>
>
>

第3回 BL小説アワード「怪談」

甘言

受けに元カレあり/メリーバッドエンド/受け攻め両視点

脳天からズガンと杭を打たれたような激しい衝撃が、その瞬間俺を襲った。舌の上に転がる人工的な果実の味が何倍も濃厚になる。でもその飴よりももっともっと甘い言葉の余韻が、全身を包んでいた。

秋後冬
グッジョブ

 線香花火の火花が二つ、パチパチと微かな音を立てている。
 どちらがより長く明かりを灯していられるだろう。そんな子供らしい競争心を宿した瞳でじっと見つめる先、ぽとんと先に火の玉を落としたのは、相手の線香花火だった。
「俺は──……だけどな」
 燃え尽きた花火。
 地面に吸い込まれた朱い玉の脇に、破れた飴の包みが一つ、落ちていた。

*

《土曜の祭り行く人この指とーまれ》
「祭り?」
 SNSでそんな浮かれた呼びかけをしてきたのは中学からの友人、櫻木だった。
 そういやそんなものあったなと、桂太郎は寝転がったまま壁のカレンダーを見上げた。日付の下のメモ欄には母の字で『お祭り・公民館』とある。
 大学進学を機に実家を出て早六年。大学生の頃は何かと理由をつけてたった三回しか帰省せず、就職後も忙しいからと実家に寄りつかずにいたら、去年母親に「たまには帰って来なさいよ」と怒られてしまった。仕方なく、桂太郎は今年の夏季休暇を実家で過ごしている。
 桂太郎の地元は田舎でもなく都会でもない、いたって普通の市で、普通の町だ。駅北側の商店街はややシャッター通り化しているが南側には大きな総合スーパーがあるし、ちょっと駅を離れると畑があるけれど、その代わり新興住宅も多い。
 一見するとわからない、けれども実際に住んでみるとわかる狭いコミュニティ独特の閉鎖的な空気。それを残しつつも地元はどんどん開発され、新しい家々が建ち、人口は増加傾向にあるという。
 そんな自分の生まれ育った町が桂太郎は昔から、そして今でも苦手だった。
「祭りか……」
 さてどうしようかと、携帯を片手に短い髪をくしゃりとかき回す。友人には会いたい。でも少々会いづらさもある。ああでもないこうでもないと煩悶しながら液晶を眺めていると、仲間内の一人が《とーまった》とレスをした。
 桂太郎は僅かに目尻の上がった目をまたカレンダーに向け、眉間に皺を寄せ、しばらくそうして唸っていた。
 やがて躊躇いを振り切るように画面に指を滑らせると、一息に送信を押した。
《とまった》

 土曜日。桂太郎は携帯と財布だけを手に家を出た。両親は朝から出かけていて、弟も今日は友達に引っ張り出されて祭りに行っている。
 半袖シャツ、よれたチノパン、足元はクロックスという適当な格好で待ち合わせ場所の児童公園に向かうと、公園の出入り口にぽつんと人影があった。
「……お? あーっ」
「おす。久しぶり、サク」
 目ざとく桂太郎を見つけて叫んだ友人に、桂太郎は軽く手を上げる。
「ケータ、久しぶりだなあ! なんだよお前、ちっともこっち帰ってこないし」
 合流した桂太郎を、櫻木ことサクは満面の笑みで迎えた。
 よく動く大きな口に、笑っていない時でもどこか笑っているように見える細い目。高校からかけ始めたサクの黒縁眼鏡は今も健在だったが、唯一、最後に会った時は茶色かった髪がすっかり黒くなっていて、桂太郎は見慣れぬそれをまじまじと見つめた。
「色々忙しくてさ。つかお前、髪黒くなったな」
「あ、そっか。ケータがこっちにいた時はまだ茶色だったっけ。大学までは染めてたんだけどさ、就活で黒くして、そっからずっと黒のまんま」
「高校ん時すげえ明るくしてたもんな。なんか黒って見慣れねえ」
「中学の頃は黒かったじゃん」
 唇を尖らせるサクに、「茶髪のイメージ強いんだって」と桂太郎は笑う。
「そういうケータはあんま変わんないな。こう、もっと「都会人!」って感じになってると思ってたのに。むしろちょっとオッサン化してない」
 桂太郎のチノパンを見て言うサクに、桂太郎は無意味に胸を張った。
「してねえよ。十分都会人だろ」
「どこが」
「あー……雰囲気? 物腰? 的な」
「わっかんねーよ」
 サクが桂太郎を軽く叩き、二人は「ははっ」と笑った。
「来てるのってまだ俺だけ?」
 ひとしきり笑って時間を確認すると、集合時間を五分ほど回っている。今日は他にもあと二人来る予定だ。
 サクが、あ、と思い出したように言った。
「それなんだけど、さっきトモから遅れるって連絡入った。あとノグッちゃんが来らんなくなったって」
 トモとノグッちゃんもサクと同様に中学時代からの腐れ縁だ。高校までは四人で集まったりもしていたけれど、桂太郎はサクとも他の二人とも高校卒業以来会っていない。今日は久々にみんなの顔が見られると思っていたのだが。
「なんだ、そっか」
「どうする。トモが来るまで俺と二人になるけど……」
 サクが窺うような声を出す。桂太郎は、自分と同じくらいの位置にある目を見返した。
「……どうするって何が。いんじゃね。あいつ合流するまで先に屋台見て回ろうぜ」
「いいの」
 確かめるようなサクの言葉に、桂太郎は間と呼べるか呼べないかくらいの間口を噤んで、すぐに「おう」と笑顔を作った。
 眼鏡の奥にあるサクの細い目がふっと見開かれ、次いで弓なりになる。
「じゃあ、行こっか」

 途中トモからどうしても用事が終わらないと連絡が来て、結局祭りはサクと二人で回ることになった。
 あれこれ話しながら屋台を冷やかし歩いていると、学生の頃に戻ったような懐かしい気分になった。サクも似たようなことを考えたらしく「こういう感じ懐かしいなあ」としみじみ言って、桂太郎とサクは昔話に花を咲かせた。
 夏の長い昼間も終わりに近づき、日差しの色が夕焼けに変わる。今日は空だけでなく大気すらも茜色に染めるような、そんな夕暮れだった。
 こういうのを本当の『夕焼け』というのだろうなと、公民館の裏手にあるベンチに腰かけ桂太郎がぼうっと空を仰いでいると、突然うなじに冷たいものが押し当てられた。
「うおあっ」
「わーお、おっきな声」
 慌てて振り向くと、トイレに行っていたはずのサクがかき氷のカップを二つ手にして立っている。
「冷てえな、何すんだよ。濡れたぞおい」
「悪い悪い。んじゃ、はい。これお詫び」
 それぞれ青いシロップと赤いシロップがかかったかき氷のうち、青い方を差し出され、桂太郎は「……ったく」と零しながら受け取った。
 ここが人気のない場所でよかった。祭り会場である公民館の駐車場からここまでは多少距離があるせいか、この辺りは昔から穴場スポットなのだ。夜になるとカップル御用達になってしまうが、今の時間は自分達しかいない。情けない悲鳴を聞かれたのがサクだけなのが救いだった。
「お前イチゴ好きだよな」
 桂太郎はちらっと隣の手元を見る。サクは昔からよくイチゴ味の菓子を口にしていた。
「うまいよ、イチゴ」
「甘くね」
「ブルーハワイだって甘いじゃん。かき氷のシロップって、香料の違いで色んな味に感じるだけで、実際はどれも同じ味なんじゃなかったっけ」
「まあ……うん」
 もっともな指摘に、桂太郎はかき氷に刺さっていたストローでザクザクと氷の山を崩す。
 しばらくそんなことをしていると、
「ケータも昔イチゴの味好きだったよね」
 唐突に言われて、え、と顔を上げた。
「昔っていつだ。俺、お前の前でそんなにイチゴ味のもん食ってたか」
「食べてなかったっけ」
「……」
 そのサクの笑み混じりの「食べてなかったっけ」は、「本当はなかったとは思っていないけれど話を合わせるために言った」ように、桂太郎の耳には聞こえた。
 またか。桂太郎はふんっと鼻から息を吐くとそれ以上は何も言わず、かき氷を弄ぶ作業に戻った。経験上、こうやって笑顔で誤魔化そうとしている時のサクには何を言っても暖簾に腕押しだ。いつもはそんなことないくせに、サクはたまに妙に掴みどころがなくなる時がある。
 ザクザク。ザクザク。夕日の茜色と混ざり合い、微妙にまずそうな色合いになってしまっているかき氷を崩して、口に入れる。
 頭がキーンとなった。
「ケータ、このあとどうする。夜の花火まで粘る?」
 桂太郎はこめかみを揉みながら返した。
「いや、これ食ったら帰るよ。一通り回ったし。お前は?」
「……なら、俺も帰ろうかな」
 呟くとサクはへらっとして、束の間黙ってから、再び口を開く。
「今日は来てくれてありがとね。ケータが元気そうで安心した」
「なんだ、急に」
「ずっと心配だったんだよ。……先生が亡くなったって連絡をしたあと、ケータ、連絡つかなくなったから」
 かき氷を混ぜていた桂太郎の手が止まった。額から汗が流れ落ちる。今日の日中の最高気温は四十度近かった。
 にもかかわらず、桂太郎の体はすうっと冷たくなる。
 サクは静かな口調で続けた。
「早いよね。矢萩先生が亡くなってもう三年近く経つ。……ケータと連絡がつかなくなって三年近く、でもあるけど」
「……」
「なあ。連絡つかない間、俺がどれだけ不安だったかわかる。メールしても返信が来ない、電話しても出てくれない、留守電を残しても無視。SNSでも無反応」
 サクの声はあまりにも平坦で、まるでサクとよく似た別人が喋っているみたいだった。
「……悪い」
 それらはすべて事実であり、桂太郎には弁明の余地もない。
 サクが苛立ったように、ストローでカップの底をガッと突いた。
「そっとしておいて欲しい時があるのは俺だってわかる。けどそれなら「今は放っておいてくれ」って一言くらいあってもよかったんじゃない。先生が亡くなった──自殺したなんてこと伝えなければよかったとか、ケータが思いつめてなんか変なことしてんじゃないかとか、俺そんなことばっかり考えて……」
 自殺。
 その言葉が出た刹那、桂太郎の手の中で青色のシロップ液と化した水がたぷんと揺れた。力加減を間違えたらしく、カップの側面が鋭い音を立てる。気がつくと、桂太郎の左手はシロップで濡れていた。
「ごめん」
 先生。自殺。そのキーワードに触発されて、頭の片隅に追いやっていた記憶がどっと押し寄せてくる。
「……ケータ?」 
「っ、ごめ……」
「ケータ、おい──、桂太郎!」
「っ」
 強く肩を掴まれて、軽くパニックになりかけていた桂太郎はハッとなった。驚いた拍子に手元からカップが落ちる。落ちた先には別のカップが転がっていて、赤と青の二色が溶け合った。
 サクはかき氷を放り出した手で桂太郎の手を握った。
「落ち着けケータ。ごめん、別に責めてるわけじゃないんだ。ただ俺心配だったんだよ。心配で心配でどうにかなりそうだったんだ」
 サクの必死な声音に桂太郎は戸惑いを覚えた。こんなに狼狽しているサクを見るのは初めてかもしれない。
「……サクが謝ることじゃない。こっちこそ悪い、ちょっと混乱して……」
 サクが痛ましそうに自分を見ているのがわかって、桂太郎は居たたまれなさに俯いた。
 矢萩。桂太郎は高校生の頃、数学教師だった彼と二年の冬頃から卒業までの間、交際していた。
 線が細く生真面目な性格の年上の男のことが、桂太郎は当時確かに好きだった。でもそれはしょせん高校生の恋愛でしかなく、桂太郎は「矢萩と」付き合うことへの覚悟など、何一つできていなかった。
 若さもあって性急に肉体関係を求める桂太郎を、矢萩は諭し続けた。「そういうこと」をするのはせめて桂太郎が高校を卒業してからにしよう、と。
 桂太郎は当然不満を覚えたが矢萩は頑なで、渋々、桂太郎は“お許し”を待った。しかし大学にも受かり高校卒業を間近に控えたある日、忍耐が限界に達した。
 矢萩に桂太郎は頼み込んだ。
 セックスがしたい。
 矢萩も最初は渋っていたが、いつになく食い下がる年下の恋人に最後には折れてくれた。桂太郎は地元から離れたホテルで、初めて彼の中に身を埋めた。気持ちがよくて心身共に満たされて、まさに天にも昇る心地だった。
 ──おそらく卒業を目前にして、気の緩みがあったのだろう。桂太郎にも。そして矢萩にも。
 後日学校に匿名のメールが届いた。メールには、ホテルの出入り口を背景に寄り添い合う、未成年と思しき青年と矢萩の姿を写した画像が添付されていた。
 ことが発覚してすぐ矢萩は職を失った。写真はギリギリ桂太郎の顔が隠れる角度で撮られていたので、矢萩の相手が誰かということまではわからなかった。矢萩も何を聞かれても「相手はネットで知り合った人だ」としか答えなかった。
 メールの差出人は最後まで判明しなかったが、場所が繁華街に近いホテルだったこともあり、そこで遊んでいた生徒の誰かが撮影したのではという結論でとりあえずは落ち着いた。
 桂太郎は矢萩の苦境を知っても、彼の相手が自分だということが周囲に知られてしまうのが怖くて何もできなかった。いや、何もしなかった。
 時は至極淡々と過ぎて行き、ほどなくして高校を卒業した桂太郎は大学に入った。高校卒業時にはもはや保護者のみならず町内中に矢萩のことが知れ渡っていて、人々の口さがない噂は矢萩はもちろんのこと、当事者の一人である桂太郎も苦しめたのだった。
「……ケータ、顔上げてよ」
「……」
「ケータ」
 それでも頑なに俯いていると、べたつく手の甲を何か生温かい感触が撫ぜた。ぎょっとして顔を上げると、サクが桂太郎の手を舐めていた。
 ぬる、ぬるり。手の甲の節一本一本、節と節のあわいまで丹念に、かつ執拗にサクの舌が這う。舌先がやんわり皮膚の上を擦ると、くすぐったさに背筋が震えた。
 桂太郎は瞬間、なんの反応もできなかった。けれどもすぐに我に返り、慌てて手を引き戻そうとした。それを阻むサクの力は思いのほか強い。
「サクっ、お前……、何してんだよ」
 暴れる桂太郎をサクは下から掬うように見上げて、くっと口角を上げた。眼鏡の奥にある細い目が空に浮かぶ三日月のようになる。
「やっと目ぇ合った」
「っ」
「ケータの手は甘いね。すっげえ甘い」
「か、かき氷の、」
「違うよ。もっと甘い。シロップなんかよりもずっと」
 桂太郎は忙しない瞬きを繰り返した。なんだろう。サクの頬が上気して見えるのはこの夕焼けのせいだろうか。手にかかる息が熱い気がするのは、この茹(う)だるような気温のせい──。
 サクがちらりと自分の唇の端を舐める。赤い砂糖水で色づけられた舌のその淫靡な赤さに、桂太郎の心臓はどうっと鼓動を速めた。
「サ、ク……」
「ケータは先生への罪悪感をずっと持ち続けてるんだね。自分が、逃げたから」
 するりと耳に滑り込んでくるのは最前の感情的な声とは一転した、穏やかな声。
「ケータから関係を迫っておきながら先生だけに何もかも背負わせて、自分は目の前に敷かれたまっすぐなレールに乗ってしまったから。そうして罪悪感を抱えたまま逃げたから、矢萩先生の存在を思い出させるこの町にも戻って来づらくなった」
 サクの声は柔らかい。柔らかくて優しくて──鋭い刺を纏う。
「ホテルに入って行くところを撮られたのは俺のせい。先生が学校にいられなくなったのは俺のせい。先生の自殺のきっかけもひょっとしたら──? ……ケータの心は今でも雁字搦めのままだ。でも多分、これから先もそれは変わらない。だって謝る相手がもういないんだから。ケータの「罪」を許せる唯一の相手は、この世にいない」
 桂太郎の体が氷のようになる。顔色をなくす桂太郎を、サクの両腕が包んだ。
 サクの体は、熱かった。
「ねえケータ。俺は先生じゃないから、ケータを許してその罪悪感から解放してあげることはどうしたってできないよ。でもさ、一緒に抱えることならできると思うんだ」
「一緒に抱える──?」
「そう。ケータにとっての俺は、当時の事情を知っている数少ない人間のうちの一人でしょ。あの時のことは他の誰も、それこそトモ達だって知らない」
 その通りだ。桂太郎は眼差しを揺らす。
「だから俺の前でだけはケータは何も取り繕わなくていいんだよ。弱いところを見せてもいい。周りの人に不審に思われないように他人と同じ表情や態度を作らなくていい。つらかったら「つらい」って言えばいいし、泣きたかったら泣けばいい。俺はどんなケータだって嫌いにならない」
「──……」
 こいつは、なんて甘い誘惑を囁くのだろう。桂太郎はぐっと唇を噛む。今の桂太郎にとってサクの紡ぐ一言一言は、黄金色をした蜂の蜜よりも甘美な言葉だった。
 何年を経ても決して忘れることのできない当時の記憶は、今なお桂太郎の胸に自責の念を湧かせている。たとえそれが自分の自業自得からくるものだとしても。
 その上もたらされた、矢萩の訃報──。
 桂太郎はしかし、誘惑を退けるように眉間をきつく狭めた。
「やめろ。……やめてくれ、そういうのは。俺は、」
「嫌だ、やめないよ。ケータのこと好きだから。だからやめない」
「──え」
 ぽかんと間抜けな声を発した桂太郎に、サクが笑った。
「気づかなかった? 俺はケータに初めて会った時からケータのことが好きだよ。……本当はさ、ケータが先生とのことを話してくれた時すっげえ悔しかったんだ。けどほんのちょっとだけ嬉しくもあって。その話を打ち明けてくれるくらいには俺のこと信頼してくれてるのかなって」
「う、そだろ。だって……なんで……」
「嘘なもんか。俺ね、ケータのその臆病で要領の悪い、でもだからこそ優しくて人の気持ちに寄り添えるとこ大好きなんだ。人間て大なり小なり欠点を抱えていて、それを自覚しているからこそ他人を思いやる気持ちも持てると思うんだよ。自分を完璧だと思っている人には傲慢な人が多いし、俺はそういうのはあんまり好きじゃない」
 サクはそっと身を離し、桂太郎の顔を覗き込む。
「今のケータに俺のことを考える余裕がないのはわかってるよ。急にこんなこと言われたって困るだろうし。だから別に、今すぐ返事がほしいとか気持ちに応えてほしいとかじゃないんだ。でも、俺にもケータが抱えているものを少しだけ持たせてほしい。……頼むから俺をケータの人生から弾かないで。一緒に、いさせて」
 何かに耐えきれなくなったようにサクは語尾を震わせると、自らの唇で桂太郎の口を塞ぎ、少し離して、また塞いだ。それを幾度か繰り返してからおもむろに、桂太郎の反応を窺うように舌の先端をぬく……と口内に滑り込ませてくる。
「──」
 サクの濡れた肉厚の塊は柔らかく、それでいて弾力があって、甘かった。
 キスを拒否しようと思ったのか、それともそうでなかったのか──いつの間にか桂太郎は、口の中に投じられたイチゴの味がするそれをくちゅくちゅと音を立ててねぶっていた。
 舐めれば舐めるほど不思議な甘さが桂太郎の味蕾(みらい)を侵す。舌先を吸うとサクの手が震えるので、それがなんだか堪らなくて、桂太郎は夢中で舌を絡めた。
「っ、ケータ」
 時折唇が離れるタイミングで漏れるくぐもったサクの声が、耳にも心にも心地よかった。サクとはそれなりに長い付き合いだけれど、こんなもどかしげな声を聞くのは初めてだ。
 桂太郎の冷え切った胸をほんの一瞬、明確に名の付けられない震えが駆け抜けた。
「……あ」
 ふいに、甘い口づけに酔う桂太郎の脳裏に一つの画像が浮かんだ。
 自分と矢萩の姿が写る、ホテルを背景にした写真だ。
 あれは構図的にホテルから出てきたところのように見える。でも実際は、入っていく姿を写したものだった。出てきた時すでに辺りは暗かったが、写真の空の彼方には若干色が残っていた。
 桂太郎はぼんやり、あれ……? と思った。
 ──変だな。俺はサクに“撮られた写真はホテルに入って行くところ”だと、教えただろうか……。
 過ぎった直後、その疑問は煙のように立ち消えた。


**
 河原に行くと少年が一人、ふてくされた顔で花火をしていた。
 彼は頬を腫らした俺を見ると目を瞠り、川の水で濡らしたタオルを貸してくれた。俺はありがとうと呟いて、彼の厚意を受け取った。
 聞けば彼は親と喧嘩して家を出て来たのだという。彼は見知らぬ俺にも花火を分けてくれて、その日俺達は夜遅くまで騒いだ。俺は、俺を殴る社会的地位のある”完璧な”父のことも、不要なものを見るような目を俺に向けてくる良妻で”完璧な”母のことも、一時綺麗に忘れた。
 めいっぱい笑って最後に線香花火をしている時、俺の腹がぐううっと鳴った。仕方なかった。あの日は食べたものを一度戻してしまっていたから、腹が減っていた。
 羞恥で縮こまる俺に、ごそごそとポケットをさぐった彼は「やる」と言って飴をくれた。頬の痛みに閉口しながら飴を口に含むと、彼はタオル越しに、頬に優しく触れてきた。
 ──俺はお前、結構好きだけどな。
 脳天からズガンと杭を打たれたような激しい衝撃が、その瞬間俺を襲った。舌の上に転がる人工的な果実の味が何倍も濃厚になる。でもその飴よりももっともっと甘い言葉の余韻が、全身を包んでいた。

 彼がほしい。何をしても、どんなことをしても手に入れる。中学で彼と再会した俺はその一心で彼に近づいた。
 様々なことがあった。愚かな画策もした、絶望もした。けれど結果的に、俺の長年の夢は一つの形になった。
「ケータ」
 傍らで眠る相手の頬を指の腹で辿る。辿りながら視界の隅に自分のスマホを認めて、俺は軽く目を眇めた。……あとで不要なアカウントを消しておかないと。
「む。ん」
 くすぐったかったのか、ケータが俺の触れたところをぽりぽりと掻いた。可愛い。たちまち頭の中がケータ一色になる。
 彼に触れた指先がじんとして、俺はその指を布団の中に潜り込ませ、昨日さんざん貫いた場所にゆっくりと差し挿れた。
「……ん」
 まだ柔らかさを保っていた内側がうねるように指に絡みついてくる。漏れるケータのあえかな声。──俺は上掛けをはぐって反り返った自分の勃起にローションを塗りたくると、ぐうっとケータの肉を割った。
「……、っ、う、あ」
 ケータの眉根が悩ましく寄る。唇が開く。でも彼はまだ目覚めない。
 ケータの中……。俺は今、ケータの中にいる。
 得も言われぬ幸福と悦楽を感じながら熱い息を吐き、俺は”そこ”を味わうようにゆったりと腰を回した。
 一糸纏わぬ彼の肉体は白く、ほどよく筋肉がついていて、とても綺麗だった。スポーツが得意なケータは昔からいい体をしていたけれど、昔は今みたいな青白い肌ではなかった。
 俺はケータの頬を、今度は手のひらで包んだ。少しかさついている、体温のない肌を。
「ケータ……」
 可愛いケータ。優しいケータ。──自分が死んでしまったことにも気がつかない、純粋なケータ。
 矢萩は確かに自殺しようとした。しかしあいつは死ななかった。俺はそれを大学で教鞭を執る父の顔の広さを利用して知ったが、ケータは矢萩が生きていることを知らないまま、交通事故に巻き込まれて死んだ。
 ケータの魂をこの世に繋ぎ留めたのはおそらく矢萩への罪悪感だ。それが未練となって、ケータはこの町に戻ってきた。
 彼は自分を生者だと思い込んでいる。思い込みが彼に『肉体』を与え、『意思』を与えた。俺は『限りなく生者』であるケータをこの手に掴んだのだ。
 ケータの未練が矢萩への罪悪感であるのなら、それを断つわけにはいかない。ケータが俺の前からいなくなる。そんなのは二度とごめんだ。絶対に許さない。
 矢萩のやつが楔というのは非常に気にくわないけれど、でも、俺はこれからもあいつの名を使ってケータを騙し続ける。偽りの「責め」を囁き続け、ケータの心を傷つけ続ける。
 ──もしも真実を知った時、ケータは俺を恨むだろうか。
 ──激しく恨んで、俺への恨みが彼の未練にならないだろうか。
 俺は夢想する。
 真実を秘匿しようと明かそうと、どのみちケータが俺を愛してくれる日は来ない。秘匿したらケータの心は矢萩への罪悪感を手放せない。真実を明かしたら、俺は憎まれる。
 ならケータ。せめて恨んでくれ。
 矢萩への思いじゃなく俺への憎しみで君がこの世に留まってくれるなら、それは俺にとって喜び以外の何物でもない。君に呪われて死ぬのなら、その時俺が流す涙はきっと喜びの涙だろう。
 そう、きっと、喜びの涙であるはずなんだ。
「好きだよ」
 眠るケータにキスをする。その唇はとても柔らかい。
 好きだ、とひたすら繰り返す。こんな風に触れ合える日を何度夢見たことか。ようやく叶った。ようやくこの日が訪れた。ああ、なんて幸せなんだろう。
 ケータ。桂太郎。

「……ごめんね」

 俺はこの先も何度だって君を傷つける。
 それでも、君を愛してる。

秋後冬
グッジョブ
コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。