エロなし
名前を聞こうと思った瞬間、噎せ返るような甘い花の匂いが、朝露に濡れる若葉に変わる。
俺の村には掟がある。
けして違えてはいけないと言い伝えられてきた掟が。
六十年に一度、村の人間を山神様の嫁に差し出すこと。
それがこの村の掟だ。
正直馬鹿げているとは思う。
テレビもネットも普及したこの時代に神様だ。
けれどこの村に生まれた人間は、心の底から山神様を信じている。
人口は五十人ほど。山に囲まれ何もないこの村には、世間一般の常識なんかより、山神様の方がよっぽど身近な存在なのだ。
しかも、村には実際山神様に嫁いだという婆様がまだ存命している。
御歳八十一歳、まだまだ呆けは始まっていない。
何を隠そう俺の曾祖母さんである。
と言っても、別に俺は山神様の血を引いているわけではない。
山神様に嫁ぐ前に曾祖母さんは曾祖父さんに嫁いでいたし、俺の祖父さんも生まれていた。
だから俺は間違いなく人間である。
山神様に嫁ぐというのは言葉だけのもので、実際に結婚するわけではない。
ただの儀式のようなものだ。
六十年に一度選ばれた人間が、山神様が住まうという洞穴に輿入れという体で赴き、暫くそこで暮らす。
曾祖母さんの時は、二十日だったらしい。
選ばれた人間は、誰にも分からない花の匂いを感じるらしい。
そして事が済むと匂いは消えるのだそうだ。
俄には信じ難い話だが、曾祖母さんの話だけでなく、過去の花嫁達が残した記録まで存在しているのだから、一概に作り話とは言えない。
そもそも花嫁は、花嫁衣装に身を包み、一人きりで何も持たずに嫁ぐのだ。
いくらたった二十日だって、水も食べ物もない山の洞穴で人が生きられるとは思えない。
それこそ神様でも居ない限り。
だから俺も何となくだけど信じていた。
もしかして本当に神様が居るんじゃないかって。
近隣の村では山崩れや山火事の被害を受けた話を聞くけれど、うちの村は幸いなことに大きな被害を受けたことはない。
歴史的な大雨だった年も、台風が頻発する年も、驚くほど被害が少なかった。
だからきっと見えない何かが守ってくれているのだと、柄にもなく信じてた。
「あ、なんか甘い匂いがする。花の匂いかな?」
「何馬鹿言ってんの伊吹。今真冬だろーが」
だからするはずのない匂いがした時、何となく理解した。
「なあ、母さん。山神様の嫁って、男でも選ばれんの?」
「へっ?」
ああ、俺は山神様の嫁になるんだって。
俺の発言のせいで緊急家族会議が開かれた。
曾祖母さんに曾祖父さん、祖父さんに祖母さん、そして父さんと母さんと妹の夏実。
七人に囲むように座られて、正直辛い。
威圧感ハンパない。
「伊吹、お前本当に花の匂いがするのか?」
「いや、正確には花かは分からんけど、甘くていい匂いがする」
「匂うか?」
「何も匂わん」
父さんと祖父さんが辺りの匂いを嗅ぎながら首を振り合っている。
やっぱり俺にしか匂わないらしい。
「ばあさんの時と同じだし決まりだろう」
「けどね、伊吹は男の子だしねぇ」
曾祖父さんと曾祖母さんは困ったように眉を寄せる。
「じゃあ夏実が代わりにお嫁さんになる~」
「夏ちゃんも匂いするの?」
「ううん、全然!!」
「じゃあ駄目だねぇ」
夏実と祖母さんはのんびりそんな会話を繰り広げて笑っている。
「我が家から続けて花嫁が選ばれるなんて光栄だけど、男の嫁なんて差し出したら逆に怒りを買いそうで……」
心配そうな母さんの一言に、みんなが唸る。
俺だって同じ事を考えてる。
男の嫁なんかでいいのかって。
曾祖母さんの話だとただ洞穴で過ごすだけらしいけど、嫁と銘打ってるからには女じゃなきゃ駄目なんじゃないか?
けど、間違いなく選ばれたのは俺だと思う。
その証拠に甘い匂いはどんどん強くなっている。
絡みついて息をするのも辛くなるくらい、濃くて強い匂い。
少し嗅ぐだけで、頭がクラクラして何も考えられなくなりそうな。
「ヤバイ。何か超呼ばれてるっぽいんだけど。匂いが強すぎて苦しい……」
「うわっ、お兄ちゃん顔が真っ赤っ赤!?」
「あらま、大変」
目に見える俺の異変に家族は慌て出す。
「村長に話ししてくっから、取り敢えず嫁入りの準備しとけ」
「嫁入り準備って白無垢着せるのか?」
「紋付き袴かもしれんぞ」
「最近の子はドレスとかタキシードがいいのかしら?」
「……もう何でもいいから早くしてくれ」
バタバタ走り回って準備を始める家族を後目に、俺はその場で横になった。
絡みつく甘い匂いが脳髄を痺れさす。
苦しい、熱い、気持ちいい、会いたい、呼んでる、行かないと。
ぐるぐると頭の中を回る言葉。
思考は次第にそれに引きずられていく。
「早く行かないと……呼んでる……早くッ」
「お兄ちゃん!?大丈夫?ねえ、ねえってば!!」
遠くに妹の声を聞きながら俺は意識を失った。
目が覚めたのは三時間後だった。
駄目元でと鼻に詰められた脱脂綿のお陰か、匂いは少しだけ軽減されていた。
まあ、呼吸はし辛いけど仕方ない。
俺が気を失っている間に村長に連絡を取り、村の中に他に匂いを感じている人間が居ないことも確認にしたらしい。
その結果、山神様が選ばれたならと、俺を嫁として差し出すことが正式に決まった。
服装は揉めたものの、変に着飾るよりは増しだと、白いシャツに黒いズボンを履かされた。
真冬に防寒具無しとか大分頭がおかしい格好なのに、不思議と全く寒くないのだから実際今の俺はおかしいのだろう。
取り敢えず被って行けと謎の白いレースを渡され、仕方なしに頭に掛けた。
腰程までに長いレースはもしかしてベールのつもりなのだろうか?
完成度の低い花嫁にみんな微妙な顔をする。
そりゃそうだ。
辛うじて女顔だろうと百八十近い身長の男がレース被って可愛い訳ない。
「……まあ、頑張れ」
諦めたような村長の一言に見送られ、俺は村を出た。
分かっていたが装備品なし。いや、謎のレース一枚だ。
こんなんで山の中に入って大丈夫なのか?
洞穴に辿り着く前に熊に出会ったら……冬眠中か。
山の中は嘘みたいに静かだ。
いくら真冬でも、普段なら感じる生き物の気配が少しもしない。
だから多分猪や熊に出くわす危険はないのだろう。
これも山神様の力なのだろうか?
何にも邪魔されることなく俺は山を登っていく。
正確な位置はうろ覚えだった洞穴に向かって迷いなく。
そもそも普段は近づいてはいけない場所なのだ。
だから一度も訪れたことはない。
でもきっと迷わず辿り着ける。
甘い匂いが呼んでいるから。
外し忘れた脱脂綿を取ると、より鮮明に匂いの元が分かった。
けれど倒れた時のように息苦しさは感じなかった。
俺は導かれるように道なき道を登っていた。
暫くすると目的の洞穴が見えた。
今日から俺は一人で此処で暮らすのか。
どれくらいの間か分からないけど、食べ物も飲み物もなしで、本当に大丈夫だろうか?
寒さは感じないが、空腹も感じないのだろうか?
曾祖母さんの記憶も、過去の花嫁達の記録も、肝心な部分は曖昧なのだ。
甘い匂いに導かれて洞穴にたどり着き、役目を終えたら匂いが消える。
それはみんな同じなのに、期間が人それぞれで、どんな風に過ごしていたのか誰も詳しく覚えていない。
ほんの短い間だと思ったら三ヶ月過ぎてたとか、一眠りしたら匂いは消えただとか、曖昧すぎる。
けどみんな無事に帰ってきているようなので、大丈夫だろうか。
もしかしたら洞穴の中に水が流れてたり、食べられる植物が生えているのかもしれない。
そうだ、きっとそうに違いない。
そう自分を奮い立たせ、洞穴の中へと足を進めた。
入り口から覗けば奥まで真っ暗だったはずなのに、踏み入れた中はほんのり明るい。
一体どんな仕組みでこうなってるんだ?
下も上も右も左も、洞穴全体が薄ら光っているのだ。
「おっ、お邪魔しま~す。嫁に来ました」
驚きすぎて微妙な言葉を口にする。
「はい、どうぞ。待っていました」
「ふぇっ!?」
だってまさか、返事があるなんて思っていなかったから。
えっ、うそ、一人じゃないの?
慌ててキョロキョロと辺りを見回すと、もう少し奥に人影が見えた。
誰か居る!?
想定外の展開に心臓が爆つく。
えっ、マジで?もしかして山神様?
恐る恐る近づくと、ハッキリとその姿が見えた。
あっ、これ山神様だわ。
絶対人間じゃないと一目で分かる美しさ。
きらきら輝く長い銀色の髪に、深い緑の瞳。
かっこいいとか綺麗とかそんな言葉じゃ足りないくらい美形というか、何かもう尊い。
思わず拝みたくなるくらいだ。
「あの、えっと、こッ…こんにちは」
何か言わなくてはと頑張って出たのがそんな挨拶だったけど、山神様は大きな目を更に見開いた。
……驚いてる?
男の嫁だから?
それとも馬鹿過ぎて?
これで怒りを買ったら笑えないんだけど。
「ハッ、初めまして山神様。俺は草壁伊吹といいます。あの、見ての通り男なんですけど、村で匂いを感じたのは俺だけで……えっと、だから何が言いたいかって言うと、悪気があった訳じゃなくて、だから、あの、その、てっ…天罰は勘弁してください」
神様にだって誠意は伝わるはずだと、土下座する勢いで頭を下げてみる。
暫くそのまま下げ続けると、頭上からクスクスと笑い声が聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、山神様が笑っていた。
……取り敢えず許して貰えただろうか?
「貴方には私が見えるのですね。ここまで相性の良い嫁は数百年ぶりですから驚いてしまって。いらぬ心配をさせましたね」
山神様はふわりと微笑んでそう言った。
「見える?えっ、だってハッキリと……」
「普通の人間には私達の姿は見えない様なので。少なくともここ二百年の間に来た方は、誰も見えていなかったと聞いています。私が会う人間は貴方が初めてなので、本当の所は分かりませんが」
「初めて?でも六十年前に曾祖母さんが来てるはずなんだけど……」
俺が首を傾げながら問えば、山神様は嬉しそうに笑った。
「では貴方は私の母の曾孫なのですね」
「そうで…って母!?」
えっ?えっ!?
山神様って曾祖母さんの子供なの?
曾祖母さん神様と浮気してたの?
てか、人間て神様産めるの?
二十日で?
「もしかして、何も知らずに嫁いできたのですか?」
驚きすぎて何のリアクションもとれない俺を見かねてか、山神様は優しくそう尋ねてくれた。
俺はそれに首が取れそうなくらい頷いてみせる。
「じゃあ、簡単に説明しましょうか」
そう言って山神様は六十年に一度の嫁取りについて話し始めた。
「貴方達人間は私達を山神と呼びますが、正確に言えば私は山神じゃなく根と言います」
「ね?」
「そう、根。木の根のようなものだと思って貰えればいい」
「木の根……」
どう見ても根っこには見えない。
人間離れした美しさを除けば、見た目は人間と変わらないように見える。
「私達は大地を繋ぐ根です。貴方には私が人に近い形に見えているのだろうけど、それが私の本質ではない。見えない鎖で私と大地は繋がっています。丁度この山と貴方が住む村の辺りまでが私の根が張り巡らされた場所です」
見えない鎖?
繋がっている?
「それって、動けないってこと?」
「はい、私はここから離れられない」
山神様はそう言ったけど、足も手も体も何処も繋がれているようには見えなかった。
見えない鎖はやはり見えないらしい。
「その鎖は外したり出来ないの?」
「……先月、ここから少し離れた村で山崩れが起きたでしょう。あれは根が死にかけているからです。子が作れず、代替わりできないらしい。私の三代前の根を知っているから、もう二百年程生きているのに。大地を繋ぎ止める力は疾うに失われ、それでも命を削り支え続けているけれど、長くは保たないでしょう。遠くない未来、先の山崩れの比じゃない災いが起こる。根が居なくなるとは、そういうことです」
山神様は鎖を外せないかという俺の問いに、外せるとも外せないとも答えなかった。
ただ根が居なくなったら災いが起こるのだと言った。
けどそれは、外せるって事なんじゃないか?
外せるけど、外して自由になれば災いが起こるから外さない。
そういうことなんじゃないのか?
自分を犠牲にして守ってるってことなんじゃないのか?
「根は大地を支える力を持っているけれど、それは永久には続きません。だから子を成して次代に役目を引き継がなくてはいけない。そのために花嫁を求めるのです。繁殖時期が来たら私達は特殊な香りを発します。自分の根が張り巡らされた一帯に香りは満ちて、一番相性の良い個体がそれに引き寄せられる」
「それが俺?」
「はい。貴方は本当に相性が良いらしい。私の姿が見え、話が出来、自我も保っている。普通なら此処にいる間、人は香りに当てられて、皆夢現に微睡むそうなので。そこにいるのに姿も見て貰えず、話も出来ないのは寂しいですから、私は本当に運がいい」
とてもとても寂しそうに山神様は笑った。
ずっとここで一人きり。
それはどれくらい寂しいことだろうか。
沢山の家族に囲まれて育った俺には想像もつかなかった。
ただこの洞穴に一人で居る山神様を思うと、胸がギュッと痛くなった。
「いっぱい話そうぜ。俺がどれくらいここにいるのか分からないけど、その間いっぱい話そう」
「ありがとう。貴方は優しい人ですね」
真っ直ぐ目を見て微笑まれると、心臓が爆発しそうなくらい高鳴った。
何だこれ、何だこれ。すげー恥ずかしい。
「あっ、あのさ、そう言えば俺男なんだけど、子供って産めるの?」
誤魔化すように出した声は少し裏返っていって余計に恥ずかしい。
けど、口に出して気がついた。
子供が産めるかどうかってかなり重要じゃねーか?
そのために呼ばれて来たんだから。
「どうしよう。俺男だよ。子宮ないし、母乳だって出せない。山神様も男…だよな?それとも根って性別無いのか?あれ?逆にどうやって子供作ればいいんだ?」
慌てふためく俺を安心させるように山神様は笑う。
「大丈夫ですよ。子を成すと言っても、人間のそれとは少し違うのです。種族も性別も関係ありません。勿論母乳も必要ない」
「じゃあ、どうやって?」
「息と息を合わせるんです」
「はぁ?」
いき?
いきって、息?
それでどうして子供ができるんだ?
「人には見えませんが、吐き出す息には命の欠片が混ざっているんです。私の息と貴方の息が混ざり合い、欠けたものが一つになる。そして新たな命がここに芽吹く」
そう言って山神様は俺の腹にそっと触れた。
温かい掌が何かを確かめるように滑る。
「あッ……」
その温かさに思わず漏れた吐息は、変な音になって洞穴に響いた。
その瞬間に溢れかえる甘い匂い。
それはまるで鼻の中で香っているくらい強烈で、頭をとろけさせる。
「そう、力を抜いて。私の呼吸に合わせて息を吸って」
いつの間にか抱きしめられ、キスするくらい近くでそう囁かれた。
頭は上手く働かなくても、体は自然と山神様の言葉に従って動く。
山神様に合わせて呼吸をすると、体の中が甘い匂いで満たされた。
熱い、苦しい、気持ちいい……
朦朧として何度も意識を手放しそうになったけど、その度に駄目だというように髪や頬を撫でられた。
その優しい動きにまた意識が浮上する。
目の前では美しい人が真っ直ぐ俺の目を見つめている。
触れそうで触れない距離で繰り返す呼吸に、いっそ口付けてしまいたい衝動に駆られた。
きっと今俺の頭は馬鹿になってる。
胸元にしがみついた手が甘く震えるのも、もっと強く抱きしめて欲しいと思うのも、匂いでどうかしているせいだ。
そうじゃなかったら、俺はすごく山神様を好きみたいじゃないか。
好き……みたいじゃないか。
「伊吹」
山神様の綺麗な赤い唇が俺の名前を象った。
高いような低いような不思議な音で耳に伝わる俺の名前。
襲ってきた多幸感に爪先まで甘く痺れて、心地好さに涙が零れた。
それを少しでも分け与えたくて、名前を呼び返したいのに、山神様の名前を知らないことに気がついた。
名前を聞こうと思った瞬間、噎せ返るような甘い花の匂いが、朝露に濡れる若葉に変わる。
臍の裏の辺りがじんわりと温かくなって、自分以外の何かを感じた。
「……赤ちゃん?」
お腹にそっと手を置いて山神様を見つめると、俺の髪を撫でながら山神様は嬉しそうに笑った。
「今貴方の中に新たな命が芽吹きました。分かりますか?」
「ああ、分かる。温かくて、愛おしくて、何か泣きたくなってくる」
嬉しい、嬉しいと心が騒いだ。
理屈は何も分からないのに、自分の中に息衝く新たな命が愛おしくて堪らない。
「さあ、此処に座って。その子はまだとても弱いから、守ってあげなければ」
山神様は少し柔らかな場所へ俺を座らせると、後ろから俺を抱き込むように自分も座った。
「その子が産まれてくるまで、この腕の中で私の呼吸を感じてください」
「何か落ち着かない」
「不快ですか?」
「そうじゃない!!そうじゃなくて……」
「伊吹?」
耳元に直接響く山神様の声に、体が震えた。
嫌だからじゃない、気持ち良くてだ。
顔が火照って恥ずかしいけど、きっと見えていないから良しとする。
「そうだ、名前!!山神様の名前が知りたかったんだ」
「私の名前ですか?」
「そう、名前」
「すみません、私には名前がないんです」
名前がない?
伺い見るように振り返ると、山神様はほんの少し寂しそうな顔で言葉を続けた。
「必要ないものですから。親から与えられるのは、根として必要なものだけです。そもそも呼んでくれる人が居なければ、名に意味はない」
「……でも、俺は呼びたい。山神様のことも、産まれてくる子供のことも、ちゃんと名前で呼びたい」
「伊吹……」
「そうやって山神様に名前を呼ばれると嬉しい。だから俺もちゃんと呼びたい」
ずっと一人だったかもしれないけど、今は俺が居る。
これからは俺が名前を呼んであげられる。
「じゃあ、伊吹が付けてください。私とこの子に」
「いいの?」
「はい、きっとこの子も私のように嬉しいはずだから」
名前。
どんな人になって欲しいか、どんな風に生きて欲しいか、沢山の願いが詰まった大切なもの。
「ゆ…う…と。優しい人って書いて優人」
「優人……、優人。それが私の名前」
「……気にいらない?」
「いいえ、いいえ……嬉ッしくて」
肩口にぽろぽろと温かいものが降り注いだ。
山神様――ううん、優人はありがとうと何度も俺に囁いた。
だから俺はそれに答えるように、何度も何度も優人の名前を呼んだ。
ああ、どうしよう。
優人が好きだ。
人に似た姿をした、人とは別の存在なのに。
きっとずっとは側にいられない人なのに。
あと、どれくらい一緒にいられるんだろう?
この子が生まれるまで?
それともまた会いに来てもいいのかな?
「なあ、優人。俺はいつまでここにいられるんだ?」
「伊吹……」
曾祖母さんは二十日だった。
昔の記録にはもっと長い人も居たみたいだけど、もっとずっと短いこともあった。
そしてみんな最後には、自分の家へと帰っていった。
「帰りたく……ないな。待ってくれてる家族も居るけど、優人の側を離れたくない!!」
優人は困ったような顔をしていた。
何か言葉を口にしようとして、けれど失敗したように唇を振るわせる。
それだけで分かってしまう。
やっぱり側には居られないのだと。
「もう、会いにも来れないんだな。……何となく分かってた。だってここは普通とは違ったから」
外から見た時は只の洞穴だったのに、中は光り輝いていた。
暑くも寒くもなくて、お腹も減らないし、喉も渇かない。
太陽も月も星の光も届かなくて、時間の流れまで違ってるみたいだ。
「それでもッ…一緒にいたかったな」
涙で滲んで優人の顔が歪んだ。
忘れないように沢山見ていたいのに。
ああ、でもこんなに綺麗な人を忘れるわけがない。
こんなに好きなのに忘れられるわけがない。
「優人、この子の名前も決めた。側にいられなくても、沢山幸せをあげたいから、幸多。それがこの子の名前」
「幸多。私と伊吹の子供」
「ああ、俺と優人の子供だ」
匂いが薄くなる。
朝露に濡れた若葉の匂い。
もう、生まれちゃうんだな。
「優人。俺、お前が好きだ。側にいられなくても優人が好きだ」
「伊吹、私は……私も伊吹が」
「優人も幸多も大好き。離れてても、名前を呼ぶから。二人に届くように呼ぶから」
「私も伊吹を呼びます。いつも、いつまでも」
最後にもう一度花のように甘い優人の匂いに包まれて、そして全てが消えてしまった。
真っ暗な洞穴の入り口で、俺は一人きりだった。
辺りを探しても、優人は何処にも居なかった。
臍の裏側に感じた幸多の温もりも、もう疾うに消えていた。
「優人、幸多……」
呟くように名を呼ぶと、返事のように木の葉が揺れた。
それがとても悲しくて、どうしても涙が止まらなかった。
泣きながら家に帰れば、心配そうな家族に出迎えられた。
家を出てから、もう一ヶ月半も時間が過ぎていたらしい。
ほんの一瞬のように感じたあの時間は、案外長かったのか。
まるで浦島太郎にでもなった気分だ。
洞穴で何があったのか、俺は誰にも話さなかった。
話そうとすると涙が溢れて、とても話せそうになかったから。
もうすぐそこまで春が来ている。
朝露に濡れた若葉の匂いと甘い甘い花の香り。
幸多と優人の匂い。
この大地を守ってくれている優しい人に届くように、今日も俺は名前を呼ぶ。
「優人、幸多」
風が運んだ甘い匂いに、また一粒涙が零れた。
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