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第4回 BL小説アワード「再会」

蛍と光

軽いエロ/シリアス/年下攻め

「教えてやろうと思って。“死”の反対は、“生”じゃなくて“せい”だってこと」

花屋
グッジョブ


にわかに肌寒くなった十二月。

「コウさん」
「え。あ、けいすけ!?」

別れの曲が厳かに響くそこで、俺は彼を見つけた。


◇◇◇


木枯らしが吹きすさぶ屋上で、ぼうっと空を眺めていた。

今時、屋上が出入り自由の学校などは存在しないだろうが、俺の通う高校は築八十年の歴史ある公立校。つまりはボロだった。
先日、屋上と階段の踊り場を仕切る扉の鍵が壊れていることに気が付いたものの、それを教師に報告しなかったのだ。さらには、屋上に出られるようになってしまっているのをいいことに、昼休みや放課後にこっそりと上がるようになった。どうせしばらくしたら他の誰かも気づいて入れなくなるのだから、ちょっとぐらいいいだろう、と。

漫画やクサいドラマでしか見たことがなかった学校の屋上は、実際に出てみると思ったよりいい場所でもないと分かった。殺風景だし、周りには転落防止の金網が張り巡らされ、空を灰色のフレームで無粋に囲っている。
出入り口のすぐそばの壁に背を預け、セメントの地面にじかに座っていると、尻がひんやりと冷えてくる。風も遮るものがないため容赦なく吹きつけて、寒い。

不快の一言につきる悪劣な環境だったが、それでも、騒がしい日常からほんのひととき逃れられる気がして、俺はこの屋上通いを続けていた。
自分以外の誰もいない静かなここで、色々なことを考えながら。
何をするでもなくただ空を見上げて。


「死にたい?」


誰もいないはずが、突然右の耳に低い声が囁きかけてきた。


「う、うわっ!?」


心底ビビリ上がった俺は、勢いよく左に飛んで、いつの間にか自分の右側に立っていた男をこわごわ見上げる。

「いきなり大声出すなよ。びっくりすんなあ」
「驚いたのはこっちなんですけど……」

おっとりとした口調で、大してびっくりした風でもなく言ったのは、知らない人間だった。
校則に引っかかりそうな、きっちりセットした茶金の髪を風に揺らし、綺麗な顔をこちらに向けている。体もしっかりしてかなりの男ぶりではあったが、たれ目とどこか締まりのない雰囲気が人懐こさを醸し出していた。
男の履いている屋内シューズには緑のラインが入っており、三年生だということが分かる。

つまりは、二年生の俺はこの得体の知れない男を先輩として立ててやらねばならないのだが、いきなり人に「死にたい?」なんて訊いてくる奴を敬うのは嫌だと思った。生気のない顔だな、と言われたも同然なのだから腹が立つ。
こういう時は席を外すに限る、と立ち上がって中へ戻ろうとした俺の腕を、男はゆるく掴んだ。

「話終わってないって」
「はあ……なんなんですか?」

にこにこ胡散臭い笑顔を浮かべている相手に眉を寄せつつ、仮にも先輩を雑に扱うわけにもいかずしぶしぶ応じる。こっちの迷惑など知ったことではないとでも言うように、男はひょうひょうと話を続けた。

「人生なんてくだらねー、って顔してるな」

知ったような口をきく男に、こめかみがひくりと引きつる。

「新手の因縁ですか」

睨むと、男は敵意はないと示すためか両手を顔の横でひらひらと振った。

「まさか。喧嘩なんて売らねぇよ。俺、痛いのやだもん」
「じゃあなんで声かけてきたんすか」

だんだん面倒くさくなってきて、半ば振り払うように掴まれた腕をほどくと、男は軽薄な笑みを口元に浮かべ、さらりと答えた。

「教えてやろうと思って。“死”の反対は、“生”じゃなくて“せい”だってこと」
「……は?」

意味不明なことを言う先輩に、戸惑った。

死、の反対は……生じゃなくてセイ?どういうことだ。

混乱している間に、あれよあれよという間に、男はそっけないコンクリートの上に膝立ちになり、俺のズボンの前を寛げた。

「はっ……はあ!?ちょ、ちょっと!何すんだ!」
「タダでいい思いができるぞ。喜んだら?」

喜べるか、と叫ぼうとした時、手早く取り出された俺自身はぱくりと男の口の中へ迎え入れられた。ぬるりと自身にまとわりつく粘膜と熱に、俺は息を詰めた。

「な、な……」
「んん、う。デカ」

突然与えられた刺激に震える腰を叱咤し、なんとか倒れないように踏ん張って、男の髪を掴んで股間から退かそうとする。だが思いがけず甘やかな感覚が、男の舌が這うそこから脊髄をたどり、脳までかけ上がっていく。好き勝手動く口を離そうとしていたはずの手が、むしろ吸い付くそれが離れていかないようにと、がしりと捕らえた。

──快楽に負けたのと、触れた髪の手触りが妙によくて。

こんな変質者に襲われて拒みきれないほど、精神的に追い詰められていたのかと自分に呆れながら、初対面の男の口内に精をぶちまけたのだった。


「毎週土曜、午後九時。俺、その時間はいつも駅前の喫茶店にいるからさ、よかったら来いよ。話きくし、なんならしゃぶるよ?」

見ず知らずの男の精を飲み下しておいて、けろりとした様子の上級生は軽く口元をぬぐいながらそう言った。
無視して、腰が抜けた俺は再び冷たい地面にへたりこんだ。かいがいしく俺の分身をズボンにしまってくれた変態も「よいせ」と隣に座る。

「お前がなにかしら事情を抱えてるっていうの、分かるから」

会ったばかりの奴のことがどうしてわかる、と、噛みつく余力は残っていなかった。茶目っ気たっぷりに笑う男に溜め息をついて、俺は無言でその場をあとにしたのだった。


・・・


「人間ってさ。やっぱり動物だなって思うわけ」

陽が落ち、真っ暗になった街に人工の光が灯る。眩しく賑やかな大通りの一角にある大衆向けの喫茶店チェーンで、男──『コウ』と名乗った──は、カフェラテをすすりながら言った。

結局怪しい男のもとを訪れてしまった自分の弱さに内心うんざりとしつつ、やって来た以上はコウさんとやらの話を聞くことにする。

「人生とか親のこととか、ダチのこととか。グダグダ考えるけど、一度エロイ事してスッキリすっと、綺麗さっぱり苛立ってた時間を忘れられる」
「…………」

実際流されて射精してしまった以上、反論などできようもない。仕方なく口を閉ざしていると、男は深みのない笑みを浮かべたまま続けた。

「だから、死にてーなって思った時は誰かとヤるのが一番。迷ったら、自分がどう生きていきたいかなんてクソ真面目に考えるよか、ちゃっちゃと出しちまった方が早ぇよ」

この前言っていたのは、“死の反対は生じゃなくて、「性」”ということだったのか。
同音異義語がなした混乱から脱した俺は、変な持論をかかげてみせるコウさんに訊ねた。

「……百歩譲ってその考え方が正しいとして、あの時のあんたはなんだったわけ?その考え方は、他人のあれをしゃぶる理由にはなんねえじゃん」

あまり考えたくはないけど、その日初めて会った人間の性器でもくわえると喜ぶ変態なのだろうか。
ぶしつけな質問と視線を寄越しても、コウさんはそれを咎めずに、形のいい眉をきもち持ち上げてみせた。

「俺、お前に訊いただろ。『死にたい?』って」

先日の失礼な問いのことだ。
思い出したが、とりあえず口を挟まないで話を聞くことにする。悪戯っぽく小首を傾げたコウさんは、なんでもないことのように平然と言った。

「可愛い後輩が今にも死にそうな顔してたから、俺が“性”を実感させて死から逃がしてやろうと思った。舐めるのに関しちゃ、人一人の自殺を止められるくらいの自信はあんだぜ」

どんな親切心だか知らないが、他人の性器を頬張るなんて決して軽々しくしていいことじゃない。そもそも、俺が死にたがっていた前提で話が進んでいるのはおかしいだろと思った。

「いや、俺べつに死ぬ気はさらさらなかったし」

本人が否定したのだから、これには言い返しようがないはずなのに、コウさんはまた応えた。

「それは命を捨てる気はない、ってだけだろ。
なにも、人が死ぬのは体が壊れた時だけじゃない」

力の抜けた空気とは真逆の、鋭い視線に射抜かれた。

「道歩いてると、いっぱいいるよ。死んだ目ぇしたサラリーマンのオッサン、疲れた顔のお姉さん。退屈そうな学生。体が生きてても死んでるのがな」
「…………」
「非難するわけじゃない。俺みたいな適当なのより、よほど尊敬できる人らだと思うぜ。生きよう生きようって踏ん張るより、そっちのが楽かもしれないし。
けど、目の前に心を殺そうとしてる奴がいたら、俺は迷うことなくそいつを止める」

のんびりとした話し方で、しかしはっきりとした意志を感じさせるように、言い切った。まあ、その考えで男のモノをしゃぶるのが格好いいかといえば、絶対に違うけれど。

「んで、止めたからには最後まで責任もって、死なないように協力してやるつもりだ。
なんかさ、話したいことあったら聞くぜ」

友達にすら話せなかったことを、どうしてこの素性も分からない男にべらべらと漏らせるだろう。

そう、思うのに。

「……俺の家は」

自分でも信じられないほどするすると、溜め込んでいたものが口から流れ出ていった。


まず家族は両親揃っていて、生活には何不自由ないことを話した。
だから贅沢な悩みなのかもしれないが、年が四つ離れた兄がいて、その兄が家庭に亀裂を入れたこと。
その事で俺がやりきれない気持ちになっているというのを、恥知らずにも洗いざらい吐いた。

「兄ちゃんは、中学受験で県内一のとこに行ったんすけど、そこで揉まれてどんどん校内での偏差値が低くなっていって。最終的に、ノイローゼになっちまって」
「うん。それで?」
「高校、第一志望と第二志望に落ちたんです。結局一応受けてた第三志望の学校に入ったものの、だんだんと行かなくなって」
「そうなんだ」

コウさんは見た目とやることの破天荒さからして、騒がしい人なのかと思っていたが、俺が話し始めると穏やかな顔をして心地好い合いの手を入れてくれた。そのおかげか、今まで胸中に渦巻いていたドロリとしたものが自然に落ち着いた言葉に変わって、つらつらと綴ることで消化していけた。

「うちは、教育熱心な家だったと思うんです。それが兄ちゃんがそんな風になったからか、それから親は前ほど俺の成績や進路には口を出さなくなった」
「昔の兄ちゃんと同じように、自分も期待されたかったか?」

ひとつ訊かれて、俺は首を横に振った。

「いや。勉強のことで兄ちゃんが壊れ始めたから、俺も通わされてた塾を辞めることになったけど、正直スッキリした。俺、勉強より体動かす方が好きだったから。うるさく言われなくなったおかげで、今も部活で陸上やれてるし……」
「あは、確かに体しっかりしてるもんなあ。運動部かぁ。っても、頭悪そうにも見えねーけど。イヤなやつー」

真面目な顔をしていたのを少し崩して、からかうように言うコウさんに苦笑してから、俺はふと考えた。

「じゃあ、結局なにがネックなんだろうな」
「……はい」

それがわからなかった。俺は、両親も兄も憎んではいない。だけど毎日心のどこかがぐらついて、それに苛立って。自分が何を気にしているのか、言葉にできないし、家の重い話なんて誰にも相談できず。だからこそ、今こうしてコウさんに事実だけをありていに打ち明けただけでも安らいだ気になる。
浅い仲の変態相手には、気兼ねせず心の内を語ることができた。

「ま、なんか憑き物が落ちたみたいな顔してるし、誰かに話したかったって感じ?」
「……そうかもしんないす。ありがとうございました。思ったより……気分が晴れた」

頭を下げると、コウさんは「いいって、いいって」と流した。

「俺もひっさしぶりに好みの奴しゃぶれたし、お互い様だって」
「は?」

思わずがばりと顔を上げると、「冗談だぞ」と楽しげに笑う。腑に落ちないが、出会い頭に人のモノをくわえてくる男の思考を理解しようなどできるはずもないので、俺はそこに突っ込むのはやめておいた。


それからも、毎週土曜の夜に同じ喫茶店で会って、とりとめのない話から深刻な話まで、色々と聞いてもらった。コウさんは聞き上手なのか自分のことは何も言わずに聞き役に徹していて、俺ばかりが気持ちよく喋っていると思うと申し訳なくなったが、重い話も軽い話もゆるく受け止めてもらえる嬉しさを手放せなくて、やはり俺ばかり話し続けた。


「っあー、寒っ」
「もう、年明けも近いっすからね」

話し込んだ後店を出ると、身をすくめてしまうほど厳しい冷風が襲ってきた。マフラーで顔の大半を覆ってポケットに手を突っ込んだコウさんが凍死しそうな声をあげたのに対し、俺はつとめて落ち着いた声で返したが、本当は声が震えそうだった。

「けーすけはさ、あれだろ。彼女とかいねえだろ」

会って数回目のときに俺の名前は蛍介というのだと教えたところ、どこか間の抜けた呼び方をされるようになった。

「失礼な……人を残念な奴みたいに。まあ、今はいないけど」
「こんな季節に俺と一緒にお茶しちゃってる時点でね、察しがつくよな」

その言葉にはっとした。そうか、もうすぐクリスマスか。

迫る年末の一大イベントのことを思い出したからなのか、突然視界が開けて、街に並ぶ店のどこも華やかに飾り立ててあって、あちこちからクリスマスの色に染まった音楽が流れてくるのが聞こえてきた。

「彼女がいたら、お前は俺じゃなくてその子に話を聞いてもらうべきだし」

コウさんはそう言ったが、俺は頷かなかった。

「……いや、あんた相手じゃなかったら、気取って何も話せなかったと思う」

呟くように言うと、コウさんは目を丸くして瞼をしばたたかせた。「……は」とひとつ空気が抜けた声を漏らすと、吹き出した。

「は、はは。嬉しーこと言ってくれる……ん?嬉しいかこれ?俺相手には気取る意味ないってことだよな」

口元をほころばせたあと、そのまま中空に疑問符を浮かべたコウさんに「誉めてる半分、けなしてる半分っすよ」と告げると、大笑いした。
そんな風に軽口を叩きながら、暖かい光につつまれた夜の街をあてどもなく歩く。
ある広場にたどり着いて、歩き疲れた俺たちは空いていたベンチに並んで座った。きらびやかなイルミネーションが木に巻き付けられ、煌々と輝く広場には、オルゴール調のBGMが鳴る。それを聞き流して話していると、曲が切り替わった瞬間にコウさんが黙りこんだ。

「どうしたんですか?」

無表情のコウさんを初めて見て、驚いた俺が思わずコートの布に覆われた腕をつつくと、「あ、ごめん」とふたたび笑顔に戻った。

「この曲な。『蛍の光』ってーの、昔の学校の卒業式でよく歌われてたやつ」
「え。ああ、まあなんとなくは知ってる」
「有名だもんな。──俺、この曲嫌いなんだよね」

表情こそおだやかなままだったが、冷え切った声を発したコウさんに瞠目した。その声音は、ただ単に自分の好みと合わない、という種の「嫌い」とは明らかに違っていた。曲という形ないものに抱くとは思えないほどの、深い憎悪を感じさせる。

「なーんで明るいイベントを前にして、こんな別れの曲流すんだろな。意味分かんね」

俺はこの曲に関して、プラスの感情は持っていなければネガティブなイメージも持っていない。特になんの思い入れもなく、「卒業式の歌」としか知らない俺が答えあぐねていると、それを察したのかコウさんは笑った。

「そろそろ、解散するか」
「……そう、すね」

時間もちょうどよかった。引き留める理由がなくて、このまま別れを受け入れるしかできないことに内心歯噛みしながら、椅子から立ち上がってコウさんと顔を見合わせた。

「また来週──土曜日の九時に、俺、絶対来ますから」
「おう。俺も、絶対、店で待ってるぜ」

絶対、なんて子供じみた言葉を使った俺をからかって、コウさんは朗らかに笑った。そこに先程までの陰は一切見当たらず、俺はあれは自分の気のせいだったのだと思うことにした。
曲が響き渡る広場で俺たちは別れて、それぞれ違う方向へと歩いていった。


そして、俺が高校を卒業して大学に入った今に至るまで、コウさんは一度も喫茶店に姿を現すことはなかったのだ。


最初は、何かあったのかとか、俺は嫌われてしまったのかとか、あれこれ悩みもした。だが、そもそもコウさんは自分と同じ高校の先輩だということを思い出した俺は高校時代の陸上部の先輩に連絡をとって、あの人の見た目の特徴を伝え、同学年に『コウ』という人物がいないかを訊ねた。知っていればあの人の今の居場所が分かるかもしれない、と微かな希望を抱いて。
ところが、部の先輩の返事は俺が期待していたものではなかったばかりか、より悪いものだった。

“コウなんて知らないよ。他のクラスだった奴にも聞いてみたけど、誰も知らないって。せめて何組だった奴かくらい分からないか?”

ああ、やっぱりか。
謎に覆われたあの人の、何も俺は知らないけれど、心のどこかでそう思った。あれだけ派手な格好をしておいて、二年の間一度も校内で見た覚えがないなんて、不自然すぎるから。

──コウさんは、俺の通う学校の生徒ではなかったのだ。

せめて同じ学校でさえあってくれたなら、まだ探す手段はあった。しかし、現実はそうではなくて、俺は彼を探すあてもないと分かってしまった。
会って話をしている時は気付きもしなかったけれど、俺はあの人の住んでいる所も知らなければ、連絡先も知らない。どころか、“コウ”という名前は、漢字で書くとどういう字なのかということすら知らなかった。

俺は滑稽ながら、自分がコウさんの何も知らなかった事実と、コウさんとは多分もう二度と会えないだろうという現実を突きつけられた瞬間、やっと自分の彼に対する気持ちを自覚した。

あの日、屋上で出会った時から彼を突き放せないほどには気にしていた。そしてあんなことをされてもなお、関わろうとしてしまった。何度か外で会って色んなものを見て、食べて、話すうちに──彼を、好きになっていたのだ。

気持ちが昂ったところで、コウさんが月の引力に寄せられたように俺のもとへ戻ってくるわけでもない。
おしゃぶりしてもらったのとおしゃべりしてもらったのとの効果か、漫然とした毎日をしんどく感じながら生きることはなくなったが、それでもどこか無味乾燥な大学生活を送り、心の奥底では彼に再び出会えることを願っていた。

大事な人を失ってから、二年が経って。そして、あの最後の別れの日と同じ季節、同じ場所で。


「コウさん」

「え。あ、けいすけ!?」


俺は、ずっと探していた男を見つけた。


嫌っていたあの曲が響き渡る広場で、チラシ配りをしていたところを、俺が通りがかったのだ。

「お久しぶりです」

互いの距離は少し離れていたものの、明るい茶髪は相変わらずで遠目にも誰だかよくわかった。彼を認めたら、頭でどうこう考える前に体が動き出していた。大股で彼の元に歩み寄り、声をかけると、コウさんはその場で硬直する。
コウさんに対して約束を反故にされた恨みなんて抱えていなかったのに、いざ相対すると顔がこわばって愛想笑いすら作れない。
真顔で眼前に立ち塞がった俺に、コウさんは「お、お~久しぶりだな!」と珍しく挙動不審なそぶりを見せる。

「……あー、悪かった。話、聞いてやれなくなっちゃって」
「それは、いいです」

口ごもるコウさんに食い気味に返してから、俺は何から話そうか、何を訊こうか逡巡した。

どうして俺の前から姿を消したのか。

──俺とまた、話をしてくれる気はあるか。

けれど、目の前のコウさんは今までに見たことがない顔をしていた。それが気になって「なんですか」と逆に尋ねると、コウさんはぼそりと呟いた。

「俺、お前の高校の生徒じゃなかったんだ」
「それは……薄々」

向こうからその話題を振ってくるとは思わなかったので、やや面食らいながら口を挟んだ。コウさんは少し驚いたような顔をしたが、そか、と曖昧に笑って頷いた。

「つい、友達の制服借りて潜っちゃった。高校ってとこに、憧れがあったから」
「……え?」

平坦な口調で明かされた事実に、俺は頭が真っ白になる。

高校に、憧れ?まるで、自分は行ったことがないとでも言うような、いや、“まるで”なんかじゃなくて。

「俺ん家さ、まじでめちゃくちゃだったんだ。俺はある家庭の旦那が外でうっかり作ったガキで、孕んだ女以外の、誰にも望まれずに生まれてきた。
身寄りがなくて経済力も学もない母親が一人で勝手に産んじゃったもんだから、生活は苦しくて苦しくて」

作られた物語の一端を聞いているような、不思議な気分になる。今コウさんが語っているのは、ドラマの登場人物の話じゃなくてこの人の半生なのだと、分かってはいても飲み込めない。

「俺が中学生の時に稼ぎ頭の母さんが倒れたから、もう、高校進学とかいっか~って思ったんだよな。とりあえず土木でもコンビニ店員でもやって働いて、俺の生活費と母さんの入院費用、作らなきゃって」

苦々しげに「俺の母親は大ばかだよ」と眉をひそめた。

「バイトから帰ったら、真っ暗な部屋ん中でぼそぼそ歌ってんだ。あの男との思い出の曲だっていう、例の歌をさ。自分の所に帰ってくるはずもない非情な男を待って。延々と。……母の通ってた高校で音楽の教師をやってたアイツは、歌を指導するって名目がなければ、きっと生徒に手出したりなんかできなかった。
ここで流れてる、この曲さえなければ、母さんは不幸にはならなかったのに」

土の下で煮えたぎっていたマグマが一気に噴き出したように、コウさんは静かに、けれどドロドロとした感情を確かに放出した。は、と堪えていた何かを息と一緒に吐いて、凪いだ笑みを浮かべた。

「お前に会えなくなった、あの時な。母親が死んだんだ」

俺がかけられる言葉なんて、ありはしなかった。ただ、いつかのこの人がしていたように、真剣に見つめて、続きを促すしかできなかった。

「その時になって初めて、父親が動いた。葬式も出せなくて火葬場に突っ立ってた俺の前にいきなり出てきて、“迎えに来たぞ”なんて言うんだよ。もう、笑っちまったね。
問答無用で連行されて──父の家はここからかなり離れた所にあるから、俺は店に行けなくなった」

「でも浮気相手の息子が溶け込めるわけねぇし、結局成人してすぐに家出たけど」と肩を竦めてみせた彼を、呆然と眺める。

俺がした相談は、なんだったんだろう。

地面が突然盛り上がったかと錯覚するくらい大きな揺れを感じて、心臓が潰れる心地がした。俺が呑気に親の金で高校へ通って、愚痴吐いていた間に、この人は。

「……そんな目で見んじゃねぇ」
「え」

俺へ苛立ちを見せたコウさんは、自嘲気味に言った。

「同情されたら、もうおしまいだよ」
「いや、待ってください、そんなつもりじゃない」

慌てて否定してもコウさんは冷えた目で俺を一瞥しただけで、まだ手に何十部か持っていたチラシを配り出した。仕事の邪魔をするのはどうかと思うが、貼りつけた笑顔で道行く人々に声をかける様子を見たら放っておけなくなって。

「コウさん、最近性を楽しめてる?」
「へっ?」

ポロッと零れたのは、いつぞやのこの人が言ったのと似ている、アンニュイな空気にそぐわない下世話な言葉だった。
それにつられてか、尖った雰囲気を保ち続けていたコウさんも肩の力が抜けてしまったのか軽い声をあげる。

「な、なんだよ。藪から棒に」
「あんたの十八番っすよね、こういうふざけた言い回しは」
「ふざけた奴で悪かったな……」

じっとりと睨んできた彼に苦笑しながら、俺はその手から分厚いチラシの束を取り上げて片手に持ち、もう片方の手でコウさんの冷たい右手をそっと握った。

「コウさん、俺は。俺は、二年前から、毎日夜だけは人生楽しめてる」

手を解こうともがく手の平を強く握り込んで、次第に暖まっていく彼の指先を感じた。

「あんたが俺のをしゃぶってた時の顔思い出したり」
「は!?」
「飲み物のカップを持ってたコウさんの手とか、なんか食ってる時の唇だとか、よくよく考えたらエロかったな、て思いながら夜な夜な一人でヤッてたんです」

絶句しているコウさんに、言い募る。

「あんたの言う通り、好きな奴のこと考えてシてたら気持ち良くって、悩みなんて全部ぶっ飛んだんだ。
──けど」

握った手を引いて、自分の方へ近付かせた。

「性だけじゃ足りねぇよ。
“死”の反対は、自分の“性”を満たしてくれる大事な一人と、一緒に“生”きていくことだ」

そして、ぐんっと強引に引き寄せ、よろけた彼をしっかりと抱きしめた。

「ば、ばかだ……こんな往来で……」
「ばかで結構です。そんなことより、コウさん。俺と一緒に生きてください」

笑いをこらえながら、コウさんは俺の背にそっと手を回した。しばらく黙って抱きついた後、耳元にそっと囁きかけてきた。

「俺はこの二年、満足できなかった。バイト先で知り合った女の子と遊んでも、男誘ってみても……蛍介の顔がちらついて。だからってお前で抜こうとしても、置いてきた罪悪感で萎えて。
ずっと、ろくにできなかった。楽しいこと」

ふ、と密やかな笑い声を漏らしたコウさんは、俺を見つめて、目元に綺麗な半月を描いた。

「俺と一緒に、“セイ”を謳歌しようよ。蛍介」

抱き合ったまま、二人の間に落ちた心地のいい沈黙に浸っていると、コウさんが忌み嫌っているあの旋律がどこかから聞こえてきた。そこでもしコウさんにもう一度会えたら教えようと思っていた事を思い出した。

「コウさん、今流れてる、この曲」
「……うん」

つまらなそうに目を伏せたコウさんに、俺は静かに話した。

「スコットランドの歌を、日本人がアレンジした曲だって知ってますか」
「へえ?知らなかった。初耳」

大学の教授が雑談としてこの曲について話しているのを聞いたとき、彼に、母親の人生を狂わせたと彼が憎んでいるこの別れの曲の、真実を教えなければいけない気がした。

「元のスコットランドの方の曲は、再会を祝う歌なんです」

わずかに目を見開いたコウさんの頬を指でくすぐって、俺は彼の口に自分のそれを寄せ、ほんのひとときくっつけた。
触れあえた歓喜と、この人の境遇を切なく思ってしまう自分の傲慢さへの苦い気持ちと、かつて俺が救われたように俺もこの人を救いたいと強く思う気持ちとが混ざり合って、腹の底が熱く疼く。

「今のあなたにとって、これは、暗くて冷たい思い出が詰まった別れの象徴の歌なんだろう。
それをこれから、俺との楽しい思い出が詰まった明るくて暖かいイメージに塗り替えていきませんか。いつかこの歌を、今日ここでまた出会えたことを祝う、再会の象徴の歌だと思えるように」

「…………」

何度か瞬きをした後に、コウさんは俺の肩に両手を置いて、微笑んだ。

「いいな、それ。思い出作りなんて、人生最高の楽しみじゃん」


花屋
グッジョブ
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