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第2回 BL小説アワード

涙滴の無言歌

王国ファンタジー/主従/エロ濃いめ

「お許しください。あなたを、愛しています」 翡翠色の美しい瞳を万感の想いを込めて見つめ返すと、次の瞬間、シリルは窓の外へと身を躍らせた。

真夜野ふみ
グッジョブ

 七つ目の流星を数えて、アルセスは窓辺でゆっくりと脚を組み替えた。
「今夜は空が騒がしいな」
 星図の上に重ねた紙束をめくりながら、シリルは頷いた。
 南の空に浮かぶ不死鳥の星座からしきりと星が流れる。手元の記録に、二十年前の同じ冬の時期に同じような流星雨があったという記述を見つけたシリルは、とある予言を思い出してぎくりと手を止めた。
「それにしても、星明かりだけでよくそんな細かい字が読めるものだ。さすがは魔法使いだな」
 星見の塔の大きな窓の縁に腰掛けて長い脚を組んでいる、第一王子らしからぬ無造作な態度のアルセスの姿が、満天の星空を背景に浮かび上がる。その膝の上に分厚い書物がある。
 シリルは手にしていた羽根ペンを置いて立ち上がり、寝台のように大きな机の隅に置いてあるランプに手を伸ばした。
「構うな」
 その手をアルセスに制される。
「余計な光は観測に邪魔なのだろう。いいから暗いままにしておけ」
 シリルは無言で頭を垂れた。月のない夜を思わせる漆黒の長い髪が、肩からさらさらと流れ落ちる。
 城の一番外れにある塔の最上階のこの部屋までは、寝ずの番をする兵士たちの声も松明の光も届かない。王国のどこよりも夜空に近いこの場所で星辰を研究するのが、王城付き魔法使いであるシリルの務めだ。
 いや、彼がここに仕え続ける真の理由は別にある。
 机の脇に置いた足台は、暖炉で熱した大きな石を中に仕込んである。その上にかけられたアルセスの毛織のマントを手に取ると、シリルは窓際に歩み寄った。
 分厚い石の壁に切られた大きな窓には、観測の妨げになるようなガラスや格子は一切ない。鎧戸を開けるだけで冬の夜空と一続きになる部屋の空気は凍てつくように寒く、窓枠を飾るタイルも氷のようだ。
 手にしたマントをアルセスの膝の上にかけようとすると、手首を強く握られた。
「構うなと言ったろう」
 シリルから強引にマントを取り上げると、アルセスは窓の縁から立ち上がった。
「お前こそ、そんな冷たい手をして」
 上質な織りの軽いマントはふんわりと温もっている。アルセスはそれを魔法使いの肩にかけ、そのままマントごと、細い身体を自分の両腕の中に包み込んでしまった。
「温めてやろうか」
 顎を掴まれ、上向かせられる。そう言うアルセスの手もひどく冷たい。
 身を翻す間もなく、唇を重ねられた。耳の後ろに手を当てて押さえつけられ、唇の結び目を舌で割られる。指先とは対照的に、口腔内に侵入してきた舌は炎のように熱い。
 腰帯を解かれ、喉元のトグルを外され、ローブの前をはだけられる。下に着たシャツの前立ての紐をするすると解かれると、北の国の磁器のように白い肌があらわになる。
「俺に触れられるのが厭(いと)わしいか」
 夜気に身震いをしたのを誤解したのか、アルセスが冷たく笑う。その深い翠の目の奥に鈍く光る熱情を、シリルの身体はこれまでに何度も受け止めてきた。
「ならば、そう訴えればよかろう。なぜ何も言わない」
 シリルは小さく首を振る。
「それとも…俺のような呪われた出自の者には口をきくのさえ穢らわしいか」
 吐き捨てるような言葉に、シリルは凍りついた。
「知っているのだろう。俺は父王の胤(たね)ではない。その弟の将軍と、前王妃との間に生まれた不義の子だ」
 鋭く飲み込んだ息が、シリルの喉の奥で、ひゅ、と笛のような音を立てる。
 二十年前にこの国に産まれた第一王子は、鳶色の髪と美しい翡翠の瞳の持ち主だった。その姿は暗褐色の髪と琥珀色の目を持つ父王ではなく、王弟である将軍に生き写しだった。
 王子が成長するにつれ、王は自分の妻と弟に裏切られたという確信を深めた。
 だが、隣国の王女として生まれた誇り高き王妃は、王弟との許されない恋に身を落としたことを最後まで認めないまま、星見の塔に幽閉された末に毒をあおっての自死を選んだ。国内外には疫病で落命したと発表されたが、死の経緯は密偵を通じて隣国に漏れた。もともと、国境の鉱山を巡って争っていた両国の関係を修復する意味合いの結婚だったが、これをきっかけとして新たな戦乱が勃発した。
 この戦に向けられた兵を率いたのが、王弟将軍だった。
 優れた武将でありながら弱き者のために心を痛める優しさも持ち合わせており、広く人望を集めていた将軍だったが、この戦いでは無謀な突撃で命を落とした。
 幼い頃から魔法使いとしての修行を積んできたシリルは、長引く戦に巻き込まれた村人の怪我を治してやってほしいと将軍直々に請われ、その慈悲深さに心を打たれて要請を受けた。そんなある日、将軍自身が致命傷を負ったと聞き、戦場へ駆けつけた。だが、将軍はシリルの治療を拒んだ。
「たとえ傷は治せても、私が犯した罪は魔法使いにも消せはしまい」
 枕元で懸命に薬草を調合するシリルに、将軍はそう打ち明けた。そして、城に残した王子の運命だけが気がかりだ、と言って、シリルに形見の護符を託した。
 シリルが思わず、私が王子の盾になりましょう、と約束すると、将軍は安心したように微笑んで息を引き取った。
 若き魔法使いは戦乱が終わると城に赴き、幼い王子の教育係として仕官を申し出た。それ以来、アルセスを正嫡と認めずに王城で暗躍する様々な勢力から、密かに王子を守ってきたのだ。
「呪わしき生まれとはいえ、表向きは第一王子だ。公然と処刑するわけにもいかなかったろうから、その王子が女相手には不能だと知って、父王はさぞや安堵しただろう。俺の血を引く者がこの王国を治める可能性は万に一つもない」
 アルセスの苦い笑い声に、シリルは青ざめてうつむくしかなかった。
 その肩をアルセスの手が掴む。マントとローブを机の上に払い落とすと、シャツと下穿きも剥ぎ取り、そのままシリルの身体を抱え上げた。ほっそりした体型とはいえ、上背はアルセスとそれほど大きくは違わない。その身体を持ち上げてしまう鋼のように強靭な腕は、さすがに将軍の血を引くだけある、と思わせる。
 手首に巻いたまじない紐と両足のブーツ以外は何も身に着けていない裸身を、机上に広げた星図とマントの上に横たえられた。何かの供物のように。
「懇願すれば許してやる」
 毛織の上着を脱ぎ絹のシャツの襟元をくつろげながら、アルセスはシリルの身体の上にのしかかる。その胸元に、鎖に通した黄金の護符が揺れている。楕円の下の部分だけを尖らせたような涙滴(るいてき)型の盾をかたどったもので、中央には大粒の翡翠が埋め込まれている。
「だが、お前自身がその口でやめてください、と請わない限り、俺はお前を犯す」
 言葉ではそのように言いながら、シリルに触れてくるアルセスの手はいつも、ほとんど残酷なほどに優しい。本当に乱暴なだけの行為であれば、想いを閉ざすこともできたかもしれないのに。
「魔法使いというのは、精神だけでなく肉体も人並み外れて鋭敏なようだな」
 首筋から胸元へと舌を這わせながら、アルセスが戯れのようなつぶやきを漏らす。そして、雪を耐える蕾よりも硬くなっている小さな突起を口に含んだ。
「!」
 組み敷かれたシリルの身体が小さく跳ねる。アルセスの口から、ふ、と笑いがこぼれた。
「ここを、こうされるのが、好きだったな」
 熱い舌が敏感な先端をねぶっていく。シリルは手の甲を自分の口に押し当てた。それでも、全身を妖しく走り抜ける感覚はさざなみのような細かい震えとなってアルセスに伝わってしまう。
「声を出したらどうだ」
 口元の手を取り除けられた。アルセスはシリルの顔を覗き下ろしながら、今度は爪で胸の尖りを焦らすように引っ掻く。
 詰めていた息がほどかれて、うわずった声が羽ばたきそうになるのを必死にこらえる。
「強情だな」
 窓の外の星の光を集めて、極上の緑玉のような瞳がきらめいた。
「では、今日はこうしてやろう」
 アルセスの両手が、ブーツを履いたままの両脚をぐいと押し開く。
「ほう、さっきのはそんなによかったか。もう先が濡れているぞ」
 広げられた脚の間をとくと眺められて、シリルは身の置きどころのないような羞恥と、それ以外の何か得体のしれない感覚に身を震わせた。
「舐め取ってやろう」
「あ!」
 先端を舌先で抉られ、ついに高い声を放ってしまった。慌てて両手で口を塞ぐが、指の隙間からあえかな声が漏れ出ていく。
 アルセスが満足そうに笑った。
「お前の声は耳に甘い」
 そして、硬く勃ち上がったそれを、先端から一気に飲み込んでしまう。
「う…ぁっ…」
 アルセスの熱い口の中に含まれているだけで、そこが融けてしまいそうに感じる。シリルは唇だけでなく瞼もきつく閉じたが、感じやすいところを舌で巧みに探られるたび、長い睫毛が細かく震える。
 自分の股間に埋められたアルセスの顔を引きはがそうと、戦死した将軍にそっくりな短く柔らかい巻き毛に必死に指を絡ませた。偉大な将軍の血を引くこの王国の第一王子に、こんなことをさせていいはずがない。
 だが、シリルに促されて顔を上げるふりをしながら、アルセスはその唇をすぼめて、茎をきつくしごき上げた。
 苛烈なほど鋭い快感が身体の芯を駆け上がる。
「だっ…」
 だめです、という言葉を、奥歯で噛み潰す。
 使い魔の鳥やネズミたちは、早朝であろうと深夜であろうと、常に耳を澄ませている。声を上げるだけならともかく、一言でも意味のある言葉を発しようものなら、シリルが禁を破ったことは翌朝には全土の魔法使いたちに知られてしまうだろう。
 世俗の国家に仕える魔法使いは、決して言葉を発してはいけない。
 魔法使いの固い掟だ。
 当然ながら、呪文を唱える必要のある強力な魔法は使えなくなる。特定の権力が強い魔力を支配下に置いたり、逆に権力と手を結んだ魔法使いの力が強大になりすぎたりするのを防ぐためだ。
 だが、そんな掟は魔法使い以外にはほとんど知られていない。そもそも、不自由な思いをしてまで宮仕えをしようという奇特な魔法使いは滅多にいない。
 入城後にぴたりと口を閉ざしてしまったシリルを軍の関係者は不思議がっていたが、やがて、そういう形で将軍の命を救えなかった償いをしているのだろうと納得したようだった。シリルもそれを敢えて訂正はしなかった。
「あぁ…」
 だから、このようにアルセスに全身をとろかされながらも、シリルは決して自分の想いを伝えることはできない。その人の名を呼ぶことさえ禁じられている。
 それでも、アルセスのもとにいられさえすればよかった。
 城に仕えて十年。読み書きを通じてしか言葉を使おうとしないシリルに、アルセスは毎日のように語りかけ、時には視線だけでシリルの心の動きを読み取る。
 みまかる直前の将軍と交わした約束のためではなく、シリルは自分の意思で、誇り高き両親の血を受け継いだこの孤高の王子を守り抜くつもりだった。彼の盾になれるのならば声など捨てても構わないと思っていた。
 だが、それももはや限界なのだろうか。
「っ……」
 折り曲げた膝を胸につくほど押し上げられた。香油をたっぷり塗られてほぐされたそこに、アルセスの猛々しいものを受け入れる。この瞬間、痛みの奥に儚い喜びを感じてしまう自分を、シリルはどうにも抑えられなかった。
 美しく残酷で、それでいて優しいアルセス。自分の心と身体は、この人に対してだけひどく鋭敏にさせられる。
「くっ…うう、くそ…」
 アルセスは息を大きく乱しながら、シリルの奥を深く穿つ。と思うと、前後にじわりと腰を動かして、シリルの中の一番もろい箇所を擦り上げていく。
「あ、あああっ」
 たまらず、シリルは悲鳴を上げて首を大きく仰け反らせた。涙の滲む目に、漆黒の夜空に散らばる星々が映る。
 限界まで昂らされた屹立を、アルセスの長い指が撫で上げた。
「ーーー!」
 無言の叫びとともに、白濁が散る。ほぼ同時に、シリルの中でアルセスも達したのがわかった。
 しばしぐったりとするシリルの視界を切り裂くように、星がまたひとつ流れる。流星が窓から室内に飛び込んでくる光景を幻視して、シリルははっと我に返った。
 もう時間がない。
「まだ動くな。今身体を拭いてやる」
 アルセスはシリルの細い身体を、冷気から守るように柔らかなマントの中に包み込む。
 シリルは机の上に身を起こした。毛織のマントを肩にかけたまま、立ち上がったアルセスの胸にすがりつくように両腕を回す。
「どうした、魔法使い」
 アルセスが珍しく戸惑ったような声を上げる。その裸の胸元に揺れる将軍の形見の護符に、シリルは唇を寄せた。
 手首のまじない紐を繰りながら、小さな声で、素早く守護の呪文を唱える。
 自分の力の及ぶ限り彼に危害を加えさせまいとしてきたが、それでも星辰から導き出される予言は変えられなかった。背徳の血を引く第一王子は満二十一歳の誕生日を迎えることはない。その運命からアルセスを守るには、強力な呪文がどうしても必要だった。
 シリルの唱える呪文に呼応するように、涙滴の盾の中央の石が静かに光り始める。
「おい…一体何を」
 部屋の隅でかさこそと音がした。壁の中に住むネズミだろうか。
 シリルは、今や月のように明るい光を放っている護符から口を離し、アルセスの顔を見上げて、息を整えた。
「アルセス様」
 この人の名を唇に乗せるのは、これが最初で最後だ。
 アルセスは彫像のように立ちすくんで、シリルを見下ろしている。
「私はもうあなたのおそばにはいられません」
 マントをきつく身体に巻き付けると、シリルは素早く机の上から滑り降りた。反射的に伸びたアルセスの手をすんでのところでかわし、窓辺へと駆け寄る。
「お許しください。あなたを、愛しています」
 翡翠色の美しい瞳を万感の想いを込めて見つめ返すと、次の瞬間、シリルは窓の外へと身を躍らせた。


 星図もなしにただ夜空をじっと見上げていると、自分が地上に立っているのではなく、星々の間の暗闇へと永遠に落下し続けているように思えてくる。
 城の塔から身を投げて一年。シリルは辺境の村のさらに外れにある丘の上の廃墟から、満天の星空を振り仰いでいた。
 アルセスの護符に守護の魔法をかけたことと、塔から落ちる際に浮遊の呪文を使ったことは、はっきりと掟に背く行為だった。罰として、シリルは声を失った。
 数ヶ月の放浪の末にこの丘の上に打ち捨てられていた廃墟に居を定め、今は麓の村人のために治癒と星読みをして暮らしを立てていた。
 この辺りは先の戦で土地が荒廃し、暮らしも豊かではない。だが人々は荒れた農地を再び開墾し、崩れた家々を再建し、子を産み育て、たくましく生きていた。言葉の喋れない魔法使いでも、役に立てることはいくらでもあった。
 こんな辺境の村にも時折王城の噂が流れてくることがあったが、シリルはそれらには敢えて耳を傾けようとはしなかった。城には二度と近付くことを禁じられていたし、呪文も唱えられない自分にはアルセスのためにできることはもう何もない。
 こうして、丘の上で彼の無事を星に祈ることくらいしか。
 眼下には、アルセスの実の父である将軍が斃(たお)れた戦場跡の平原が広がっている。だがシリルはそちらには目を向けず、ただひたすら星空を見上げていた。
 南天に輝く不死鳥の星座に目を向けると、不吉な予言が脳裏に甦る。星がひとつ長く尾を引いて流れ、シリルは思わず身震いをした。
 仮ごしらえの扉の隙間から冷たい風が吹き付けてきて、細身の身体にまとった毛織のマントの裾がはためく。
 人の気配がして、シリルは振り向いた。
 いつの間にか月が昇っていた。その煌々とした光が、戸口に立つ人物の影を床に落としている。
 シリルは息を止めた。
 それは、瞬きをほんの数回繰り返す程度の時間だったかもしれない。だが、向かい合って互いを見つめ合うその間に、星がぐるりと一巡して元に戻ったような気がした。
「お前を迎えに来た」
 アルセスは立ちすくむシリルにまっすぐ歩み寄ると、その華奢な身体をマントごと、腕の中にしっかりと抱き込んでしまった。
 顎をすくい上げるように仰向かせられる。ひとつひとつ覚えのある仕草に、シリルの心はかき乱されてしまう。
「まだそのように、あれこれ思い悩んでいる目で俺を見るのだな」
 旅装に身を包んだアルセスは、一年前よりも少し精悍になったように見える。背が伸びたようだ。シリルに穏やかに語りかけるその表情にも、以前にはない落ち着きがあった。
「俺は無事だ。お前が魔法をかけてくれたおかげでな」
 そう言いながら襟元に手をやり、服の下から鎖を引っ張り出す。涙滴型の盾の護符の黄金と、その中央の大粒の翡翠が、月明かりにきらめいた。
「旅に出てからというもの、この護符の威力を試す機会には事欠かなかった。剣を持った刺客ならいくらでも返り討ちにしてやるのだが、何やら妖しいまじないをかけてこようとする者は、俺の力ではどうにもならん。それをこの盾がことごとく跳ね返してくれた」
 では、呪文の威力は失われていないのだ。それには安堵したシリルだが、そこまで露骨に命を狙われるようになるとは、アルセスをとりまく状況はますます悪化しているようだ。
 眉をしかめたシリルの顔を見て、アルセスはくくく、と笑う。
「まったく、王城の連中の疑い深いことだ。とっくに王位継承権は放棄したというのに、俺が今にも反乱を起こすのではないかと心配で夜も眠れないのだろう」
 その言葉に、シリルは耳を疑った。
 王位継承権を放棄、とは。
 目を丸くしたシリルに、アルセスは肩をすくめてみせる。そんな洒脱な仕草も、旅に出てから身に着けたものだろうか。
「将来の王座など、父王の息子にくれてやったさ」
 王には、新たに娶った王妃との間に五歳になる第二王子があった。表向きはアルセスの異母弟ということになる。
「王族に与えられる特権もすべて手放した」
 そう言ってアルセスは旅装の手袋を外して見せた。
 左手の甲に、追放者を示す弓矢の形の刺青がある。
 まるで罪人のような扱いだ。何の咎もない王子に対するあまりに畏れ多い仕打ちに、シリルは思わずその手をとって、刺青の部分にそっと唇で触れた。
「気にするな。すべて俺から言い出したことだ。魔法使いを生涯の伴侶にできるのならば、このくらいわけはない」
 肩から滑り落ちるシリルの長い黒髪を手で玩ぶようにしながら、アルセスはさらりと言った。
 伴侶。
 思いもよらなかった言葉に、シリルの思考がつまづいた。慌ててアルセスの手から顔を離したが、それを引きとめるかのように、手袋を取ったアルセスの掌が頬に当てられる。
 鼓動が跳ねる。
「それとも、王子でも何でもなくなった俺では添い遂げる相手として不足か」
 また、戯れを言ってシリルをからかっているのだろうと思った。だがアルセスは驚くほど真剣な目でこちらを見つめている。
「ならばそう言え。全力で拒め。俺がお前を奪ってしまう前に、俺から逃れてみろ」
 顎をぐっと掴まれ、シリルは狼狽した。
 禁忌を犯した罰を受けるこの身で、アルセスの求めに応えるわけにはいかない。だが、彼のことを本気で拒むなどできるわけがない。
 と、アルセスがふっと表情を緩めた。
「いや、逃れられないのは俺の方か」
「…?」
 ゆっくりと頬を撫でていくアルセスの指先があたたかかい。
「お前は、言葉では一度たりとも俺を求めなかった。俺はそれが不満だった。お前が王弟将軍に忠誠を誓っていつまでも俺の問いかけに答えないのが、狂おしいほどもどかしかった」
 シリルは目をしばたかせた。自分の沈黙の理由を王城であれこれ推測されていたことは知っていたが、まさか、アルセスまでがそのような誤解をしていたとは。
「だがお前は何も言わない代わり、その目でいつも俺を見ていた。あの城で、お前だけが常に俺の傍らにいてくれた。そのことに気付いたのは、お前が消えてからだった」
 アルセスは名残惜しそうにシリルの顔から手を離すと、首から提げた鎖を外して、涙滴の盾をシリルの胸にかけ直す。
「シリル」
 アルセスは初めて、魔法使いを名前で呼んだ。
「お前が欲しい、シリル。王国はいらない、お前が欲しい」
 シリルの瞼が二度、三度と上下した。
 夜空の光を凍らせたようなその瞳を、柔らかな涙が溶かしていく。
 涙の滴は流星のようにシリルの頬を伝い、胸元へ落ちる。首から提げられた護符に水滴が触れると、大粒の翡翠から光が散った。
 星屑のような細かな光の破片がシリルの全身を包み込む。
「アルセス様」
 零れ出た声が自分のものだと、シリルはしばし気付かなかった。それからはっと口元に手をやる。
「様は必要ない。俺はもう王子ではない」
 アルセスはそう言って晴れやかに笑う。
「第一王子はもういない」
 刹那、シリルは雷に打たれたかのように立ちすくんだ。
 二十一歳の誕生日を迎える前に、第一王子はこの世から消える。それでは、あの予言は。
「どうした」
 禁断の恋に身を焦がした王弟と王妃は。過ちの結果として生まれ落ちた王子は。その王子を守るために掟を破り、声を失ったはずの魔法使いは。
「私たちは…許されるのでしょうか」
 まだ声を出すことに慣れていないせいか、語尾が怯えたようにかすれる。
「一人でいる限り誰も許されはしない。許すのは他者だ」
 アルセスの言葉に、シリルはまだ光を放っている胸元の護符をきつく握りしめた。
「だからもう二度と一人になるな」
 この人の傍にいることを許してもらえるなら、それでいい。たとえ永遠に消えない罪を背負うことになろうとも、ただ一人にさえ許されればいい。
「私は生涯あなたのものです、アルセス」
 どんな強力な呪文にも覆すことのできない誓い。
 溢れてくる涙を、アルセスの唇が吸い取る。そのまま頬の涙の跡を辿り、一年ぶりに声を取り戻したシリルの唇を塞いだ。
 快楽を誘い出すような口づけも、ためらいなく衣服を脱がしていく手つきも、シリルが覚えているとおりだった。
 違うのは、肌の上に指先や吐息が落とされるたびに、星を震わせるような声を自分が放ってしまうことだ。
 簡素な寝台の上にうつ伏せにされ、後ろ首にうっすらと歯を立てられ、背後から回された手に胸の先端を嬲られる。かと思うと、脚の間で硬さを増していく欲望を焦らすようにくすぐられる。
「はぁ……んっ、ああっ」
 そのたびに、はしたないほど甘い声で応えてしまう。自分の喘ぎ声が体内で反響して、シリルの熱をさらに煽っていく。
「もっと、声を聞かせろ」
 シリルが自分の喉から発せられる淫らな響きに恥らうのを、アルセスはむしろ愉しんでいるかのようだ。
「いや、です、アルセス様…」
「様は不要だと言っただろう」
 まろやかな曲線を描く双丘を持ち上げられる。
「あっ…なに、を」
 そのまま狭間に指を這わせられたかと思うと、窄まりをぬるりと湿った熱さになぞられ、シリルは驚愕の声を上げた。
「あああっ、だめです…アルセス、そんな…」
 獣のような姿勢をとらせたシリルを、アルセスは背後から舌で責め立ててくる。
「お前のここは可愛らしいぞ、シリル」
「やめて…ください…喋らないで…」
 だが、灼けつくような羞恥はむしろ、シリルの奥に熾(おき)のようにくすぶる快楽を掻き立て、理性を燃やし尽くそうとする。
 尖らせたアルセスの舌の先が溝を伝う感覚に叫び声を上げそうになって、シリルは敷布の上に顔を押し付けた。
「やぁっ…もう…ゆるして、ください…」
 淫蕩な責め苦からの解放を希(こいねが)ってすすり泣きのような声を上げると、アルセスはシリルの身体を仰向けに裏返した。
「許しを請うのは俺の方だ」
 翠玉の瞳が、熱っぽくシリルを見つめている。
「何を…許すのですか」
 乱れた息を懸命に整えながら、問いかける。
「お前を信じきれないまま、お前を抱いた」
「アルセス」
「許せ。もう二度とあの夜のように、お前を一人で放り出したりはしない」
 アルセスの指がシリルの首にかけられた鎖に触れる。護符の中央で、翡翠が夜空を流れ落ちる星のようにきらめく。
 シリルは汗ばんだアルセスの顔を引き寄せ、自分から唇を重ねた。
「私は、出来損ないの魔法使いです」
 そっと顔を離してから、苦笑する。
「こんなにあなたに心を乱されてばかりでは、ろくに呪文も唱えられなくなってしまう」
「構わない。存分に乱れろ」
「あ…」
 濡れそぼった後ろに熱くたぎる楔の先を押し当てられ、全身がわななく。そのままアルセスのものに貫かれ、シリルは背を大きく弓なりに仰け反らせた。
「ひ、ぁあっ……」
 熱した身体を繋いだところから心が解けていく。
 互いにひたすらに求め合い、ただ許し合う。望まれるままに己を差し出し、与えられるものを無条件に受け入れる。過去も未来も、語られるはずだった言葉も秘めていた想いもすべて飲み込んで。
 固く抱き合ったまま、二人は絶頂の中に焔を弾けさせた。
「シリル。もう一度だけ呪文を唱えろ」
「アルセス…?」
「もう決して離れないように」
 アルセスの肩ごし、窓の向こうに白んでいく空が見える。散らばった星々の光が滲んでいく。シリルは小さく微笑んだ。
「呪文は必要ありません」
 丘の上を暁の光が照らし始めていた。

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