過去あり/ほのぼの風ホラー
あ、と思った時には既に遅く、「それ」と目が合ってしまった。それはニイッと唇をつり上げて真人の元へと駆け寄ってくる。
燦々と太陽の日差しが地上に降り注ぐ昼下がり。真人は黒髪に覆われた額に汗をかきながら俯き加減に歩いていた。実に二週間ぶりの外出でクーラーに慣れてきっている身体に暑さが堪える。
やっと見慣れた自宅マンションが近付いてきて垂れ落ちる汗を拭う。マンション前にある横断歩道の信号を確認する為に俯いていた顔を上げると、信号よりももっと奇妙なものに目が引き寄せられた。
あ、と思った時には既に遅く、「それ」と目が合ってしまった。それはニイッと唇をつり上げて真人の元へと駆け寄ってくる。
「ね、ね! 君、僕が見えてるよね?!」
突然の出来事に目を見開いたまま言葉が出ない真人に、尚も言葉を重ねる姿は人間だけれど半透明で向こう側が透けて見えるそれ。
「あ~、よかった。誰も僕のこと認識してくれないからどうしたらいいか困ってたんだ」
恐らくは幽霊の類であろうが、あまりにも軽い口調で話しかけてくるせいで恐怖というよりも戸惑いを感じて、その場から逃げようと走り出した。霊感というものに縁がなく幽霊を見るのなんて生まれてこの方初めてで、どうしたらいいのかわからない。
「え、えっ?! ちょっと待ってよ」
体力の差というより人間と幽霊の差であっさりとそれにマンションの玄関で追いつかれてしまった。
「こんな姿になってるけどたぶん怪しいものじゃないよ! 透けてて触れないから危害を加えることもないし、お願いだから話だけでも聞いて」
深々と頭を下げられてしまって真人は困ったように長い前髪を触る。無視することも頭をよぎったが、どうしても気になる言葉があったのだ。
「……たぶんって?」
「何もわからないんだよね。自分の名前もどうしてこんな場所にいるのかも」
苦笑を浮かべて半透明の顔をぽりぽりとかくそれを唖然と凝視する。
そうして真人は渋々と記憶喪失の幽霊を家へと招き入れたのだった。
自室に入り部屋の鍵とは別に取り付けられた南京錠もしっかりと施錠して、フローリングの床に座り込んだ彼を見やる。
「ほんと困ってたんだ。気付いたらあそこにいて何もわからないし、誰も僕のこと見えてなくて……あ、っと名前は?」
「……芝本真人」
部屋にこもった熱気を窓の外に追い出すこともせず、真人はクーラーのリモコンに手を伸ばした。
「真人、ね。僕のこと怖くない?」
「別に……生きてる人間の方が怖い」
そう呟いてパソコンデスクの椅子に腰を下ろす。
「生きてる人間?」
「……それよりも、あんた本当になにも覚えてないの?」
「覚えてたらこんな必死に真人に助け求めないよ」
床に落ちていたシンプルなネイビーのクッションを手に取った彼は、それを枕にして寝そべった。
「え、さっき透けてるから触れないって言ったよな?」
「あ~、説明不足だったね。生きてるものは触れないんだ。人はもちろん犬とか虫とか。生きてないもの……無機物には触れて、だから地面も歩けてる」
そこで真人が幽霊は足がないという俗説を思い出して、床に投げ出された半透明の両足をじっくりと観察する。白い半袖のTシャツにデニムというシンプルな服装で裸足の足がしっかりとついている。
ただ、何故か左腕がないのだ。ないというより見えないと言った方がしっくりくる。左肩がぼやけていて、そこから先が消えてしまっていた。
「なぁ、左腕って……」
「これ? 気付いた時にはなかったんだよね。でも左手首が何かに捕まっている感覚はずっとあるんだ」
「いつからあそこに立ってたの?」
「十日くらいかな。最初は全く意味わかんなかったんだけど、やっと状況が整理できてきた」
右手を折り曲げ日数を数えて困ったように微笑む彼に本来お人好しの真人の良心が痛む。
「そっか……これからどうするつもり?」
「せめて自分の名前くらいは思い出したいなぁ。実体もなくて名前もないなんて虚しすぎるからね」
その言葉に長い前髪をぐしゃぐしゃとかき回して溜息を吐いた。
「しょうがないから手伝うよ」
「ありがとう! 真人ならそう言ってくれるって思ってた」
茶色のさらさらとした半透明の髪を揺らして人懐こい笑みを浮かべる彼に、真人は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「あの、でも……俺引きこもりだから外には出られないんだ。今日はたまたま病院があっただけでいつもは部屋にいる。あんまりあんたの役に立てないかも」
「そうなんだ。真人がいてくれるだけで僕は救われたから大丈夫だよ。外もひとりで出れるし」
真人だけが唯一僕を認識してくれた。どこか甘みを帯びた言葉に真人は首をぶんぶんと横に振ってパソコンを起動させた。
幽霊のイメージはテレビやインターネットで得た知識しかないが、恐らく現世に何か未練や心が残っているから彼は成仏できないのだろうと真人は考える。
小さな音を立てて動き出したパソコンの画面を見つめつつ頭の中で情報を整頓していく。横断歩道に立っていたということは交通事故かもしれないと考えて、ここ数週間の内にあの場所で事故があったなんて話は聞いたことがないと首を捻る。
念のため、インターネットで事故の検索をしてみるが該当しそうなものは出てこなかった。
「あそこに立ってたってことは事故かと思ったんだけどな。あんたほんとに何も覚えてないの?」
「全然。ああ、でも……」
起き上がって胡座をかいた彼は、辛うじてほんの少し記憶が残っていると言う。誰だかわからない人間が写っている褪せた写真。ただ全体的にぼんやりと曖昧らしい。
「それって自分の写真じゃなくて?」
「いや……僕自分の顔がわからないんだよね。覚えてないし鏡には映らないから」
「そ、っか。あんた以外と大変なんだな」
記憶のない男を不憫に感じてしゅんと眉を下げる真人に、彼は何かを思いついたように顔を綻ばせた。
「名前ないって不便だよね。僕のことレイって呼んで。幽霊の霊」
「レイね、わかった」
「じゃあ、改めてよろしく。真人」
こんな状況においてもポジティブすぎる男に苦笑いを噛み殺す。
「あのさ、俺……レイの似顔絵描いてみようか? 絵はヘタだけど」
「えっ?! いいの? お願いします」
目を輝かせる彼に頷いて引き出しからスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「準備いいね。もしかして絵描き?」
「んー、絵というよりグラフィックデザインかな。建物描くの好きなんだ」
「へぇ~、見てみたい」
「また今度。楽な体勢になってなるべく動かないで」
そう言って真人はサラサラと鉛筆を走らせた。真剣になると人目を避けるために伸ばしている長い前髪が邪魔になって、いつものように輪ゴムで適当に結ぶ。滅多に日光に当たらない肌は白いというよりも不健康に青白く、隠されていた睫毛は影ができるほど長い。
「髪の毛上げた方がいいじゃん」
「描く時は邪魔だから。落ち着かないからできるだけ上げたくない」
「どうして?」
レイの問いかけに無言のまま首を横に振ると少し癖のある真人の黒髪が静かに揺れた。
そのままゆったりとした時間が流れ、真人がスケッチブックを差し出した。
「ありがと! これが僕なんだ」
「あんま似てなくてごめん。どう? 写真と同じ顔?」
「たぶん違うかな……もっと幼いみたい。僕って何歳くらいに見える?」
がっくりと肩を落としながらもスケッチブックをじっと見つめるレイが訊ねる。
「んー、俺と同じくらいかちょっと上っぽい」
「真人っていくつなの」
「二十三」
どうやら記憶の写真に写っているのは高校生くらいの少年で、彫りの深いレイの目とは違う切れ長な目をしているらしい。
「もしかしたら兄弟とか?」
「かもしれないね。真人のおかげで自分の顔がわかったよ。これもらってもいい?」
真人が頷くとレイは嬉しそうに似顔絵の部分をちぎり取って右手だけで器用に畳んだ。
次に二人はインターネットで普通の人間の記憶喪失の治療法を検索してみるとこにした。
「んー、医者にもカウンセラーにも見えないから診てもらえないし……」
「僕もう人間じゃないもんね」
どれも幽霊のレイには不可能な治療法が並び、マウスを動かす度に彼を気の毒に感じて真人の心が重くなる。
「やっぱり外で直接思い出せる何かに出会わなきゃ無理かぁ」
「役に立てなくてごめん」
「真人は気にしないでって。でも僕ここにいていいかな? 話し相手になってよ」
他人を自分の領域に踏み込ませることに恐怖を感じていたのに、相手が生身の人間ではないせいなのかレイを不憫に感じてなのか、真人は素直に頷いた。
そうして始まった奇妙な共同生活。どうやらレイは浮くことはできるが壁を通り抜けることはできないらしく、部屋の窓から出入りしている。腹は空かないし、眠くなることもない。未だ真人以外にレイの存在を認識できる人間はおらず、声さえも届かない。
そんな幽霊の性質を真人はこっそり羨ましく思っている。ちなみに彼の一日のスケジュールは一人で昼食を作って、夕食は同居している祖父母と共に食べ、他の時間は絵を描くか映画鑑賞という淡々としたものだ。
今もパソコンに向かって絵を描いていると、窓の外からコンコンと控えめなノック音が。カーテンを開けると眼下に夜景が広がり、宙に浮いたレイが笑顔で手を振っている。窓の二重鍵を外して、別に取り付けた窓用のロックを解除する。
「ただいま、真人」
「おかえり。今日はどうだった?」
「今日も収穫なし。疲れないけど疲れた」
そう言ってレイは勢いよくベッドに寝転がって、ベッドサイドに置かれた真人のDVDコレクションに半透明の指を滑らせる。
「今日は何観ようかな」
「もうちょっとしたら寝るから音控えめにして」
「わかってる」
真人がパソコンをシャットダウンすると、レイは何も言わずベッドから降りてそこにもたれかかるのがもう暗黙のルールになっている。暗所恐怖症気味の真人は眠る時も電気はつけたままだ。今日も布団に潜り込んで流れる映画を見つめながら眠りにつく。
「おやすみ」
眠りにつく直前に聞こえるレイの声に心の中でおやすみと返して夢の世界へと旅立った。決して触れることのない透き通る指が自分の頬をなぞっていることには気付かずに。
数日後。レイはパソコンに向かう真人の背中を床から見上げて声をかけた。
「ずっと気になってたんだけど……この部屋鍵多いよね。いざという時逃げ遅れそう」
「いざという時、ね」
「まさか自殺願望あるなんて言わないよね。僕みたいになるよ」
「どうだろ」
わざと茶化してくれるレイに自虐的に薄い唇を歪める真人。
「何があったのか聞いてもいいのかな?」
パソコンから目を離すことなく長い睫毛を伏せて、深く深く息を吐き出す。そして、心に染み付いた闇を言葉に乗せた。
最初に異変を感じたのは中学校一年の秋、真人の私物がよく紛失したのだ。最初は消しゴムや下敷きといった些細なものだったが、次第にエスカレートし上履きや体操服がなくなることもあった。真人自身あまり目立つ方ではなかったが、それなりに仲のいい友人も何人もいて、誰ともトラブルを抱えてはいなかったのに。結局紛失した私物は今でも見つかっていない。
そして同時期から真人宛に差出人不明の手紙が届くようになった。直接郵便受けに投函される切手の貼られていない手紙。手紙の主は真人を「まーくん」と呼び、そこには学校での出来事や真人の身近な人間しか知り得ないことが書き綴られていた。ストーカーと言っても過言ではない内容に身の毛のよだつ思いをしたが、家族も友人も単なる子供のイタズラだろうと誰も真剣に取り合おうとしなかった。読みやすく綺麗ではあるものの、どう見ても男の字であったから余計にイタズラだと判断されたのかもしれない。
手紙をまともに読んだのも最初だけで、内容の気味の悪さから真人はその差出人不明の手紙が届くと同時にビリビリに破り捨てるようになった。それでも連日届く手紙に恐怖は増していく。幼馴染と協力して犯人を突き止めようと夜通し郵便受けを見張っていたこともあったが、そういう日に限って現れないのだ。まるで見張られていることを知っているかのように。
高校に進学する頃にはかなり精神的に追い詰められその顔から笑顔は減り、これまで以上に大人しく目立たなくなった真人。高校入学を機に携帯電話を買い与えられると手紙に加え、知らないアドレスから似たような内容のメールが何通も届くようになった。相手のアドレスを拒否してもまた違うアドレスからメールが届き、自身のアドレスを何回変えても嫌がらせのようなメールが止むことはなかった。
次第にエスカレートしていく行為に怯える日々。被害妄想なのか現実なのか、中学の時には気付かなかった離れた場所から自分を舐めまわすような視線すら感じていた。
そして、高校一年の秋に事件は起きた。深夜遅く身体に違和感を感じて目を覚ますと、誰かが自分に覆いかぶさり身体を触っていたのだ。パニックになって叫びながら暴れる真人に怯んだ相手は侵入した窓から逃げ去っていき、真人は駆け込んできた両親に縋りついた。壊された窓と恐慌状態に陥る息子に両親は一連のイタズラが本物のストーカーの仕業であることを悟った。
そうして真人は高校を辞め、誰にも引っ越し先を告げぬまま母方の実家がある隣の県にやって来た。セキュリティがしっかりして窓からの侵入が不可能な高層マンション。それでも暗闇での出来事は心に大きな傷を刻みつけ、暗所恐怖症と対人恐怖症になり異常なまでに自分の領域を守らないと不安で仕方がなくなってしまった。月に一度病院へカウンセリングに通っているものの未だ治る気配はない。
時々言葉を詰まらせながら過去と向き合うように語る真人の話を、その小さな背中をじっと視線を注いで静かに耳をかたむけるレイ。
「そっか……大変だったね」
「もう七年も経つのにまだ怖くて……」
「そんなの怖くて当然だよ」
穏やかな声にやっと真人は振り返って彼の顔を見ることができた。次に煌々とした蛍光灯を見やり、薄い唇をぎゅっと強い力で噛んだ。
「こんな生活してちゃだめだって頭ではわかってるんだ。親にもじいちゃんたちにも迷惑かけて……でも、どうしても外に出るのが怖い。人の視線が怖い」
今にも泣き出しそうな声にレイは眉を寄せて立ち上がった。そのまま軽く宙に浮き真人の頭上まで来て、癖のある黒髪を撫でる。もちろん本当に触れることはできないからその感覚が真人に伝わることはない。
「……何やってるの? 人の頭の上で」
「大丈夫って頭撫でてる」
「ありがと……」
自分を気遣うレイの優しさが嬉しくて真人はそっと目を閉じる。その方がそこにあるはずの手の温もりを感じられる気がして。
穏やかな時間が流れ、レイが口を開いた。
「僕は別に無理に急がなくてもいいと思う。今の真人には守ってくれる人がいるんだから。仮に八十歳まで生きるとして、あと六十年弱あるんだよ? まだ折り返し地点にも来てない。のんびり生きればいいんだよ、僕には見れない世界を経験しておいで」
「レイ……」
人との接触を極力絶ってきた真人にとって今や友人は幼馴染くらいで、ストーカー被害に遭うようになってからここまで心を開いたのは久しぶりだった。相手が幽霊だということ以上にポジティブで自由なレイに凍り付いた心がゆっくりと溶け、癒されていく。
「レイの方が大変なのにありがと」
「そうでもないよ。それに真人にはお世話になってるからね」
再びふわりと宙に浮いてレイはベッドに腰を下ろす。慣れたようにテレビのリモコンを手に取って楽しそうな声を出した。
「ほら、好きな映画見て気分転換しよ」
「レイが観たいのでいいよ。なんか機嫌よくない?」
いつも以上に上機嫌な半透明の横顔に首をかしげながら真人もその隣に腰かけた。レイは慣れたようにコレクションをあさって一枚のDVDを取り出した。
「うん? 真人が自分から話してくれたからね」
「……別に聞かれれば話すし」
今にも鼻歌を歌い出しそうなレイに唇を尖らせる真人。心の奥がむず痒くなる初めての感覚に小さく息を吐いた。
暑かった夏もやっと終わり、日に日に秋の気配が濃くなっている。今日も真人は長い前髪を上げて真剣な表情で絵を描いていた。
自分の世界に集中していたが、もう慣れた窓のノック音にパッと顔を上げて鍵を開けに向かう。いつの間にか日は暮れ、雨が降り注いでいた。
「ただいま」
「雨降ってたんだ。気付かなかった」
「そんなに集中してたんだ」
ふわりと浮いてパソコン画面を覗き込むレイ。そこには色とりどりの歪な建物が立ち並んでいる。
「だいぶ進んだね。僕この絵好きだな」
「あ、ありがと」
これまで自分の世界の中で絵を描いてきたから人に見せたのもレイが初めてで、褒められることにも慣れておらず戸惑ってしまう。もちろん嬉しいことに変わりはないけれど。
口元を緩ませる真人の横でレイは勝手にパソコンを操作してこれまで描き溜めてきた絵のファイルを開いた。どれも近未来を連想させる建物や風景ばかりで、そこに人の姿はない。
「全部いいけどこれが一番のお気に入り。やっぱり真人才能あると思うよ」
「素人の趣味だから」
真人がぶんぶんと首を横に振って否定すると、レイはにっこりと人懐こい笑みを向けた。
「そんなことないと思うけどな~。じゃあパソコンのソフト使いこなせてるんだしグラフィックデザインの仕事とかいいんじゃない?」
「無理だって……」
困ったように目を伏せる真人の耳に遠くで雷の鳴る音が届く。雨脚も先ほどよりも激しくなり遮光カーテン越しに閃光が見えた。
「一気に雨降ってきたね。夕立?」
「もう秋なのに。続き描きたいからレイどいて」
椅子に腰掛けた半透明の男を床に追いやって真人が腰を下ろした、瞬間。天を真二つに裂くような雷鳴が轟き、衝撃と共に部屋の明かりが一斉に落ちた。何が起きたのかを判断する前に突然の暗闇にパニックに陥り、椅子から床に転倒した真人。その場で身を守るように丸くなって、言葉にならない言葉を発して泣き叫ぶ。
「真人! 大丈夫だから!」
自分の声も一切耳に入っておらず声を枯らす小さな身体に、レイは咄嗟に机の上の携帯電話を手に取って画面をつけた。
「ほら、真人こっち見て! 明るいから」
光を感じたのかゆるゆると黒髪が動いて、涙で濡れた頬が見えた。
「単なる停電だから大丈夫だよ。すぐに復旧するって」
「ん……」
僅かだが煌々と明るい携帯電話の画面の光を縋るように見つめて真人は頷く。レイは未だ震えの止まらない身体をどうにかしてあげたいと歯痒さを感じながら、彼に光を与え続けた。
それから漸く電気がついた頃には真人は泣き疲れて床に丸まったまま眠りに落ちていた。目尻にはまだ涙の雫が残っている。
「真人、停電終わったよ」
穏やかな声に反応はない。困ったように苦笑したレイはベッドから布団を下ろして真人にかけてやり、そのすぐ隣に寝転がった。
それがきっかけなのか、真人の心にある変化が生まれた。あの停電から数日後、いつものようにレイが映画を見ていると、パソコンをシャットダウンした真人がベッドに入った。ベッドサイドにもたれかかるレイの半透明な茶色い髪を見つめながら口を開く。緊張した低く固い声で。
「あのさ……電気消してくれる?」
「えっ?! それ大丈夫?」
「いい加減治したいんだ。この前みたいなことがいつあるかわからないし。それにテレビの明かりもあるから」
レイは複雑な表情を浮かべて真人の顔をじっと見つめ、確認するように訊いた。
「本当に、大丈夫?」
「うん。レイもいてくれるし……その代わり、部屋出て行く時は電気つけて」
「真人を置いて行かないよ。じゃあ、消すね」
ふわりとレイが浮いてドアの横にある電気のスイッチをオフにした。暗闇に包まれる部屋を照らすテレビの光。真人は両手を強く握って深呼吸を繰り返す。
「眠れそう?」
「やってみる……レイはそのまま映画観てて」
「真人と映画の両方観てる」
「ん……」
ベッドサイドに腰掛けたレイのあるはずのない温もりを感じた気がして、真人はゆっくりと目を閉じた。
それ以来、真人はレイが映画を観ている時だけは電気を消して眠ることができるようになった。その日もテレビの光を感じつつ眠りについた。
真夜中に強い力と自分を呼ぶ声に目を覚ますと、テレビの消えた暗い部屋で半透明なはずのレイが淡い光を纏っていた。その右手はどうしてか真人の左手首をしっかりと掴み、温もりさえ感じることができる。一気に覚醒した真人が飛び起きると、レイが寂しげに微笑んだ。
「もう行かなくちゃいけないみたい。すごい力で左手が引っ張られてるんだ」
「え……そんな突然……」
「ごめんね。僕は真人に会えてすごく幸せだったよ」
「待って」
徐々に淡い光が強くなりそこに引き込まれるようにレイの身体が透明になっていく。
「真人はちゃんと生きて。僕の知らない世界を見るんだ。でも……僕を忘れないでほしいな」
「忘れるわけない!」
ほとんど消えかけたレイが嬉しそうに笑った。掴まれている左手首にもう彼の手の感触は感じられない。
「よかった。知らないと思うけど、真人が好きなんだ。ずっと」
その言葉が耳に届くと同時にレイは消えてしまった。光もなくなり辺りは再び静かな暗闇に戻る。
真人は最後に感じたレイの温もりを思い出して左手首を握り締め、ポタポタと涙を零した。なんで……と問いかけるのに答えてくれる優しい声はどこにもない。左手を抱えながら涙が枯れ果ててしまうのではないかというくらい泣き続けた。
レイがいなくなって初めて気付いたのだ、彼を好きになってしまっていたことに。たった三ヶ月しか一緒にいなかった、けれど三ヶ月間ずっと隣にいた半透明の幽霊。自分が助けてあげようと思っていたのに、結局救われていたのは自分自身だった。
泣き疲れて眠ったその夜から、真人が暗闇に恐怖を感じることはなくなった。
レイの言葉通りのんびり急がずに生きていこうと思えた真人は少しずつ変わり、寒い冬のある日、七年ぶりに幼馴染との再会を果たした。これまでもメールではやり取りをしていたものの、他人に会う勇気が持てなかったのだ。
最初はぎこちなかったが、言葉を交わすうちに打ち解けて昔のよう心を砕いて話すことができるようになった。映画好きという共通の趣味がある二人は真人のコレクションを観てああでもない、こうでもないと盛り上がった。
幼馴染が持ってきたお菓子を食べていると、彼が思い出したように訊ねる。
「なぁ、アキラって覚えてる? 中高と一緒だった」
「記憶にない」
ストーカーに悩まされるようになってからは幼馴染をはじめとする仲のいい数人しか心を許さなくなったせいで、クラスメートの顔も名前も今や全く覚えていない。
「真人とは同じクラスになったことねぇのかな。俺けっこう仲良かったんだけど、あいつ半年くらい前に自殺未遂してさ、奇跡的に一命を取りとめたんだ。ずっと昏睡状態で寝たきりだったって」
「映画みたいな話だな」
「だろ? 退院した後に会ったんだけど死のうとした人間には見えないくらい明るかったのが謎なんだ。アキラは真人を覚えてたみたいだからさ」
「全然わかんないや」
「まぁ、いっか。あ、次どれ観んの?」
「ん~、これは?」
コレクションを吟味し始めた幼馴染に真人は笑顔を向けた。
翌年の夏。真人は幼馴染に紹介されたデザイン事務所でアルバイトとして働いていた。五人しかスタッフのいないアットホームな事務所は緊張する真人を優しく受け入れ、どうにか仕事をこなしている。
パソコンで図案を作成していると、事務所の隅にある応接スペースに呼び出された。
「紹介しておくね、広告代理店の家久さん。よく電話もらうでしょ」
「いつもありがとうございます。家久です」
「あ……芝本です」
笑顔で差し出された名刺を受け取りながら、真人は目の前のスーツ姿の男から目を離すことができなかった。ずっと心に住み着いているあの半透明な彼にそっくりな気がして。
「どうしました?」
家久の声にハッとして慌てて渡された名刺に目を落とした。名刺には会社名と家久玲の文字。
「あの……お名前ってれい、さんなんですか?」
「あきらと読みます。よく間違われるんですよね。芝本さんのお名前は?」
穏やかな笑顔はやはりあの彼を彷彿とさせ、心臓がぎゅっと握られたように痛くなる。
「真人です」
「いい名前だ。これからどうぞよろしくお願いします」
社交辞令に真人はぺこりと頭を下げ、動揺から小走りで逃げ去った。
その場に残された家久は真人の背中じっと見送り、ゆっくりとした動作で左腕を胸の前へと運ぶ。シャツの袖をずらすと社会人がつけるには少し大ぶりな腕時計が。そしてその下に隠れる痛々しい傷跡。
十年以上焦がれてきた彼との直接的な接触に心が踊る。そのために払ったリスクも代償も大きかったがそんなものどうでもいい。彼を手に入れることができるのならどんなことでもする。そう誓った過去を思い出して、深く刻まれた手首の傷に恭しく唇を寄せた。
「また会えたね、僕のまーくん」