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第3回 BL小説アワード「怪談」

真夏の午後のゆううつ

微エロ/微三角関係

 “また明日ね”と言おうとする唇に指を当てられ、黙るしかなかった。無言で西瓜を受け取り、縁側で濡れてしまっているスニーカーを履いた。喉の奥が苦しくなって目尻から熱いものがこぼれ落ち僕は走り出した。

佐藤 紗良
グッジョブ




『ねぇ、大丈夫?その傷、痛くない?』
『…………』
『僕、絆創膏もってるから使って』
『伊豆倉君、どうしかしましたか?』
『先生。この子、血が出てて痛そうなの。保健室に連れて行ってあげてもいいですか?』
 小学校一年のある日の出来事だった。
 二十五人クラスの窓際の席で、僕の隣りにはいつも静かに佇む二十六番目の少女がいた。授業中なのに血を流し、悲し気に僕を見下ろしている。その日はノートに血溜まりが出来てしまい僕は焦って机の引き出しから絆創膏を取り出し、その子にあげようとした。
『な……っ、何を言っているんですか?』
『先生はなぜこの子をいつも無視するの?』
 クラスメイトは"また始まった"と言わんばかりに僕から視線を逸らし、先生の顔はひどく引きつっていたと思う。
 僕はその頃から、なんとなく気付き始めていた。
 先生にもクラスメイトにもその子は"見えていない"のだと。ただ、僕にはその境界線が分からない。"見えるもの"と"見えないもの"の境い目が。
 授業の妨げになると親が何度も学校に呼び出された。次第に異端児扱いされ、教室の隅に追いやられ学校に僕の居場所がなくなってしまった。

 これが僕の日常だった。



 二階の窓から、別荘の裏にある小さな平屋建ての家を見ていた。窓から見えるいつもの風景なのに、気になって仕方がない。作業着を着た男性が二人、家の周辺を歩きながら手に持ってるメジャーで何かを測り話をしているからだ。
 昭和の中頃に建てられた貸家らしいが、ここに来て十年。以前は同じ建物が数件あったが、残るはその一軒となってしまった。
「真司さん、今日は集中できませんか?」
 小学生の頃から僕に勉強を教えてくれている吾妻先生が、テキストを閉じ笑っていた。
 僕の親も学校の先生と同じだった。伊豆倉家に社会不適合者がいることを恥じ、まるで幽閉でもするかのように海辺に近いこの別荘に家政婦さんと家庭教師の先生とともに僕を追いやった。学校には行かせてもらえたが、小中学校は特殊学級がある学校へ無意味に時間を掛けて通い、自由になれるのかと思った高校も親から他人と関わらないよう最低限の出席日数で行けと言われている。
「あの家、取り壊しちゃうのかな」
「更地にして売りに出すと聞きましたよ。解体工事が来週から始まるからと挨拶に来てましたね」
「へぇ」
「この問題が終わったら、ひと息いれましょうか」
「はい」
 少しだけ開けた窓から蝉の鳴き声と車が走り去る音がする。
「真司さんは大学へは行けるんですか」
「父さんと母さんが決めることだから、僕には分からないよ。でも、ここから通える大学ってなくない?」
「頭が良いのだから、高校を卒業したら自由にさせてもらえば良いじゃないですか。真司さんなら今のままでもある程度の大学に行けますよ」
「……先生にそそのかされたって言えばいいかな?」
「私は構わないですよ」
 本気とも冗談ともつかない先生の表情に曖昧に答え問題を解き続けた。先生は眼鏡を外し、立ち上がって裏の家の様子を眺めている。
「終わったよ、先生」
「最近どうなんですか」
「どうって見えること?」
「えぇ」
「見分けがつくものとつかないものと……今だによく分からない」
 さっきの車が戻ってきたのだろうか。同じエンジン音が聞こえる。
「先生、ちょっと海見に行ってきていい?」
「波が高くなってきているから危ないですよ」
「平気だって」
 クローゼットへ薄手のパーカーを取りに行き、それを羽織った。
「一緒に行きます、真司さん」
「さっき先生に言われたことひとりで真剣に考えたいの」
 海を見に行くと言うのは、外出するための口実。先生を適当にあしらうのは得意だった。
 僕の部屋から先生が出てこないのを確認し、螺旋階段を降りて行く。チョロチョロと聞こえてくる水音に辺りを見回しキッチンへ行くと、シンクで大きな西瓜が細く流された水に打たれていて、良いものを見つけたとほくそ笑んだ。
「石崎さん、いる?」
 買い物にでも行ってるのか、家政婦さんの返事はない。ゴミ箱に捨ててあるネットを拾い水を止めてから西瓜を丸ごとネコババ。冷凍庫からアイスを取って、西瓜を片手に玄関を出て海とは逆方向の裏門へと向かった。
 裏の家と別荘の間には、夏草が生い茂る広い空き地がある。
 ムッと立ち込める草いきれ、耳鳴りのような蝉の鳴き声……真夏を作る全てに目眩がした。
「暑い」
 曇っているとはいえ、午後二時過ぎ。
 アイスが溶けてしまいそうでパッケージを破って口元に運ぶと、暑さを助長するかのような甘ったるい苺練乳の味にげんなりする。それでも涼を求めて口に咥えパーカーのフードを被ると、裏の家にはまだ見慣れない車が止まっていた。
(和葉さん、立ち退くように言われてたら可哀想だな)
 和葉さんは、廃屋同然の裏の家の住人。もう知り合って何年にもなるが、人形師をしていていつも真剣な顔で作品に向かってる姿を僕はたまに眺めに行っていた。
 来客中だからと、アトリエがある縁側に回る。本当にこの家は古く、窓は木枠で網戸がない。カーテンもボロボロだが、無頓着な和葉さんはまったく気にしていない様子だった。
「おじさん、食べる?」
 炎天下の縁側で昼寝をしていた手のひらほどの小さなおじさんに声をかけた。指先にひとかけ乗せたアイスを差し出すと、目を覚ましたおじさんが嬉しそうに舐めてくるから、残りのアイスをあげてしまった。
「これは人には見えないものだね」
 こんな風に分かりやすいものはいい。一つ目小僧だって、ろくろ首だって見たことはないがひとめ見たらそれと分かるだろう。一番困るのは人の形をしたーー。
「あ……っ、あっ、もっと突いて」
「こう……か」
「ああん、すっごいっ」
 背後で窓にぶつかる音が聞こえ、驚いて振り返るとニヤけた和葉さんが唇に指を当て僕のことを見ていた。
(…………なんだ、最中か)
 全裸の和葉さんは僕に見せつけるように、ガラス窓に手を付いて後ろから男に腰を掴まれている。さっきの男の一人だ。もう見慣れた光景に縁側に身を隠すようにして木製の窓枠を抑えた。もうそれは反射的に。
 初めて行為を目撃したとき、あまりの激しさに呆然としていると、この窓枠が外れ和葉さんが庭に転げて地面で大の字になった。次の瞬間、和葉さんは天に向って真っ白な液体を噴射させたのだ。そのころの僕はそれが何なのか分からず、二度、三度と噴出する液体を浴びた和葉さんを怯えた目で見ていたと思う。
 今となれば笑い話なのだが、動揺する僕に吾妻先生が教えてくれないような事を和葉さんが一つづつ教えてくれたのはその時だった。
(西瓜が腐るから、早く終わって)
 ガタガタ揺れる窓枠を和葉さんの背後の男に見つからないよう腰を屈めて必死に抑えていると、小さなおじさんが仲間を連れてどこからともなく現れ、僕を手伝ってくれる。
「ご……ごめんね。ありがとう」
「構わないさ。アイスうまかったよ」
 体の大きさからは想像しがたい渋い声に吹き出しそうになる。だから"おじさん"と呼んでいるのだが、正式な名前は知らない。このおじさんだけでなく、和葉さんの家には本当にいろいろ集まってくる。通りすがりのものもいれば、屋根裏から部屋をずっと覗いてるものもいる。和葉さんの家にいるとシュウシュウと聞こえる不快音はそれが発してるものだと思うが、和葉さんにはまったく聞こえないらしい。
『まだ?』
『……もう少し!』
『僕、帰ろうか?!』
『待ってて』
 ジェスチャーで会話するものの引き止められ、汗だくで窓をおさえること数十分。
「あ……っ、イッッ」
 甲高い和葉さんの声と共にいつもだったら窓に精液を撒き散らして終わるのが、綺麗なままで静かになる。おじさん達と中を覗き込むと、すごすごと身支度を整えた男性がそこにあるらしい余韻を楽しむことなく帰るところだった。
 四つん這いで真っ白な髪を振り乱しながら窓に手を伸ばす和葉さんの姿に、おじさん達が驚いた様子でひとりふたりと消えていく。
「真司……いらっしゃい」
「どっ、どうしたの和葉さん」
「全然よくなか……った」
「えっ?」
「真司が持ってきた西瓜が気になってそれどころじゃなかった」
「ご……ごめん。西瓜、隠しておけば良かったね」
「そういう問題じゃないんだ。好物があったらそれの方がいいじゃない」
 手を引っ張られ、転びそうになりながら靴を脱いだ。部屋に入ると引き寄せられ和葉さんに抱きしめられる。
「和葉さん?」
 頰に触れる和葉さんの髪がくすぐったかった。白髪と言っても、和葉さんは年寄りなわけではなく二十三、四だと思う。目がクリッとしていて肌も白く、真っ赤な唇が特に目を引く。アトリエの棚には、和葉さんにどことなく似た人形の頭部や体のパーツが置いてあり、慣れるまではなかなか落ち着かない場所だった。が、何をきっかけでここに上がり込むようになったのかは覚えていない。
「ちょ……っ、和葉さん!」
「やろうよ、真司」
 和葉さんにゆっくりと押し倒され、首筋を撫でた唇が徐々に下肢へと向かって行くのを無数の人形が見ているような気がした。シャツの裾を少しだけ捲って、汗ばんだお臍にチュッと音を立ててキスをされる。
「こないだしてあげたでしょ?あれからちゃんと剥いてる?!」
「ダメダメっ、本当にあんなのまたされたら、僕」
「オカシクナッチャウ」
 こないだの僕の真似だった。
 恥ずかしくて、顔を背けながら小さく頷く。
「おかしくなっちゃっていいんだよ、真司」
「和葉さん」
「ほら、硬くなってる。正常な反応」
 ズボンを下ろされ、そこの匂いでも嗅ぐように和葉さんは鼻先を僕の下着に寄せていた。汗もかいてるし、蒸れた匂いがするに違いなく恥ずかしくてたまらなかった。
「和葉さん……、痛っ」
 パンツのゴムに引っかかり、僕のそこがパチンと下腹を打った。和葉さんが指先で皮を茎元の方に剥いていくと、まだ見慣れないぷっくりとした真っ赤な先端が顔を出し、まるで心臓がそこにあるかのように脈動している。
「ふふ。ちゃんと洗ってるんだ、いい子ね」
「和葉さんに教えてもらった通り……洗ってるよ」
 恥ずかしくて両腕で顔を隠した。強い視線を感じて腕の隙間から天井を見上げると、そこには節から覗く目がある。もう驚きもないがただ気になるだけだった。
「和葉さん……見られてる」
「いいんだよ。真司は可愛いんだから」
 天井から目を離せずにいると、生暖かいものに性器が包まれ顎先が上がった。こないだもそうだった。あの節をみていたら何も考えられなくなって信じられないほどイヤらしい気分になり、もっともっとと激しく腰を振りながら和葉さんの咥内に何度も吐精してしまった。
 天井をジッと見ていると、和葉さんと僕の行為を嬉々としているかのように瞳孔が細く糸のようになり、白目の部分が変な色をしていた。
「はぁ……はぁ……」
 十分に濡らされ、和葉さんの口から僕の性器が解放され空気に晒される。僕に跨った和葉さんは微笑みながら僕の手を取った。
「何……するの?」
「真司と一緒に気持ちよくなろっかなって」
 立派な和葉さんの性器が僕のものと重なり、それをそっと握らされた。和葉さんは、少し歪ませた唇からテロっと唾を垂らし、それは二つの性器の先端をとめどなく濡らす蜜と合わさって手のひらをヌルヌルにさせた。
 和葉さんの手が僕の甲を握り、ゆっくりと動き出す。
「真司、ひとりでもやってる?」
「できないよ。いつも吾妻先生と一緒だし」
「風呂も?」
「うん、たまに」
「ふん……あのインテリ男め」
 和葉さんは吾妻先生を知っているのだろうか。
 天井を向きながら、僕の上で腰を激しく振り始めた和葉さんに煽られるように、だんだんと手の動きが加速していく。身体中に滲み始めた快楽に、膝頭を擦り合わせながら踵でアトリエの床を掻き、僕は感じるまま身悶えていた。
「和葉さんのが擦れて……気持ちい」
「ふふ、真司からどんどんあふれてくるね」
 和葉さんはそれを指先で拭っては、口元に運んで美味しそうに舐めていた。
「和葉さんの……も舐めてみたい」
 僕の言葉に目を細めた和葉さんは、血管を浮き上がらせ灼熱のように熱い自身の性器の先端をこねくり回し、僕の咥内に躊躇なく指を突っ込んだ。
「ん……っ」
「真司、どんどんエロくなってくな」
 夢中で指を吸っていると、和葉さんの指は二本になり、唾液と合わさってグチュグチュと音がする。
「あぁ……真司、上手だね」
 腰の辺りがフワッとして、尾てい骨辺りからズリズリと何かが這い上がる感覚がする。
「和葉さん、イきそう……っ」
 もっとこうしていたいから耐えたいのに、その感覚は止められなかった。僕を見下ろした和葉さんからも汗が滴り落ち、二人のからだが異常な熱気に包まれているようだった。
 雷がどこか遠くで鳴るのが聞こえる。
「和葉さ……、イっちゃうっ、出ちゃ……っ」
 足が弓のようにしなり、体が強張る。ビクッと何度も腰が勝手に震え、それに合わせるかのように先端から精液が何度も噴き上がる。
「気持ちい……」
 頭が真っ白になってもまだ腰は跳ねていた。
「真司は敏感過ぎだねぇ。もっと気持ちよくなりな」
 和葉さんのからかうような声とともに性器同士がゴリゴリと擦れ合う。
「あ……っ、あっ、待って……和葉さ、おかしくなる、んっ」
 程なくして和葉さんの呻き声とともに熱い飛沫が胸や頰、耳を掠めて床に落ちる。
「無理……もう無理……」
「まだ硬いのにもういいの?」
「先っちょ……痛いからぁ」
「真司は、まだまだ慣れないね」
 雨音と和葉さんの声を聞きながら、僕は奈落の底に落ちていくように意識を手放した。





「真司、そろそろ起きなって」
 微睡みながら、何度か瞬きを繰り返すと窓の外はバケツをひっくり返したような土砂降りの雨だった。
「和葉さん」
「西瓜食べる?」
 ガラスに映り込む和葉さんは、何もなかったように白衣を着て作業台に向かっている。
「もう少し、こうしてたい」
 もう何度も見ているこの工程。眼球だけの人形の目はグラスアイと言うらしく、和葉さんは青っぽい目をとってはため息を付き首を傾げる。そんな姿を僕はガラス越しに見つめていた。
「さっきから、人のことそんな見てどうしたんだよ……惚れたか」
「違うよ。和葉さん、遊び人だから嫌」
「よく言うよ。童貞処女のくせにどんどん淫乱になっていくじゃないか」
 掛けてくれてあったタオルケット越しに和葉さんが足の指でお尻をグリグリしてくるのを避けながら、天井を見上げた。
「多分、あの目のせいの気がする」
「人のせいにするな。真司の本質だよ」
「僕の本質?」
 節から見える目はまだこちらを覗いている。目が合うとシュッと瞳孔が細くなり、僕と対峙する。
「ねぇ……和葉さん、あの節になんか見える?」
「節って天井?」
「ほら、あそこだよ」
 僕が指をさすと、和葉さんは裸電球のぶら下がる天井を見上げた。夕暮れにはまだ早いが電気の付いていない部屋はもう薄暗い。雨が吹き込まない程度に開けられた窓からはぬるい風が吹き込み電球を右へ左へと揺らしている。
「どこ?」
「ほら……そこ」
「分からないよ。肩車してあげるから見てみる?」
 確かに指をさした先には節はない。
 節は移動してるのだ。
 さっきは外から二番目の板にあったのが今は奥の棚の上。あれはなんだろう。本当に目なのだろうか。ここでずっと何を見てきたのだろうか。
「和葉さん、肩車して」
「冗談!腰またやっちゃうと、真司と遊べなくなっちゃうから勘弁して。今、片付けるから作業台に乗っていいよ。西瓜切ってくる。服も着せてやったんだから早く起きな」
 今までずっと目がなかった人形に僕の目の色とよく似たグラスアイがきれいにはまり、和葉さんは満足気な顔をして人形の頭を棚へと戻した。広げていた道具も片付けて台所へ行ってしまう。
「………来週、ここ取り壊しになるって。和葉さん、どっか行っちゃうの?」
「真司、知ってたんだ」
 タオルケットをたたみ、作業台に登ると節はシュウシュウと音を立てて戻ってくる。
(生きてるみたい)
 つま先立ちで息を詰めて片目で覗き込むと、薄ぼんやりと何かが見えた気がした。
(………ん?)
 次第に焦点が合い始めると無声映画のように音はなく、ぎこちない動きをした見知らぬ    男が、床で白衣を真っ赤に染めて倒れる和葉さんをズリズリとどこかへ運ぼうとしていた。和葉さんは全く動かない。まるで物でも扱うかのように血の道を描きながら風呂へと向かって行く。
(なぜ、僕は風呂に向かっていると分かる?)
 脚がすくみ、節から目を離すと僕をじっと見ている和葉さんと目が合い、手にはネットに入ったままの西瓜を持ち立っていた。
(そうだ……この家だからだ。廊下の向こう、和葉さんの後ろの扉には風呂があるって知 ってるからだ。お風呂は汚いから見ては駄目とここに来始めた頃に言われているから見たことはないが、さっきの男は風呂に和葉さんを連れて行って……)
「真司、今日は帰りな」
「でも、雨が……」
 その後の和葉さんがどうなったのかーー。
「男なんだから、雨に濡れるくらい平気だろう。出かける用を思い出したんだ」
「こんな雨なのに、急にどうしたの?」
「いいから」
 強引に手を引っ張られ、作業台の上で僕の体はバランスを崩し和葉さんの胸の中に落ちて抱きとめられた。
「真司、気をつけてお帰り」
「う、うん……」
 "また明日ね"と言おうとする唇に指を当てられ、黙るしかなかった。無言で西瓜を受け取り、縁側で濡れてしまっているスニーカーを履いた。喉の奥が苦しくなって目尻から熱いものがこぼれ落ち僕は走り出した。
(さっきのあれは……あの節が見たある日の出来事なのだろうか)
 雨に濡れた草に足を取られながら別荘の裏門にたどり着き、パーカーを忘れてしまったことに気付いた。取りに行くのは明日でも良いが、今日でないと駄目な気がする。西瓜を裏門に置き、元来た道を僕は戻った。雨は激しさを増し、視界が白くぼやけてくる。
「和葉さん!パーカー忘れた」
 縁側の窓は僕が出た時のままになっており、見ては駄目と言われていた風呂の扉が開け放たれ吹き込んだ風で蝶番が軋んでいた。
「和葉さん、僕ずぶ濡れだからパーカー取って」
 返事はなかったが雨音に混じって物音が聞こえる。靴下を脱ぎ、シャツを絞って部屋に入ったが、それでも床には水が滴り落ち、天井から感じる視線を無視して床に脱ぎっぱなしだったパーカーを手に風呂に向かった。
「和葉さん?」
 返事はなく中をそっと覗き込むと、そこに和葉さんがいた。割りタイルの浴槽らしきところに目一杯敷き詰められた土を掘り起こしている。
「…………たえられない。見ず知らずの人に晒されるのだけは」
 奇妙な光景だった。
 風呂の土はどう考えても誰かの手によって運ばれた量だ。窓はずっと開け放たれたままだったのか土は濡れ、雨に濡れる外の風景と同じように青々とした夏草が育ち太い茎となっている。
 和葉さんはブツブツと同じ言葉を繰り返しながら、根っこを手で引きちぎりながら床に土を退けていく。
「和葉さん、何してるの?」
「彼のしたことは間違ってない。悪かったのは私だけ……隠さないと隠さないと」
「……手伝おうか」
 和葉さんは何も答えてくれない。その横で、僕は素手のままひんやりと冷たい土の中に手を入れたが、僕になど目もくれず和葉さんは無心で掘り続けていた。
「隠したいのにここを掘るの?」
「……見つかったら、人は大騒ぎするだろ」
「ここに和葉さんがいるの?」
 ハッと顔を上げた和葉さんの目は落ちくぼみ、その間にも体のそこかしこがおが屑のように崩れ始めていた。もう綺麗だった面影はなく早送りで朽ちていくようだった。
 僕はずっと気付いてた。
 和葉さんがこの世にないものだってことーー。
「ここに……?」
「未練はなかったんだ。けど、真司があまりにも可愛かったから名残惜しくなっちゃってね」
「冗談ばっかり。人形の目の色がずっと決められなかったんでしょ?」
 和葉さんは、いつも同じ人形の目を決めかねていた。
 だから今日。
 消えてしまうのかなってなんとなく予感はしていた。
「…………人形の制作に没頭し過ぎたんだ。ここにアトリエを借りたことを彼が怒ってね」
 力尽きたように、乾いた笑いを浮かべ和葉さんは泥だらけの床にへたり込んだ。幾つかの骨は白い小山となり、新たに見つけた塊にめり込んだ土を僕は丁寧に退けていく。
「事実はどうだっていいと思う。僕は和葉さんに出会えて嬉しいよ……僕の初めてのトモダチ」
「友達にしてはいろんなことしちゃったよね」
「されちゃった」
「真司の顔見せて」
 だんだんと見えてきた頭蓋骨。不思議とそれには温度があるようで、綺麗に白骨化した骨を大事に取り上げたが恐怖感はまったくなかった。
「いいよ」
 和葉さんの髪は大部分が抜け落ち、僕の手にしている頭蓋骨と同じになっていく。
「和葉さん、綺麗だよ」
「ばぁか。真司は本当に可愛い……ここが取り壊しになるってさっきの男も言ってたから、そろそろ終わりにしないとね」
 僕の頰を骨が撫でる。いつものしなやかな和葉さんの指先はもうこの世にはない。
「寂しくはなかった?」
「真司がいてくれたから楽しかったよ」
 矢継ぎ早に会話を交わした。
 今まで散々くだらない話をしてきたのに次の言葉が見つからず、窓から吹き込んだ強い風と雨に思わず目をつむる。
 顔を泥だらけの手で拭い目を開けると、そこに和葉さんはいなかった。それどころか辺りは荒れ、床はところどころ抜け落ちて雨漏りがひどく、結局、残ったのは僕の手の中の骨だけだった。
「出かける準備早すぎ……さよならも言えなかったじゃん」
 和葉さんに"初めてのキスは本当に好きな人と"と言われていた。
「僕の初めての友達」
 僕は和葉さんの頭蓋骨に唇を寄せ抱き締めながら、泥だらけの床に寝転んで目をつむった。
 ずっと僕のことを見ていたあの目も、学校に自由に行けない自分のことも、別荘に戻って石崎さんに泥だらけの服の説明をするのも考えるのが面倒になってしまった。









「……司さん、真司さん!」
 体を強い力に揺り動かされ、ハッとして目を開けると目の前に吾妻先生がいた。その後ろには星空が広がっていて何度か瞬きを繰り返すが体は鉛のように重く、熱っぽかった。
「先生……?」
 起き上がろうとするとシャツは濡れ、腕には僕の目と同じ色をした人形を抱えていた。
「和葉さん……和葉さんの骨。ちゃんと埋めてあげないと」
 うわ言のようにそう言いながら辺りを見回すと、風呂を掘り起こした形跡はあるが和葉さんの骨はひとつも見つからなかった。
「先生、ここら辺に骨なかった?」
「骨ですか」
「大切な友達の骨なんだ」
 先生に人形を預け、少し掘ってみたがカヤの根っこが酷く全く掘りおこせない。
 その時、右の耳元に熱を帯びた息がかかるのを感じ振り返る。
 先生とは距離があり、先生のはずがない。気のせいかと思い、浴槽に手をつきながら立ち上がった瞬間、腕を掴まれ左の耳元で囁くような声が聞こえた。
ーーーーずっと見ていたよ。
 生臭い息に顔を上げると、さっきはそうなっていなかった先生のお腹が……痩せている先生のお腹だけがぽっこりと異常に膨れていた。
「せ……先生、そのお腹どうしたの?」
「これはね」
ーーーー君のふしだらなトモダチの骨を食べたんだよ。
 先生の瞳孔が糸のように細くなり、白目が奇妙な色だった。
 シュウシュウと、どこからともなくあの音が聞こえてくる。

「先生、何を言ってるの……?」

 人形を抱えた先生は声もなく奇妙に笑っているだけだった。




佐藤 紗良
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