血の描写有り/エロなし/同級生
不意に、悟が両手を伸ばし、俺の両腕を強く引いた。バランスを崩し、二人で抱き合うようにして落ちていく。遠くなる意識の中で、なぜ悟が俺の腕を掴んでいるのか考えたけれど、わからなかった。地面がどんどん近づいてくる。恐怖はまったくなかった。
森の木々さえ眠りに就いたような夜も深い時間、都立S高校の屋上へ続く階段には、二人の人影があった。
「なぁ、本当にだいじょうぶなのか…?」
藤村 陽(ふじむら よう)がそう問いかけると、白木 悟(しらき さとる)は明るい声で言った。
「ヘーキヘーキ。陽ちゃんは心配性だなぁ」
「でも、サト、俺たち来年受験生だぞ。こんな時間にこんなとこいるの、先生にバレたら…」
「あー、まぁ、陽ちゃんは頭良いもんなぁ。受験に響くとなると、さすがにまずいか」
口ではそう言いながらも、悟はその足を止めようとしない。別に俺はアホだからいいんだけど、と笑いながら振り返る悟を見て、力が抜けていくのがわかった。
『階段で怪談しない?今夜!』
そう誘われたのは今朝の登校中のことだ。「何それシャレ?つまらん」と冷たく返すと、「大真面目だよ!高木に怖い話がいっぱい載ってるサイト教えてもらってさ。最近あっついし、涼しくなることしたいじゃん」とこれまた何ともアホそうな返事が戻ってくる。「怖いのニガテだから嫌だ」と断るよりも先に、「んじゃ、約束ねー」と悟は自分のクラスに入っていってしまった。
俺と悟は幼稚園からの付き合いで、家も近い。いわゆる幼馴染というやつなんだろう。幼い頃からヤツは頭が悪く、「ズボンのポケットにダンゴムシをいくつ詰められるか」や「陽ちゃんのメガネをサイダーで洗ったらどうなるか」という至極くだらないことに興味を抱いては、その探究心のままに行動し、親や先生など周りの大人たちからこっぴどく叱られてきた。悟のイタズラにおいて、俺はときに共犯者になったり被害者になったりしたが、とにかくそのたびに巻き添えをくらっていたことは事実だ。
悟はアホだ。それはもう救いようのないほどに。そんなことは十分すぎるくらい知っているのに、俺は懲りずに今日も共犯者になろうとしている。そして、ここまでアホな悟に毎度付き合ってやっているのは、決して「幼馴染だから」という理由だけではないことにも、俺はとっくに気が付いているのだった。
「えーっと…あ、これこれ、このページ」
屋上の扉の手前、一番上の段に腰を下ろすと、悟は自分のスマートフォンを覗き込む。正面の大きな窓から入り込む月明かり以外、俺たちを照らすものは何もない。ほとんど暗闇に支配されたような空間で、その画面は眩しいほど青白く光り、顔の凹凸の陰影をぼんやりと浮かび上がらせていた。
目的のページを開くと、悟は当たり前のように俺にスマートフォンを手渡す。
「じゃあはい、よろしく」
「は?なんで俺?言いだしっぺはお前だろ」
「おれ漢字ニガテだもん」
こんな子供だましの怪談に大した漢字が出てくるわけねーだろ、と突っ込みたかったが、こいつにそんな理屈は通用しない。むしろ、最初からこうなることを予想していたような気さえするから恐ろしい。スマートフォンを受け取ると、低体温のせいで常時冷たい手に、少し熱をもったそれが心地よく感じる。青白い画面に顔を近づけ、最近さらに視力の下がってきた目を細めてそこに記されている文字の羅列を声に出して読み始めた。
その内容はこんなものだった。
『どこかの国に、ある男がいた。男は取り立てて外形が良いわけでも、金を持っているわけでもなかったが、穏やかで、心優しい青年であった。男には結婚を約束した女がいた。女もまた、気立てがよく、物柔らかで、そして美しかった。二人は幼馴染だった。そして彼らにはもうひとり、幼い頃からの友がいた。「彼」は病弱で、人生の半分ほどを病院で過ごしているような男だったが、二人にとって大切な親友であることに違いはなかった。二人が結婚の報告をしたとき、「彼」は誰よりも喜んでくれた。
しかし、結婚式のひと月前、「彼」は長年苦しまされた病気によって亡くなってしまう。二人は悲嘆に暮れたが、結婚式は予定通り執り行われることとなった。ところがその晩から、男は奇妙な夢を見るようになる。暗闇の中で「彼」が蹲り、声を押し殺すようにして泣いているのだ。そして時折小さな声でつぶやく。「どうしてあいつだったんだ」と。男はその様子から目を逸らすことも、近寄ることも出来ない。しばらくすると顔を上げ、憎悪に満ちた目で男を睨む。大抵そこで目が覚めるのだった。
はじめのうちは、「彼」を偲び、「彼」のことを考える時間が増えたことによって、おかしな夢を見るのだとばかり思っていた。しかし、一週間が過ぎても、毎晩毎晩、同じ夢で目が覚める。そんな夜を幾日か過ごすうちに、男は気が付いた。「彼」は、自分の妻となる女に、叶わぬ恋心を抱いていた。そして、愛しい女と健康な身体を手にしている自分を本当は羨み、憎んでいたのだと。
心優しい男は自責の念に駆られた。「彼」の苦しい葛藤を想像し、眠れない夜が続いた。たまにうとうととまどろんでも、またあの夢に悩まされる。女は日に日に憔悴していく男を心配したが、当然話せるわけがなかった。日を追うごとに強くなる後悔の念に比例するように、夢はどんどん恐ろしいものに変化していった。最初のうちはこちらを睨むだけだった「彼」が、刃物を持って追いかけてくる、崖の上で自分を追い詰める、ひどい時には、刺された痛みや傷口から血が噴き出す感触まではっきりと感じることもあった。
男は次第におかしくなっていった。起きている時間が夢で、夢の世界を現実だと思い込むようになった。そして結婚式の前日、彼は自ら命を絶ってしまう。女は嘆き悲しみ、これ以上ないほど涙を流した。
葬儀を終え、悲しみに暮れながらも女が遺品整理をしていると、一冊のアルバムが出てきた。そこには、三人が笑顔で写っている写真がたくさん収められていた。もうこの世にはいない二人を思いながらページをめくるうちに、女はある違和感を覚えた。どの写真も、「彼」だけは正面を向いているように見えて、微妙に目線が外れている。そしてその目線の先には、いつも男がいた。
「彼」が本当に愛していたのは、女ではなかったのだ。』
沈黙が耳に痛い。すべてを読み終えても黙ったままだった悟が口を開いたのは、風が正面の窓をカタリと揺らしたのと同じタイミングだった。
「なーんか、あんまり怖くなかったな」
「…うん」
「オチ、さりげホモだったし」
さりげどころかだいぶホモだ、と思ったが黙っていた。あまりこの話を広げたくない。誤魔化すように、しかしあくまでさりげなく、他の怪談を探そうと画面をスクロールしていると、不意に悟が口を開いた。
「でもさ、好きな人を殺したいとか思うもんかね?」
「え?」
「だってさ、『彼』は男に変な夢見せて、結果的に自殺させたわけじゃん。いくら自分がまた会いたいからって、あの世にきてほしいからって、そこまでするってだいぶ病んでない?」
「そりゃあ、普通に考えればそうなのかもしれないけど…。『彼』は生きてるうちに思いを告げられなかったんだから、未練が残るのはしょうがないんじゃないか」
俺もよくわからんけど、と付け足した声が不自然に上擦ったような気がして、少しだけ焦る。短い沈黙の後、再び悟が言った。
「陽ちゃんはどう?」
「なにが?」
「好きな人に告白できないまま死んじゃったら、相手を殺してでも、また会いたいって思う?」
スマートフォンの画面から目を離し、悟を見つめる。黒目がちな大きな瞳がまっすぐにこちらを見ていた。いつも何にも考えていないような、それでいてすべてを見透かすような瞳。
「陽ちゃんさ…俺はばかだけど、でも、そこまでばかじゃないよ」
悟が何を言いたいのかわからない。いや、本当はわかっている。でも聞きたくない。
「俺に言いたいことがあるんだろ。だから会いに来てくれたんだろ」
おもむろに立ち上がると、くるりとこちらに向き直る。そうすると、わずかな月明かりさえ逆光になり、顔がよく見えなかった。
「俺は…」
「うん」
言うしかない。本当のことを。もう誤魔化すことはできない。
「サトが、好きだ」
「…うん」
両手が細かく震える。それでも、なんとか言葉を絞り出した。
「…でも、好きだからこそ、幸せになってほしい」
悟は何も言わない。その表情も見えない。
「…だから俺は、連れて行かないよ」
黙ったままでいると、自分の体が闇と同化していくような、奇妙な感覚を覚えた。
「わかった」
見えないはずの悟の表情が、少しだけほっとしたような気配がする。その瞬間、自分でも恐ろしくなるくらい強烈に、「離れたくない」と思った。思ってしまった。
「サト、ごめん」
自然と口からこぼれた言葉を拾う暇もないまま、気付いたら両手で悟の胸のあたりを思い切り押していた。スローモーションのように宙に浮き、背中から沈んでいく身体。驚いたように見開かれる黒目がちの目。俺が悟の体の中で、一番好きなパーツ。
不意に、悟が両手を伸ばし、俺の両腕を強く引いた。バランスを崩し、二人で抱き合うようにして落ちていく。遠くなる意識の中で、なぜ悟が俺の腕を掴んでいるのか考えたけれど、わからなかった。地面がどんどん近づいてくる。恐怖はまったくなかった。
俺はもう死んでるんだから、きっと痛みさえ感じない…。
* * * * *
月明かりに照らされた白い肌は陶器のように艶めかしく美しい。横たわる身体の周りに広がる赤黒い海とのコントラストが素敵だった。
真っ黒で少し硬い髪の毛を愛おしく撫でながら、俺は――――――― 白木 悟は無意識のうちに「かわいそうに…」と呟いていた。
ぜんぶ俺が悪い。すべての元凶は俺だった。
陽ちゃんは、ずっと自分の片想いだと思っていたはずだ。でもそれは違う。片想いどころか、先に好きになったのは俺の方だ。それこそ、まだ精通すらしていないようなガキの頃から、俺は陽ちゃんが好きだった。何か特別な出来事があったわけじゃない。ただ、好きにならない理由がなかっただけだ。頭が良くて、優しくて、俺のことをよくわかってくれる陽ちゃんは、俺の一番大切な人だった。
優秀な陽ちゃんと同じ高校に行くため、受験の時は猛勉強した。だから受かったときはほんとうに嬉しかったし、陽ちゃんも喜んでくれた。今にして思えば、陽ちゃんの喜ぶ顔を見られたことが一番嬉しかったのかもしれない。
高校一年生の一年間は平穏に過ぎた。その間、こんなアホでいつもうるさく騒いでいる俺を、「明るくて社交的」と好意的に捉えてくれる数人の女の子から告白されたが、俺は当然のように断っていた。陽ちゃんは、俺が女の子から呼び出されるたびに少し不機嫌になっているように見えたが、俺に付き合う気がないとわかると、またいつも通りの彼に戻った。そんなとき俺は、不思議な幸福感で満たされるのだった。
今から三カ月ほど前。今年の四月に俺たちは進級し、クラスが離れても相変わらずつるんでいた。新しいクラスにも馴染んできた頃、登校してすぐに一つ上の先輩から声を掛けられた。昨年、体育祭の応援団で同じチームだった女の先輩だ。切れ長の目と、腰まであるまっすぐな黒髪が印象的で、黙っていても男にモテそうなタイプだった。軽く挨拶を交わし、「どうかしました?」と問うと、昼休みに屋上に来てほしいという。昼休みはいつも陽ちゃんと過ごすので邪魔されたくなかったが、そんなことは言えるはずもなく、笑顔で承諾する。
昼になり、約束通り屋上へ行くと、先輩はすでに待っていた。雑談もそこそこに、単刀直入に切り出される。
「白木くんが好きなの。よかったら、私と付き合ってくれないかな」
何度か聞いたことのあるセリフ。いつもの通り断りの返事をしようと口を開きかけると、突然「待って!」と制された。
「ごめん、こんなこと言うの、すっごい勝手だって自分でも分かってるけど…。三日間だけ、考えてくれないかな?」
「はい?」
「白木くんが、誰とも付き合わないのは知ってる。どんなに可愛い子でも。けど、少しだけ、三日だけでいいから、真剣に考えてほしいの。私のこと」
自分に自信がある女の目をしていた。結果は変わらないんだけどなぁ、と思いつつ、「わかりました」というと、「ありがとう!」と完璧な笑顔を向けられる。三日後に直接返事をする約束をすると、連れ立って屋上を後にした。階段へ続く重い扉を開けると、先を歩いていた先輩が突然「きゃっ!」と大きな声をあげる。驚いて視線の先を見ると、そこには二人分の弁当箱を持った陽ちゃんが立っていた。
「す、みません…!」
慌てて謝る陽ちゃんを見て、先輩は余裕を取り戻したのか、「別に大丈夫だよ。じゃあ白木くん、また」と言い残し、階段を降りていった。
「ごめん、聞くつもりなかったんだけど…。高木に聞いたら、ここだって言うから」
「別にいいよ。それよか、弁当さんきゅー」
軽く流しても、陽ちゃんは動かなかった。なんだなんだ、と思っていると、唐突に口を開く。
「あの先輩と付き合うのか?」
驚いて陽ちゃんの顔を見る。メガネの奥の聡明そうな目がこちらを見ていた。
今思えば、いつものように「付き合わないよ」とひとこと言うだけでよかったんだ。ただ、そこで俺の悪い癖が出てしまった。陽ちゃんが俺を想ってくれているかもしれないことが嬉しくて、つい調子に乗ってしまった。
「んーどうしよっかなー…。付き合っちゃおうかなー」
そんなのは嘘だ。陽ちゃん以外の相手なんて考えられない。
「先輩けっこうカワイイし」
これも嘘。陽ちゃんが目の前にいる今、もう先輩の顔さえはっきりとは思い出せなかった。
「…へぇ。まぁ、好きにすれば」
俺の悪ふざけに、陽ちゃんの顔は明らかに不機嫌になった。「なに、嫉妬してんの?もー、可愛いんだからー!」とおどけて肩を組むと、あからさまに避けられる。
「やめろよ」
「そんなに拗ねないのー。ほら、こっちに…」
「やめろって言ってるだろ!」
振り上げた右腕に、肩のあたりを強く押され、俺はバランスを崩した。そしてそのまま、まるで映画のワンシーンのようにゆっくりと、下に落ちていった。
俺の死は、さまざまな不幸が重なって引き起こったものだった。たとえば、ここ数カ月で急激に背が伸びた陽ちゃんが、自分の腕の長さをうまく把握できていなかったこと。打ち所が悪かったこと。ちょうど同じ時間帯に学校の近くで火事があり、救急車の到着が遅れたこと。兎にも角にも、俺はそうして唐突に短い生涯を終えることになった。
昼休みという時間帯に起きたこともあって多くの目撃者がいたため、事故の噂は瞬く間に学校中に広がった。残された陽ちゃんを、表向きには誰も責めなかった。むしろ、俺たちが幼馴染だと知らない人たちには、社交的な俺と友達の多くない陽ちゃんの組み合わせは異様に見えたらしく、元々は陽ちゃんが俺にいじめられていて、それに反撃した結果がこのようなことになったのではないかと、彼に同情の目を向けるものすらいた。
事故の後、周りの生徒たちは、陽ちゃんをいじめたりはしなかったものの、明らかに避けるようになった。何か用があっても陽ちゃんに話し掛ける者はいなかったし、また話しかけられても、返事らしい返事もしなかった。俺を息子のように可愛がってくれていた陽ちゃんの両親も、彼を腫物みたいに扱うようになり、会話もどんどん減っていった。
そんな日々が何日も続くと、陽ちゃんは次第におかしくなっていった。あまりにもつらすぎる現実に、とうとう容量オーバーを起こした彼は、自分が死んでいると思い込むようになった。そうして、周りの人間から無視され続ける自分を納得させたのだ。
「ごめんね」
髪を撫でていた手を下へとすべらせ、冷たい頬をなぞる。そのままゆっくりと、眉、目、鼻の輪郭を指でたしかめていく。決して派手ではないけれど、端正な顔立ち。
「でも俺は嬉しかったよ。だって、これでずっと一緒にいられるんだから」
ずっと大好きだった。俺の魂がすぐに天国に行かなかったのは、きっとこうするため。つらい現実から陽ちゃんを救い出し、永遠に二人で一緒にいるため。もし神様なんてものが本当にいるのなら、俺はそいつに感謝してもしきれないだろう。
不意に、薄っぺらな機械が視界の隅に入ってきた。立ち上がり、行き場をなくしたように転がっているスマートフォンを拾い上げる。先ほど陽ちゃんが読んでくれていた怪談のページをそっと閉じながら思った。
愛する人に、一人きりで自殺させるバカがいるなんて信じられない。そんなことをさせる前に迎えに来てあげるのが、本当の愛だ。
静かに横たわる愛しい人の傍に膝を付き、冷たい唇にそっと口付けた。
了