微エロ/ヤンデレ/血液・死体表現
こんな、障害物に阻まれながらでは無く、体の境界が分からなくなる程、強く抱き合いたいのに。 この三年間、俺は彼に沢山の事を教えたけれど、彼が俺に教えてくれた事は僅かだった。名前すら、知らない。
シングルマザーだった母が、今の父と知り合い再婚を果たしたのは、俺が小学校入学を目前に控えていた五歳の時の事だ。
建物がぎゅうぎゅうに密集し、家の前の道路や歩道は昼夜問わず沢山の往来があるような、所謂都会のマンションに住んでいた俺にとって、新しい住まいとなる田舎町の光景は衝撃的だった。
新居に向かう道中は右も左も背の高い木々に覆われていて、そんな所を二十分程車で走って、すれ違った対向車は十台も居ただろうか。まるで違う世界に踏み込んでしまったかのような感覚に、酷く怯えていたのを覚えている。
息苦しい樹木のトンネルをようやく抜け、開けた場所へと投げ出されれば、今度はその広大さに息を飲んだ。
見渡す限りの田んぼと畑の緑に、突き抜けんばかりの空の青。そんな中にぽつりぽつりと点在する古びた家々、自宅の直ぐ裏から十分も歩けばまるで迷路のように広大な森へと繋がる。
最初こそ、目に映るそんな自然全てが珍しかったが、全校生徒合わせて百人にも満たない小さな小学校に入学して数ヶ月後には、地元の皆と机を並べて授業を受け、休み時間や放課後には同級生達と自然の中を遊び回るのが日常になった。
そして好奇心旺盛な十一歳へと成長をしたた俺が、一人で行ってはいけないと言われていた森へと足を踏み入れたのは、むしろ遅いくらいだったのかもしれない。
「すげー! カブトムシ!」
立派に反り返った角に、つるりと光沢のある浅黒い背中が、ごつごつとした木の幹に貼り付いていた。生まれて初めて捕獲したカブトムシの格好よさに感動し、虫籠の中のそれをうっとりと眺めながら歩く。
初めて散策をしに来ただだっ広い森の中で、そんな注意散漫な歩き方をしていたら、お察しの通り迷子になってしまった訳だが。
恐らく、まだ昼の二時にもなっていなかっただろう。太陽は真上から煌々と世界を照らしており、小川の優しいせせらぎと賑やかな蝉達の大合唱が、迷子になってしまったという焦燥感を麻痺させた。
「……あっちかな、あっちな気がする」
なんの確証も無いまま、勘だけを頼りに歩みを進める。
しかし、足が痛くなるまで歩き回っても、事態は好転しなかった。寧ろ、森の奥へ奥へと迷い込んでいるような気がした。
先程カブトムシを取って喜んでいた場所とは違い、森の木々は黒く高く威圧的にそびえ立ち、子供の視界を妨げる。昼間だというのに、薄暗いという印象を受けずにはいられない。
今になってようやく不安な気持ちが胸をざわつかせ始めた頃、木々の隙間から建造物の影が覗いている事に気付き、俺は急いでそちらへと走り寄った。
「……? なんだこれ……?」
誰か人がいるかもしれないという淡い期待は、その建物の全貌を目にした瞬間、驚愕の感情によって掻き消された。
あちらこちらが痛んでいて、何ともみすぼらしい木造の家屋。大きさからして、中にある部屋は二つか三つくらいだろうか。その内のひとつである部屋の縁側の扉は全開になっていたのだが、まるで囚人を閉じ込める牢屋の様な鉄格子が、扉のすぐ目の前に等間隔で並んでいる。
不思議に思いながらも、その家の周りをぐるりと回ってみるが、外から確認出来る窓にも全て鉄の棒が嵌め込まれており、出入口だと思われる古びた扉には、外から厳つい南京錠が掛かっていた。壁や扉にはお札のような紙が貼られており、不気味だ。
家の周りをぐるりと一周し最初の場所に戻って来た所で、先程まで居なかった筈の人影が扉の奥の部屋で揺らいでいるのに気付き、ひっと情けない声が漏れる。
「こんにちは」
中の人物も俺の存在に気付いたようで、薄暗い部屋の中から、陽の当たる縁側へと姿を現した。
「わっ、こっ、こんにちは……!」
中から出て来たのは、俺と同じ年頃の少年だった。
風に吹かれてさらりと揺れる黒髪は流れるように美しいが、今にも視界を覆ってしまいそうな前髪のせいで、少々陰気臭い印象を受けた。黒髪の奥から覗く瞳は丸々と大きく、瞼も二重で、そこだけ見れば女の子にも見える。身に纏っている紺色の着物は子供ながらにも上質な物だと感じさせる美しい生地であったが、胸元の合わせがきちりと噛み合っていなかったり、白と黒で飾られた市松模様の帯はだらりと弛んでいて今にもほどけ落ちてしまいそうだ。この暑さの中でも涼しげな、とても上品な顔立ちをしている分、そのだらしなさが際立って見えた。
「どうしてこんな所にいるの」
「あっ、か、帰り道が分からなくなって……」
予想だにしていなかった住人を前に、びくりびくりと怯えながら、自分が迷子である事を告げる。
少年は感情の色が薄い瞳で俺の事を見つめた後、ふと視線を逸らした。
「それなら、あちらの方に向かっていけば、そのうち黒く焼けた木があるから、そこで辺りを見回して、同じように焼けた木の方へ向かって。それを何度か繰り返したら小川の音が聞こえるはずだから、あとは小川が流れていく方に歩いて行けば、町に繋がる道があると思う……」
鈍色の鉄格子の間から伸びた白い腕が、俺の後ろを指差す。そう言えば、ここに来るまでに焼け焦げた木を見掛けた気がする。帰宅の術を見出だした事に安堵した俺は、ようやく少しだけ肩の力を抜く事が出来た。
「……それ、何が入ってるの」
「これ?カブトムシだよ、ほら」
少年に問われ、彼の目の前に虫籠をかざすと、不思議そうに中身を観察する。
「……君が一人で捕まえたの」
「そうだよ」
「そうなんだ、すごいね」
「えっ!? い、いや、これくらい普通だってっ!」
そんな単純な称賛の言葉に、思わず口元が緩んだ。
都会で育ってこちらに引っ越して来た俺は、最初はとてもじゃないけど虫なんて触れなくて。男友達が楽しそうに虫を集めているのを、少し離れた場所から羨ましげに眺めていた。数年を費やして徐々に色々な虫に触れるようになってから、友人達と一緒に虫取りを楽しむ機会も増えたが、やはり地元育ちには敵わない。大きさも数も圧倒的で、誰かの事をすごいと褒める事は多くても、その逆はほとんど無かった。だからこそ、その言葉がひどく照れ臭い。
少年も、あの頃の俺と同じように、都会から引っ越して来たばかりで、こういう物が珍しいだけなのかもしれないが。
「あっ、そうだ、蝉を近くで見たことある!?」
「蝉? ……ない」
「じゃあ今度、大きいの捕まえて来る!結構、かっこいいんだぜ!」
「……また来るの?」
「えっ、だめなのっ」
「……ううん」
作り物のようだった少年の顔が僅かに綻んだのを見て、俺も釣られて笑みを浮かべた。
その後、少年に教えてもらった方法で俺は無事に自宅へと戻る事が出来た。帰宅するまでにまた大分森の中を歩いたが、何とか門限までに帰還する事が出来、両親に疑われる事も無かった。
それから夏休みの間、暇さえあれば少年の元へと通った。蝉であったりカブトムシであったり魚であったり、何かしらを持って行くと、すごい、かっこいいと喜んでくれるのが嬉しくて仕方無い。彼の家まで一時間以上掛かっていた道程も、いつの間にか迷わずに三十分程で行けるようになった。
しかし、いつ行っても少年は家の中にいて、会話をするのはいつも鉄格子越し。一緒に遊ぼうよと何度誘っても、少年は頑なに首を縦に振らない。
俺は頭が良い方では無かったが、それが異様である事には流石に気付く。しかし、その真相を彼に聞く事は出来なかった。本能的に、それを暴く事に恐怖を感じていたのかもしれない。
夏休みが終わってからも彼との交流は続き、季節は流れてあっという間に俺は中学生。会いに行く頻度は月に一度くらいに減ったものの、彼は最初の頃と変わらず、俺の他愛も無い土産話を嬉しそうに聞いていた。
それから中学三年生になって、受験勉強が本格化してしばらく会いに行く機会を持てずにいたのだが、ようやく受験を終えて彼に会いに行けたのは、最後に顔を見てから半年以上が経った冬の事だった。
「あぁ、やっと来てくれた」
森の木々に夕暮れの暖かな橙色が滲む中、彼は合いも変わらず縁側に座り、ぼうっと空を眺めていた。彼は俺の姿に気付くと、鉄格子に貼り付くようにして、今か今かと俺の接近を待っている。彼の目前で足を止めれば、鉄の棒の隙間から両手が伸びて来て、俺の頬や頭を優しく撫でる。同じくらいだった体格は、今は彼の方が少しばかり逞しい。子供の頃は女の子のように可愛かったが、今はその愛らしさを残しながらも男らしい美形に成長して、羨ましい限りだ。
「もう来ないのかと思った……」
「受験だからしばらく来れないって言っただろ」
「そうだけど」
寂しかったから、と、眉を下げて笑う彼の心情を思うと、仕方の無い事とは言え何だか申し訳ない事をしてしまった気になる。
この付近は不気味な場所ではあったが、春や夏の間は、辺りに瑞々しい緑や色とりどりの花が溢れていて孤独があまり気にならない。
しかし冬になると、それらがすべて朽ち果て、世界から取り残されたような沈黙が訪れる。そんな中、一人でぽつりと縁側に座っている彼を見ると、いつもひどく泣きたい気持ちになった。
「てか、またそんな薄着で! ほら、これやるから!」
「はは、ありがとう」
今日は夕方から冷えて雪が降るかもしれないと天気予報で言っていたのに、彼は薄い着物一枚だけで、手足に至っては肌が剥き出しだ。部屋の中に暖房器具がある様子も無く、本人は慣れているから平気だと言うけれど、見ているこちらが寒々しい。
俺は、自分が身に付けていたマフラーと手袋を外すと、鉄格子の隙間に突っ込み彼へと手渡した。
「……あのさ、俺」
「なぁに?」
「ここから引っ越して、寮のある高校に入るんだ。多分これから、頻繁には会いに来れない……」
「……じゃあ次はいつ会いに来てくれるの」
「分かんない。多分、夏休みには帰って来ると思うけど」
「…………」
そんな顔をしないでくれ。俺だって、お前をここに一人残していくのかと思うと、悲しいんだ。
二人して黙りこんで、重苦しい雰囲気が背中にのしかかる。その空気を切り裂くように、彼の手が俺の元へ向かって伸びて来たかと思えば、そのまま俺を抱き込むようにして背中に腕を回された。片方の手はするりと俺の顎の下に滑り込み、俯いている俺に上を向くようにと合図を送る。
躊躇いながらも鉄格子の隙間に顔を寄せれば、冷たい金属に阻まれながらも彼の唇が僅かに俺の唇へと触れた。その行為に対して嫌悪感や罪悪感は無くて、むしろ、昔から心のどこかで、いつかはこういう関係になるのかもしれないという、不思議な予感があった。
彼の舌先で唇を撫でられ、誘われるがまま、俺もぎこちなく舌を伸ばせば、唾液に覆われた舌先がねっとりと絡み合う。
「……お、お前も、ここを出たら良いのに。そしたら、その、もっと会えるだろ……」
「駄目だよ……。俺はここで、待っていないといけないから」
何を、と尋ねようとした声は、白い吐息と共に彼の口内へと飲み込まれた。
こんな、障害物に阻まれながらでは無く、体の境界が分からなくなる程、強く抱き合いたいのに。
この三年間、俺は彼に沢山の事を教えたけれど、彼が俺に教えてくれた事は僅かだった。名前すら、知らない。
何でそんな所にいるのか、何で出られないのか、何を待っているのか。思い切って聞いてみた事もあったが、いつだってはぐらかされて終わりだった。
しかし、俺の高校入学をきっかけに、今まで隠されていた真実の糸口を見つける事になる。
分岐点は、彼とは何の関係もない、高校のクラスメイト。
「えっ、あの町から来たの!?」
「うん、なんで?」
新しい学校、新しいクラス、新しい同級生。周りは知らない顔ばかりで、とりあえず席が隣になった奴と、どこの中学出身かどこから来たのかと当たり障りのないやりとりをするのは、珍しい光景では無いだろう。
俺もその流れで、自分がどこから来たのか答えると、会話をしていた同級生が大袈裟なくらいに目を丸めて問い返してきた。
「俺オカルトとか好きなんだよねー! その町、生け贄の都市伝説があるとこじゃん?」
「生け贄……?」
「まぁ、あんまりメジャーな話では無いから、知らなくて当然っちゃ当然かも」
そう言えば子供の頃、一人で森や山に入ると鬼に喰われるぞと、両親に言い聞かせられていたけれど、それと何か関係があるのだろうか。
元々、幽霊や宇宙人といった非科学的な話を信じられない性格で、都市伝説とやらには欠片の興味も持たなかったが、どうしてだろう、突然得体の知れない不安に襲われた。それを、虫の知らせと言うのだろうか。
俺は学校を終えて寮部屋へと戻ると、鞄をベッドの上に放り投げ、制服を着替える間もなくパソコンの前に腰を下ろした。
「生け贄……」
検索窓に、地元の名前と合わせてそう入力すると、結果一覧にずらりとその文字が並ぶ。俺は検索結果の一番上のリンクをクリックし、ページの表示を待った。
「あの町は、鬼に生け贄を捧げている……」
真っ黒な背景に、人喰い鬼の生け贄、と赤字で書かれたタイトル。その下にはその都市伝説の説明が長々と書き記されていた。
県や町の名前はアルファベットでぼかされているが、俺の住んでいた町の頭文字と一致する。文章内で説明されている町の風景なども、思い当たる点が多い。
“人喰い鬼の生け贄”
“その町に寄り添うようにして聳え立つ広大な山には、昔から人を喰う鬼が現れると言われていた。まだ町が村であった頃、山仕事に出掛けた数人の人間が消息を絶ったのが始まりだ。それからも、山に入った人間の行方が分からなくなる事案が定期的に続き、ある日、一人の村人がその正体を目撃したと言う。
『友人が、鬼に喰われてしまった』
泥や血にまみれながら山近くの民家に転がるようにして飛び込んで来た彼は、その化け物から命からがら逃れて来たらしい。このままでは被害が増える一方だ。しかし、鬼を始末してしまうと、鬼の仲間が報復に来るかもしれないと恐れた彼らは、鬼を森の中の廃屋に閉じ込め、望まれずに産まれてきた赤子や身寄りの無い若者を生け贄とし定期的に捧げていたとされている。
それ以来、山での失踪は無くなり、村に平和が戻った。
そのうち、生け贄にする為だけの子を産み、生け贄が鬼を恐れないように幼い頃から教育するのが当たり前となった。生け贄が抗う事で、鬼の怒りを町が買ってしまわないようにである。
生け贄として育てられた彼ら、彼女らは、己が生け贄である事を幸福だと信じて疑わず、救いの手を差し伸べても、生け贄としての死を選ぶという。
鬼のいなくなったと思われる今でも、その生け贄制度は一部の家系に受け継がれ、密かに続いているそうだ。生け贄の家に閉じ込められた彼らは、数年の時をその家屋で過ごし、次の生け贄となる者が育った頃、首を跳ねられ、死を持って鬼への貢ぎ物となる。”
「……っ」
部屋中に音が反響しているのでは無いかと思うくらいに、心臓が激しく鼓動する。
都市伝説など信じていない。ましてやこのご時世に生け贄や鬼の存在なんて。
しかし、画面上に機械的な文字で語られている生け贄によく似た存在を、俺は知っている。
『俺はここで、待っていないといけないから』
あの寒い日の、彼の言葉を思い出し、肌の上を氷が這い落ちるような寒気に、ぞわりと鳥肌が立った。
馬鹿、信じるな、これは、ただの都市伝説に過ぎない。あんな長閑な町で、こんなイカれた話があるものか、馬鹿らしい。
そう強く自分に言い聞かせれば言い聞かせる程、堪えきれない涙がぼろぼろと溢れて落ちるのは、どうしてだろうか。
◆◆◆◆◆
走っている訳でも無いのに、呼吸の乱れが収まらない。心臓は今にも破裂しそうだ。
使い込んだリュックの中には、財布と携帯電話と五百ミリペットボトルの飲料、そして、ホームセンターで買った腰鉈が入っている。
腰鉈は俺の肘から指先程の長さしか無いというのに、石を背負っているかのようにずしりと重い。腕時計を確認すれば、間も無く日付が変わろうかという時間だ。
こんな、暗闇に支配された森の中を細い懐中電灯一本でさ迷うなんて、いくら幽霊や妖怪の類いを信じていないとは言え、恐怖で頭がおかしくなりそうだ。
夜空に光を滲ませる満月も、空を仰ぐ事すら出来ない程の木々に覆われたこの場所では、助けにならない。がさりと、木の葉の擦れる音が聞こえる度に、心臓を掴み上げられる気分だった。
何度も通っている道なのだが、昼間とはまるで別世界のような雰囲気に不安になり、立ち止まっては何度も辺りを確認する。目的地に辿り着くまでにいつもより長い時間が掛かったが、木々が開け、彼の家が目前に現れて、ようやく僅かな安堵を得た。
「……なぁ、起きてるか、なぁ」
流石にこの時間ともなれば、いつも開けっ放しの縁側の扉も閉まっていて、家の中から明かりが漏れているのも確認出来ない。もう、寝てしまっているのだろうか。
縁側の扉を、そっと叩く。建物が古いせいか、静かにノックしたつもりだったのに、バンバンと想像以上の音が響いて、ひっと息を飲んだ。しんと静まり帰った部屋から、返事は無い。やはり眠っているのか、それとも、他の部屋にいるのだろうか。
焦りと不安に押し潰されそうになっていた矢先、いつもの縁側の扉ががたりと音を立てて、僅かな隙間を生んだ。
「……驚いた。どうしたの、突然こんな夜更けに」
拳ひとつ分程の扉の間から、彼の声が流れて来る。鉄格子越しに部屋の中を覗いても、深い黒に塗りつぶされていて彼の姿は確認出来ない。表情を窺い知る事は出来なかったが、少し音の跳ねたその声色が、驚愕と歓喜に満たされているのを感じた。
いつもとなんら変わらないその声に、俺はほっと息を吐く。
「今、家の中にはお前一人?」
「うん、今は、一人」
「なら丁度良い。ここから出よう、こんな所にいたら駄目だ。町に出れば、何とかなるよ」
「気持ちは嬉しいけど、駄目なんだよ。俺は、ここにいないといけない」
「駄目だ、引き摺ってでも連れて行く」
「……?」
俺は背負っていたリュックを地面に下ろすと、その中から腰鉈を取り出し、刃の部分を包んでいたカバーを抜き取る。ずしりとした重みを右手に感じながら、俺はその場を離れ、家屋の出入口へと向かった。
べたべたとお札が貼られた扉には、いつものように、黒くくすんだ南京錠が掛かっている。
俺は右手を勢い良く振り上げると、頑丈な刃を南京錠目掛けて思い切り叩き込んだ。悲鳴を上げるような、バキバキッという破壊音が鳴り響く。二度、三度、四度……。腰鉈を振り下ろす度に、古い扉はみるみる傷穴を広げて行き、南京錠が木の破片と共に俺の足元へと転がり落ちた。ぐちゃぐちゃになったドアノブは最早役目を果たす事は出来ず、木製の扉はギギギッという耳障りな音を出しながら口を開く。
「ほらっ、出て来い!俺と一緒に逃げよう!」
返事は、聞こえない。
初めて家の中の様子を目の当たりにした俺は、ごくりと生唾を飲んだ。入り口から真っ直ぐに伸びた廊下の先は行き止まりで、扉がひとつ付いている。今俺がいる場所から見て、廊下の左手側は壁で、右手側に襖がふたつ。彼のいる部屋へと続くのは、場所的に恐らく、奥にある襖の方だと思われる。
懐中電灯無しでは足の爪先も見えない程の暗闇が室内に満ちているせいもあるが、嗅いだ事もない不快な匂いが、建物の中に入る事を戸惑わせた。再び部屋の中へ呼び掛けるが、やはり声は帰って来ない。
焦燥に駆られた俺は、意を決して家の中へと足を踏み入れる。それを見ていたかのように、奥の襖の向こうから彼の静かな声が聞こえた。
「駄目だ、来ないで」
「……っ!いやだ!俺はお前を、殺されたくない!」
強い決意が恐怖を凌駕した瞬間、俺は家の中へと駆け込み、彼がいるであろう部屋の襖へと手を掛けた。
行く手を遮る襖を勢い良く開いた途端、頭痛をもよおす程の悪臭が俺の鼻を襲った。思わず後ろによろけてしまったが、手の甲で鼻と口を覆い、もう一度部屋の中へと視線を向けた。
暗闇の中、縁側の少し開いた扉の隙間から差し込む柔らかな月光に真っ先に目を奪われる。この暗黒の中では、その柔らかな光りも眩しいくらいだった。
月のスポットライトに照らされるようにして縁側に座っていた彼が、ゆっくりと立ち上がりこちらへと顔を向ける。
顔には影が差していて表情は分からないが、とりあえず、まだ無事のようだ。
「良かっ……」
彼の方へ近寄ろうとして、俺はようやく、部屋に充満していた悪臭の原因を知る。
畳を踏みしめたはずの足元で、ぱしゃりと小さな水音が聞こえた。
彼に気をとられていて、足元を気にしていなかった。初めて自分の周辺を懐中電灯で照らして、床を覆い尽くさんばかりの赤黒い水たまりに気付く。最初はそれが何なのか分からなかったが、その液体を辿って行った先、部屋の隅に血塗れの人間がうつ伏せで倒れているのを見付けて、ようやく液体の正体が血液である事を理解した。
俺は断末魔のような悲鳴を上げ、その場から逃げ出そうとしたが、いつの間にか目前に迫っていた彼の手によって阻まれる。
「来ないでって、言ったのに」
彼は俺を抱きすくめながら、少し苦しそうに、上擦った声でそう呟く。彼が何を言わんとしているのか、鈍器で殴られたかの様な衝撃を脳に与えられた今の俺には、察する事が出来ない。
一刻も早くこの場から逃げ出したい。けど、いや、だめだ、彼も一緒に、逃がさないと。
彼の手を引こうとその腕に触れた瞬間、ぬるりとした感触が掌から伝わって、喉がひきつる。恐る恐る自分の掌に目を凝らすと、指の先までべったりと赤褐色に染まっていた。
恐怖が限界を越えたのか、俺の涙腺からは、壊れた蛇口のように次から次へと涙が溢れてくる。
それに気付いた彼が、慰めるように俺の耳元に優しく口付けるが、初めて触れ合った時のような高揚は訪れず、身も凍るような寒気が全身を駆け抜けた。
そして、彼の手は当たり前のように俺の腹部を撫でながら、ジーンズの中へと指先を潜り込ませる。下着の中を弄られ、くちゃくちゃと響く水音は、俺の中から溢れた物では無い。彼の手に付着した、誰のものとも分からない血液が、彼の手と一緒に俺の性器に絡み付く音だ。
「泣かないで、ほら、これ、気持ち良いだろ?」
「うっ、ううぅっ、うっ」
こんな、すぐ隣に死体がある状況で、どうして気持ち良くなれると思うんだ。一向に勃ち上がらない俺の性器を、彼は何かに取り憑かれたように、何度も何度も執拗に擦り上げる。
その行為によって欲求が昂っているのは俺では無く寧ろ彼の方で、耳元で繰り返される息遣いは段々と激しくなっていき、彼の体と密着した臀部に硬い異物を押し当てられる。
ずるりずるりと、ジーンズ越しに俺の尻の割れ目をなぞる様に上下する感触に、体が強張った。
俺の性器を愛撫する彼の指がぴたりと動きを止めたかと思えば、この暗闇でも確認出来る程の距離に、血だらけの掌をかざされ、勢い良く目を背ける。
「俺のこんな姿を見ても、お前は俺の全てを受け入れてくれる……?」
「……っ」
その要求を否定してはいけないと、頭の中でガンガンと警告音が鳴っている。俺は自分の迷いを押し殺し、ぎこちなく頷けば、彼はくくくと小さく笑いながら、嘘つき、と呟いた。
「お前が俺から逃げていくなんて、耐えられない」
俺の体に絡み付く彼の腕には一層の力がこもり、充分に呼吸する事さえ許してくれなかった。震える手で彼の腕に爪を立てたり、体を叩いて抵抗するが、彼の体がひくりとでも動じる事はない。
彼は痺れを切らしたように俺の顎を掴み強引に唇を重ねた後、俺の体を軽々と抱え上げる。そのまま、ゆっくりとした足取りで部屋の奥へと連れて行かれるのは、まるで闇の満ちた沼にじわりじわりと飲み込まれていくような恐怖だった。
(あぁ、そうか……)
お前がここで待っていたものは、自らを喰らいに来る化物や、理不尽に首を跳ねられる悲惨な結末では無かったんだ。
畳の上で俯せになり、ぴくりとも動かないあの死体こそが、連れてこられた、生け贄。
それならば、俺を暗闇の中へと引き摺り込んでいく彼は……。
「泣かないで、お前の事だけは、食べたりしないよ」