エロあり/時代モノ/メリーバッドエンド
―こいつの兄者はいいなあ、羨ましいなあ 男の肩越しから覗く満月を見ながら、蝉丸も自らきつく男を抱きしめた。
中秋の名月とは名ばかりで夜空には墨色の雲が垂れこめていた。草木も眠る丑三つ時、辺りは静寂に満ちている。
夜目が利く蝉丸は追手が来ないと確信すると、頬の切り傷を指の腹で拭った。先ほど主(あるじ)に呼ばれ茶屋へ入った際、その手下が蝉丸に斬りつけてきた時の傷だ。
主とは北町奉行所の町与力の事で、蝉丸はこの与力に仕える忍者だった。この町与力、手下に恐喝や強盗その上人殺しまでさせるなかなか黒い男だったが、大きな戦乱の無いこの世で忍びが生き残るのに今や選択肢など無い。
見目だけは整っていた蝉丸は好色な与力に近づき、ありとあらゆる手管を使ってモノにした。小さい頃からうつけ呼ばわりされていた蝉丸にとっては大出世だったが、それから二年。それは与力の申すまま不条理に人を殺め続けた二年間でもあって、積み重ねるごとに徐々に蝉丸の精神もすり減っていった。
―今日もまた人を殺めちまったなあ
与力の裏切りより、再び人を殺めてしまった事実の方が蝉丸の心を締め付けた。今日一瞬でも襲われる立場を経験したからか、罪悪感が心の中でとぐろを巻き動悸が激しくなる。蝉丸は立っていられなくなり、その場にうずくまった。
すると腰に巻に巻いている輪帯が何故かしくしくと腹に差し込む。装束の輪帯はちょっとした隠しポケットになっているので何を入れたか探ってみると、出てきたのは簪(かんざし)で、先に翡翠の玉が刺さった玉簪だった。
―こりゃ何だ?
簪など自分で買うはずもないから誰かに貰った違いないが・・・もしや人を殺めた日は必ず男と寝るからその誰かからかもしれない。
ならば行きずりの男の貢ぎ物などいらぬ―蝉丸は簪を地面に叩き付けようとした。
けれど何故か捨てることが憚られて、振り上げた手を止める。無意識が蝉丸の動作を阻む事など初めてで、蝉丸は頭を捻った。
「また、頭から抜けちまったか」
蝉丸は早々に記憶を辿るのを放棄した。
人は些細な事や昔の事を順に忘れてゆくけれど、蝉丸の場合は少し違う。
蝉丸の頭の中の記憶は一つ一つ魚の鱗の様になっていて、何かの拍子にパラリと剥がれ落ちる。例えば一年前の昨日の夕餉はすぐ思い出せるが昨日の夕餉は思い出せないし、ちらりとだけ見た物乞いの顔は思い出せても、大事であろう簪をくれた相手は思い出せない。まるで誰かに操られているかの様に、自分の意思と関係なくその時の記憶が突如抜け落ちる。だから常に記憶が曖昧で、誰と昔話をしても辻褄が合わず、蝉丸がうつけと呼ばれる由縁もそこからきたものだった。
簪を見ていた視界がぼやけ、蝉丸は再び簪を仕舞う。
変な感情が入り乱れたせいか動悸に加えてめまいもしてきたようだ。ぐわんぐわんと耳鳴りもする。
蝉丸は耐えきれなくなって目を閉じた。すると瞼の裏に見えないはずの星が見えた。その星は瞬くというより蠢いて見えて気色が悪い―そう思った瞬間に蝉丸の視界は暗転し、そのまま意識の底へ落ちていった。
蝉丸が目を開けると未だ闇の中に居た。妙に暖かいと思ったら餅布団の上に居て、誰かに助けられたのだと理解した。見渡すと飾り程度の土間と六畳ほどの板の間あり、内職の品なのか傘張りした傘が所狭しに置いてある。また砂埃が通り抜ける建付けの悪い壁には書物がずらりと並んでおり、その本を背にして誰かが寝ていた。
寝ていたのは浪人のようだった。瞼を閉じた頬の削げた顔は端正であったが、大きな体躯に着流しが合っておらず、むき出しの膝頭が幼さを感じさせた。
だが―蝉丸の目は一瞬で釘付けになる。はだけた胸元から覗く厚い胸板は何故か妙な色香を放っていた。
襲っちまおうか―
今日はまだ誰とも寝ていなくて正直くさくさしている。睡姦するのは気が引けるが、この男だって下心から蝉丸を助けたと考えられなくもない。蝉丸は華奢な体躯と美麗な容姿の為か、くノ一に間違えられることがままある。
穴があれば女も男も一緒。どうせ助けたなら最後まで面倒見てくれよ―
開き直った蝉丸は男の身体にまたがった。男の褌の紐を解き、くったりした陰茎をもみしだく。体に比例して男のそこも大層立派で、蝉丸はたまらなくなって男の股間に顔を埋めた。
「何者・・・っ」
蝉丸は咥えたまま声の方を見やると、体を戦慄かせた男が蝉丸を見下ろしていた。
「ああ、助けてもらったお礼をしようかと思・・・」
言い終わらないうちに装束を掴まれて、蝉丸は土間まで吹っ飛んだ。しかし上手く体を翻し、蝉丸は素早く天井へ移動する。
「ふ、ふざけるな!無礼者!」
暗闇で蝉丸の姿が見えない男に上からおぶさると、蝉丸は男の耳朶を強く噛んだ。
男は雷に打たれたように一瞬身体を強張らせ、やがて息を荒くしてその場に倒れこむ。蝉丸はにやりと口角を上げると、丸腰の男に再び馬乗りになった。
「すこ―し気持ちよくしてやろうとしたのにお前さん。腰が砕けるなんざぁ相当の好きモノだな」
「貴様・・・何をした・・・」
男の切れ長の目の奥に欲情の陰が見えて、蝉丸の下半身が鈍く疼く。
「耳朶に媚薬を塗っただけさあ。人が感じるとこってのは、薬の回りもいいもんだってね」
蝉丸は嬉々として自分の装束も脱ぎ捨てると、自らの手で自分の尻を解し始めた。
「な、何・・・何をしている・・」
くちゅ、くちゅ・・・と水音が聞こえ、蝉丸の息遣いが忙しなくなる。
「き、聞こえない?ほら・・・あんたの・・を・・・欲しがっている音」
「や、やめろ」
「だいじょうぶ・・あんたはただ・・・寝転がっていれば、い・・い」
蝉丸は自ら解した尻を高く上げ、男の反り上がった塊をゆっくりと尻の合間に招き入れた。
「あ―・・・・」
指など比較にならないほどの快楽に、背筋が震える。
蝉丸は男の腰骨を両手で掴み、男の刀剣に自らを抜き差しした。
押し寄せる快楽と共に、先ほどの血生臭い記憶がバラバラに切り裂かれてゆく気がする。
「く・・・っ」
男が蝉丸の下で喘いだ。
男も同じ感覚であると悟ると、それだけで快楽の水位はぐっと上がる。蝉丸はぺろりと舌をだし、角度を変えて再び腰を落とそうとした。
その時だった。壁の隙間から月明かりが漏れ蝉丸の全身を明るく照らした。
その瞬間男が呆けたように口を開け、目を見開いた。
「あ、兄者・・・」
「は?」
「兄者か?某(それがし)の兄者なのか・・・?」
長い腕が伸びてきて蝉丸に触れようと宙を掴む。蝉丸はそれを払いのけると、頭の中であれこれ考えを巡らせた。
男に盛った媚薬はケシの草が含まれており、人によって幻覚が見えることもある。幻覚は殊に人の潜在意識と関わりが深い為、思慕する相手に似た雰囲気の人物を本人と勘違いする事はよくあることだが、この状況下で勘違いしたとなると・・・この男、実の兄と共寝する願望が潜在意識の中にあったと言える。
何とも物好きな男よ―蝉丸は少し呆れたが、直ぐに持ち前の鷹揚さで思い立つ。
―ならば、今だけおれが兄者に成り代わればいいか
そうすれば男もその気になって、上手く事が運ぶ気がしてきた。
そうと決めた蝉丸は、男の問いに対し大きく頷き涙交じりに訴える。
「ずっとお前と・・・こうしたくて・・・」
男の息を呑む姿に、蝉丸は密かにほくそ笑む。
すると急に腕を引っ張られ、いつの間にか蝉丸が男を見上げる立場になってしまった。
「な、何をする!」
男が蝉丸の手首をぎりぎりと絞め上げる。
「ならば・・・どうして二年前、急に某の前から姿を消したのですか?」
「そ、それは・・・」
言葉に詰まり顔をそむけると、顎を掴まれ無理やり前を向かされた。
「あいかわらず、兄者は嘘が苦手だ・・・」
一瞬泣いたように顔を歪めると男は強く唇を押し付けてきた。すぐさま歯列の間から舌が割り込んできて、食べられるかと思うくらい口腔内を吸い上げられる。
「んふ・・っ」
頭の先が痺れ、つま先が立ち上がる。蝉丸は強く男の身体を押し返すと、上がった息で訴えた。
「や、やめろ・・・っおれが、おれがやってやるから」
男は表情の無いまま蝉丸を見つめていたかと思うと、急に視界から居なくなった。
「ひっ・・・!」
蝉丸の背筋に稲妻が走る。男が反り立った蝉丸の陰茎を咥えたからだ。自分の指で尻を解して自ら腰を振る。それが蝉丸の知る共寝であって、これまで自分の秘部に他人の舌が這うことは一度として無かった。
蝉丸は猛烈に恥ずかしくなって、足の踵で男の背中を蹴り上げようとしたが、力の抜けた下半身は蝉丸の意思に反して言うことを聴かない。そればかりか男の舌は、いつの間にか窄みまで入り込んでいて、蝉丸はのけ反る体を必死に堪えた。
「ん、あ・・・っ」
思わず声を上げてしまい慌てて両手で口を覆うと、不意に大きな体が蝉丸に覆いかぶさってきた。
「すまねえ」
掠れた男の声と共に、しとどに解されたそこに張り詰めたものを穿たれる。
「あ―・・・っ」
身体が勝手に跳ねて、蝉丸の腹を熱いものが飛び散った。
絞られる様な快感の狭間、自分より早く達してしまった蝉丸を締まりが悪くなるだろうと殴った男達が蘇る。だから大きな掌が頬を掠めた時、蝉丸は殴られると身を固くした。
しかし男の掌は拳を作らず、おずおずとした様子で蝉丸を抱きしめる。するとゆっくり密着する男の肌にニチャリと蝉丸の精液のつく音がした。
蝉丸は半狂乱になりながら下から男の身体を押し返したが、体重を懸けた抱擁になすすべもなく代わりに骨が軋むほど抱きしめられた。
―汚くないのだろうか?蝉丸の放ったものなど、馬鹿がうつると誰一人触りもしなかったのに
「兄者・・・兄者・・・」
男は蝉丸の首筋に顔を埋め、何度も繰り返しつぶやく。
蝉丸はやっと我に返った。
―今おれはこの男の兄者だった
蝉丸は男の広い背中に手を回し、あやすように癖のある髪の毛を梳いた。密着した肌が心地よく、身体の力が抜けてゆく。
―こいつの兄者はいいなあ、羨ましいなあ
男の肩越しから覗く満月を見ながら、蝉丸も自らきつく男を抱きしめた。
壁穴から差し込む光で蝉丸は目覚めた。男の重みとは違う羽織の掛かった感覚に一抹の寂しさを覚える。蝉丸は男の姿を探すと、男は内職の傘張りをしていた。
結局あの後抱き合ったまま寝てしまった事を思い出し、ふと、男だけ昨晩達していなかった事に気がついた。
・・・大丈夫だったのだろうか?同じ男として辛さはよく分かる。一言声をかけようか。でもどのように?向こうも気まずいだけだろう。いやしかし・・・そう思っているうちに、男に助けてもらった礼もまだだった事に気づいた。
蝉丸はあれこれ逡巡したが意を決し、羽織を纏うと四つん這いのまま男に近づいた。
間近に来た蝉丸ははっとする。男の耳が真っ赤に染まっている。蝉丸は急に居心地が悪くなって、そのまま引き返そうとすると不意に手首を引っ張られた。
「に、逃げなくても、よいではないか・・・」
男が蝉丸に向き直る。明るい日の下で初めて見た男の顔はまだ未完成な雄の顔をしていた。
男は蝉丸をじっと見据えると、即座に両手をつき額を地面にこすりつけた。
「昨夜は大変・・・大変ご無礼をいたした!」
突飛な男の土下座に、蝉丸は訳が分からず目を白黒させる。
「人違いして共寝をするなど、手籠めにしたのと同じこと」
ああなるほど、蝉丸は瞬時に理解した。
―朝気づいたら胸に抱いていたのが知らぬ男で焦った訳か・・・・
分かっていたのに気落ちする。好んで兄者を演じたのに、それがこんなに胸を締め付けようとは思いもよらぬ事だった。
「いいよ、別に。そもそもおれがお前さんの兄者の振りをしてアンタに付け込んだんだし」
蝉丸が素気無く言うと男がぐっとなり、今度は顔色が青くなった。赤くなったり青くなったり気忙しい男だと思っていると、男がいきなり脇座の鞘を抜き、刀を自らの腹に押し当てた。
「お、おい!ちょっと何してんの!」
「こんな辱めを受けるなど武士の恥!潔く腹を掻っ捌く!」
「やめろって!」
[嫌だ、離せ!]
散々攻防戦を繰り返し、ようやく男に刀を落とさせた頃には、二人とも息が完全に上がっていた。
「お前さん・・あ、案外強情だな」
「・・・そ、そなたこそ」
真顔で見合った二人だったが、男の不貞腐れて尖った口が何とも可愛らしく、蝉丸は先に噴出してしまった。
「人の顔を見て笑うとは、無礼な」
「ああ、すまねえ。・・・なあ、お前さんも笑えよ」
蝉丸は素早く男の懐に入るとわき腹をくすぐった。思った通り男は感じやすい質らしく、手足をバタバタさせて転がり、ヒイヒイ言いながら笑う。
「や、やめろ・・・っ!ははっ・・・やめてくれ・・・っ」
真顔の時に相反するように、屈託なく笑う笑顔がいい。まるで大輪の花が咲いたようだ。くすぐりながら男の顔を陶然と眺めていた蝉丸は、妙な既視感を感じた。けれどすぐさま首を振る。久しぶりに好みの男の笑顔を見て、きっと自分は舞い上がっている。
蝉丸は手を緩めると、再び男の前に座り直した。
「なあ、お前さんの兄者が戻るまででいいから、おれがここに居てもいいか?」
「え?」
はだけた着流しを直していた男は眉を寄せた。
「おれをお前さんの兄者の代わりに使ってくれよ。何ならまた一緒に寝てもいい―」
「やめろ!」
男は素早い動作で、蝉丸の鼻先に刀を突きだした。
男の射抜くような眼差しに、蝉丸の背筋がぞくりと震える。
―ああ、この粗削りな若者は腐っても武士なのだ
蝉丸の本能が疼きだす。こんな男に自分は一度でもいいから仕えたいと思っていた。
蝉丸は男の前で片膝をつき首を垂れた。
「すまなかった・・・ならばこうしよう。おれがそなたに仕える忍びになるというのは―」
蝉丸の打って変わった慇懃な態度に男はゆっくり刀を仕舞う。
「昨晩あのような時刻に外をうろついていたのは、兄上を探す為でござろう?」
男の眉頭がピクリと動いた。町の木戸が閉まるのは四ツ時で、それ以降外をうろつくのは禁じられている。この生真面目そうな男が掟を破るなど、考えられるのは一つしかない。
「ならばそなたの兄上を探す代りに、おれをこの家に置いてはくれぬか?」
一気にまくしたてる蝉丸に、今度は男が目を白黒させた。
「待て、某は長屋暮らしの貧乏浪人。そなたを雇う金など持ち合わせておらぬ」
「金などいらん。ここに置いてさえくれれば。頭は悪いがおれは手先が割と器用だ。傘張りもできるし、飯炊きもできる」
飯炊きと言った時、男の瞳が僅かに揺らいだのを蝉丸は見逃さなかった。
「好きなものは何でも作ってやる。食材はおれが調達する。少しなら蓄えもあるし」
うんと言え早く・・・蝉丸は心の中で懇願する。ここで男が頷いてくれるなら、一生分の運を使い果たしてもいい。
男は散々考えあぐねていたが、兄を一刻も早く探しだしたいのか、はたまた育ち盛りの食欲に負けたのか最後にはぎこちなく頷いた。
叫び出したいほどの喜びを抑え、蝉丸は再び片膝をつき首を垂れた。
「ならば主、名前を教えて下され」
男は苦い顔をして、ぐしゃぐしゃと頭を掻くとこう言った。
「敬語はいらぬ。その堅苦しい動作も。兄者にされているようで心地が悪い」
男の率直な物言いに可笑しさがこみ上げてくる。この男の為に何かしてやりたくなるのは、この男の素直さに蝉丸が強く心打たれたからだった。
「某の名は麻井心平太」
あざいしんぺいた―頭の中で繰り返す。この名だけは絶対に忘れまいと蝉丸は心に誓う。
「そなたは?」
「ああ、おれかい?おれは蝉丸」
「蝉丸」
「なんだい?」
心平太が気まずそうにそっぽを向いた。人の名前を呼んで照れるなど、どこまで初心な男だろう。
「い、いいから早く何か履いてくれ。先ほどから目、目のやり場に困っていた」
蝉丸は下を見て驚愕した。起きてからずっと蝉丸の下半身はむき出しのままだった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夏の名残のある蒸し暑い晩だった。
「蝉丸」
心平太に呼ばれ、蝉丸は煮しめの味見をしていた椀を置いた。
心平太と暮らすようになって出会った時と同じ季節が廻ろうとしている。
蝉丸は穏やかな毎日にこれ以上ない幸福を感じていた。初めこそ固い表情だった心平太も、蝉丸と寝食を共にした事で身体も一回り大きくなり、それに伴うように蝉丸に徐々に心を開いていった。
一方で心平太の兄者は相変わらず消息が掴めない。三年前心平太が病床に伏した際、一度出て行った兄者はふらっと帰ってまた何処かへ消えてしまったのだと言う。それきり兄者の姿を見てない・・・苦々しく話す心平太の表情が胸に刺さり、蝉丸は躍起になって方々を探したがそれらは全て空回りだった。
「早く来い」
心平太にせかされ、蝉丸は傍へ駆け寄る。見ると心平太の手に蝉の死骸が握られていた。また隙間だらけの壁から家に入ったのだ。
心平太はその死骸をじっと見つめ、蝉丸に問うた。
「・・・お前はなぜ、蝉丸と言うんだ?」
「何だい、不躾に」
「一度、聞いてみたかった」
自分の名の由来はあまり好きでは無いのだが、心平太に聞かれては答えない訳にもいかず、蝉丸は重い口を開いた。
「蝉ってのはあんなにうるさく鳴く癖に腹の中が空洞なのさ。おれもうるさい割に頭が空っぽなもんだから、皆にそう呼ばれるようになったんだ」
目を見開いて一言も発しない心平太に、蝉丸は居心地の悪さを感じた。まだ笑って肯定される方がいい。同情されるのはまっぴらだった。
「馬鹿だな」
やっと心平太がそれらしいことを発したので、蝉丸は胸を撫でおろす。
「だろう?おれは本当に馬鹿なんだ」
「・・・・馬鹿だな。お前には沢山の愛情が詰まっているというのに、それに気づけずにいる輩もおるのだな」
「・・・・・」
心平太は蝉の腹を愛おしそうに撫でると立ち上がった。
「墓をこさえてやろう、蝉丸」
心平太の誘いに無言で頷く。胸に熱いものがこみ上げて、蝉丸は声にならなかった。
その日の夜蝉丸はまた同じ夢を見た。何故か遠い所に自分が居て、それに近づこうとしても近づけない夢だ。ならばと思い、今日は遠くの自分に向かって叫ぼうとした。
刺すような視線を感じ振り向くと、鋭い視線の与力がこちらを見ている。すると蝉丸と目が合った途端遠くの自分を差し、顎でしゃくった。
蝉丸の背筋が凍り付く。・・・それは『殺せ』の合図だった。
「はあっ・・はあっはあっ」
うなされて蝉丸は目が覚めた。いつものようにすぐさま心平太の姿を探し、寝ている姿を見つけて安堵する。
あれ以来心平太とは寝ていない。今更、自ら心平太に手を出すなど恐れ多くてとても無理だ。心平太も何も求めて来ない所からすると、心平太の心は未だ兄上のものなのだと、蝉丸は改めて痛感する。
―ごめん、心平太・・・
蝉丸は心平太の寝床まで這ってゆき、大きな背中に張り付いた。いつもこうすれば夢の恐怖は薄れていく。
蝉丸は気づいていた。自分の気持ちは、主への忠誠心を優に超えている。
『秘するが花』
たとえそれに嘘偽りが無かったとしても、人に伝えるべきではない言葉もある―
小さい頃すべて明け透けに話をしてしまう蝉丸に誰かが言った言葉だった。
今心平太に本当の想いをぶちまけたら、心平太はきっと苦悩するだろう。かりそめの人間でも大切にする、その位情の濃い男だ。
蝉丸は大きく息を吸い、心平太の匂いで胸をいっぱいにした。
悟られないようにするのは得意だ。昔はそうやって沢山人を騙していたのだから。
雪がちらつくある晩のこと。蝉丸が夕餉の茶碗を洗って長屋に戻ると、心平太が眉間に皺を寄せ書物を読んでいた。こういう時の心平太は機嫌が悪い。よく考えてみれば、帰ってからずっと無口な気がした。
「心平太、久しぶりに町へ出てどうだった?」
今日は長屋の二軒先に住む年寄りに使いを頼まれ、心平太は朝から出かけていた。どんな事でも快く頼み事を引き受ける心平太を、蝉丸は本当に心の優しい男だと思う。兄上が親代わりだったというから、兄上もきっと同じだったに違いない。
『蝉丸の見目は兄者に似ているが中身は全然違うな。兄者はもっと清廉潔白で、蝉丸のような甘えたではなかったぞ』
心平太が言うには、どうも兄上は見た目に反して男気のあるお方だったらしい。蝉丸は心平太に甘えたと思われていたことは心外であったが、自分が兄上に勝っているとは到底思えないので、黙って聞いておいた。
心平太はちらりとだけ蝉丸を見て、再び書物に視線を戻す。
「そんなに面白いのか?おれにも見せてくれよ」
蝉丸は当初字が読めなかったが、心平太が根気よく蝉丸に字を教えてくれた。そのかいあって今は簡単な書物くらい読める。
蝉丸は心平太の背後に寄り、書物を覗き込もうとしたら急に本が閉じられた。
「何だよ。見せてくれたっていいだろう?」
「お前はすぐ男に無防備に近づく。今までそうやって何人たぶらかした?」
蝉丸は心平太の言葉に耳を疑った。
「今日町から帰るとき、茶店で蝉丸を見た。お前は女みたいな小袖を着て・・・男と楽しそうに喋っていた」
「ああ、あれは―」
心平太の兄者の行方を知るというから会った男だ。相手が男の場合、女の振りをして会う方が何かと都合がいい。結局この男の話は全て虚言で、確かに少し言い寄られたりもしたが、ちゃんと撒いて帰ってきた。
「違うそれは―」
言いかけて黙り込む。今までの自分の行いを考えると、安易に否定できない自分が居た。
「それは、何だ?早く申せ」
蝉丸が言葉に詰まっていると、焦れた心平太に組み敷かれた。
―自業自得だ
蝉丸は色のない顔で心平太を見つめた。自分は今まで誰一人として真摯に向かい合って来なかった。初めて愛した男に信用されないのも無理はない。
分かっているのに何故か目頭が熱くなり、蝉丸は口をぎゅっと真一文字に結んだ。
すると伸びてきた親指に蝉丸の両口端をぎゅ―っと外側に引っ張られた。
「痛いっ!痛いっ!」
「うるさい!某の心の方がもっと痛いわ!なぜ言わぬ?その男に本気で惚れたか?え?」
更に力を込められ口が裂けそうになり、蝉丸は横に大きく首を振った。
「あ、あいうへ(兄上)をひる(知る)おおこ(男)に、会った」
蝉丸の言葉に心平太の指が少し緩む。
「お、女の恰好をしていたのは、その方がより多くの情報を聞き出しやすいからで・・・すまない。結局何も得られなくて、その・・・」
蝉丸の上で心平太が固まって、バツが悪そうな顔をした。
「そ、それならそうと・・・なぜ、言わなかった?」
心平太は真意を確かめるように蝉丸を覗き込んだ。蝉丸は意を決し、心平太を見つめ返す。
「言えなかった、昔のおれは心平太の言った通りだったから。以前の忍びの任務だって身体を使って取っていたものだ。そしてその任務も・・・嫌な任務の後はまた男と寝た」
心平太の侮蔑の表情が見たくなくて目を逸らすと、少しして大きな掌が頬に添えられた。
「自分の過去を卑下するな、蝉丸。忍術や武術など何の役にも立たぬこの世で、お前は忍びであろうとする誇りの為に懸命に生きてきただけではないか」
「し、心平太・・・」
「さっきは取り乱した故あんな言葉を吐いてしまった・・・・本当に、すまない」
不意に身体が軋むほど強く抱き締められた。
「某は、確かに長い間兄者に懸想していた。けれどお前があの日の夜、某を抱きしめ返してくれた時気付いたのだ。某は兄者を抱きたかったのではない、ただ兄者に優しく抱き締められたかっただけのだと」
心平太は目を細め蝉丸を見つめた。
「兄者を見て、一度もこんな気持ちにはならなかった・・・某はお前が、どうしようもなく愛しい」
長い指が蝉丸の髪を梳き、再び頭ごと抱きしめられた。
「蝉丸。某のそばに、ずっと居てはくださらぬか?」
・・・何か言いたいのに鯉のように口がパクパクするだけで、蝉丸はうまく言葉が出ない。自分はどうしてしまったんだろう。まさか夢を見ているのではあるまいか。
蝉丸は心平太の背中に手を回した。蝉丸の大好きな広くて大きな背中。その背中を蝉丸はトントンと叩いた。確かめるように、夢なら覚めぬように何度も叩いた。
「痛いぞ、蝉丸」
心平太は身体を離し、涙で濡れた蝉丸の鼻先に自分の鼻先を擦りつける。
「蝉丸は本当に、某の背中が好きであるなあ」
蝉丸が目を見開くと、心平太はいたずらっぽく笑った。
「あっ・・あっ・・・」
蝉丸の身体中を心平太の唇が這い、長い指で捏ねあげられてゆく。自身が心平太の熱で蝋のように溶け、新しく形を作り変えられている様だった。
心平太の額から汗が流れ落ち、蝉丸は心平太を盗み見た。眉間に皺を寄せ欲情に悶える表情に胸が震え、狂おしいほどの愛しさがこみ上げてくる。
「大好き・・・心平太」
蝉丸は心平太の首に手を回し、耳元で囁いた。
「すき心平太、だいすき」
みるみる朱に染まってゆく心平太の耳元に蝉丸は滾々と訴える。心の内をさらけ出せる幸福に、蝉丸は陶酔していた。
「すき。ほんとうに、す・・・・」
不意に心平太の唇で蓋をされ、半開きのままの唇に舌を差し入れられた。
「ん・・・ふっ・・・ふぁ」
頭の先が痺れ、下半身が脈を打つ。蝉丸は我慢ができず両足を心平太の身体に巻き付けた。
「蝉丸」
心平太の掠れた声に蝉丸が深く頷くと、腰の付け根を撫で上げられ、そのまま高く持ち上げられた。
「ん・・・う―――」
溶け切った尻の合間に強烈な熱が侵入してくる。気圧された蝉丸の内壁は熱に焼かれ道をつくり、心平太の熱はどんどん蝉丸の内奥まで突き進んでゆく。
心平太を身体の奥深く吸い込むと、蝉丸は己の身体が開いたのが分かった。
「もう・・・」
心平太はどこか観念したように呟くと、獰猛な獣の様に蝉丸を深く高く突き上げた。
「ひ・・・っ」
その時だった。蝉丸は揺さぶられながら以前瞼の裏で見た星を見た。やはり蠢いている星に蝉丸は恐怖を覚える。それなのに律動する身体は徐々に熱を帯びてゆき、頭と身体がバラバラになった感覚が蝉丸にこの上ない快楽を呼び起こした。
「いや・・・・あっ・・・あ―――」
頭を打ち振って悶える蝉丸に呼応するように、蝉丸の中の心平太がぐっと強張った。
「う・・・くっ」
前触れも無しに、蝉丸の中に生温かい心平太の性が流れ込む。
その瞬間、無数の星が蝉丸の頭上に降り注ぎ、光で目の前が真っ白になった。
光の中にまた自分が居る。いつも近づけないはずなのに、こちらへやってきた。
しかし近くでよく見ると、その男は蝉丸では無かった。顔かたちは似ているが眼差しや唇に意志の強さを感じる。蝉丸は、はっとした。
『もしや、心平太の兄者では?』
蝉丸の呼びかけに男は哀しく頷くと、そのまま前に倒れこんだ。
男の背中が赤く染まって見え、蝉丸は慌てて駆け寄ると全身が凍り付いた。
――手裏剣の鈍い切り込みが、男の身体を引き裂いていた。
「あっ・・・あ――・・・っ」
身体の戦慄と共に現実に戻され、蝉丸の性が弾け飛んだ。
剥がれ落ちたはずの記憶の残像が、弛緩を繰り返す蝉丸の脳裏に徐々に組み込まれてゆき、それははっきりとした記憶を呼び起こした。
――おれが、おれが心平太の兄上を・・・
蝉丸は耐えられず、そのまま心平太の腕の中で意識を飛ばした。
こぼれる陽の光が瞼を照らし、蝉丸はゆっくりと目を開けた。飯の炊ける匂いが鼻腔をくすぐる。身体を起こすと、飯炊きはからきしダメな心平太が枕元に茶碗を用意していた。
「め、飯を作った。昨日、あのままお前は気を失ったから」
蝉丸の視線に気づいた心平太は、俯いたまま頭を掻いた。
「悪かった。昨日は夢中で・・・執拗だった気がするし。その、前触れもなく・・・」
自分が先に達してしまったことを詫びている、と蝉丸はすぐさま悟った。項垂れる心平太に蝉丸も慌てて返す。
「そんなの!前はおれがお前に入れられてすぐ!」
・・・いっちゃっただろう、と最後は恥ずかしさの余り小声になった。
何と色気のない後朝の会話だろう。それなのに目の前の馬鹿正直な男が一層愛しくて仕方ない。
二人は面映ゆくなり少し黙ると、心平太が沈黙に耐えかねて切り出した。
「か、粥を作った。食べやすい方がいいと思って・・・」
心平太は茶碗の汁を一匙すくって息を吹きかけ冷ますと、蝉丸の口元に運んだ。
喉越しに米の甘みが身体中に広がる。蝉丸が思わず美味しい・・・と洩らすと、蕾がほころぶように心平太が笑った。
こんな優しい男の大切な人をおれは・・・蝉丸は目を伏せる。今が余りにも幸せで、つい邪な考えが心を過った。
―黙っていようか?所詮誰も幸せになれぬ話だ。自分さえ黙っていればこんな日々がずっと続く。
蝉丸は心平太を見つめた。
そこには粥に息を吹きかけ冷めるのを待つ健気な男の姿があった。
―だがきっと心平太は待つだろう。二度と帰らぬ兄上を、ずっと・・・
どうしてそんな男の前で素知らぬ顔ができようか。自分は変わった。心平太に愛されて新しく作り変えられたのだと、蝉丸は確信していた。
「ふっ」
心平太が匙を運びながら急に笑ったので、蝉丸は心平太に目で問うた。
「いや・・兄者もこうやって某にしてくれたことが一度だけあったな、と」
心平太は懐かしそうに目を細めた。
「薬を飲ませてくれた。いつも厳しい兄者が・・・って嬉しくてなあ。今だ、と思った。某が兄者に似合うと思って内緒で買った簪をその時渡したのだ」
急に蝉丸の心音が、釣鐘を狂い鳴らした様に耳元でがんがんと響きだす。
「兄者は泣いているような笑顔で簪を受け取った。・・・今思うと、別れを覚悟していたのかもしれぬ」
蝉丸の全身から血が引いてゆく。輪帯の中の簪が蝉丸の腹を差し込んでくる気がした。
―だから、おれはあの簪を捨てられなかったのか・・・
すべてに合点がいった蝉丸は身を固くした。
「心平太、大事な話がある」
「何だ?」
「思い出したんだ・・・今、全てを」
蝉丸と心平太は胡坐をかいて向かい合った。長屋の外の喧騒が遠くに感じる。
蝉丸は震える声をぐっと堪え、話を始めた。
「三年前おれが奉行所に居た時の話だ。一人の男が金を貸してくれとやって来た。大概そういう輩というのは烏銭や高利貸しに手を付けて首が回らなくなった奴がほとんどで、そういう輩にちょいと怖い目を合わせてお引き取り願うってのが、おれ達影者の仕事だった」
「だがこの男、いつも来る輩と少し違ってさ。美麗な容姿に反してなかなかの剛健で、逃げるどころかお奉行様に会わせるまでここから動かないと言い出した。けれど逆にその威勢の良さが仇になっちまった」
心平太が首を傾げる。
「男は町与力に目をつけられたんだ。知っているか?北町奉行所の一番の権力者はお奉行様ではない。この町与力よ」
心平太の眉頭がピクリと動いた。
「心平太・・・昔おれは、この与力に飼われていたのよ」
あからさまに歪む心平太を直視できず、蝉丸は話を続けた。
「この町与力、金を貸してやると言葉巧みに男を誘うと自分の屋敷に連れこんだ。男が気づいた時には後の祭り。町与力に組み敷かれ、唇に吸い付かれた時だった。けれど男は渾身の力で与力の唇を噛み切って、一目散に逃げ出した」
蝉丸は大きく息を吐くと、静かに言った。
「一部始終を天井裏で見ていたおれは、与力の指示通り男の背中に手裏剣を投げつけ、無礼極まりない男を成した・・・その男は、おれとよく似た顔をしていた」
心平太の握り拳が白くなり、身体が震えている。
蝉丸は額をこれ以上ないほど擦りつけ、心平太に向かって土下座をした。
「すまない・・・すまない、心平太。何の罪もないお前の兄上を、おれが・・・」
心平太は弾かれた様に蝉丸にしがみつき、蝉丸の肩をゆさゆさと揺らした。
「う、嘘だ・・・嘘だ、そんなことあるはずがない!兄者は一度居なくなった後、再び戻ってきたのだぞ?先ほども話したろう?兄者は某に薬を飲ませてくれ、簪を受け取ってくれた!」
蝉丸は黙って立ち上がると、掛けてあった装束の輪帯から簪を取り出した。
簪に付いている翡翠玉が陽の光を受けてキラキラと輝く。心平太の目が大きく見開いた。
「なぜ・・・そなたが・・・」
「お前が簪を渡したのは、おれだったのさ。多分熱で頭が朦朧として、おれと兄者を間違えたんだ」
「・・・どういう事だ?」
「兄上は倒れた後まだ少し息があり、その時そばに居たおれにこう言った。家で病に苦しむ弟に薬を与えてやってくれ・・・と」
「・・・・・」
「心平太。兄上はそなたの薬代が欲しくて、奉行所まで金を借りにきたのではあるまいか」
「・・・・ああっ・・・う――――っ!!」
心平太は突っ伏すと、声を上げておんおんと泣いた。
手を差し伸べる事もできない蝉丸は呆然として、震える心平太の背中をただみつめていた。
『ごほっごほっごほっ』
小さい背中が苦しそうに息をする。蝉丸がさすってやると、子どもは少し落ち着いたようだった。蝉丸は懐から赤茶色の玉を取り出した。兵糧丸だ。兵糧丸とは氷砂糖にもち米や長芋、朝鮮人参などを混ぜたもので忍びの間に伝わる万能薬だ。
『これは、なあに』
子どもが心配そうに尋ねる。蝉丸は安心させるように子どもの頭を撫でた。
『甘いお薬だよ』
蝉丸は茶碗に兵糧丸を入れ、匙で細かく潰すと子どもの口元へ運んだ。
『おいしい・・・』
小さな花が咲いたように子どもは笑った。蝉丸の胸が温かくなると同時に、腹の底が冷えた。こんな幼子の兄上をおれは―得も言われぬ罪悪感に匙を持つ手が震える。
『寒いの?』
『いや・・・』
子どもは何やらごそごそしていると、急に蝉丸の手を握りしめてきた。紅葉のような手は熱く汗ばんでいる。
『これは?』
子どもが手を離すと掌に何か置かれていた。・・・簪だった。
『に、似合うと思ったから、買った』
『・・・・』
『お、怒った?男にこんなもの・・・』
子どもが上目遣いで蝉丸の様子を伺う。愛らしくて、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
『いや・・・ありがとう。嬉しい』
衝動をぐっと堪え、簪を輪帯の中に仕舞った。子どもはまた花の様な笑顔で笑うと、そのままふらりと身体を横たえ、安らかな寝息を立て始めた。
この子に自分が兄を殺した男だと知られる事は二度とない。
―すまない・・・すまない・・・
蝉丸は子どもの癖のある毛を梳きながら、言葉にならぬ懺悔を何度も何度も繰り返した。
蝉丸がはっと気が付くと、夜の帳が下りていた。心平太はひとしきり泣いた後、少し出てくると家を出たままだ。自分が出て行くと蝉丸は食らいついたが『お前は某が帰ってくるまで、必ずここに居ろ』と一喝され、蝉丸は大人しく心平太の帰りを待っていた。
―それにしても遅い・・・何かあったのだろうか
蝉丸は嫌な予感を打ち消すように首を振る。
すると外が急に騒がしくなった。どこかで半鐘が鳴っている。
蝉丸は長屋を飛び出すと、地面を蹴って黒蝶のように舞い上がった。
目にも止まらぬ速さで家々を飛び越え川を下り大名屋敷に近づくと、蝉丸は異変に気が付いた。北町奉行所の岡っ引きやその上の同心までが現れて往来を占拠している。奴らの顔つきが尋常ではない。上の誰かが襲われたのだ。
・・・上の誰か?蝉丸は自分の言葉を反芻する。
蝉丸のこめかみに嫌な汗が流れた。蝉丸は身を翻し、町与力の屋敷へ急いだ。
屋敷近くの社を抜ける時だった。裏の雑木林に人の気配がして、蝉丸は立ち止った。血の匂いが濃い。苦しそうに喘ぐ息で、蝉丸はすぐさま心平太とわかった。
「心平太!」
蝉丸は倒れる身体を抱きかかえた。心平太の身体は沢山の刀で切り裂かれ、口端からは流れた血は枯れ葉を赤く染めていた。
「はは、丸腰で逃げ出すとは武士失格だな」
蝉丸は涙ながらに首を横に振ると、震える手で頬を撫でられた。
「・・・もう一度、お前に会いたかった」
蝉丸は心平太の掌に頬を擦りつける。
「すまない、心平太・・・」
「何故お前が謝る?お前は忍びの誇りを以てして、任務を遂行したまでだ」
心平太は目を細めると、血だらけの掌を掲げた。出会った時と同じ満月が心平太の手を映し出す。
「確かに兄者が与力様に無礼を働いたのは悪かった・・・けれど、本当に兄者だけが悪いのか?殺さねばならぬ程の事だったのか?・・・お前を使ってまでして」
風が凪いで木々を揺らす。心平太は月明かりに照らされた蝉丸を見上げた。
「もう間違えぬ。お前は蝉丸だ。兄者ではない、某の大切な・・・」
心平太の息が荒くなる。蝉丸は震える手で懐に手を入れると、兵糧丸を取り出した。
「早く、これを・・・」
蝉丸は心平太の口元へ兵糧丸を持って行ったが、心平太は首を横に振った。
「どうして?!心平太、お願い!早く口を開けて!」
心平太は口を堅く閉じたまま穏やかな表情で蝉丸を見つめた。
「心平太・・・お願い・・・お願い・・・」
蝉丸は泣きながら懇願したが、心平太は薄く笑うだけだった。
「・・・少し、眠らせてくれ・・・」
心平太の頬に一筋の涙が零れ、心平太の身体はそのまま草むらに横たわった。
「心平太―――――・・・!!」
蝉丸は狂ったように叫び、心平太に縋りついた。
どうすれば良かった?何が悪かった?あの時、自分は確かに心平太に変えてもらった。だから真実を話せたのに。
けれど―それは誰の為だったのだろう?
耳元であの言葉がこだまする。誰かが言った、幼き日に聞いたあの言葉。
『秘するが花』
たとえそれに嘘偽りが無かったとしても、人に伝えるべきではない言葉もある―
―秘するが花
この言葉が蝉丸の身体を、心を、容赦なくぎりぎりと切り裂いていった。