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第4回 BL小説アワード「再会」

ハイヒール

女装/ビッチ/年の差

重い瞼を上げると、目の前の浅い水たまりに真っ赤なエナメルのハイヒールの脚が見えた。綺麗な脚だった。「なあに、濡れネズミね。このまま死ぬつもり?」

ピピン
グッジョブ

「ハイヒール」

 自分は何故こんな目に遭っているのだろう、とショウは思った。
 11月の霙に打たれ、尻の下のズボンは水たまりでぐっしょり濡れている。さっきまでゾクゾクと背中を這いあがってきていた寒気は、もう全身に染みとおっていた。
 顔面をまともに殴られた。鼻血で唇の上がカピカピする。口の中も切れているらしく、うんざりするほど鉄の味がした。
 もうあのラブホは使えないな、こんな状況だってのに、そんなことを思う。ショウが常宿にしていた、青いネオンが欠けてもう名前もわからないホテル。男同士でも何も言われない、安いうえに、すすきのに近くて便利だった。かび臭い布団には血が飛び散っているだろう。 自嘲的な笑みが浮かび上がってきた。
「いたっ…!」
 傷口がひきつった。
 ウリがやばい商売だということは、重々自分に言い聞かせてきたつもりで、客だって自分なりに選んできたつもりだ。
 今日は見誤った。
 優し気な身なりのいい男だった。笑顔が下品なのが気になったが。アパートの家賃を待ってもらうのが限界だった、ショウには後が無かったのだ。
 ホテルに入った途端、男は豹変した。ショウの鼻づらをいきなり殴り飛ばし、何度も殴った。それから、無理矢理、なにかの錠剤を口の中に押し込まれて、まもなく全身の力が入らなくなった。
 凌辱という名のセックス。無理やり何度も貫かれた身体。鈍麻してゆく意識。
 それでも、男が寝入ったすきに、ショウは急いで服を身に付け、逃げ出してきたのだ。ダウンを持ち出す暇はなかった。
 凍りつくような夜明けの道を、崩れ落ちそうな膝を叱咤して走って走って、ようやくこの路地にしゃがみこんだ。
 立たないと凍え死ぬ、何度も思う。この街では、冬に何人も凍死者が出る。自分もその一人になるのだろうか。
 何が間違っていたのだろう。何からやり直せばいいのだろう。
 昔は、ショウだって、普通に両親がいて、普通に中学に通って、普通の生活をしていたのだ。むしろ、比較的豊かな家庭の一人息子として、恵まれた生活を送っていたのかもしれない。
 きっかけは、よくあることで、父の自営業が破たんしたのだ。
 その日、父は失踪した。
 父はヤミ金にまで手を出していたらしい。
 ショウと母親は、わけもわからないまま、執拗な取り立てに悩まされることになった。夜昼となく響く怒号。近所中に広められた噂。
 ある夜、母は、ショウを連れて自宅から逃げ出した。
 それから、いくつものウィークリーマンション、安いラブホテルを、転々としたことだろう。追手を怯え、高校にだってもちろん通えなかった。
 そんな嵐のような日々を過ごして2年、今度は母が消えた。
 母が起き出したときに、気づかなかった自分を責めた。
 その一方で、「捨てられた」という言葉が、どうしようもなく浮かんできたのだ。
 何度もいくつもの「何故?」が心を空回りする。
 自分を責めても責めても状況は変わらない。ただ自分をじわじわと傷つけていくだけだ。
 まだ17歳だったショウが、街をさまよううちに明るい方明るい方へと魅かれていったのは自然ななりゆきだった。繁華街の灯はちっとも温かくなかったけれど、それでも自分が孤独ではないような、偽りの慰めをくれる気がした。
 ショウが、昼間は眠って、夜は繁華街を徘徊するようになって間もなく、最初の客に声をかけられた。
 あれが、そもそも失敗だったかもしれない、と思う。
 まだ17歳だった。初ものはもっと高く売るべきだった。ウリの相場もなにも知らなかったとはいえ、かなり安く買われたと思う。初めての身体をさんざん貪られた。今のショウなら決してしない危険な行為までやらされた。あれで底辺ぐせが付いてしまったのだと思う。
 街角に立って随分経つが、ショウのおどおどした目つきのせいか足元を見られることが多い。強く迫られるとイヤとは言えなくなってしまった。肌が白くて茶色の大きな瞳のショウはけっして容姿が悪いわけではない。しかし、食べるために何人もの男をくわえ込んできた、汚い自分の身体を思うと、どうしても強気に出られないのだ。
 ショウは、ときには、セックスがよかった相手には無料でやらせてしまうことがある。人肌が恋しくてたまらない。自分が気持ちよくしてもらったのだから、いいよね、と思う。刹那の情愛にかられて、男の首に自分の腕をからめる。だからといって、そんな男たちが、長続きしたりいい客になってくれたりするわけじゃない。
 冬の気温は夜明け前が一番下がる。ほわほわと身体が浮いてくるような気がした。ああ、危ない、と思った。
 ふいに、ちゃぱんっと水音がした。
 重い瞼を上げると、目の前の浅い水たまりに真っ赤なエナメルのハイヒールの脚が見えた。
 綺麗な脚だった。すっきりしたしなやかな筋肉が、揺らぎもせずに細いヒールをまっすぐ保っている。
 その脚にまとわりつくのは、銀のラメをちりばめた長いドレスのすそ。
 ショウは、急に目の前に現れた眩い色彩に、思わず視線を上げていった。
 真っ白いロング丈の毛皮のコート。長い豊かな金髪の巻き髪。鮮やかに塗られた唇はワインレッド。
 ショウを睥睨する、つけまつげに彩られた、切れ長の瞳。
「なあに、濡れネズミね。このまま死ぬつもり?」
 思いがけぬ色っぽいハスキーボイスを聞きながら、ショウの意識は途絶えた。

「ママ……」
 ショウは、自分のつぶやいた声で、深い眠りの底から目覚めた。
 なんだか花のようなよい匂いがする。
 この匂いでカン違いしたのだ。まったく19歳にもなって「ママ」はないだろうに。
 目を開けると、ショウは大きなベッドの上で、気持ちのよい寝具にくるまっていた。
「…いたっ!」
 目を見開くと、顔の筋肉の動きに引き攣れて痛みが走った。顔も身体もアザだらけだろうな、と思う。
 とにかくここはどこだろう、と部屋の中を見回していると、ドアの音がして、振り返った。
「あ、起きたね。どう? 痛いだろう?」
 細身の背の高い男が入ってきた。
 彼は、長い金髪を後ろでひっつめにし、灰色の光沢のあるシャツと黒いパンツを身に着けていた。そして、おもしろそうにショウを眺める切れ長の眼が特に印象的で… なんだか以前に見たことがあるようで……
「…ひとしちゃん……?」
「は?」
 男は訝しげに顔をしかめた。そのしかめ面で確信した。
「ひとしちゃん!!」
 彼が、眼を眇めて、ショウを見つめてきた。
「おまえ…? ……かけるくんか…!」
 そして、昨晩のハイヒールの持ち主は、彼だったのだ、とわかった。

 ひとしちゃんはむかしからちっともやさしくない。
と、窪塚翔(くぼづか・かける)は思っていた。
 でも、翔は、ひとしちゃんが大好きだった。
 ひとしちゃん―――椎名仁(しいな・ひとし)は、翔の12歳年上の従兄だ。翔が物ごころついた頃には、もう高校生だったはずだ。
 逢うのは、毎年のお盆か、親戚の法事だった。従兄弟たちの中で、男子は仁と翔だけだったので、彼はもっぱら翔のお守りを任されていたのだ。仁はあからさまに迷惑そうだった。
 親戚宅の庭。お墓の裏庭。彼は黙って翔を連れ回した。ときには、一人遊びをする翔をちらちら見ながら、文庫本を開くことさえあった。
 でも、翔は仁が大好きだった。一緒にいられるのが嬉しかった。「ねえ、ねえ」とさかんに話しかけてうるさがられても、仁といるのが楽しくて仕方がなかったのだ。
 翔は一人っ子だったので、仁が父親以外に初めて接する年上の男性だったからかもしれない。
 ひとしちゃんは、ぜったいにかけるをむししないもん。だからね、ひとしちゃんはほんとはやさしいんだよ。
 それは自分だけが知っている秘密のようで、胸がどきどきした。
 それに、かっこいいし。
 仁は、すらりと背が高く、手足も長かった。切れ長の理知的な眼が印象的だった。
 学校の成績もトップクラスだと、親戚の中で評判で、翔は誇らしかった。
 そんな仁は、高校卒業後、親戚中の期待に反して、美術大学に進学した。そんなところもかっこいいと思った。
 翔が仁と逢えたのは、仁が大学を卒業する年、翔が10歳になるまでのことだった。それ以来、翔は、親戚の冠婚葬祭の集まりに出るのが、憂鬱になった。
 仁は大学卒業後、大学院に進学し、やがて留学した、と、両親の会話から知った。
 遠いお盆の夏の日ざかりの中、お寺の裏庭で、翔は虫捕りをした。
 振り返って、「ひとしちゃん」と呼んでみる。
 大きな木の根方に座り込んだ仁が、「おう」と右手を上げる。
 また少し離れて、翔はまた振り返り「ひとしちゃん」と呼んでみた。
「おう。どうした? 便所か?」
「違うよ。ひとしちゃんいるかなーっと思って」
「ばーか」
 そんなやりとりがただただ楽しかったのだ。

 その「ひとしちゃん」が、今眼の前にいる。
 9年も逢っていないと容貌も変わるものだ。それは、自分も同じか。10歳の自分と、19歳になった自分は大違いだろう。なにより、世間の底辺ですっかり擦れて汚れてしまった自分なんて…
 翔は、ベッドの上でただただ呆けていたけれど。
 翔と違ってすぐ冷静になったらしい仁は部屋を出て行き、同い年くらいの男を伴い戻ってきた。
 男は、自分は医者だと名乗ると、翔を診察してくれた。
 ひどいな、とつぶやいた医者は、病院に行って写真を撮り警察に行くか、と尋ねてきた。
 翔はふるふると首を振って、拒絶した。
 警察で、自分の生業がバレてしまうのが、怖かった。
 彼は、仕方ないねと言って、翔の手当てをしてくれた。
「ま、縫わなきゃいけない傷がなくてよかったね。そうしたら病院に行かざるを得ないから。
これから、熱が出るかもしれないよ。気をつけてね。あんまりひどかったら、もう一度俺を呼びな。
シーナ、この子、お前のいい子?」
「違うよ。行きがかり上、拾っただけさ。余計なこと言ってないで、遅刻しそうなんじゃないの、先生」
「ちぇー、ありがとうの一つも言えよな」
「感謝してる」
 腕組みした仁が不愛想に応じたが、医者は仁に嬉しそうに笑いかけて、席を立った。
 仁と医者が去って、他人の気配が消えると、翔に猛烈な睡魔が襲ってきた。
 ドア再び開く音がしたが、もう目を開けていられない。
 あの医者が行った通り、熱が出てきたのかもしれない。
 翔は悪夢をくりかえし見た。
 日ざかりの中、あの墓場の裏の林の中で、翔は見失った仁を必死になって探していた。仁は現れては消え現われては消え、くりかえしくりかえし喪失の心細さが翔を襲い、悩ませる。
 ふと、額に心地よい冷たい感触を感じたような気がして、翔は安らいで深い眠りの中に落ちていった。

 翌日、翔は目を覚ました。久しぶりにぐっすり眠ったような気がする。昨日浮かされた熱はすっかり引いていた。
 人の気配を感じ、ぎょっとして振り返ると、ベッドの傍の椅子に座って、仁がうたた寝をしていた。
 ずっと付いていてくれたのだろうか。
 感激して顔を見つめていると、仁のまぶたが震えて、眼を覚ました。
「おはよう」
 我ながら間が抜けている、と思った。
「…おはよう。起きたのか。もう熱はないのか」
「たぶん」
 仁が差し出した体温計でおとなしく熱を測ったが、まだ微熱が残っていた。
「顔、とか、痛いだろう?」
「…うん。でも大したことないよ」
 翔は笑おうとして、走った痛みに顔を抑えた。
 仁は、じっとしばらく意味ありげに翔の顔を見つめてきた。そんなに見つめられるとどきどきする。
「お前さあ…」
「…う、うん」
「俺の実家に行く?」
「行かないっ!!」
 思わず悲鳴のように叫んでいた。
 仁の父親は、翔の母の兄だ。その家に行ったら、これまでのことを全部話さざるを得ないだろう。
「叔母さんは?」
「…いない」
「ふーん」
 仁が何を思ったのかわからなかった。
 彼はただ黙って部屋を出て行くと、ヨーグルトを入れた器を持ってきた。
 一度シャワーを浴びるように促され、傷をかばいながら寝汗を流してあがると、脱衣所に仁のだろう大きめのパジャマが用意されていた。
 その日は、翔は再びただひたすら眠った。きちんと洗濯されたパジャマの感触は快く、今度は夢も見ないで眠った。
 隣のリビングから、仁が何回か様子を見に来るのが、わかった。
 夕方になると、仁がシャワーを浴びたばかりと見られるバスローブ姿で、髪をぬぐいながら、やってきた。
「翔くんさぁ、具合はどう?」
「もう大丈夫」
 出て行け、と言われるのだろうな、と悲しくなった。
「じゃあ、悪いけど留守番できる?」
「…留守番?」
「寝ていればいいから。俺、仕事に行かなきゃならない」
 翔はきょとんとした。じゃあ、まだ出て行かなくてもいいのだ。
 仁は、ベッドの脇にあった白いドレッサーの椅子に座ると、ドライヤーで長い金髪を乾かし始めた。コテを使って幾本もの大きな巻き髪を作る。
 次に小さなスチームを顔にあてながら、たっぷりとクリームを塗りこんだ。そのクリームを全部コットンでぬぐい取ると、更にコットンに何かの化粧水を浸み込ませ、ピタピタと顔を抑えていく。
「ひとしちゃん」
「ヒトシちゃん、言うな」
 仁の眉がきりりとひそめられ、鏡越しに翔をにらんだ。
「…じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「……シーナ…」
「それ名字じゃん」
「いいんだよ。『シーナ』で通っているんだから」
「…シーナ…さん…、…シーナさんは、おねえなの?」
 仁、いやシーナがしかめ面でくるりと振りかえった。
「答えにくい質問をする子だわねえ」
「…ごめん」
「そうとも言うね。…あら、いけない、シワがよる」
 シーナはそう言うと、鏡に向き直って、化粧水のコットンを眉間にあてた。
 綿棒で薄い肌色を点々と顔に落としていく。どうやら顔色の調節をしているらしい。
 更に大きな面積に、白っぽい色を拡げていく。
 それは何? と訊いたら、化粧下地よといらえが返ってきた。
「これは、リキッドファンデーション」
 楽しそうに言うと、シーナは小さなボトルのそれをスポンジで顔全体に伸ばし始めた。
「あのさ…、いつから?」
「いつからって何がよ?」
「いつからおねぇだったの」
「……。さあ、知らないわ」
 見事だ、と思った。化粧が進むごとに、仁は「女」になっていく。さっきまでの不愛想な口ぶりはなりを潜め、声がだんだん甘く鼻にかかっていった。
 一昨日見たハイヒールの美女は、やっぱりシーナだったのだと、翔は確信した。
 リキッドファンデーションとやらを塗るときはひと際熱心で、シーナは鏡をのぞきこみ、何度も塗り重ねて顔色を調整していく。
 次はパウダーファンデーション。次はシャドー。次はハイライト……
 翔は頭がくらくらしてきた。女の化粧とはどれくらいの段階があるのだろう。少なくとも翔の母はここまでの時間をかけなかったと思う。
 でも、シーナがどんどん変身していく様には目が離せなかった。
「あ! シーナって。もしかしてシーナさん、『夜啼鳥(ナイチンゲール)』のシーナママ?」
 鏡の中で、シーナが塗りかけの赤い唇で艶然と微笑んだ。
「あぁら、そんな有名人?」
「うん」
 翔には笑い事ではなかった。
 ウリ専の子の中で、「夜啼鳥」のシーナママは有名だった。
 「世界一ハイヒールが似合うオトコ」、それが代名詞。
 ただし、仲間内では、いわく、シーナママは「ウリの子に厳しい」「ウリを毛虫のように嫌っている」「客と一緒に『夜啼鳥』に行ったら、問答無用でヒールで蹴りだされた」云々
 シーナは、小路に座り込んでいた自分の素性におおよそ気がついているだろう。自分の従弟が、「毛虫のように嫌っている」ウリだということを、どう思っているのだろう。
 翔が懊悩している横で、シーナはメイクを終え、タイトスカートのネイビーのスーツとブラウスを取り出して着替えた。
「ドレスは着ないの?」
「お店で着替えるの。通勤服は普通よ」
 普通じゃない、と言いそうになって、翔は口を押さえる。
 支度を終えたシーナは、自信満々の艶姿で、翔をふり返った。
「じゃ、留守番お願いね。アタシが帰るまで、おとなしくしてんのよ」
「あの! シーナさん」
「なぁによ?」
 翔はこの日一番知りたかった問いを口にした。
「…シーナさんって、ゲイなの?」
「……。ま、そうね」

 「出て行け」と言われないことをいいことに、翔はぐずぐずとシーナの部屋にもう10日も居ついていた。シーナのマンションは、中島公園を見下ろす高層階のマンションで、下に樹々に埋もれて公園のボート池とコンサートホールが見える。
 すごいね、と言うと、シーナは、父親のもので、ろくな借り手が付かないから格安で住まわせてもらっているのだ、と言った。
「ろくな借り手?」
「すすきのの近くに住みたいって言ったら、な」
と言う。
 翔が、大家に、家賃を入れないと鍵を変えると申し渡されていたアパートは、もうどうなっているのか、わからなかった。
 あのあと、夜中過ぎに戻ってきてシャワーを浴びたシーナは、濡れ髪に酒臭い息をして、翔が寝ているベッドに潜りこんできた。
 びっくりして目を覚ますと、
「ソファが狭い」
と言う。
「じゃあ、俺がソファに寝るよ」
と言うと、また例のしかめ面をして、
「お前、怪我人じゃんよ」
と、すっかり寝る体勢に入った。メイクを落としたせいか、言葉は男のそれに戻っている。
 翔がどうしたらいいのかわからずまごまごしていると、ぬっと手のひらが頭に伸びてきて、枕に押しつけられた。
「いいから、寝ろ」
 以来、二人は、夜、二人には充分な大きさのあるベッドで一緒に眠っている。
 とはいえ、翔には毎回どきどきさせられて困った。でも、横になってしばらくすると、傍らのシーナの体温から心地よい睡魔がやってくる。
 シーナは週4回「夜啼鳥」に夜出勤する。昼間は大概リビングの隣にある書斎にこもっている。ときどき外出もした。翔は書斎には入ったことがなかった。禁止されたわけではないが、なんとなく入ってはいけないような気がしたのだ。
 翔が居ついて10日目の朝早く、シーナはかかってきた電話を受けると、少し考えてから言った。
「翔、バイトする気ない?」
「は?」
 翔の呼び名は、くん付けから呼び捨てに変わっていた。
「バイトって…? 『夜啼鳥』の?」
「ばーか! 未成年にそんなことさせられるか。今日これからだ。予定のバイトの子が来られなくなってね。力仕事と、雑用。体力いるけど」
「…俺に出来ること?」
「出来る出来る、誰にでも出来る」
 うなずくと、早く早くと着替えさせられ、車に押し込まれた。
 車で10分ほど走ると、街中の駐車場で車を降り、徒歩で黒くて古い大きなビルに、シーナは向かった。ビルの前に小型のトラックが停められ、その前で若い男が手を振っていた。
「今日のバイトの窪塚翔くん。こっちは青木」
 青木と呼ばれた青年は、にかっと笑って握手を求めてきた。
「ぐずぐずしてられないぞ。青木、鍵開いた?」
「開きましたよ~」
「ッシャ! 翔、荷台に乗っているもの、全部運ぶぞ」
 シーナは、ポイッと軍手を投げてきた。
 翔が呆気に取られている間に、シーナと青木はきびきびとトラックの荷台から、木材のかたまりや、家具などを下ろして、ビルの中に運びこみ始めた。翔も恐る恐るそれに倣う。運ぶものが大小さまざまあるので持ちにくい。
 青木が1階でエレベータを停め、シーナが容積の限界まで荷物を詰め込んで、発進させる。どうやら8階で止まる。
 そのうち、エレベータに入らない大きなものばかりが残った。
「翔、階段で運ぶから」
 こともなげに言うシーナに絶句した。
 腕と脚が悲鳴を上げそうになりながら、ビルの外階段を登って、8階の非常口から中に入った。
 驚いたことに、そこは小さな劇場だった。
 暗いロビーを抜けて重い両開きのドアを抜けると、すり鉢状に客席が並んで、底に舞台があった。今までは運んだ物は全部客席の通路に置かれていた。置き方には順番があるらしい。
 翔は一休みしていいと言われ、客席から舞台を眺めた。
 何もない。これを「裸舞台」というのだろうか。
 そうしている間に、シーナと青木は、図面とメジャーを片手に、舞台の床に何やら印を付け始め、舞台の奥から木肌色の大きな積木のようなものをいくつも運んできて組み立てた。ものすごいスピードだった。
 たぶんなにかの舞台装置を作っているらしい。翔は小学校の学習発表会ででさえ、劇とは無縁だったので、ちんぷんかんぷんだ。やがて、シーナに手招きで呼ばれ、塗装した数枚のベニヤ板を示された。
「エプロンっていうんだけど、この板を床の段差の客席側にあたるところにガンタッカーで貼り付けていって」
と、ピストルのような工具を渡された。
「こう引き金を引くと、針で板を止めつけることができるから」
「俺、これ、使ったことないんだけど」
「出来る出来る、誰でも出来る」
「ほんとに?」
「あ、針の前に手を出すなよ。穴が開くから」
 誰でも出来るなんて嘘だ、翔は泣きたくなった。でも、シーナがすぐその場を去って、青木と一緒に、舞台の両脇に大きな壁のようなものを建て始めたので、あきらめて作業にかかることにした。
 ズガンッ!
 案の定、一発目で、板は曲がって止めつけられた。小さな声でシーナを呼んだ。
「シーナさん、曲がりました~」
「仕方ないねえ」
 シーナはすぐ脚立を降りてきて、銀色の工具を持ち出すとすぐバリッと板をはがした。
「このペンチで板から針を抜いて、はい、やり直し」
 ドンマイ、と青木が笑顔で声をかけてくれる。
 もう、やめたいとは言えない雰囲気だ。
 しかし、その後は貼り直しが出来るらしいとわかったので、作業をなんとか進めることができた。シーナも及第点を出してくれた。
 昼になり、翔はようやくやり慣れない仕事から解放された。
 客席の踊り場から舞台を見ると、両脇に赤茶色の壁がそびえる、古い西洋風のアパートが出現していた。
「いいですよねー、椎名さんのセット」
 翔のすぐ隣に、青木がにこにこと立っていた。
「まさに『褐色砂岩の』って感じの壁ですね。椎名さん、ニューヨークを知ってるからなー。かっこいいなあ」
「かっしょく…?」
「『褐色砂岩』。俺もよく知らないけど、なんかねー、ニューヨークの壁の色に多い色なんですって。今回の劇の舞台はニューヨークですからね」
「あの、青木さん。…椎名さんって、何する人?」
「舞台美術家じゃないですか! いやだなー、窪塚くん、知らないで来たの?」
 翔が、うなづくと、青木にたいへんだったねー!と、ぱしぱし肩を叩かれた。
「俺、押しかけ弟子なんですよ。椎名さんみたいなセットを作りたくて」
「へえ…」
 舞台美術家? でも、シーナは週4回ゲイバーに出勤していて?
 翔はわけがわからなくなった。
 ランチは、シーナに劇場近くのカフェに連れて行かれた。
 席に着くや否や、翔は、青木から聞いた話をまくし立てた。
「ひとしちゃん、舞台美術家ってほんと?! でもさ、夜は『夜啼鳥』に行ってるよね? シーナママって、俺、『世界一ハイヒールが似合うオトコ』って聞いてて…」
「はいはい、真昼間に不穏な単語を言わない。
『舞台美術家』…、うん、まあ、俺の本業はそれね。大学からずっと勉強してきたのも、舞台美術だよ。ニューヨークに留学もした」
「…かっこいい……」
「ばーか」
 シーナは断りもせずにタバコを取り出すと、しかめ面をして、唇にくわえた。
(あ、照れてる…)
 そうか、いままでしかめ面をしていたのは、照れているときもあったのだ。
「『夜啼鳥』は、趣味と実益を兼ねた副業ってとこかな。…でも、ナンチャッテじゃない。俺だって『夜啼鳥』が無くなると、困る」
――――困る、と言う言葉に、ふと胸を衝かれた。
 シーナママとしても、舞台芸術家・椎名仁としても、マンションの中のひっつめ髪のふだんの姿にしても、彼は翔の前では常に堂々としている。しかし、この12歳年上の男の中にも、それぞれの自分に対して思うところや悩みがあるのかもしれない。思えばシーナは、二重三重の生活をおくっているのだ。
 シーナの思わぬ面をかいま見て、翔はうれしくなった。
 そして、それでも、昔と変わらず、ひとしちゃんはかっこいい、と思った。

 舞台セットは、午後には微調整を始めて、家具が次々運び込まれ、ますますニューヨークのアパートの態を成していった。
 そんな舞台作りは、翌々日の夕方まで続き 朝早くから夜中までの作業に、翔はくたくただった。が、シーナと青木は慣れているらしく、けろりとしている。
 3日目の夕方に俳優たちが勢ぞろいして、照明・音楽も入った、「ゲネプロ」という総リハーサルが行われた。
 翔とシーナ・青木は、客席の一番後ろに座って、それを見ていた。
 しかめつらしい顔をしたシーナは、時々傍らの青木に何かささやき、青木は青いペンライトで照らしたメモ帳に急いで書き取っていた。
 翔は、生まれて初めて見る芝居に、ただただ目を見張っていた。
 ニューヨークの古アパートで繰り広げられる、若い新婚夫婦の物語はテンポよくコミカルで、翔は笑い出しそうになる口を何度も手で抑えた。
 エンディングの音楽が鳴り響き、舞台も客席も真っ暗になった。
 この華やかな世界が、シーナのいる世界。華やかで、実は裏に回るとすごく地味な手仕事の世界。そして、青木に聞いたところによると、週末の最終公演が終わったら、すべて解体されて無になってしまう世界。
 自分が知る22歳の椎名仁は、あの頃もうこの世界の住人だったのだ。自分はなにも知らなかった。
「山木さん、俺帰ります。明日のオープンにまた来ますよ」
 シーナの声に翔ははっとした。客席はすっかり明るくなっていた。
 客席の踊り場で、中年の男が、「おう」と手を上げた。次々「椎名さん、お疲れさまでした」の声がかかる。
「翔、帰るぞ」

 マンションに帰ると、シーナは即シャワーを浴びて、女の姿に身じたくを始めた。
「お店に出るの?」
「出るわよ。2日も休んじゃった。今日も遅刻だけど」
「一緒に行きたい」
 翔の身体に熱い感情がふつふつ沸いていた。
 椎名仁の世界に触れたなら、今度はシーナママの世界も知りたい、と思った。2日前、シーナが「無くなると、困る」と言った世界が見たかった。
「ああっ!? いきなり何言ってんの? あんた、未成年でしょ!」
 シーナは、翔の額の真ん中を、ついと付け爪の付いた指で押しやると、背を向けて出て行った。
 ふだんの翔ならば、ここですぐ引き下がるところだが、どうしても「見たい」「行きたい」という衝動に駆り立てられて、外に飛び出した。

 シーナの勤めるウワサの「夜啼鳥」の場所を、ショウは知っていた。商売をしていた区域の間近だったのだ。マンションから徒歩で20分もかからない。
 すすきのの電車通りを一本南に入った広小路のビルの中だ。
 この広小路―――「シロウトは決して足を踏み入れてはならない」と、地元の人間なら中学生でも知っている界隈だった。
 誘蛾灯にひかれるように入っていくのは、何も知らない観光客ばかりだ。
 他の通りと変わらずネオンが輝いているのに、生息しているのは、闇の顔を持つ人間ばかり。一見普通の居酒屋が、筋ものたちのたまり場だったりするのだ。
 周りを見ないように、翔は走って、「夜啼鳥」に飛び込んだ。
「まーーーっ!!」
 カウンターの中で談笑していたシーナが、形よく描いた柳眉を逆立てて、叫んだ。
「なんで来たのよ!? しょうがない子ね!」
「ごめん、帰る」
「このおバカ! 夜中に、こんな時間に外に出せるワケないでしょ! あんたなんか、即アタマから喰われちゃうわよ。」
 シーナの周りの男たちがぷっと噴き出し、店はざわめきを取り戻した。
 シーナはちょいちょいと翔を招くと、翔の頭をずいっと抱え込んで、ささやいた。
「仕方ないから、閉店までここにいなさい。一緒に帰ったげるから。ただし、あんたはオレンジジュースだけ」
 カウンターの一番端に座らされ、本当に眼の前にオレンジジュースが置かれた。
「可愛いじゃん。シーナのいい子?」
 軽薄なからかいの声がかかる。
「オコサマは趣味じゃないわねえ。アタシの親戚の子なのよ。手ぇ出したらはっ倒すからね」
 シーナは、付けまつ毛に彩られた切れ長の眼の目力で、相手をぴしゃりと押さえつけた。
 今日のシーナは、ラメを散らした黒いホルターネックのドレスで、喉仏を上手く隠していた。腿まで深く切れ込むスリットから、銀色の高いハイヒールを履いた、長い脚が挑発的にのぞいている。
 あの脚で階段を8階まで駆け上がるんだよ。あの細身のしなやかな筋肉で、木材を何本も持ち上げるんだよ。と、言ったらこの店の男たちはどんな顔をするだろう?
 翔はおかしくなった。
カンッ!
 「夜啼鳥」のもう一人のママ、マリカが、オレンジジュースのおかわりのグラスを置いたのだった。
「あ、ありがとうございます」
 マリカはふと身をかがめて、鋭くささやいた。
「あんた、公衆便所のショウだね。シーナに近づこうなんて百万年早いんだよ…!」
 ざっと冷水を浴びた心地がした。
 バレた……。
 「公衆便所のショウ」。仲間内から、客から、陰でそう言われているのは知っていた。男なら誰にでも脚を開いて、性のはけ口になる最低の男娼。それが2週間前までのショウの姿だった。
 たまらず、黙って外に出ていた。
 早晩マリカからシーナにバレることだろう。ウリ専嫌いだと言われるシーナに軽蔑の視線を向けられることを想像すると、怖くて仕方がない。このまま、またどこかに行ってしまおうか。
 ふらふらと歩いていると、がっと腕を掴まれた。
「お前、ショウじゃねえか! 勝手に逃げ出してんじゃねえよ!!」
 あの男だった。

 思いきりベッドの上に突き飛ばされた。
 翔が肌触りの悪い掛け布団に突っ伏していると、後ろからがばっと髪を鷲掴みにされ、顔を仰向けにさせられた。
「ショウ、いままでどこに隠れていたんだよ? 毎日探し回ったじゃねえか。」
「うぐっ!」
 脇腹にこぶしが入る。男は、今日は顔を痛めつけないつもりなのか。
 逃げなければ。今度こそどうなってしまうか、わからない。心の中は焦るのに、2週間前の暴虐のフラッシュバックのためか、喉は詰まったようで、身体は小さく小さく縮んでしまう。
「お前が一番よかったぜ。あっちの方は大したことないけどな。甲高い悲鳴なんか最高にキタぜ。ぐちゃぐちゃになって泣くご面相もな。」
「……い、いや、だ。やめて……」
「口答えすんじゃねえよ、立ちんぼがあっ!!」
 男は、翔の頭を投げ捨てると、ベッドに仁王立ちになり、今度は脇腹に何度も蹴りを入れた。
「くぅ…っ!」
 翔は、思わず海老のように身体を丸めた。
バンバンバンッ!! バンバンバンッ!!
 ドアを激しく叩く音がした。隣の部屋の客だろうか。一瞬助かった?、と翔は思ったが、「うるせーっ!!」という男の怒号で、すぐ静まった。
 男が、白いタブレットケースを取り出した。
 薬だ!? 翔が恐怖に目を見開いたとき、
コーンコーンコーンコーン…!
 聞き慣れぬ音がドアから響いた。
 音は何度も繰り返され、男も呆気にとられたようにドアを見ていた。やがてガチャリッ。次の瞬間、バーンッ!!とシーナがハイヒールでドアを蹴って駆け込んできた。
「シーナッ?!」
「ひとしちゃんっ!!」
 手に舞台用だろう大きなのみを持ったシーナが巻き髪を掻き上げ、眇めた瞳で男を睨み据えた。
「カタギリィ、じゃないのよ…。あんた、ウチの子に手を出すんじゃないわよ」
「シーナ、こいつは薄汚ねえウリ専だぜ? お前が大っ嫌いなボーイだ!」
「10代の男の子を血反吐の中で泣かせながら突っ込むのが大好物だなんて言ってる、変態は大っ嫌いだわねえ」
 シーナはツカツカとヒールの音を鳴らして近づくと、カタギリの頬にのみをぴたりとあてた。
「汚い手を離しなさい! あんたの鼻がアタシにがっつり削ぎ取られないうちにね」

「まったくめんどくさい子ねっ!!」
 今度は翔は暗いリビングのソファの上に放り投げられた。
 あの後、翔は問答無用でシーナにタクシーに押し込められて、マンションまで連れ帰られた。
「店に来るなって言ったら、来る! 外に出るなって言ったら、出る! おとなしいくせに、とんだアマノジャクだわ
だいたい、昔からアンタはアタシがやるなって言ったことを軒並み実行する子だった。いっつも振り回されてばかりよ!」
「それはっ!!」
 思わぬ大きな声が出た。
「ひとしちゃんに、かまって欲しかったからじゃないかぁ!!」
「は?」
「ひとしちゃんは、昔からちっとも優しくない!! いつもめんどくさそうだし、俺のこと放っておくし。なのに、なのに、無視はしないじゃん。俺なんだかわかんないよ。
今だってそうだ。俺のことめんどくさいなら、放りだせばいいじゃん。ケガが治ったんだから出て行けって言えばいいじゃん。なのに……、劇場に連れて行ったり、仕事手伝わせてくれたりするから、だから、だから、俺わかんなくなるんじゃないかあ!!」
 涙があふれて、止まらなくなった。
「ひとしちゃん、ウリ嫌いなんでしょ?」
「嫌いよ」
「俺、ウリだよ。身体なんかめちゃくちゃ汚れてるよ。俺が嫌いならそう言ってよ」
「…アタシはね、ウリを買う大人が嫌い。それから、どーせ死んじゃってもいいって、何でもかんでも平気な振りして危ないことをする、男の子たちが見てられないのよ」
…ひとしちゃんは、やっぱり優しい……
「……ひとしちゃんはいいな…」
「何がよ?」
「かっこいい。どこでも堂々として自信があって…」
「30男が、10代の子の前で、自信なさ気に見えたらやってられないわよ…。それくらいわかりなさいな」
 シーナは土足で上がったままのハイヒールを足からむしり取るとカーペットに放り投げようとした。
「あーーーーーーー!!」
「なに?」
「えぐれてる…」
 シーナの銀のハイヒールのかかとに5センチほどの傷が走っていた。
「あー!! 信じられない!!」
 ひいひいわめくシーナを前に、思わず翔は平身低頭謝った。
「ひとしちゃん、ごめん、ごめんなさい。俺のせいだ。俺がさらわれたりしたから。ほんとにごめん。ひとしちゃん、俺なんでもする」
「…なんでも?」
 ふわりと金髪が目の前で揺れた。柔らかいものが自分の唇を覆っている。
 え、キス…?
 シーナは、翔をソファに押しつけると、何度も何度も角度を変えて、唇を合わせた。息が苦しくなり空気を求めてかすかにあえいだ時、シーナの舌は翔の口腔に侵略してきた。歯列をたどり、上あごを優しく愛撫する。
 客の自己満足なキスは嫌いだった。生温かいものが口の中に侵入してくるだけの気持ち悪い行為だった。
 しかし、シーナのキスは違った。ゆっくりと感じさせようとする、性感を煽り立てるキス。
 シーナが唇を離したとき、翔はすっかり息が上がっていた。「顔中に口紅がベタベタ付いているんだろうな」と、余計なことを考えた。
「さてと」
 シーナは、翔の背とひざ下に腕を差し入れて持ち上げると、寝室のドアを蹴り飛ばした。
「あ、いて」
「え? え? え? ひとしちゃん、なにしてんの?」
「翔、なーんでもするんだわよね」
 夜目に、切れ長の眼が不敵に笑う。
「あの! ひとしちゃん、俺ウリなんかしててね、汚れた身体で……」
「もう、だまんなさい」
 黙ることはできた。でも、すごく泣かされた。

 週末に舞台の最終公演があった。幕が降りた次の瞬間、翔は、シーナと青木と一緒に、3日間かけて作った舞台セットを、わずか数時間で解体する――怒涛のバラシという作業にてんてこ舞いさせられた。
 週明けの月曜日、翔は、シーナに街中のデパートでのシューズハンティングに連れ回された。高級ブランドの靴箱の山を築かせ、結局、3足のピンヒールを買ったが、まだまだ気がすまないらしく、パソコンで高級ブランドの電子カタログを漁りまくり、やっと満足する1足にめぐり逢ったらしい。
 どれくらいするか、と尋ねたら、「30」という答えが返ってきた。
 舞台美術家だけでは食えないと、ゲイバーでアルバイトをしているのに、ぽんと30万以上もするハイヒールを買うおねえ… 信じられない、と翔は思う。
 そして今、翔は、シーナのマンションのリビングで、アルバイト情報のフリーペーパーをめくっている。
「居候代は出世払いでいい」とシーナは言った。
 出世払いと言われて、まず翔は、「まともな仕事!」と思ったのだ。ウリの戻る気はさらさらなかった。
 隣のカーペットの上で、シーナが男の姿で座り込み、なにやらスケッチブックに書き込みをしていた。相変わらずのしかめ面だ。でも、もう翔は、そのしかめ面の下にある、照れたり恥ずかしがったり優しかったりする、シーナの気持ちを知っていた。
「……ひとしちゃん」
「…なに?」
 すごく言いにくいことが訊きたかった。
「あの、あのね…」
「だから、なに?」
「あの…、次はいつ?」
「は?」
 あれ以来、二人の間に性的なやりとりはない。まぼろしだったかと、思えるくらいだ。
「次?」
「うん、次」
「……ま、少なくとも来年以降だな」
「えーーーーー!! なんで!?」
「お前、まだ19じゃん」
 落胆した。あのとき、さんざん火をつけられた気分だったのに、1年近くおあずけとは。
「でもさ」
「…うん」
「ひとしちゃん。…次はあるんだね」
「…えっ!?」
 シーナは、しまったという顔をして、ぐるりと振り返った。

<完>

ピピン
グッジョブ
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