にあるのかもしれない。
 身体は充分疲れているはずなのだが、布団に入っても二、三時間寝付けないことはざらにあった。
 将基の疲れに目敏く気付いた悠に訊かれて、不眠症ぎみだと何気なく話したことを彼は憶えていて、よくこうして気遣ってくれる。
 ある日の食卓に、大量のレタス料理が並んでいて目を丸くしたことがあった。訳を訊くと、不眠に効くと聞いたからだと言う。
 会わない時間にも悠が自分のことを考え、こんな風に思い遣ってくれていたのだと知り、胸が熱くなったことを憶えている。
 悠と過ごす時間はいまや、将基にとってかけがえのないものとなっていた。悠に会える日は朝から落ち着かず、それと同じくらい力が漲って仕事にも身が入った。
 悠もこの頃は少しずつ色んな表情を見せてくれるようになったと思う。相変わらず笑顔を見る機会は少ないが、将基との時間を楽しんでくれていることは何となく伝わって来た。
 律儀な悠は、将基が帰る際にはいつもきちんと「甘やかし券」を一枚ずつ将基に渡す。それは将基との時間が彼の癒しになっているということの証明なのかもしれないが、将基はなんだかいつも後ろめたいような、寂しいような複雑な感情を覚えてしまう。 
「眞瀬が膝枕してくれたら眠れるかもな」
 冗談半分に言うと、悠はふいに俯いて、バカじゃないの…と言った。
 恥ずかしそうなその横顔が思いがけず色っぽくて、急にドキドキと胸が音を立て始める。
「さ…寒いし、今夜は鍋にするか」
 動揺を隠すように将基が早口で言うと、悠も俯いたまま、すぐに頷いた。





 クリスマスの夜は、奮発してケーキとシャンパンを買い、悠のアパートを訪れた。
 悠もいつもより腕をふるってくれて、小さなテーブルの上には、チキンや具だくさんのポトフ、熱々のピザ、彩りの良いサラダなどが所狭しと置かれた。
 将基はサンタを信じていた頃に戻ったような楽しさを覚え、子供のようにはしゃいだ。悠もいつもより明るい目をして、将基の繰り出すおかしな話に楽しげにつきあってくれた。

 食事を終え、ケーキまで食べ終える頃には二人ともすっかり出来上がっていた。いつも蒼白い悠の頬が、珍しくぽうっと染まっているのが可愛くて、将基は酔った勢いで悠の腕を掴んで引き寄せた。
「え、なに」
 動揺する悠を宥めるように、ぎゅっと握られた手を、驚かさないようにゆっくりと開かせる。繊細な指がピクと動いたが、幸い払い落とされることはなく、将基の手に預けてくれた。心からホッとして将基は柔らかく両手で包み込む。
「眞瀬は、あまり人と話すのが得意じゃないよな」
 将基が静かに言うと、悠は申し訳なさそうに将基を見上げた。
「いいんだ。話したくなければ、何も話さなくたっていい。……難しいよな、言葉って。俺もそれで結構、苦労した」
 悠の目が、意外そうに見開かれる。
「でも、本当は伝えたい言葉があるから、みんなもがいてるんだ、きっと」
 悠は将基の言葉を反芻するように透明な目をした。将基を見ているようで、何かその先にあるものを見ているような目が、とても澄んでいて綺麗だと思った。
 そっと尖った肩を左手で包み、怯えないようにと優しく胸元へ引き寄せると、悠は一瞬戸惑うように将基の胸を押し返したが、それは弱い抵抗に終わり、ほどなくすっぽりと将基の腕の中に収まった。
(なんだこれ……)
 あまりの心地よさに将基は胸の内で深い溜め息をついた。元から骨格が華奢なのだろう。無駄な肉が全くついていなさそうな細い身体は、まるで痩せた仔犬を抱いているみたいで、猛烈な庇護欲を掻き立てられる。
「言葉が苦手なら、こういうコミュニケーションもありだろ。眠たくなったら寝てもいいぞ。でかい熊のぬいぐるみにでも寄りかかってるつもりでさ」
 妙に気恥ずかしくて、わざと茶化したように早口で言う。
 悠はまだ微かに身体を強張らせていたが、じきに将基のシャツの胸に片頬を埋めた。それに力を得て、やや強引に自分の膝の上に座らせてみる。父親が幼児を抱っこするような恰好だ。
「やだよ…、恥ずかしいだろ」
 悠はちょっと怒ったみたいな声で言ったが、本気で嫌がっている風ではなく、将基もあまりの心地よさにどうしても離したくなかったので、無言で可愛い身体を抱き締めた。
 悠に少しでも安らぐ時間を過ごして貰いたくて始めたことなのに、これじゃどっちが癒されているのか判らない。
 それでもそっと片頬を包んで、優しく自分の胸にもたれさせ、ゆっくりと髪を撫でると、悠が心地良さそうな吐息を洩らしたので、将基の心はひどく満たされた。
 あの眞瀬悠を、自分の腕の中に抱いている。そう思うとなんだかたまらなくなって、ほっそりした手を取り、自分の無骨な指と絡ませた。ピクと震えて、悠が不安げに将基を見上げる。
「イヤか」
 吐息だけで尋ねると、悠は答えられずに絡められた手を小さく震わせる。
 将基はそのままゆっくりと薄い手の平を指でなぞったり、指の付け根をくすぐったり、少し深爪の指先を摘まんだりした。ひんやりとしていた手が次第に汗ばんでくるのが判って、悠を見つめると、真っ赤になって泣きそうな顔をしていた。そのカオに、何かがゾクっと背筋を駆け上がる。
「――感じてるのか」
 耳元で囁くように言うと、悠はぎゅっと目を瞑っていっそう身体を強張らせた。
(ダメだ、可愛い……)
 将基はこのところずっと自分の中で燻っている、ある問いにまたぶつかる。
 これはかつて悲しい別れ方をした旧友への、ただの行き過ぎた友情なのだろうか。
(違う、そうじゃない)
 悠に触れるたび、その姿を見るたびに、熱く胸を焼く感情がある。もっと触れたい、もっと傍に行きたい、自分だけを、その目に映したい。
 もう、いい加減、認めるべきだろう。
 これは、恋だ。
 今までどんな女性とつきあっても、悠のことを忘れたことはなかった。彼女たちの名前は忘れてしまっても、悠の名前だけはいつまでも鮮明に憶えていた。
 あの頃、傷つく彼の姿に将基が深く傷ついたのも、突然の別れに激しい喪失感を覚えたのも全て。
 多分、あの日、初夏の教室で初めて彼を見た時から、将基は彼の孤独に惹かれていた。
 そして一度だけ笑ってくれたその顔を見た時、悲しみに紛れて気付くことが出来なかった恋に、将基はとうに落ちていたのだ。





 年内の仕事納めとなった日、将基は寿司と酒を買って悠のアパートへと向かった。悠も同じ日が仕事納めのため、二人だけのささやかな忘年会をしようということになったのだ。
 悠はいつものように先に帰宅して、部屋を暖めて待ってくれていた。
 質素だが楽しい忘年会となった。酒を酌み交わしながら将基は満たされた気分で悠を見つめる。これから先もずっとこんな風に、悠と穏やかな日々を重ねていきたいと思った。
「今年は眞瀬と再会できたし、本当に良い年だったな。来年もよろしくな、ってまだちょっと早いか。大晦日はうちで紅白とか見るか? そんで一緒に初詣に行ってさ」
 猪口を傾けながら悠に笑いかけると、悠はなぜか先ほどまでとは違う、どこか不安げな目で将基を見ていた。
「どうした?」
 猪口を置いて、悠の顔を覗き込む。
 悠は小さく唇を噛んで、それから珍しくまっすぐに将基を見つめ返した。
「――ずっと、気になってたんだ」
「……なにが」
「あの日、俺達が再会したのは、本当に偶然だったのかなって」
 ハッと息を呑んだ。
「お前は接待で酔いつぶれたって言ってたけど、この辺りに飲み屋はないし、駅からも随分離れてる。あんな所に酔って迷い込むなんて、どう考えても不自然な気がして」
 尤もな指摘だった。それは将基にも当然判っていたことだ。
 いつかは言わなくてはと思っていた。悠を傷つける意図はなかったとしても、嘘をついていたことは確かなのだから。
 けれど悠との穏やかな日々を重ねていくごとに、本当のことを言うのが怖くなった。結果として悠が元気になってくれたなら、このまま黙っていてもいいのではないか。そんな狡い考えにそそのかされて、今日まで来てしまったのだ。
「――ごめん、眞瀬」
 将基が重く吐き出すと、悠の顔が強張った。
「どういう、こと」
「……」
「……からかってたのか」
「違う!」
「じゃあ…なんで、嘘ついてたんだよ」
 説明しようと思うのに、悠のひやりとした声に動揺して、うまく頭が働かない。それを将基が下手な言い訳を考えているとでも思ったのか、悠の目が次第に曇ってゆく。
「おかしいと思ったんだ。……黒宮みたいな男が、なんで俺みたいに暗くて、つまんないヤツに構うんだろうって」
「そんな、違う、お前は」
「憐れだったのか、俺が。友達の一人もいない、侘しい生活をしてるって、同情でもした?」
 違う、違う! もどかしさに叫びそうになる。
「バカみたいだ、こんな……、俺ばっかり」
「眞瀬、」
 思わずその肩に手を伸ばすと、悠は怯えた目でそれを振り払った。
「触るな」
 掠れた声が鋭く響いて、将基の胸が凍りついた。
「頼むから、説明させてくれ」
 将基が焦って言い掛けるのを、悠は耳を塞いで遮断する。
「帰ってくれ」
「眞瀬」
「聞きたくない」
 その声は、ハッキリと傷ついていた。
 身体中が弛緩するような感覚を覚え、鼓動が不規則に乱れる。
 全身で将基を拒絶している悠の姿に、将基は茫然とし、俯き、そしてきつく拳を握り締めた。
「――お前のことは、ずっと憶えてた。……いや、忘れられなかったんだ」
 苦しげに吐き出した将基の言葉に、悠の肩が小さく揺れた気がした。
「すまない」
 もう悠の顔を見ることも出来ず、将基は力なく背を向け、部屋を出た。
 外階段を下り、いつか返そうと持ち歩いていた悠の生徒手帳を鞄から取り出すと、しばらく見つめ、サビの浮いたポストの中に静かに落とした。 





 年末年始は実家にも帰らず、マンションで独りで過ごした。
 前にもまして眠れない夜が続いていた。食欲も気力も落ち込み、後悔だけが日ごとに大きくなっていった。
 最後に見た悠の、怯え切ったような顔を思い出すたびに、胸が鋭く痛む。
 自分は間違えたのだ。彼の孤独を本当には理解していなかった。もとよりそれは、将基などの手に負えるものではなかったのかもしれない。自分はただ、悠の優しさに赦されながら、傲慢で浅慮な自己満足につき合せただけだったのだ。
 悠が甘えやすいようにとか、負担を覚えないようにとか、おためごかしを言いながら、本当は自分が怖かっただけだ。
 真正面から会いに行って拒絶されることが。お前の助けなど要らないと言われることが。
 なんて臆病で、情けない話だろう。
 悠を信じるべきだった。辛い日々を経ても尚、きちんと人を思い遣れる彼を、大切な自分の領域に将基が入ることを許してくれた彼を、自分は決して欺くべきではなかった。
 今一番苦しいのは、再会する前よりももっと、悠を孤独にしてしまったのではないかということだ。
『バカみたいだ、こんな……、俺ばっかり』
 悠はその後に、何と言おうとしたのだろう。彼も少しは、将基を特別に想ってくれていたのだろうか。
 悠と揃いのカレンダーは、まだ表紙のまま寂しげに壁に掛けられている。
(やっぱり会いに行こう。心から謝って、そして今度こそ本当の気持ちを告げよう)
 鍵と財布と携帯だけを掴むと、将基は部屋を出た。すると思いがけず目の前を白い物が舞っていて立ち止まる。
「うわ、雪か」
 ぶるりと身を震わせ、傘を持ってエレベーターホールへ向かう途中、何気なく下を見ると、マンション前の道の端に、見覚えのあるコートを着た小さな人影が立っていた。
(まさか)
 開いたエレベーターに乗り込み、一階まで降りると、逸る気持ちのまま駆け出した。
 傘もささずに立っていたその人は、駆け寄る将基の姿を認めると、ハッと顔を強張らせた。
「眞瀬!」
 ビクリと肩を震わせ、逃げようとしたところを、将基の手が捕まえる。触れたコートは冷たくて、強引に掴んだ手は氷のようだった。髪にも雪がうっすらと積もっている。
「何やってんだ、こんなに冷え切って!」
 有無を言わさず引きずるようにして、今出たばかりの部屋へと悠を連れ帰った。 
 すぐに風呂に入らせ、その間に濡れた彼の服をエアコンの傍に吊るす。そのときコートのポケットから何かが落ちて拾い上げると、あの時の生徒手帳だった。
 これを持って将基に会いに来たけれど、勇気が出ずにあそこで立ち竦んでいたのだろう。
 将基は手帳が濡れていないことを確認すると、そっとコートのポケットへと戻した。 
 悠が風呂から出てくると、自分の服を着させて、さらに毛布でくるんだ。ソファに座らせて温かいココアを飲ませる。悠は小さな子供のようにされるがままだった。
「ごめん、…ありがとう」
 悠がポツリと言う。
「寒くないか?」
「大丈夫」
 その言葉通り、彼の頬に赤みが戻ってきたことを確認すると、将基はソファの前に両膝をついた。
 その真剣な眼差しを受けて、悠がカップをテーブルに置く。将基はおそるおそる手を伸ばし、ぶかぶかのセーターの袖口から出た指先を掴んで、まっすぐに悠の瞳の奥を見つめた。
「ありがとう。来てくれて」
「……」
「済まなかった。嘘ついたこと。本当にごめん。でも傷つけるつもりはなかったんだ、ほんとに」
 悠はまだ不安げに将基を見つめている。
「お前がこの街に戻って来ていると聞いて、いてもたってもいられなくなって、駅に探しに行った。今でももし寂しい顔をしてるなら、傍で励ましたいと思った」
 悠の瞳がゆらゆらと揺れる。
「眞瀬には笑っていて欲しい。ほんとに、それだけなんだよ」
 くしゃりと悠の顔が歪む。それに慌てて肩を抱き寄せようとすると、悠は首を振った。両手を突っ張って身体を離そうとする悠に、激しい焦燥がこみあげる。
 やっぱりもう、駄目なのだろうか。
 ここへ来たのは、引導を渡すため?
「眞瀬」
 それでも諦めきれなくて、両肘を掴んで引き寄せようとすると、悠はまた弱々しく首を振り、悲しげに俯いた。
「ないから」
「え、」
「もう、ないんだ、……券が」
 ちいさく吐き出す声に、たまらなくなって強引に抱き寄せる。
 何故だか、無性に泣けてきた。涙を堪える代わりに、抱き締める腕に力をこめる。
「あんなの、そばにいるための口実に決まってるだろ……!」
 愛しくて、胸が痛い。
「あんたは、愛されるために生まれてきたんだよ」
 言葉が自然に零れ落ちていた。 
「それと同じくらい、誰かを幸せにするために、ここにいるんだ」
 ビクンと悠が身体を震わせる。
「だって俺は、今こうしてあんたを抱き締めてるだけで、どうしようもなく幸せなんだからな」
 みっともないほど、声が震えた。それが伝わったのか、悠の身体は急速に強張りを解き、その代わりに、今度はすがるみたいに将基の背中を抱き返してくれた。
「もう絶対…あんなことするな」
「あんなこと?」
「酔ったまま、道に座ったりするな」
 何を責められるかと身構えていたら、思いがけないことを言われて茫然とする。
「本当に凍死でもしたらどうするつもりだったんだよ!!」
 将基のシャツの胸を両手で掴みながら、きつい目で見つめてくる姿に心臓がドクンと跳ねた。
(俺のこと、本気で心配して――)
 感動のあまり、すぐに言葉が出て来ない。
「聞いてるのかっ」 
「ああ、そうだな、ごめん、……ほんとにゴメン」
 掠れた声でやっと言うと、悠は額を将基の鎖骨辺りにトン、と当てた。
「おまえは、ばかだ」
 力なく言う。それがたまらなく可愛くて、愛しくて、もうどうにもならなくなった将基は、腕に余る細い身体を、懐深くに強く強く抱き締めた。
「好きだ」
 ハッと悠が顔をあげた瞬間、深く唇を奪った。
「ふあ……っ」
 仔犬のような、痩せた身体がふるっと震えて、大きく目を見開く。小さくて、想像以上に柔らかな唇は、痺れるほどに気持ち良くて、将基はすぐに夢中になった。
「ぁあっ……ん…ふ…ぅ……」
 濡れて滑る唇を執拗に重ね合せると、悠は次第に艶めかしい声を洩らし始めた。息苦しさにその唇が開かれると、将基はすぐに熱い舌を潜り込ませ、怯えて縮こまる、薄くて小さな舌を強引に絡め取る。それはとろりとして熱くぬめり、とてつもなく淫らな感覚を将基にもたらした。
「あふぅっ……、んんッ……ふ――ッ」
 舌の付け根を何度もくすぐり、口腔全体を舐め、ぬるぬるになった唇をついばんでから再び口内を犯す。敏感な上顎をザラリと舐めあげると悠の腰がガクガクと震えてついに陥落した。
「はあっ…はあ……ぁ、ぁ……ぁ」
 顔を真っ赤にして、潤み切った目でキスの余韻に震える悠は、ふるいつきたくなる可愛さだった。
「くそっ、…なんでそんな可愛いんだよ!」
 参ったという風に将基が荒い息のまま告げると、悠はぷっくりと紅く腫れあがった唇を震わせる。
「お前は?」
「――え」
「俺の事、どう思ってる」
 両肩を掴みながら、真剣な目で訊く。祈るような気持ちだった。こんなにも誰かの気持ちを知るのが怖いと思ったことはない。
 傷つけておいて何を、と思われるかもしれない。けれど、どうしても悠が欲しかった。
 どうしても、どうしても欲しかった。
 答えを待ち切れずに再び覆い被さろうとした時、悠が小さく何かを言った。
 ん? と慌ててその顔を覗き込む。悠は耳まで真っ赤になって俯いた。
「……嫌いだったら、あんな風に、触らせたりしない。……こんな、キス、とか…も」
「眞瀬……!」
 身体の芯が痺れるような、眩暈にも似た喜びが将基の中で爆発する。
「ほんとか、ほんとだな!?」
 ストレート過ぎる喜びように悠は戸惑った顔で何度か瞬きを繰り返し、それから一つしっかりと頷いた。
「よ、よし! よしッ!!」
 思わず両拳を握り締める将基を、悠は目を見開いて見つめ、それから恥ずかしそうに笑った。
 今までに見たどれよりも可愛い笑顔に、心臓の中心を撃ち抜かれる。
「眞瀬!」
「で、でも! 今日は、……いきなりは、怖い、から」
 将基の状態に不安を覚えたらしい悠は、手の甲で濡れた唇を押さえながら、真っ赤な顔のまま早口に告げた。
「う、…………分かった」
 狂おしいほどの熱が身体中に渦巻いていたが、将基は必死に欲望を押し殺し、何よりも尊い「心」を悠が預けてくれたことに、泣きたいほどの感謝と喜びを感じていた。
 


 雪は夕方になっても降り続いていた。互いに明日からは仕事なので、将基は悠を途中まで送っていくことにした。ボタン雪が舞う中、肩を並べて歩く。
 九年前、こうして並んで歩いた時のことを想っているのは、将基だけではないだろう。
「……あの頃は、いつも歯がゆかった。俺はほんとに子供で、眞瀬が傷ついてることに気付いてたのに、なんにも出来なくて。自分が情けなかった。……身の程知らずかもしれないけど、俺は、あんたをあの場所から連れ出したかったんだ」
 苦しげに吐き出す将基をチラと見上げて、悠は俯いた。
「……知ってたよ。黒宮が、そう思ってくれてたこと。黒宮はいつも優しかった。体育とか、何かの実験とか、誰かと組まなきゃならない時、黒宮はいつも俺に声かけてくれた。誰もいないから組んでくれないかって。お前には、たくさん友達がいたのにね。……いつも俺を気にかけてくれてた。何も返せなかったけど、感謝してたんだ。……ずっと、忘れなかった」
 思いがけない告白に目を瞠る。
「独りになった時、この街へ戻って来たのも、ここが唯一、懐かしく思える場所だったからなんだ。いいことなんてほとんどなかったけど、黒宮とのことだけは、思い出すとあったかくて、幸せだった。それがあったから…多分、歩いてこられた」
 ありがとう、と将基をまっすぐに見て悠が告げる。
 そのひと言は、痺れるほどに将基の心を震わせた。
「俺もだ。眞瀬のことを思うと、懐かしくて、そのたびにいつも逢いたくなった」
 二人はいつのまにか足を止めて、向き合っていた。雪のように白い悠の顔を、将基はじっと見つめる。その瞳には自分が映っている。悠だけを見つめている自分が。
 道のブロック塀に身を寄せて、車道側に傘を傾け、将基は身をかがめて素早く悠の唇を奪った。
「あッ」
 冷たい唇が離れるとすぐ、悠の頬が恥じらいに紅く染まった。将基は小さく笑い、悠の手を取る。
「やっぱり今から正月をやり直そう。あのアパートへ帰って。新しい一年がもっともっと良くなるように一緒に祝おう。…親父さんも、一緒に」
 悠はハッと将基を見上げ、それからうっすらと目を潤ませながら微笑んで頷くと、将基の手をしっかりと握り返した。


行原荒野
グッジョブ
コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。