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第3回 BL小説アワード「怪談」

種子

エロ/グロ

 奇跡のように美しい若者は、兄の膝に頬を寄せ甘える。気遣うように男の包帯をなでさすりながら、その唇はいったいどんな言葉をつむいでいるのか。

日野良子
グッジョブ

 長く空き家だった隣家に人が越してきて、かれこれ一週間になる。
 それがいまだ何の挨拶もないので、兄と弟の二人暮らしであるという以外、彼らのことを知るよしもなかった。とうとうしびれをきらした手伝いのばあやが、屋敷の呼び鈴を鳴らしたのはつい先日のこと。
「まあ、ぼっちゃん、兄の方は顔色の悪い醜男でございました。弟は引っ込んだきりで顔もみせやしません」
 その醜男に門前払いを食らったのだ。ばあやが、あまりにも憤慨しているので、私は愉快な心持ちになった。これまで何の関心もなかった隣人に興味がわいたのは自然の流れであった。

 その頃のわたしの生活といえば、単調きわまりないものであった。
 父の逆鱗にふれ、田舎の屋敷で蟄居することになって三か月。
 初めこそ休暇気分で、ゆったりとレコードを聴いたり友人に手紙をしたためるなどしていたが、ほどなくすべてに飽いた。
 首都が恋しかった。鬱々とした毎日であった。
 そんな折、二階の奥の使っていない女中部屋の小窓から、隣がとてもよく見えるということをわたしは発見した。
 換気用に作られたささやかな窓を開けると、母屋のテラス、二階のバルコニーとそれに面した洋室が、一目瞭然であった。
 すべてが顕わであるのに、彼らがわたしに気づく気配はない。わたしは目の前に広がる光景に夢中になってしまった。
 
 日中ほとんどをテラスの椅子で休んでいるのは、兄とおぼしき男で、ばあやの言うとおりの醜男だ。
 身なりは整っているものの姿勢が悪く、常に苦悶の表情をうかべていた。ケガでもしているのか、右のひじから手首までを包帯で巻いていて、たいていぼんやりとしている。何かの病気の療養中のようであった。
 そしてその兄の傍らには、いつも弟の姿があった。
 醜男の弟ということで、どのような容姿かだいたいあたりをつけていたわたしは、最初その姿を見た時大変驚いた。
 それは、輝かんばかりの姿かたちであった。
 年頃は少年と青年のはざまで、その柔らかそうなややくせのある栗色の髪は、後ろになでつけられ、完璧な造形の額をおしげもなくさらしている。優しげな眉の下には大きな憂いのある瞳が対になっており、それにかぶさる長い睫は、時々はたはたと悩ましげに上下し、その麗しい瞳を見え隠れさせている。
 くっきりとした鼻梁に文句のつけようのない可愛げな鼻、その頬は甘く明るく、唇は紅をひいているかのように艶やかだった。
 目にまぶしいような白いシャツに黒のリボンタイ、サスペンダーでズボンを吊っているその様子は、まるでいつか見た西洋の映画の寄宿舎に住まう少年のようであった。
 奇跡のように美しい若者は、兄の膝に頬を寄せ甘える。気遣うように男の包帯をなでさすりながら、その唇はいったいどんな言葉をつむいでいるのか。
 兄は冷めた目で弟を見る。しかしその指は、弟の髪と戯れることを片時もやめはしない。
 
 時々通いの家政婦が来るほかは、その家にはまるで来客がない。天気の悪い日や夜は、二階のバルコニーに面した部屋で二人は過ごす。夜になってカーテンがひかれてしまうまで、わたしは彼らと濃密な時間を過ごす。
 わたしはだんだんと妙な気分になってきた。他人の生活を細やかに観察しているうちに、自分も共にあの空間にいるような気がしてならない。

 わたしは自分自身を姿見にうつし、眺めてみた。
 田舎にひきこもって精彩を欠いてきたように思えたが、まだ充分な美しさが備わっていた。
 屈強で引き締まった身体に、男らしく整った顔。少し口角を上げてみると、自信にあふれた好人物にみえた。
 わたしはだんだんと憤りをおぼえてきた。
 あのような美しい弟をもっているのが、なぜわたしではなくあの醜い男なのだ。
 あの若者が、もしもわたしの弟として生を受けたなら、こんな田舎の陰気な屋敷で、鬱屈とした兄の世話などせず、ハツラツと暮らせたはずである。
 わたしはあの者をとてもかわいがるであろう。あの者もわたしに愛されるのを喜びとするであろう。一度そう思うと、わたしとあの若者に何の接点もないことが、神の過ちであるとしか思えなかった。

 わたしが隣家を訪ねようと決心するのに、そう長くはかからなかった。正面から行ったとて、ばあやのようにすげなくされる可能性が高いと考えたわたしは、我が屋敷の敷地から忍ぶことにした。
 弟だけが一人の時をみはからい、生垣の隙間から隣家に侵入し、そのまま堂々と庭を横切り母屋に近づいた。
「失礼、隣のものですが」
 間近で声をかけると、寝椅子に寝そべっていた美しい若者は、ハッと身を起こし目を見開く。そんな様子すらとても綺羅きらしい。
 わたしはなるべく彼を怖がらせないように、優しげな笑みをつくり言った。
「失礼、飼っている小鳥が窓から逃げたのです。庭を探しているうちに、こちらに迷いこんでしまいました。何かご存じないでしょうか」
 弟は、わたしの言っている意味を理解していないのか、わたしの顔を見つめ、動かなかった。
「明彦」
 醜男の兄が出て来ると、弟は我に返ったように兄の後ろに隠れた。
「不躾で申し訳ございません。鳥が……」
「こちらにそのようなものは来ておりません。お引き取りください」
 わたしの言い分も最後まで聞かずに、男は静かにそう言った。わたしは屋敷をあとにせざるをえなかった。
 しかし弟の名前を知ることができたし、言葉をかわすことができた。わたしは満足だった。
 明彦。いい名だ。
 こちらを見つめる目が何かを訴えかけているようであった。それはまるでわたしに庇護を求めているかのようで、わたしは、すぐになんとかしてやるからね、と胸の内で明彦に約束したのだった。

 だが、どうしたことだろう。翌日から屋敷は閉ざされてしまった。
 わたしは焦燥に駆られた。あの美しい明彦の姿を見ることができないなど、これ以上につらいことはあるだろうか。
 はたしてあの兄がわたしと明彦の関係に感づいたのではないだろうか。明彦が一目でわたしに魅かれてしまったことに気づき、遠ざけているのだ。
 わたしは最初から彼らが兄弟であることに疑いの目を向けていたが、それは確信にかわった。
 そうだとするとあらゆることに合点がいくのだ。
 二人はまったく似ていないし、年も離れすぎている。きっとわたしの明彦は、何か不遇な目にあって路頭に迷っているところを、あの醜男に金でいいようにされたのだ。そうだ。だから、あのように男の顔色を伺ってわたしと近しくなれずにいるのだ。
 そうでもないと、あのような麗しい者が、醜い男に仕える理由がない。わたしは明彦が憐れでならなかった。
 明彦を助けなければ。
 固く閉じた扉を睨むしか為すすべはなく、その夜はふけていった。

 深夜、胸騒ぎを覚えて目が覚めた。暗い廊下を歩き、例の部屋に辿りつくと、わたしはオペラグラスを構えた。不安が的中した。
 隣家の二階の部屋では灯りが煌々とつき、カーテンはおろかバルコニーへの扉も開け放たれていた。
 美しい明彦は、床にはいつくばる獣の姿勢で、背後から兄と名乗る男の陰茎を受け入れ、あえいでいた。
 その白い裸身は、まるで発光するように美しい。ああ、ああ、というあえぎ声がこちらに聞こえてきそうなほどくるおしげに身をくねらす。その明彦にかぶさる男の身体は目を背けたくなるほど貧弱で、わたしは怖気がした。
 やがて二人は大きく身ぶるいする。気をやったようであった。明彦は今度は醜い男の股ぐらに顔をうずめる。浄めるように男のまらを口淫しはじめる。わたしはその痴態を凝視しながら、気づけば寝間着の中の自分自身をなぐさめていた。
 明彦、明彦、……名前を呼びながら、己の性器をさする。その赤い舌を思う。頬張るさまを目に焼きつける。切ない思いが頂点を迎え、我に返り再び外を見る。すでに屋敷の灯りは消えてしまっていた。暗闇が広がる。
 わたしは自分の精液で汚れた手をみつめ、怒りに震えた。あのような美しい者がこれまで何度このようなことをさせられてきたのか。
 それを思うと、また勃起が始まってきた。わたしは自分の性器をしごきながら、隣家のことを切に考え続けた。
 明彦、少しのがまんだ。わたしが君を助けてあげるよ。明彦、明彦……。

「ほほほ、ごらんなさいませ」
 数日たったある日、勝ち誇ったようにばあやは、菓子折りをわたしにみせた。
 明日から十日間、隣家の主が家をあける。弟を一人残してゆくので何かあれば頼みますと、兄自らがこちらの屋敷に出向いて頭を下げたのであった。
 翌朝九時ピタリに迎えのハイヤーが来ると、包帯の腕をかばうように兄だけが乗りこみ、行ってしまった。
 わたしは昼を待たず隣家の呼び鈴を鳴らした。もう何日も明彦の姿を見ていない。返答がなかったが、吸い込まれるように中に入った。玄関先で「ごめんください」と声をはった。
 やはり何の反応もなく、わたしは待ちきれず中に入った。がらんとしたホールをぬけ広間に足を踏み入れる。
 中央の長椅子に明彦が横になっていた。眠っているようだったのでそっと近づいて、観察した。間近で見る明彦は、以前とは違い顔色が悪かった。具合でも悪いのだろうかと心配になり、他意なくその頬にふれるとピクンと瞼を震わせ目を覚ました。
 わたしは微笑んでみせたが、明彦は「ヒッ」と悲鳴をあげて、退いた。
「勝手に入ってすまない」
 わたしの言葉に耳を貸そうとせず、逃げる明彦をわたしは追った。なぜ逃げるのかまったくわからなかったが、明彦の姿が、羽ばたく可憐な小鳥のようで妙に胸が高鳴る。
「待ってくれ」
 わたしは階段の半ばで明彦を捕まえ、その細い手首をつかむと、無理矢理ひきよせ抱きすくめる。階段で暴れては危険だという咄嗟の判断であった。
「……嫌ッ、……やめてくださいッ」
 明彦は、まるでわたしが暴漢であるかのような反応をみせる。わたしはつい、カッとなって、明彦の右ほほを張る。思いのほか大きな音がした。
 明彦の青ざめていた頬はみるみる赤くなっていく。いつも後ろにくしけずっている髪がはらりと額や頬におち、その様子が妙に艶やかで、わたしの情熱はむくむくと膨張する。
 頬を張られて途端に静かになった明彦だったが、また暴れるといけないので、そのシャツを引き裂くようにして性急に脱がせた。有無を言わさず、その両手首を階段の手すりにきつく縛った。
「やめて、お願い……」
 見開かれた大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。その唇は小刻みに震えている。両腕の抵抗を封じ込めたうえで、全て脱がせる。その肌はどこもかしこも美しく真珠の光沢を思わせる。胸には小さく淡く色づいた乳首が二つ、つんと勃っていた。
 しなやかな腰、脚を必死で閉じて、少しでも性器を隠そうとしているさまは、まるで可憐な乙女のようだ。
 わたしは、その下肢を開き、最初は後ろから思うさま犯した。優しくしてやりたかったが、助けてやろうとしているわたしから逃げるなどと、無礼な明彦には仕置きが必要だと思ったのだ。
「やめて……ッ、ああーーッ、ああーーッ」
 喉をのけぞらせ、悲鳴をあげながら明彦はわたしを受け入れた。
 そして破瓜してすぐに、わたしは気がついたのだった。この身体は男へ奉仕するためにできている。嫌がるそぶりとは真逆に、肉の穴はわたしにむかって開ききっていた。その証拠に、ずぶずぶと迎え、こそげるようにわたしの性器をしごいてくるではないか。
 明彦との男色行為は、これまでの性交がなんだったかと思うほど、悪魔的な快楽に満ちていた。
 やがて明彦は、涙声でよがりながら、腰をふりはじめる。階段の途上という場所で、わたしは明彦の下半身を持ち上げるようにして何度も腰をうちつけ、中を穿つと、明彦は縛られたままの手で階段の手すりにつかまり、狂ったようにわたしの性器を呑みこんでしぼりとるような動きをみせる。
 一連の熱が終わっても、明彦はさめざめと泣き続けている。手首の拘束をとってやり、わたしは彼を抱き上げると、二階に連れて行った。
 バルコニーに面した部屋。そこには「兄」との寝室がある。
 寝台に横たえてやっても、明彦はわたしの顔も見ずに、しくしく泣き続ける。身体は柔軟にわたしを迎えたというのに、これはいったいどんな仕打ちだろう。
「機嫌をなおしなさい」
 声をかけても見向きもしないので、わたしはすっかり気分が悪くなってきて、怒りを含ませ言った。
「君の兄さんに言おう」
 明彦はわたしを初めてまともに見た。絶望の表情がそこにあった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「言ってほしくなければ、ほら、」
 わたしは、明彦を自らの中心へと促す。そこはまた固く腫れ初めていた。
 明彦は動揺しつつも抗わず、諦念の面持ちで、口を開いた。しかしそこから明彦は、飢えた子どものようにわたしのまらにしゃぶりついた。
 深く喉までくわえこみ、必死に舐める。
 思わず何度目かの吐精をしてしまうと、明彦は、わたしの精を必死にのみくだし、さらに、こぼれたものまで舐めとりだした。
「明彦、美味しいのかい?」
 明彦は、涙をうかべながら頷いた。そして今度は、自ら脚を開き、上手にねだったのであった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……とても、とても空腹なのです……」
 わたしは無論、与えてやるほかなかった。
 それを終える頃明彦は、最初のぐったりした様子と違い、あきらかに頬に赤みとつやが戻っていた。まるでわたしとの営みで力を得たかのように思えたし、もっともっとと貪欲に欲しがるさまは、まるで菓子に目がくらんだ子どものようであった。

 それからわたしは、毎日のように庭から隣家を訪ねた。明彦は哀しい瞳でわたしを迎え、決まりごとのように、最初むずがる。嫌だ、やめて、と言って抵抗し、そのうちわたしが怒ると簡単に諦め、淫乱な動きで応じた。そしてたくさんのものを求める。
 明彦があまりにも美味そうにわたしのものを頬張り、精液をのみくだすので、わたしは戯れに明彦のかわいらしいまらを舐めたい衝動にかられた。
「だめ……!だめ……!」
 もはや抵抗をしなくなったと思われた明彦が、わたしの動きを察知して、後ずさる。広い寝台の上を白い身体がくねる。
 わたしは、やすやすと彼を抑え込んで、その性器を口にした。
 それは未知の味わいだった。
 甘い。甘露としか言いようがない。まったくといって生臭みがなく、蜜を思わせる粘度があり、舌にからむ。
 すいつき、のみくだす。
 明彦はしくしくと泣きだし、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りながら、わたしの口のなかに、続けざまに吐精する。
 わたしは、明彦の甘い液を味わい飲みこんだ。一度それをすると、もっと欲しいと焼けつくような渇望がわきだし、辛抱たまらず萎えたものをまた咥える。すると明彦はまた「ごめんなさい、しないで、ごめんなさい」と震え声で訴える。
 それなのにどうだろう、彼の茎はまた固く起ちあがり始めるのだった。痛みを伴うのか、明彦はつらそうにいやいやをする。
 わたしはぺろぺろとしゃぶる。彼の薄い腹部があやしくうごめく。甘い泉が最後の一滴を出しきるまでわたしは明彦を離してやらなかった。

 そうして主のいない十日間を、わたしと明彦はみだらの限りに過ごした。
 明彦は、喜んでわたしのまらを求めるようになった。しかし、自身がしゃぶられるのは最後まで嫌がり、なぜか「ごめんなさい」と何度も謝るのであった。
 明彦は日を追うごとに活力を取り戻してゆく。
 逆にわたしは常にどこか身体がつらく、飯を食っても食ってもおいつかないような空腹に苛まされ、明彦の蜜をのむことでしか、満足感がえられなくなってきた。性交のしすぎが影響していると思われたが、わたしは明彦とのまぐわいをやめることができなかった。明彦の身体がそばにあると、わたしは滾り、明彦は「ごめんなさい」と言いながらわたしの精を求めずにはいられない。

 ついに明彦の兄が帰ってきた日、わたしは真正面から隣家に乗りこんだ。
 ホールで出迎えられたわたしは、剛健そうなその男が、初めだれなのかわからなかった。
「よくきましたね」
 差し出された手と逆の手が、以前とは倍の大きさになっていた。その異様さにのまれる。
「明彦、二階に上がっていなさい」
 男が言うと、明彦は、しくしくと泣きながら二階に上がって行った。
 男はわたしに向き直り、快活に言った。
「さあ、あなたは明彦と同衾しましたね?なに、構いません。あれはそういう生き物なのです」
 わたしは明彦との関係を暴露し、明彦と別れるように説得するつもりだったので、思ってもみなかった先手に言葉もない。
「ところであなたは、顔色がとてもお悪い。『あれ』を飲むとみなそうなるようです。おそらく身体が拒否反応を起こすのでしょう。でも大丈夫です。そのうち、慣れるはずです」
 男はあくまで明朗であった。わたしは自分が何か取り返しのつかない失態を犯したような気分になってきて、今すぐこの部屋を出たいと思いはじめていた。それなのに男の包帯に巻かれた腕が気になって、視線をそらすことができなかった。
 男の腕。その表面はとてもでこぼことし、先ほどからそれが蠢いているような錯覚がする。わたしはぎゅっと目を閉じ、また開く。しかし何度それをしても、男の腕はふつふつと波打っていた。
「今日は失敬します。気分が悪い」
 わたしは立ち上がるつもりが、やおらめまいに襲われ床に手と膝をついた。
「大事になさい。特に『初期』はとても大事にしないといけません……そうだ、あなたのお噂を首都でききましたよ」
 寒い、と突然思った。指先がとても冷たく、小刻みに震えている。
「お父上は今回の件では随分奔走されたそうですよ。感謝されたほうがよろしい。本当ならば牢屋いきです」
 首都では悪い輩との遊びがやめられず、放蕩のかぎりをつくしていた。それがある日、性質の悪い女と関わったのが運のツキだった。
 女は、賤しい出自の十四の娘で、色目を使ってきたので願いを叶えてやった。それが、勝手に孕んだあげく、腹の子の父親になれとわたしの家に乗りこんできたのだ。
 騒ぎになり、わたしは父に弁明した。腹が減っているというから饅頭を購ってやった。その代金である、と。合意の上の行為ゆえわたしが悪いわけではないと。
 父はわたしに言った。あの娘の右目は失明したのだ。お前は他に言うことはないのか、と。
 そうして父や学校の理解をえられなかったわたしは、このような田舎の家に閉じ込められている。確かに殴りすぎたわたしにも非があるが、諸悪の根源であるあの女のことを思うと、怒りを禁じえない。

「ずいぶんご健康になられたようです」
 わたしは、ふらつく身体を支えながら、顔だけ上げて言った。男は快活に笑った。
「ええ、明彦と離れれば自然とこうなります。明彦はすぐ腹を空かせますので、わたしはつい与えてしまう。いえ、あれが悪いわけではありません。あれはそういう憐れな生き物なのです」
 先日この世を去ったばかりの、この国の者ならば誰もが知っている政治家の名前を、男は口にした。もともと明彦はその政治家の持ち物であったとわたしに告げる。
「あの御方がおかくれになり、何の因果かわたしは明彦を譲り受けました。かわいそうに明彦は庇護者をみつけても、長く続きません。男の精なしでは腹が空いてかなわんのです。長く共にいますと、精を絞りつくされるというわけです。わたしの留守中、あなたがあれに与えておいでですね?」
 わたしは、明彦が最初ぐったりとしていたのに、わたしとの性交でみるみる体力を回復していったことを思った。そして美味そうにわたしの精液を一滴残らずなめとること。
「失敬、わたくしもあなたと同じ穴のムジナなのです。わたしはこれでも一計を案じ、知人の外科医に頼んで腕を切り落とすことを考えたのですよ。あなたに明彦を委ね、一切を断ち切って逃げようと謀りました。しかし、気づけば結局ここに舞い戻っておる次第です」
 男は微笑みながら腕の包帯をほどきはじめた。
 異常にふくれあがった腕を覆う白い包帯は、とてもゆるく巻かれていた。まるで大切なものを守るように柔らかく、気遣うようにふうわりと。
「譲り受ける際、『明彦の精を決して口にするな』と強く言い含められました。それなのにわたしは、禁忌を犯しました」
 男の声にはどこか恍惚とした響きがあり、わたしは目をそらせない。
「さあ御覧なさい。これが明彦の蜜を飲んだ結果です。あのような可憐な姿で誘い、養分をとりこみ、そして自らが実を成すことなく男の肉に種を植えつける……なんと逆説的ではありませんか」
 わたしはそれを見るなり、悲鳴をあげた。否、悲鳴をあげたつもりであった。しかし実際は、わずかな空気の塊が、はくっ、と音をたて喉から出ただけだった。
 わたしは、気づけば駆け出していた。
 ふらつく身体にムチ打って、死にもの狂いで逃げるわたしを、高らかに笑う男の声が、悲鳴のように哀切な「ごめんなさい……ごめんなさい……」という泣き声が、わたしの背中にかぶさるように追いかけてくる。
 途中どのようにして家に戻ったのかわからなかった。帰るやいなや、玄関に備え付けられた電話台にとびつき、すぐに父に電話をした。これまでの所業を詫び、心を入れ替えてやり直すから、どうか首都に戻してくださいと泣きながら訴えた。
 
 そのようなわけでわたしは首都に戻った。
 やつれきったわたしを見て、家人は驚き、すぐに入院となった。しかしわたしは退院を待たず、病院をぬけだした。
 
 なぜなら腹が減ってしょうがなかったのだ。

 わたしは誰のまらでも欲しがる淫売そのものに成り果てた。それは父の耳に入り、今度は本当に勘当された。今は街角に立つ身だ。
 わたしは、あの日、隣家の男の腕に見たものを片時も忘れたことはなかった。
 男の腕をびっしりと覆う親指の先くらいの突起。
 その表面はうるみのある半透明で、中を満たすゲル状の何かが透けて見えた。突起、いや卵の中は、核のような芯のような黒い粒で、はちきれんばかりになっており、それぞれがおのおの蠢いていた。
 それが、包帯をとった瞬間、目玉のように一斉にこちらに向かって動いた。
 わたしのほうを「見た」のだった。
 
 今わたしは、あの男がしていたように包帯でふうわりと自分の身を包んでいる。
 そして見知らぬ男たちのまらを口淫し、肛門性交することで精を得ている。しかし明彦のものではないと満たされないのか、いくらも足りないのだった。
 わたしの体力と容色はずいぶん衰えてしまった。
 そのせいで客もつかず、慢性的な空腹に苦しんでいるのだが、腕の突起はそれとは関係なしにどんどん成長している。
 あと少しであの時見たものと同じ大きさになりそうだ。違うのは、男が肘から手首くらいまでの面積だったのが、わたしの場合、喉元から肩、下がって腕全体にびっしりとそれに覆われていることである。それは明彦以外にも数えきれないほどたくさんの男と交わい、たくさんの子種を得たせいかもしれない。

 わたしは夢想する。
 今こそあの隣家にわたしがいてもおかしくないと。
 明彦に優しく世話をやかれながら、わたしはその時を待つ。腹を空かせたわたしと明彦は互いに満たしあう。子らはどんどん成長し、いつかそれを腕に抱く。明彦とわたしの間の子だ、とても美しくかわいいことだろう。

(しかし男である自分が、あのような美しさだけの弱々しい存在に、このような身重の身体にされるとは夢にも思わなかった)

(隣家の屋敷の中で発見されたという、片腕のない遺体。全身が虫に食われたかのような奇怪な穴が開いており、スカスカだったという。むせび泣く明彦に見知らぬ紳士が寄り添っていたときくが、もはやわたしには彼らの行方を知るすべもない)

 わたしは、戯れにひとつの突起を潰してみた。中身がこぼれ手のひらでびくびくしている奇怪な生き物に爪をたてると、恨めしげにわたしを睨んでから長く苦しみやがて息絶えた。
 それを感知した子らが一斉にざわめきだす。
 殺すのは簡単そうでいて難しい。近頃わたしは彼らの繁殖のにえとなることに不思議な親和性を抱くようになってきた。
 それにしても腹が減る。
 だれかわたしのようなものにも精を与えてくれる男はおらぬか。うらめしげに往来を眺める。先ほどから汚らしい身なりの人夫どもが、わたしを淀んだ目で見ている。わたしはなんとか笑いかけてみるが、男たちは無情にも立ち去って行った。とても哀しい。
 ぷちぷちと何かがはぜる音がし始めた。
 ものぐるしいような愉快なような気持ちがこみあげ、わたしは笑ったつもりだったが、次の瞬間無数の何かがわたしの肉を食い破りはじめ、その痛みの獰猛さに、口からこぼれたのは「ごめんなさい」という言葉だった。
 それに呼応するように、ごめんなさいごめんなさいと、小さなものたちの大合唱にわたしは、腹が減るのはつらかろう、好きなだけ喰らうがよい、と胸の中で言った。そして想像を絶する苦しみとその先の安楽を漠然と思ったのであった。

日野良子
グッジョブ
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