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第3回 BL小説アワード「怪談」

擬態

サイコ系ホラー/心理的グロ/女装男子

 受精もしないのに、匂いと美しさで雄を惑わす。己の目的のために――。

来栖みさ
グッジョブ



 子どもの頃から、女の長い髪とスカートが好きだった。さらさらした髪が風に靡く瞬間、スカートの裾がひらりと舞う瞬間、それがピンヒールのコツコツという規則正しい音とともに揺れ動くと、まるで美しい音楽を聴いているかのように自分の心も揺れた。男である自分がそれを身に着けたいと思うようになるまで、あまり時間は掛からなかった。
 ――この仕事を始めるようになったのは、とても自然な事なのかもしれない。
 目当てのサラリーマンと目が合った罪悪感を少しでも消すかのように、柳井秋広は心の中でそう思った。
 五月の空は夕方でも明るい。地元から五駅ほど離れた駅ビルの前にある広場に、今日の客が立っている。年齢は五十代半ばくらいか。背が低く、お腹周りは若干太めだ。グレーのスーツの脇に黒の通勤鞄を抱えている、どこにでもいる普通のサラリーマンだ。ただ一つ、大きな紙袋を足元に置いている以外は――。
「こんにちは」
 秋広が近づいて声を掛けると男は軽く頷いた。
「こんにちは。ア、アキくん……だったかな?」
 男は申し訳なさそうに呟いた。アキは秋広の仕事用の名前、つまり源氏名だ。この場では君付けで呼ぶのが正しい判断だろう。男の良識ある態度に秋広はひとまず安堵した。
「そうです」
「じゃあ、行こうか?」
 男に促され、待ち合わせ場所だった駅からタクシーに乗った。目的のホテルまでは車で十五分ほどの距離だ。男は座席の上で固まっている。その横顔越しに、窓の外を流れていく街の景色をぼんやりと眺めた。

 秋広が女装をして男と会うようになったのは、今から半年以上前の事だ。
 元々、女装癖があり、姉の服やこっそりリサイクルショップで買った女物のワンピースを部屋で着たりしていたが、その姿で外に出た事はなかった。メイクや女装はあくまで一人で楽しむためのものだったからだ。
 高一の秋、秋広のクラスは文化祭の出し物で現代版・ロミオとジュリエットをやる事になった。秋広はなぜかジュリエット役に選ばれ、メイクをし、セーラー服を着て、完全な女子高生として主役を演じるはめになってしまった。
 ある時、練習を終えて教室に戻ると自分の着替えがなくなっていた。誰かに盗られたのか悪戯で隠されたのか、理由は分からなかったが、秋広は仕方なくセーラー服のまま自宅へ帰った。
 その途中、三十代くらいのサラリーマンに声を掛けられた。どこにでもいるような地味で目立たない男だった。男はその場で、これから食事に付き合ってくれたら五千円払うと言った。
 冗談だろう。自分は女子高生の格好をしているが、ちゃんとした男だ――。
 一瞬迷ったが、秋広は断れなかった。父親の病気のために、文化祭の準備で作ったTシャツ代も払えないほど、秋広の家は困窮していたのだ。
 男はファミレスで食事を終えると店の外で五千円札を手渡してくれた。この後、カラオケに行ってくれたらまた五千円払うと笑顔で付け加えた。さすがに歌を歌ったら男だとバレるだろう。そう思ったが断れず、男の後をついていった。
 カラオケボックスの中に入ると当たり前のように隣に座られた。二の腕と膝が触れ、お互いの体温が分かる距離。その空間に耐え切れず、秋広は自分が女装をした男子高校生である事を白状してしまった。すると男はおかしそうに笑った。
 ――もちろん、気づいてるよ。
 男はそれがいいのだと秋広を見つめて微笑んだ。
 ――女は駄目だ。整形や性転換手術を済ませた元男も駄目。僕は君みたいな、どこも弄ってない天然の男の娘が好きなんだ。君は最高に可愛いよ。色が白くて肌が綺麗で、顔の作りが繊細で本当に可愛い。でも、男としての美しさもちゃんとある。見た目も声も完璧なんだ。
 この世の中にそんな需要があるとは知らなかった。性的な意味での価値は、雄臭い男か完全に女に化けた男にしかないと思っていた。どちらともつかない、自分のような中途半端な存在に価値があるとは思えなかった。
 ――もちろん、見た目が完全に女でそこだけついてるのが好きな男もいるよ。でも、僕は違う。服も下着も女物を着けて欲しいけど、下着をずらした時に見えるのは、平らなおっぱいと立派なペニスじゃなくちゃいけない。装飾華美な女の下着と、どこにも手が加えられていない男の体。そのギャップとアンバランスさが堪らなくいいんだ。
 男は下着の中に手を入れさせてくれたら更にお金を払うと言ったが、さすがにそこまではできず断った。その日は一万円だけを貰って家に帰った。
 
「準備してもいいですか?」
 ホテルに入り、今日の客に尋ねると男は頷いた。
「私も準備があるから……いいかな?」
「はい」
 男は大きな紙袋を持ってパーテーションで仕切られた部屋の奥に消えた。秋広も準備を始める。今日は学校の帰りに待ち合わせたため、まだ女装はしていなかった。客には大学生だと話してある。秋広の学校は私服登校のため、それを疑われる事はなかった。
 シャツとデニムを脱いで裸になる。ボクサーパンツと脱いだ服を纏めて袋の中に入れた。反対に取り出した女物の下着を身に着ける。ピンク色のサテン生地に黒のレースがあしらわれたセクシーかつ上品なセットアップだ。ショーツとブラジャーを装着して、その上にブレザーの制服を着る。S女子高の制服は男の指定だった。
 襞の多いプリーツスカートの埃を払い、紺のハイソックスを膝まで上げる。自慢の長い脚が短いスカートから真っ直ぐ伸びているのが見えた。
 鏡を見ながらウイッグをつけ、軽くメイクもする。マスカラを丁寧に塗り、チークとグロスを肌にのせると可愛い女子高生の出来上がりだ。顔の角度を何度か変えて表情をチェックする。
 ――今日も可愛い。完璧だ。
 男に声を掛けようとした瞬間、それが現れた。
「アキちゃーん。会いたかったよぅ」
 男は紺色のセーラー服に身を包んだ姿で立っていた。上着の裾から腹がはみ出し、ミニ丈のスカートから脛毛の生えた短い脚が見えている。女装を終えた秋広を見つけるなり、勢いよく抱きついてきた。男の頬は赤く染まり、息が上がっているのが分かった。
 ――レズプレイかよ。
 心の中で悪態をつきながら男の要望に応える。どこからどう見てもセーラー服を着た変態のオッサンにしか見えなかったが、その体を仲の良い親友のように抱き締めた。
「アキちゃん。今日はずっと一緒にいようね」
 不意に男の頭頂部が見えた。地肌が見えるほど薄くなっている。ふわりとオッサン特有の匂いがした。グロテスクな姿と鼻を刺す匂いに頭がくらくらしたが、男は全く気にしていないようだ。
「ねぇねぇ、一緒にお昼寝しよう?」
「うん……そうだね」
 秋広が頷くと、男は満面の笑みで秋広の手をベッドの上へと引っ張った。

 プレイが終わるとそれぞれシャワーを浴び、着替えを済ませた。
 秋広がするサービスは女装をして相手を絶頂に導くプレイだけだった。セックスはしない。客もそれを望んではいなかった。男を抱こうと思えば、タダで抱けるコミュニティが幾らでもある。秋広が求められているのは客の妄想を瞬時に理解する能力と、それを忠実に再現する能力だけだった。
「今日はありがとう」
 男はスーツに着替えるとスイッチが入ったように元の状態に戻った。財布から一万円札を二枚抜き出して秋広に手渡す。
「また……会えるかな?」
「ええ、もちろんです。ご希望があればメッセージを送って下さい。こちらから折り返します」
「ありがとう。……今度はスクール水着を持ってきてくれると嬉しいな」

       ×××

 ――朝一番のラジオ体操は本当にダルい。
 秋広の学校は毎週月曜日の朝、校内放送を聞きながら教室でラジオ体操をするのが決まりになっている。狭い教室で机に腕が当たるのを気にしながらする体操もどうかと思うが、三分間の我慢だ。仕方がない。
「柳井くん、どうしたの? 腕が上がってないよ」
 担任で生物教師の樫村が腕を動かしながら声を掛けてくる。細身で背が高く、若くてイケメンと評判の教師だ。笑顔が爽やかで見た目も性格も真面目なためか、女子生徒や保護者からの人気も絶大だった。
「顔色がいつもより良くないな……」
 樫村が一歩踏み出したその瞬間、秋広の前にいた女子生徒が倒れた。
 貧血だろうか。秋広が慌てて抱き上げると、倒れた蒔田は小さく震えていた。
「保健室に連れて行きます」
 秋広がそう言うと、担任の樫村は一瞬迷う仕草を見せたが頷いた。
 秋広は一年の頃からずっとクラス委員をしている。裏で面倒な仕事をしている分、学校では問題のない生徒として上手く擬態する技術を身につけていた。こういう時も率先して動く。秋広は蒔田を抱えながら教室を出た。
「大丈夫? なんか汗もかいてるし、顔が白いけど」
「……うん。大丈夫。歩けるから」
 肩を貸して蒔田の上半身を支えながら廊下を歩く。その間も彼女の震えは止まらなかった。
「貧血?」
 蒔田は下を向いたまま答えない。
 階段を下り、保健室のドアが見えた時、蒔田の足が止まった。
「私、柳井くんに話したい事があって――」
 蒔田は青白い顔で秋広の目をじっと見た。
「何? まだホームルーム中だし、聞くけど」
「あ……うん。ありがとう。でもここじゃ話せない」
 蒔田は視線を逸らした。
 蒔田はしばらく黙っていたが、迷った末に駅前にあるファストフード店の名前を口にした。放課後、時間があればそこに来て欲しいと秋広に向かって頭を下げた。
「分かった。じゃあ、今日の夕方、行けばいい?」
「ありがとう」
 秋広が約束すると蒔田の足取りはさっきよりも軽くなった。

 蒔田が指定した店は、値段設定が少し高めのファストフード店だった。ここなら他の生徒に会う事もない。オープンスペースの奥は壁で区切られており、外から中の様子は見えなかった。一番奥の席に行くと蒔田が待っていた。
「ごめんね。柳井くん忙しいのに――」
「いや、別に。大丈夫だから」
 蒔田は地味で目立たない生徒だった。太めの体型で手足が短く、ニキビの浮き出た頬に大きな眼鏡を掛けている。その容姿をからかう男子もいたが、秋広はあまり興味がなかった。
 蒔田は何か話そうとして言葉に詰まり、何度もドリンクのストローに口をつけた。小さく溜息をついた後、意を決したように話し始めた。
「私、二年になってから……クラスの誰かから付き纏われてて――」
「クラスってうちの……だよね?」
「うん」
 蒔田の話によると一年の頃は何もなかったが、二年になった四月の初めから嫌がらせのようなものを受けていると言う。
「靴箱やロッカーや机の中に手紙が入ってたり――」
「手紙?」
 蒔田は鞄から何かを取り出した。よく見ると学校のチェックテストで使うメモ用紙だった。
 ――毎日、蒔田さんを見つめています。
 几帳面な字でそう書かれていた。
「最初はこんな感じで、それで……徐々に内容が……」
 ――今日はクラス委員の柳井くんと話してたね。何を話してたの? 知りたいな。
 蒔田は鞄の中からファイルを取り出した。大量のメモ用紙でファイルが膨れ上がっている。とてもじゃないが全てに目を通せる量ではなかった。幾つか取り出してみると「毎日見ている」「蒔田さんも僕を見て」「今日は僕と目が合ったね」そんな内容が書いてある。
「四月の初めからだともう一か月半、こんな感じ?」
「……うん」
 趣味でやっているInstagramやツイッターにまで嫌がらせがあり、ブロックしても効果がないので全てのSNSのアカウントを停止すると、家に無言電話が掛かってくるようになったと言う。
「学校での様子が書いてあるって事は、やっぱりクラスの誰かだよな。家の電話番号も部活の連絡網とかで分かるし」
「…………」
 いじめだったら楽だったのにな、と秋広は心の中で溜息をついた。秋広の学校ではいじめを主体的に行った生徒はどんな理由があれ退学を余儀なくされる。去年もそれで二人辞めていた。
「これっていわゆるストーカーってやつ?」
「そうかも……しれない」
「他には?」
 尋ねると蒔田は言いにくそうに目を逸らした。
「いつも見られてる気がして……後は――」
「後は?」
「鞄の中に、その、変な……下着とか……あの……」
 蒔田の様子から大体分かった。卑猥な下着やコンドームなんかを入れられたのだろう。蒔田の顔は真っ赤になっている。
「先生には相談した? 生活指導の荒木先生や担任の樫村先生に相談し――」
「それはダメっ!」
 蒔田が急に立ち上がった。テーブルが音を立ててずれ、ドリンクのカップが揺れた。
「絶対にダメだから!」
 蒔田の手はブルブルと震えている。急激な態度の変化に秋広は驚いた。
「あ、ごめん。そうだよね。周りに知られるのは嫌だよな」
「う……うん」
「大丈夫?」
 蒔田は急に気が抜けたようになり、椅子に座ると泣き出してしまった。
「ごめん。こんな話、女子にはできなくて。……だって、私みたいなブスがストーカーに遭ってるなんて言ったら、絶対、馬鹿にされるからっ」
「そんな……蒔田さんはブスじゃないよ。俺はそう思う」
「ただでさえ、男子には馬鹿にされてるのにっ……」
「蒔田さんって確か美術部だよね? フラミンゴの絵描いたの蒔田さんじゃなかったっけ? あれ凄く良かったよ」
「…………」
「綺麗な絵は綺麗な人にしか描けない。だからブスじゃないよ」
 ちょっと大げさかと思ったが慰めの言葉を掛けた。実際、蒔田の描く絵は個性的で美しかった。性格も思い込みの激しい部分はあるかもしれないが、蒔田はごく普通の女の子だ。
 本当に醜い人間はその醜さにさえ気づかない。
 秋広は蒔田を見ても他の男子のようにからかう気持ちにはならなかった。
「柳井くんは移動教室の時も、うちの教室使う事が多いよね? だから、時間がある時でいいから、私のロッカーや机にイタズラする人がいないかどうか見てもらいたいんだけど」
「いいよ。変な奴がいたら捕まえてボコボコにしてやるから」
 秋広がそう言うと、蒔田は初めて笑った。

 蒔田とは一時間近く話し、気がついたら夕方の七時になっていた。慌ててて店の前で別れ、家に帰ると母親がリビングで愚痴っていた。
「秋広宛てに荷物なんだけど、何これ? ネットで注文したの?」
 テーブルの上に段ボールが置いてある。持ち上げると思いのほか軽かった。
「……ご飯は?」
「食べる。とりあえず着替えてくるから」
 段ボールを持って二階にある自分の部屋へ向かった。ここの所、ネットでは買い物していない。
 嫌な予感がした。
 ドアの鍵を閉め、着替えた後、段ボールの蓋をカッターで開けた。
 緩衝材を取り出すと中から綺麗にラッピングされた下着が出てきた。純白のガーターベルトとタイツ、ラインストーンが縫い付けられたビスチェと、後ろがほとんど紐のようなショーツのセットだった。
 ――アキちゃんへ
 花柄のメッセージカードにはそう書いてあった。
 客か、と溜息をつく。
 どうやって調べたのだろう。住所は究極の個人情報だ。客とはLINEでしか連絡を取らない。住所はもちろん、本名や電話番号は誰も知らないはずだった。
 直接、渡せばいいのに気味が悪い。
 サイズが秋広にぴったりなのも気に入らなかった。
 高価なプレゼントはトラブルの元になるため基本的に受け取らない。面倒だと思いつつ、纏めてクローゼットの奥に仕舞い込んだ。

       ×××

「世の中には色々な手段を使って身を守る生き物がいる。例えば――」
 生物の樫村が黒板に何かを書いている。秋広は欠伸を噛み殺した。
 あれから二週間経ったが、蒔田に嫌がらせをしている人物を割り出せずにいる。蒔田は日に日に弱り、ストレスのせいか、丸かった顔が一回り小さくなった。今も辛そうに前の席で俯いている。授業の内容は耳に入ってないようだ。
「皆は擬態と言えば何を想像する? やっぱり、バッタやナナフシか」
 樫村はパソコンを立ち上げて教室の前にある液晶に画像ファイルを並べた。
「擬態には己を目立たなくする隠蔽的擬態と、目立つ事により捕食者を欺く標識的擬態がある。身を守るのではなく、獲物を取るためにするのが攻撃擬態だ。面白いのは繁殖のための擬態で――」
 樫村は蘭のような花の画像をポインターで囲んだ。
「これはハンマーオーキッドと呼ばれる花で、ある蜂の雌にそっくりな姿をしている。その蜂の雄はこの花を見つけると雌と勘違いし、抱きついて交尾する。その時に雄蕊が蜂の体にくっついて、他の花に着陸した時に花粉を渡し、受粉するシステムになっている」
 実際にその動画を見せられたが気味が悪かった。蜂の雄はどう見ても花である偽物に抱きついて必死に交尾を試みる。花だから当然、受精しない。射精のコストを払った上に、自分の体が別の種の受精を手伝う道具になる。正に踏んだり蹴ったりだ。
「この花はprostitute orchid――売春婦蘭とも呼ばれている」
 その瞬間、樫村と目が合った気がして、秋広は慌てて目を逸らした。
 受精もしないのに、匂いと美しさで雄を惑わす。己の目的のために――。
 自分の事を言われているような気がして後ろめたさを感じた。
 そこそこ優等生の自分と、女になって男に奉仕する自分。一体、自分は幾つの顔を使い分けているのだろう。
 その落差が広がれば広がるほど己の罪が重くなる気がした。

「あー、めんどくせぇ」
 友達の橋住遼馬がコンビニのコピー機の前で悪態をついた。
「めんどくせぇって、ノート貸してんのこっちだぞ」
 遼馬は秋広のノートを捲ってはコピーしている。秋広はその後ろから友人の膝を蹴った。
「おっと、あぶねぇ。――やっぱアッキーのノートは最高だな。字は綺麗だし、マーカーのとこ覚えれば八割はいける」
 二人は同じ中学出身で、遼馬は秋広が唯一心を許せる友達だった。
 遼馬は体が大きく、ラグビーが得意だが勉強はいまいちで、テストの前になるといつもこうやってノートを借りに来る。
「今日、この後、ヒマ?」
「ん……まぁ、暇だけど、なんで?」
「三十枚もコピーしたから腹減った」
「アホか。もう息すんな」
 受け取ったノートを丸めて、大きな肩をバシッと叩くと遼馬は笑った。
「ラーメン食いに行こうぜ」

 四百五十円の醤油ラーメンを並んで食べていると、遼馬は何か思いついたように箸を止めた。
「おまえさ、最近、蒔田と仲いいよな。なんかあんのか?」
「なんかってなんだよ」
「いや……ちょっと前に、おまえと蒔田がハンバーガー屋から出て来るとこ見て、変つーか、仲いい感じだったからさ。ここんとこ学校でもよく話してるし。今日も話してたよな?」
 秋広はラーメンを噴き出しそうになり、目の前にあったティッシュに手を伸ばした。
「だからなんだよ。気持ち悪いな」
「おまえブス専なのか?」
「はぁ?」
「だから、蒔田の事が好きなのかって」
「それ聞いてどうすんの?」
「どうなんだよ」
 遼馬は真剣な目で秋広を見ている。目力が強すぎて怒っているようにも見えた。
「おまえ今まで女に興味なかっただろ? モテるのにいっつもクールで、そんな簡単に女と付き合わないっていうか、王子様キャラで違うステージにいる感じだったのにさ……」
「なんだよ、それ」
「あんなブスにおまえを盗られるなんて……なんかなぁ」
「はぁ? ちょっと相談されただけだって。クラス委員だから、色々あるんだよ」
「そうか……ならいいけど。それによくない噂も――」
「噂って蒔田の?」
「いや……いい。悪い。今の忘れてくれ」
 ストーカーの事がクラスに知れ渡っているのだろうか。だとしたら大問題だ。変な広がり方をしたら蒔田がいじめられる可能性もある。それだけは避けたかった。
 店を出ると遼馬は口数が少なくなった。
「どうかした?」
「いや……」
「おいっ――」
 急に腕を引っ張られて驚いた。膝が宙に浮く。体のバランスを崩して倒れそうになった所を、遼馬の胸に抱き止められた。
「なんだよあの車、あぶねーな」
 遼馬は歩道ギリギリを走り抜けたミニバンを睨みつけて舌打ちした。 

       ×××

 六月の半ばになると蒔田が時々、学校を休むようになった。蒔田によると休んだ日はストーカー行為がパタリと止むらしい。普段は放課後もLINEを使って脅迫じみた事をしてくるが、休んだ日は何もなく平穏なのだと力なく笑った。
 七月に入っても犯人を見つける事はできなかった。秋広は蒔田の態度にどこか違和感を覚え始めた。

 数日ぶりに学校へ出てきた蒔田を放課後、資料室に呼び出した。
「役に立てなくてごめん。やっぱり、担任の樫村先生に相談した方がいいと思う。これ以上、行為がエスカレートしたら警察とかそういうのも視野に入れないと」
「……ダメなの」
 蒔田は首を振った。
「どうして?」
「…………」
「悪いけど、俺だけの力じゃこれ以上何もできない」
 蒔田は俯くと、いつものように泣き始めた。どうして駄目なのか理由を訊いても答えない。しばらくの間、沈黙が続いた。
「あいつ……だから」
「あいつ?」
「うん……」
「あいつって?」
「ストーカーしてるの、樫村先生だから」
「まさか――」
 言った瞬間、まずいと思ったが遅かった。蒔田の顔は一瞬で青ざめ、唇が小さく震え始めた。
 蒔田は絶望を滲ませた目で秋広の顔を睨み上げた。
「ほらね……信じないでしょ? だから……だから、言うの嫌だったの」
「そんなんじゃ――」
「先生と私じゃ分が悪いよね……それとも、私が嘘をついてるとでも思ってる?」
 蒔田は手に持っていたハンカチを強く握り締めた。
「もういい。証拠がなければ信じてもらえないの分かってたから。……でも、本当に樫村先生だから。本当に……本当だから」
 蒔田は叫ぶようにそう言うと、ドアを勢いよく開けて部屋を出て行った。

 次の週の月曜日、朝のホームルームで突然、蒔田が叫び出した。ラジオ体操をしている時だった。
「先生なんでしょ? ねぇ、先生だよね? 今も見てる……私を見てる……そうやって……私を……見てる……見てるんだ……」
 秋広の前にいる蒔田は夜叉のように髪を振り乱しながら、教壇にいる樫村に飛び掛かった。
「ねぇ、もう見ないでよ。こっち見ないで。見るな……見るなよ……見るな……見るな……わあああぁぁぁ――っ」
 樫村が宥めても蒔田の叫び声は止まなかった。異様な雰囲気の中、蒔田は泣いているようにも笑っているようにも見えた。
 教室中に蒔田の声が反響する。全ての窓ガラスがびりびりと振動しているように思えた。

        ×××

 雨が降っている。教室の窓から見える空は灰色だった。
 前列に座っているはずの蒔田の姿はもうない。前の席がぽっかりと空いた居心地の悪さに、秋広は小さな戸惑いを覚えた。
 秋広の学校では視力の悪い生徒が前列と二列目に座る決まりになっており、移動教室の多いこのクラスでは一年間、席替えがなかった。この状況に慣れるしかない。
「ホント、やばかったよね」
「完全に目がイッてたもん。大体、蒔田みたいなブスに超絶イケメンの樫村先生がストーカーするわけないじゃん」
「ホントだよね。私、あの子、ずっと苦手だった。急に泣き出したり、霊感あるとか言ってみんなの注目集めようとしたり……とにかく変な子だったよね」
 数人の女子が蒔田の噂をしている。その中には蒔田と仲の良い生徒もいた。
 ――女の手のひら返しは怖いな。
 すでに次の話題で盛り上がっている女子の輪から、秋広はそっと目を逸らした。

 授業が始まる前に教室の扉を開けて廊下に立つ。
 ドア寄り、最前列の生徒は、扉を開けた状態で授業をする教師を待つ決まりがある。教師に敬意を表して中へとエスコートする役目だ。それぞれドアガール・ドアボーイと呼ばれていた。このクラスのドアガールだった蒔田がいなくなった以上、二列目の自分がやるしかなかった。
「よろしくお願いします」
 今日の一限目は樫村の授業だった。軽く頭を下げる。
「よかった」
 樫村は秋広を見ると嬉しそうな顔で微笑んだ。
「今日からまた、柳井くんがドアボーイだね」
「はい」
 去年のクラスでは秋広がドアボーイを務めていた。その時も担任だった樫村とほぼ毎日、今のような他愛もないやりとりをしていた。
「邪魔者が消えてくれたから嬉しいよ」
 樫村は爽やかな笑顔でウインクした。 
「邪魔者って……」
 秋広はいつもと別人のように見える男の顔を見つめた。樫村の瞳に不安気な自分の顔が映っている。樫村は口元に笑みを浮かべたままだ。その口角が片方だけきゅっと上がった。
 急に恐怖を感じて、秋広は出てもいない唾液をゴクリと飲み込んだ。指先が……震えた。
「あなたは……」
「どうかした?」
 更に顔を近づけられた。
「あのガーターベルト、着けてくれた? アキちゃん」
 樫村は秋広の耳元でそう言うと教室の中へと入っていった。

 ――アキちゃんへ

 あのカードの字と蒔田から見せられたメモ用紙の文字が重なった。
 どうして気づかなかったのだろう。毎日見ていたのに……。

 上手く擬態しているつもりが擬態できていなかった。
 ハンマーオーキッド。通称、売春婦蘭。
 あの蘭に抱きつく蜂の雄は、本当はそれが花だと気づいているのかもしれない。
 急激に込み上げてくる吐き気を、震える手のひらで押さえながら――秋広はそう思った。





(了)

来栖みさ
グッジョブ
2
山瀬みょん 16/07/17 14:40

非常に面白かった
物語の展開が進むにつれ何重にも意味を持って行くタイトルセンスが秀逸

ただ、読めば読む程「怪談」というテーマとのずれが際立ってしまうように思われるのが残念
恐らくそこは態となのではないかと感じられるし、
取って付けたようにそれらしい単語だけ入れるよりは潔いとは思うが
これだけ素晴らしい作品が書けるならもっとテーマに沿った作品に出来るのではと感じてしまう

milkal 16/07/22 14:40

 前回の作品でも思いましたが、皆が書きそうなテーマからわざとずらしてくる所がいいなと思いました。BLとしても面白いですが、一般文芸として読んでも遜色ない素晴らしい作品だと思います。

 ストーカーの話としてはありがちかもしれませんが、昆虫がテーマになっていたり、それが主人公の女装と絡んでいたりと小ネタの使い方が上手く読まされました。ただ、ちょっと気持ち悪いなーと思う表現がいくつかありました。面白かったです。ゾッとさせて頂いてありがとうございました。

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