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第3回 BL小説アワード「怪談」

夜をうたう

R-18

 闇の中で、花の匂いがいっそう強さを増した。 ーー花びらはあとどれだけ残っているのだろう・・・・・・。

Ananas
グッジョブ

 夜ごとに抱かれる夢を見る。
 夜の底は、深海に沈んでいるかのように静かだ。
「あっ・・・・・・」
 肌理の細かい白い肌が、闇の中で艶めかしくもぼうっと浮かび上がった。
「・・・・・・真昼。真昼・・・・・・」
 男が名前を呼ぶ。そうしていないと、まるで真昼が消えてしまうかのような必死さで。男の汗が真昼の頬にぽたりと落ちた。
 真昼は自分を穿つ男の首にその腕をまわすでもなく、両手両足をだらりと地面に投げ出したまま、首を反対側に傾けた。
 ・・・・・・ぽとり。
 闇のどこかで、花びらが一枚落ちた。甘い匂いにむせそうだ。
「真昼。愛してるんだ。真昼・・・・・・」
 男はいまにも泣きそうな悲痛な声で、何度も真昼の耳元でささやく。
 ・・・・・・ぽとり。
 またひとつ、花びらが地面に落ちた。
 真昼は意識を手放した。


 そしてまた夜が訪れた。
 真昼はゆっくりと上体を起こした。さっきまで自分を抱いていた男の痩せた背中をちらりと眺める。まだ息があがっているのか、男の肌はうっすらと汗ばんでいて、呼吸にあわせてその背中が上下する。
「どこへいくの?」
 離れようとしたその腰を、急に抱き寄せられた。真昼はどさりと男の腕の中に崩れ落ちた。
 闇の中に昏く光る瞳。真昼は無精ひげの伸びはじめた男の顔を冷静に眺めると、男の身体をずいと押しのけた。
「もうじゅうぶんやっただろ。いいかげん目をさませよ」
「・・・・・・まだ足りない」
 噛みつくようなキスをされ、腕の中に抱きしめられる。
「いやだ。いやだ。真昼・・・・・・」
 子どものような必死さで縋りつく男に、真昼はため息をついた。ばかだな、と思う。
 いつしか真昼の身体をたどる男の指に、じっとりと熱がこもりはじめた。
「あっ」
 胸の頂をカリッと噛まれて、真昼は思わず声を上げた。じんと身体に甘い痺れが走る。体温が上がる。真昼はぎゅっと目をつむった。やがてうっすらと目を開けると、自分の上で男がなにかをこらえるような苦しそうな表情で、固く目をつむっているのが見えた。
 真昼の体内でゆっくりと律動を繰り返す男は、まるでなにか別の生き物のようだ。
 きっと真昼本人よりも、真昼の身体を知り尽くす男は、視線を感じてその口元にふっと笑みを浮かべた。
 快感が強すぎてつらい。
「もう、いやだ・・・・・・っ」
 男の手が愛おしげに真昼の頬を撫でた。
 ーーだれか、たすけて・・・・・・。
 男の律動が激しくなる。
「ああ・・・・・・っ!」
 真昼は声を上げた。閉じた目尻から、生理的な涙がこぼれ落ちた。


 月が満ちていく。
 もう幾度、こんな夜を過ごしただろう。
「なあ、あんたいつまでこうしているつもりだよ」
 真昼の問いかけが男に届かなかったわけではない。それを証明するように、男は真昼に視線を合わせると、困ったような顔をしてかすかに微笑んだ。
「いつまででも」
 真昼は眉をひそめた。大仰にため息をつく。
 夜の間中、男は真昼の身体を離さない。だから真昼の身体にはいつも情事の名残が熾火のようにくすぶっている。
 キラキラと、蝶が鱗粉をまき散らすように、金色の光が夜空から降った。
「月が・・・・・・」
「え?」
 真昼の声が聞こえなかったのか、男が首をかしげた。
「・・・・・・なんでもねえよ」
 真昼は男の腕の中から逃れると、ごろりと反対側を向いた。
 夜空にぽっかりと月が浮かんでいる。真昼はそれを睨むようにじっと眺めた。
「・・・真昼? 眠いの?」
 なにも答えない真昼の腰を、男が背後から腕をまわす。ごつごつとした腕。ろくに食べていないからだろう。男はここ数週間でだいぶ痩せた。腰骨が背中に当たり、真昼は痛みをこらえるかのように顔をしかめた。
「・・・・・・暑苦しいからべたべたすんじゃねえよ」
 わざと乱暴な物言いにも、男は怒ったようすがない。
「うん、ごめんね・・・・・・」
 謝りの言葉を口にしながら、男は真昼をぎゅっと抱きしめた。背中にぴったりと隙間なくくっついている男の体温が、真昼の胸をしめつける。真昼はぎゅっと目を閉じた。


 ・・・・・・男が泣いている。
 大きな背中を子どものように小さく丸め、身を震わせ、これ以上辛いことなどないかのように。
 声を殺し、けれどこらえようもなく漏れ出る悲痛な叫びが、真昼の胸をえぐる。
 ーーいいんだ、おまえが悪いんじゃない。俺がすこしだけ間違えたんだ。だからもう泣くな・・・・・・。
 けれど、かける言葉はみつからず、真昼の心の声は男には届かない。真昼は咽び泣く男の背中を、声もなく見つめた。
 ・・・・・・ぽとり。
 花びらがまた一枚落ちた。甘い蜜の匂い。その匂いは虫を引き寄せ、人々を惑わす。
 暗闇にぼうっと浮かび上がるのは、芙蓉にも似た白い花だ。花びらは薄く透けて、月の光を吸収したかのように淡く発光している。
 闇の中で、花の匂いがいっそう強さを増した。
 ーー花びらはあとどれだけ残っているのだろう・・・・・・。


 真昼が男と会ったのは、その手の男たちがたむろする、新宿二丁目のバーだった。
 身長はふつう。高くもなければ、低くもない。けれど無駄に整った顔立ちをしていた真昼は、学生の頃からとにかくよくモテた。
 何も手を加えていなくても色素の薄い髪や瞳は、ハーフやクォーターに間違われることも多かった。男女ともにいけた真昼は(どちらかと言えば、男のほうが好みだ)、見た目につられてぼうっとなっているやつを目にするたびに、正直ちょろいと内心ではばかにしていた。
 下半身がゆるくて、無節操。
 いつか刺されても知らねえぞとは、真昼をよく知る数少ない友人の言葉だ。
 まったくその通りで、真昼にも異論はない。
 気がつけばその場限りの関係を結ぶこともしょっちゅうで、たとえそのときつき合っている相手がいても、平気で浮気もしたし、相手を裏切ってもこれっぽっちも良心は痛まなかった。
 男が初めてそのバーに現れたとき、真昼は別の男と一緒だった。目が合うなり口をぽかんと開けたまま、一言も口を利けないでいる男に、真昼はとたんに興味を失った。
 いい男だが、鈍そうだ。
 当時つき合っている相手はいたが、真剣な恋愛など望んでいなかった真昼は、真面目そうな男を一瞬で切り捨てると、そのとき一緒にいた男と消えたのだと思う(正直言ってよく覚えていない)。
 次に同じバーで再会したとき、男はガタンと大きな音をたててイスから立ち上がった。
 どこかで見たことがあるな。
 ちらり記憶の隅を横切っただけ。真昼はふいと男から目をそらした。
「アキオさん、ビールちょうだい」
「あ、あのっ」
 緊張した面もちで話しかける男に、真昼は視線をやった。
「なに?」
 目があった瞬間、男は目を瞠った。見る見るうちにその顔が赤く染まる。硬直したようにじっと立ち尽くす男に、真昼はため息をついた。面倒なのはごめんだ。
「アキオさん、悪いけどビールはキャンセル」
 ポケットから小銭を取り出し、カウンターの上に置いた。そのまま立ち去ろうとした真昼の腕を、男が掴んだ。
「ま、待って・・・・・・っ」
「痛いんだけど」
 冷たく言い放つと、さっきまで赤かった男の顔が、今度はさっと白くなった。
 ーー面白い。
 ちょっとばかり退屈していたのだ。いい暇つぶしにはなるかもしれない。
「ご、ごめんっ!」
 真昼の感情の変化には気がつかず、男は慌てて掴んでいた手を離すと、もう片方の手でぎゅっと自分の腕を掴んだ。
「ーーなに?」
 真昼は婉然と微笑んだ。
 よく男たちからは魅惑的だと、皮肉をこめて言われる笑みを意識的に浮かべる。案の定、男は見惚れたようにぼうっとなった。
 きれいな瞳。人が悪意を持つなんて思いつかないないような、ひどく純粋な。
 自然身体の脇に沿うような形で自分の腕を掴んでいる男の手に、するりと触れた。とたん、男がびくっとした。
 最初はちょっとからかうだけのつもりだった。バカ真面目な男に手を出すほど真昼は愚かじゃない。けれど、やや咎めるような、ふたりのやり取りを気遣うマスターの視線を感じて、天の邪鬼な真昼の気が変わった。
「悪いけど、いまさらデートだ何だのとあほくさい純情をやり取りする気はないんだ。それでもいいならつき合うけど。・・・・・どうする?」
 まるで男の気持ちを試すように短く言い放つ。それまでぼうっと逆上せたように真昼を見つめていた男の目の色が変わった。


 つかまったのは男だったのか、真昼のほうか。
 男は真昼が最初に抱いた印象の通り、純粋で、バカがつくほどお人好しだった。それは、これまで人を裏切ることなど何とも思っていなかった真昼でさえ、こいついったいいままでどうやって生きてきたのだろうと心配するぐらいだった。
 真剣につき合うつもりなんて、これっぽっちもなかった。何度か寝た後に捨ててやろう。そんな軽い気持ちだった。
 最初のうちは男と会いながらも、別の相手とも平気で寝ていた。男は真昼が自分以外のヤツと会っていることに薄々気づいているようだったが、そのことについては何も触れなかった。ただ、ときどきひどく思い詰めたような瞳をして、何かを言いかけては躊躇うように口を噤んだ。
 むしろ、最初に参ったのは真昼のほうだった。
 いつしか別のヤツと寝ても全然楽しくなくて、もやもやとした、不快な気持ちを抱くようになってしまった。
 男と一緒にいると、胸の中があたたかくなって、そわそわした、なんだかいたたまれないような気持ちになる。
 真昼はまるで思春期の少女のように、初めて感じる感情にひどく戸惑った。
 男が真昼の名前を呼ぶだけで、幸福な、なぜだか泣きたいような気持ちになった。


 真昼が男と過ごすようになって、一年が経過したころだった。
 真昼はとっくに男以外のヤツと会うことをやめていたし、自分のこの感情を、戸惑いつつも受け入れはじめていた。
 自分はこいつが好きなんだ・・・・・・。
 けれど思い切って男に伝えようとするたびに、真昼は慣れない気恥ずかしさで、つい口を噤んでしまうのだった。
 このころ互いの家はあっても、真昼と男はほとんど同棲状態になっていたといってもいい。
 次のアパートの更新がきたら、一緒に住もうと男に言おう。自分も好きだと、きちんと言葉に出して伝えよう。そのとき男が浮かべるであろううれしそうな顔を想像して、真昼はゆるみそうになる表情を引き締めながら、密かに決意するのだった。
 そんなある日のことだった。
 夜遅くにチャイムが鳴り、真昼はおやっと思った。ちょうど風呂から出たところで、濡れた髪をハンドドライで乾かしているところだった。
 最近男は仕事がたてこんでいて、帰りも遅くなるからそのまま自分の家に帰ることが多かった。忙しさの合間に寄ってくれたのだろうかと、真昼は弾む心を押さえつつも、ドアスコープをのぞき込むことなくドアを開けた。
「よ、久しぶり」
「なんで・・・・・・」
 それは以前真昼がつき合っていた相手だった。
 自分も平気で浮気をするくせに、真昼が別の男と寝るのは嫌がり、執着が激しくなったので面倒くなって別れたのだった。
「おい、勝手に入るなよ」
 真昼の静止の言葉も聞かず、男は勝手に部屋の中に入り込んだ。
「なあ、やめろって。そんな気はないってば」
 男の手がTシャツの裾から入り込む。耳元で吐く男の息は酒臭く不快で、真昼は顔をしかめた。
「なんでだよ。こうするの、真昼好きだっただろう」
 ーー気持ち悪い。
 ぞわりと背中に震えが走る。真昼は相手から身をよじって逃げようとした。
「なんだよ。きょうはそうゆう気分なのか? だったら望み通り乱暴にしてやるよ」
「違うっ!」
 カチャリと、男が自分のベルトに手をかける音がした。
 ざあっ、と血の気がひいた。
 いやだいやだいやだ。
 真昼は渾身の力で男を振り払おうとした。
「やだって。離せよっ」
「どうしたんだよ。やけに聞き分けが悪いじゃねか」
「ざけんなっ!」
 どうして今まで平気でこんなことができたんだろう。
 あいつ以外のやつとセックスするなんて、鳥肌が立つくらいに嫌だった。
 そのときだった。
 バタンとドアが大きく開いて、真っ青な顔をした男が立っていたと思ったら、突然ふわりと身体が軽くなった。男が真昼に乗り上げていた相手を殴りつけたのだ。男が暴力をふるうところなど想像したこともなかった真昼は、状況も忘れて、呆然と目を見開いた。
 昔の男が転がるように逃げ出す。カンカンカンと、急いで階段を駆け下りる音が響いた。
 助かった・・・・・・。
 安堵が全身を包む。真昼はほっと身体の力をゆるめた。
 どうしたんだよ、きょうはこないんじゃなかったか。でもおかげで助かったよ。
 口にしようとした言葉を、男の表情を見て思わず呑み込んだ。
 男はいっさいの表情をなくしていた。心配するぐらい蒼白な顔が、ぼうっと真昼を見つめている。
 そろりと男の手が伸びるのを、真昼は他人事のように眺めていた。
「ーーどう・・・・・・」
 どうしたんだよ、という言葉は言えなかった。
 ぐうっ、と喉がしまる。
 男の腕がぎゅうぎゅうと真昼の首を絞めつける。苦しくて、息ができない。真昼は男の拘束から逃れようと、じたばたと足を動かした。
 ・・・・・・ぽたり。
 頬に何かが落ちる。
 ・・・・・・ぽたり。・・・・・・ぽたり。
 男は泣いていた。
 真昼の首を絞めながら、男のほうがいまにも死にそうな、苦しそうな表情で顔を歪めている。
 滴がとめどなく真昼の上に落ちる。
 ・・・・・・ああ。
 真昼は観念した。ふっと抵抗していた力を抜く。
 こんなに優しいやつを、これほどまでに追いつめたのは俺なんだ。
 ひたひたと悲しみが胸をふさいだ。
 どうしてもっと早くに伝えなかったのだろう。
 俺もお前が好きだって。お前のかわりはほかにはいないんだって。伝える機会など、いくらでもあったのに・・・・・・。
 目がかすむ。
 男の顔を見ていたいのに、ぼんやりとしてよく見えなかった。
 ごふっ、と真昼はせき込んだ。
 涙で濡れた目で、はっと我に返ったように真昼の首から男がその手を放すのを、真昼は薄れゆく意識の中で見ていた。
 ーーだいじょうぶだから、泣かないで。そんな顔をしなくていいから。俺はだいじょうぶだから。
 けれど、何ひとつ言葉にはならない。
 真昼の閉じた目尻から、つと、涙が伝い落ちた。
 

 あの日、真昼の身体からすべての力が抜け落ちたとき、男はもはや起きることもない真昼の身体に縋りつくようにして泣き崩れた。
 真昼がこの世にとどまったのは、このままでは男が真昼の跡を追ってしまうと思ったからだ。
 自分を殺した男を、真昼は恨んではいなかった。
 手を伸ばし、男の後頭部にそっと触れると、男は信じられないものでも目にした顔で、やがてくしゃりと表情を歪めた。
「真昼・・・・・・っ! 真昼・・・・・・っ!」
 子どものように縋りつき、見も世もなく泣き崩れる男を、真昼は絶望をもって眺めた。
 真昼が生き返ることはもう二度とない。どうしたら男を救えるのか、真昼にはとんと想像もつかなかった。だからただ男の顔を引き寄せると、その唇にキスをした。
 そのとき暗闇で、音もなく花が開いた。


 月が頭のちょうど真上で輝いている。
 男が泣いている。誰よりも愛おしい男が、これ以上辛いことなどないような悲痛な声で。
 むせかえるほどの甘い匂いを放っていた花は、いまや落ちる花びらはすでになく、熟し切った、やや腐臭を帯びた濃密な匂いに変わりはじめていた。
「ーー奎吾」
 男の名前を呼んだ。
 闇の中で涙に濡れ、痩せて落ちくぼんだ男の目が、ぎらぎらと異様な光を放ち、一途なまでに真昼を見つめている。
 ーーこのままではこの男は死んでしまう。
「抱けよ」
 真昼は男を引き寄せた。そっとくちづけると、猫のようにその首筋に顔をこすりつけた。茫然とした表情で、ただ真昼のなすがままだった男が、一瞬強く顔を歪めた。
 首筋から胸へ、腹の横をたどり、腰骨へ。ひとつずつキスを落としていき、男の性感帯を高めていく。男の性器はいまや腹につくほどに反り返り、先端から透明な滴をこぼしていた。真昼はそれを躊躇うことなく口中にふくむと、尖らせた舌でちろちろと舐めながら、口全体を使って男の快楽を引き出した。男が苦痛をこらえるかのようにぐっと眉間にしわを寄せる。
「真昼・・・・・・」
 男の手が愛おしそうに、真昼の髪をなでた。
 真昼は男に跨がると両方の手を後ろにまわし、まだろくに解してもいない後孔に男の性器をあてがった。
「待っ・・・・・・」
 そのまま一気に腰を落とす。
「・・・・・・っ!」
 男が一瞬顔をしかめた。
 真昼の中で、男の欲望がこれ以上ないくらいに固く、真昼を欲していた。
「真昼・・・・・・」
「だいじょうぶだから・・・・・・」
 真昼は男の腹に手をつくと、愛おしそうな目で自分を見つめる男の上で、ゆっくりと腰を使いはじめた。そのとき男が体勢を入れ替えた。
「あっ」
 真昼は息を呑んだ。
 ポタポタと男の汗が身体にしたたり落ちる。
 ーー愛しい。
 そのとき真昼を満たしたものはなんだったのだろう。
 気持ちがあふれて、泣きそうだった。
 どうしてもっと早く伝えなかったのだろう。意地なんて張っていないで、もっと好きだと言ってやればよかった。
 後悔が胸をふさぎ、それ以上に男への愛しさがこみ上げる。
 愛してる。愛してる・・・・・・。
 手を伸ばし、男の首に腕をまわした。ポロポロとあふれ出る涙を男に見られまいと、真昼は男の首筋に顔を埋めた。
「・・・・・・てる」
 もう、思い残すことなどなにひとつなかった。


 目を開けると、真昼はゆっくりと上体を起こした。
 男は真昼の横で、ここ数週間見られなかった安らかな表情を顔に浮かべて眠っている。
 手を伸ばし、男の頬に触れようとして、躊躇うようにその手をおろした。
 腐った土の中で、虫が蠢いている。やがてこの虫は、真昼の身体を食べ尽くすだろう。
 すべて消えてなくなればいいと思った。跡形もなく。真昼の存在など最初からなかったかのように。
 涙が頬を伝う。
 真昼の心はいま凪いでいた。
 ふと、何かに呼ばれた気がして、真昼は背後にある闇を振り返った。
 ーー奎吾・・・・・・。
 ほんの触れるか触れないか、男の額にくちづけを落とした。
 目が覚めたら、男は真昼のことなどすっかり忘れているだろう。
 思い出さなければいい。すべてを忘れて、また生きてほしかった。
 真昼は闇を見据える。まるで闇の先に何かがあるかのように。
 せめて男が目を覚ますまで、あとほんのすこしだけ・・・・・・、男の側にいたかった。
 

Ananas
グッジョブ
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