>
>
>

第2回 BL小説アワード

薄紅色の春

エロなし/過去設定あり/高校生×美青年魔法使い(?)

「魔法を信じるか」 いつもの無表情。でもそこには確かに綻びがあった。信じるわけがないと答えるだろうと分かっていての質問のようだった。 この男は最後まで何を考えてるか分からないやつだった。それに俺は何回も驚かされた。なら最後くらい、あんたを驚かせたっていいだろう。

グッジョブ

 季節も本格的に冬になりつつあった。
11月下旬、色素のうすい空の下、加藤裕行は白い息を吐きながら通学路を憂鬱そうに歩いていた。
「…毎日毎日、つまんねえ…」
 そうして、思い出したように鞄の中から一眼レフを取り出し、近所の家の塀から飛び出した、枯れた松の下から、空にレンズを向けた。
 パシャリ。
 枯れた木の枝と、パッとしない冬の晴天。
「微妙だな、」
 カメラを鞄の中に仕舞い、重たい心も引き摺って通学路を学校に向かって歩き出す。
 裕行は都内の公立高校に通う二年生。成績も生活態度もそこそこ、運動もそこそこ。かといって、男子高校生らしくはしゃげる性格でもなかったし、彼女とか作りたいとかも思わないような性質だった。
 自分が周囲と違うのを隠すため、日々笑顔を作るのに奮闘していた。仲間たちに誘われれば嫌でも付いていった。カラオケ、ライブ、バー、クラブ…。一年の時には知り合った名前も知らぬクラブの女とラブホテルで童貞を捨てた。二年になってバーで酒を少し飲んだ。嫌いな味だった。
 仲間たちとつるむ自分が、本当の自分でないことは分かっていた。ただ本当の自分がはたしてなんなのか、分からなかった。
「ヒロ、おはよ」
「ああ、おはよう」
 クラスに入り、一番奥の窓際の席に腰を下ろす。さむーいと猫をかぶり体をもじもじさせて言う女子たちが、暖房のスイッチを一気に28度まで引き上げた。
 あー、やめろ、暖房直下のこの席がどんなに授業中暑いか、知らないくせに…と、言うこともなく。いつものように一日は始まる。
「おい、ヒロ。今日夜、空いてね?」
 女子たちと話していた仲間の井戸田が、白い歯を覗かせながら近寄ってくる。笑い方にあどけなさが残る奴だった。
「…ああ、空いてる」
 そう言うと、彼は裕行の肩に腕をまわして、行こうぜ、あそこ、と囁いた。
「…『ゆうてんじ』か」
「さっすがー!行こうぜ、なあ」
「…りょうかい」
 バー『ゆうてんじ』は、祐天寺にあるのではなく、町田にある。街の奥にひっそりと佇む雑居ビルの小さなバーで、オーナーと仲良くなれば、高校生にも酒を飲ませてくれた。井戸田がオーナーの従兄弟で、裕行も一緒に可愛がってもらえていた。
 屁の出るほど退屈な学校が終わり、一度家に帰って着替えた。井戸田と他の三人の仲間と一緒に町田の『ゆうてんじ』に向かう。鉄橋の下の暗いターミナルを通り、怪しげな宗教団体と出会い系の店の勧誘をかわし、街を歩く女を、仲間たちは吟味しながら歩いていく。路地裏やら繁華街やらを通り抜けると、古い五階建ての雑居ビルにたどり着いた。淡い水色のネオン看板のかけられた二階にあがる。
 カランカラン。
「いらっしゃーい」
 扉を開けると、井戸田そっくりのオーナーの和樹さんがカウンターから顔を覗かせ微笑んだ。
「カズさん、ちわっす」
 井戸田が照れたように和樹さんに挨拶をすると、今日はいっぱい飲みい、と和樹さんは桃色のカクテルをひょい、と上げた。あざっす、と仲間たちが嬉しそうに言う。
 その日は珍しく飲んだ。賞味期限の切れかかった材料を使ってるから、遠慮すんな、と微笑みどんどんとカクテルを運んでくる和樹さんを断れず、また仲間たちの雰囲気にも付いていきたかったからだった。
 賞味期限切れの材料を使っているとはいえ、たくさん飲めばやっぱり値段はする。その日は一万を越えてしまった。
「また来いよ」
 10時になって、ふらふらしながら店を出た。足元がおぼつかなく、階段を踏み外しそうに何回もなった。町田のターミナルのあたりでゲロを吐いた。心地よい浮遊感に反して、限界な体。仲間と別れ、電車に乗り二つ先の駅を降り、家の帰り道を歩いていた。
「なんで俺は、こんなんなんだろうなあ…」
 自分を笑いながら歩いていると、家の前の路地に倒れているなにかを視界に捉えた。
「…なんだ、ありゃあ」
 近づいてみると、暗闇で顔はよく見れないが、若い男のようだった。長袖シャツ一枚に、薄手のデニム。この寒さにしては十分薄着。
「おい」
 腕を引っ張ってみると、だらんと抜け落ちた。死んでんのか?
 ふらふらする足元を何とか支え、脇に手を差し入れ持ち上げる。すると男は「うう、」と唸った。
「なんだお前、生きてんのかあー」
酔っぱらって頭が働かない。じゃあ俺が介抱してやればいいじゃないか、と思ってその男を引き摺りアパートに入った。
 電気を付けて、どさっと玄関に男を放った。水商売をやっている母親はまだ帰ってこない。はあっとでかい声で男の横に寝っころがった。ふっと横を見て、裕行は目を見開いた。こいつ、顔が綺麗すぎないか…?
 男がまた唸って、長い睫毛を動かした。うつろに瞳を彷徨わせる。母親好みのオレンジ色の証明に照らされ、男の瞳が妖しげに裕行を捉えた。思わずごくりと唾を飲んだ。胸のきゅっと軋んだ感覚を覚えた。何も言わず男が立ち上がる。しかしまたバランスを崩して裕行の上に倒れこんだ。
「わっ」
「…すまん」
 シャツがはだけて、透明な色をした肌が見えた。程よくついた筋肉、掌が疼く。男の、見かけに反して古臭い言い方など気にもならなかった。
「…介抱、してくれたのか。わざわざすまなかった。もう大丈夫だ。名前を聞いてもいいか」
「か、加藤裕行…」
「裕行…か。ありがとう、いつかお礼をしに来る」
 そう言って、男は帰ろうと背中を向けようとした。帰ってほしくないと思っている自分がいることに気付いた。艶めかしい肌、妖しい瞳、つやのある黒い髪…。酔った頭にその記憶が何回も繰り返される。
「まって」
男が振り返る。あの瞳を、肌を…どうにかして引き留めたい…ああそうだ、名前を聞いていない。
「あんたの…あんたの名前」
「私か?名前…名前…なんだ?」
「…忘れたのか」
「そうみたいだ」
 にこりと笑いもせず、眉を顰めながら男は言った。下を向いている睫毛が影を落としている。その姿さえも手に入れたいと、酔った頭が漠然と考えていた。掌がまた疼く。もう、抑えきれそうもない…
「おい、何するんだ」
 気づけば、細いその手首を思い切り引っ張って引き寄せていた。よろけた男にすばやく馬乗りになり、透明の頸に唇を這わせようとする。酔っているはずなのに、自分でも驚くほど強い力で男の手首を纏め上げていた。舐めると、甘い味が舌に染みる。とろりと体がとろけていくような感覚…。しばらく夢中で肌を舐めていると、男からの反応が全くないのに気付いて、はっと男の顔を見た。すると男は、無表情で裕行の顔を眺め見ていた。
「…どうした。セックス、しないのか」
「え」
 予想外の反応に裕行は狼狽えた。
「人間の男の生理的で人間的な欲求だろう。せっかく私が美しいのに、セックスをしないとは珍しい」
「は?」
 自分の下で、大真面目にそう言う男。一気に酔いが醒めていく感覚がした。なんなんだよ、こいつ。新種のナルシストなのか?セックスを生理的で人間的な欲求だなんて…頭イかれてるのかよ?
「しないのか…。お前みたいな人間もいるもんだな」
 シャツを整え、家を出ていく男。じゃあな、世話になった、と言って出ていく男を、上の空に眺めていた。扉が閉まる瞬間、冷たい風が一気に入り込んでくる。つめたい背中が、出て行ったいつかの父親の背中とだぶって、夜の闇に吸い込まれていった。


 裕行の父親は、裕行が8歳の時、なにも言わず家を出て行った。父は元来寡黙な人だった。寡黙というより…家族の前では喋らない、関わらないというような雰囲気を自ら醸し出すような人だった。父は常に、「父親」という義務を果たすことに精一杯だった。五歳の時、裕行の母親がホストクラブに貢いでいるのが父親にばれた。今でも覚えている。いつもは優しい母親の、苦しげに醜く歪んだ顔。テーブルに無造作に置かれた緑色の財布。そこから覗く数えきれないほどの名刺。ごめんなさい、憂さ晴らしなの、もうやめるから、そう言って泣いて謝る母親の前で父親はただ黙って、わかった、とだけ言った。
 そのとき父は、怒りをそうして表したというより、単に父親としてどうするべきか分からず、そう言ったようだった。母親はそれを見てさらに泣いた。陰で見ていた裕行は、黙って母親のそばにすり寄った。
「いけないことしちゃったら、謝れば許してもらえるって、せんせい言ってたよ」
 精一杯に励ます裕行を、母親は何も言わずきつく抱き締めた。
「ありがとう。でもおとうさんはもとから怒ってなんていないのよ」
 母親はそう言いながら無意識に裕行の体に長い爪をたてた。そこにあるのは愛情ではなかった。
「裕行は、お母さんがお父さんじゃない人すきになったら、怒ってくれるよね?」
 母親ではないひとりの女が、自分を抱きしめている。直感的に裕行はそう思った。両親は、決して自分の母親と父親などではなかった。
 8歳の夏、反吐が出そうになるほど暑い日の夜、3人でいつものように黙って飯を食った。ただひとついつもと違ったのは、父親がネクタイを緩めていないことだった。
「ごちそうさま」
 父がいつもの感情を持たない、無機質な声でそう言うと、母親は黙って薄い紙を父に差し出した。
「よろしくお願いします」
 母が深く頭を下げた。優しい母親は、裕行の手をぎゅっと握ってくれていた。ひとりの女は、自分のものを渡すまいと、裕行の手をきつく握りしめていた。
 父親は、その紙をしばらく呆然と眺めていた。まるで自分が何をしたかまったくわかっていないかのように。母親が顔を上げて、父の顔を見てぼそっと言った。
「普通に…戻りたいの」
 父はそれを聞いて、初めてふっと顔を緩めた。やっと義務から解放された、というような顔をしていた。
 父は出て行った。最後にくしゃくしゃになった千円札を裕行の手に握らせて。そうして裕行の頭もくしゃくしゃと撫でた。皮肉にも、裕行が見てきた中で、一番父親らしい顔をしていた。


 冬のアパートに、裕行の孤独を包み込んだ夜が充満している。あの無表情な男は、今頃どこで寝ているのだろうか。家はあるのだろうか。自分を置いていった父の背中と重なったあの寒そうな背中。今ならわかる。父は自分と同じ孤独だったのだ。最後に穏やかな表情でくしゃくしゃと裕行の頭を撫でてくれた父親の顔を思い出す。父だって母だって裕行だって、普通の家族でいたかったのだ。
 思わず、底の抜けかけたスニーカーをつっかけてアパートを飛び出した。冷たい外気を吸い込んで、鼻がつんと痛む。
「どこ行ったんだ…」
 眠りにつき始めている家々の間を駆け抜け、近くの公園を見て回った。男はどこにもいなかった。やっぱり、ちゃんとした家があるものだよな…
 一時間ほど辺りを捜索して、諦めて家に帰ろうと思った。夜の街は嫌いだった。自分を拒絶しているようで。
「…はっ…馬鹿かよ…」
 自分を嘲笑する。何をしているんだ、俺は。帰ってこないものを追いかけて、何を求めているんだ。
 空を見れば、カメラを持ってこなかったのを後悔するほどきれいな星空だった。思わず涙がこぼれそうになる。帰ってきてくれ、何でもするから…
「情け、ねえ…」
「全くだな」
 突然、背後から透き通った声が聞こえた。驚いて振り向くと、数メートル先、闇に溶けそうなすがたで、あの男が立っていた。
「したくなったか、セックス」
「あ…あんた」
 白いシャツが輪郭をなくして、ぼうっと闇に溶け込んでいる。街灯がちかちかと光って、その姿を夢のようにしていた。胸の奥がきゅっと軋む。ああ、これか…惚れたってことは。
「…なあ、肌がちくちくして、痛いんだが」
 男がそう言って、腕を掌で撫でながら近づいてくる。
「…寒いのか」
「寒い…?ああ、そうか、寒いのか。これが寒いっていうのか」
 変なやつ。大真面目に呟く男を見て、思わずふっと笑みがこぼれた。
「…なあ、この感覚に耐えかねて、外で寝るのを断念したんだ。悪いが、一晩だけ、部屋の一角を借りることはできないか」
「…いいよ」
「本当か?」
 表情を変えずガッツポーズを小さくする男。ああ、また、胸が痛い。頬が熱くなった。
「これ、着ろ」
 コートを脱いで肩に被せる。寒さで赤く染まった顔が不思議そうにこちらを向いた。
「いいのか?お前の肌が、ちくちくしないか」
「…こういうときは、ありがとうって言うんだよ」
照れ隠しにそっぽを向くと、男は少し考えて、ありがとう、と呟いた。
「おう」
「…ひとつ、頼みがあるんだが」
「…何だよ」
「何でもいいから、私に名前をつけてくれないか?」
「はあ!?」
「なあ、頼む」
 急なお願いに、裕行はまたたじろぐ。こいつと一緒にいると、戸惑うことばかりで、気が気でならない。
「つけてくれって…いいのかよあんた、親からもらった名前を」
「名前なんて付けてくれる人、私の世界にはいないからな」
 さらっと男が言った。その言葉は、感情を持ち合わせていなくて、さらに反応に困る。
「…よく分かんねえけど、ハルでいいや」
「はる…、冬なのにか」
「名前に季節なんぞ関係ねえだろ。いいからあんたは今日からハルだ」
「…わかった」
 つめたい夜の家路を、男二人、並んでゆっくり歩いていく。どちらからともなく、歩調を相手に合わせていた。春風のようなほの暖かい風が二人の間に漂っていた。


 翌朝の土曜日、10時ごろに目を覚ました。部屋から出てリビングに向かうと、ハルが母のエプロンをつけて台所に立っていた。
「…なにしてんの」
 寝ぼけ眼をごしごしと擦りながらそう尋ねると、ハルは振り返りおはよう、と言った。手元にあるフライパンを見ると、そこには無残に黒こげになった目玉焼きがべちゃっと貼り付いていた。
「おい…なんだよ、これ」
「何って…人間は鶏の卵を割って焼いたものを朝食に好んで食すのだろう」
「そうだけど…あのなあ…ひとんちで料理焦がすって…それはないだろ。ったく、どうすんだ、これ」
「すまない…、なにか役に立てたらと思って…私が食べよう」
「こんな得体のしれないものをか」
 味覚くらいどうにかなるだろう、と言ってそれを掴んで口に放り込もうとするハル。それを裕行は慌てて止めた。
「待て待て待て!いいから捨てろ、もう責めないから」
 ハルが心底申し訳なさそうな顔をする。胸がちくりと痛んだ。ああもう!何なんだよこの男は。俺の心臓ぶち壊したいのか。
 ハルに変わって、裕行がせっせと朝食の準備をする。長年ひとりで料理をしてきた裕行は、調理に長けていた。スクランブルエッグと食パン、味噌汁。手際よく作っていく裕行の隣で、ハルはじいっと裕行の手元を見ながらひたすらすごいな…とかおいしそうだな…とか感嘆の声を絶えずあげていた。
 食卓に並んだ朝食をハルは一口食べて、目を大きく見開いた。
「こんなの…初めて食べたぞ」
 目だけをきらきら輝かせて、ハルはどんどんと料理を口に運んで行った。
 つめたい冬の朝のアパートの一室に、朝日と美味しそうなパンの匂いが充満している。母親はこの時間には起きない。八歳の夏のあの日以来、滅多に話を交わしたことはなかった。たまに母親の顔を思い出せなくなるときだってあった。
「…裕行は、今日は何をするのか」
 ふとテーブルの向かい側で食パンを食していたハルが顔を上げて、そう尋ねてきた。
「今日?ああ、今日か…」
 居間の曇ったガラスから入ってくる朝日を感じる。アパートの庭の枯れた木の枝が風に揺られてのろのろと動いていた。
「写真、撮りに行こうかな」
「…好きなのか」
「まあ…うん」
 一瞬の間が空く。するとハルはいいよな、写真、と呟いた。
「ハルも好きなのか」
「ああ、好きだな。見た景色をそのまま、持ち帰ることができる所が」
「…意外だな、ハルが景色を見て感傷に浸るなんて」
「この世界には、ありとあらゆる美しいものが溢れているからな」
 大真面目にそう答えるハル。その姿に、思わず吹き出した。
「なんだ、汚いぞ」
 くそ面白い。ほんとに何だよこいつ…普通じゃない。
「ハル、あんた普通じゃねえよ…ぶふっ」
「普通じゃないって…普通である必要があるのか」
「え…」
 予想外の質問に、思わず顔を上げる。普通である必要なんて…そんなの。
「あるに決まってるじゃないか」
「…なぜだ?」
 さらに迫ってくるハル。
「なぜって…普通じゃない人間を、周囲は嫌な目で見るからだろう」
「…そういうもの、なのか」
 ハルはどこか納得しない様子だ。するとさらにハルは、それを誰に教えてもらったのか、とまた質問を浴びせてきた。
「…親だよ、母親。裕行、普通の男の子でいてちょうだい。周りの人たちに変な目で見られるのは嫌でしょうって母親が言ってくれたんだよ」
 そう言って前を見ると、ハルは黙ってなにか考えているようだった。
「…なんか言えよ」
 するとハルは突然ガタッと椅子から立ち上がり、居間の窓をバッと開けた。
「おい何すんだよ、さみーよ閉めろ」
 枯れた木の枝たちが驚いて、わっと後ろにのけぞった。ばたばたと一斉に飛び立っていく鳥の羽音が静かなアパートの中に響く。
「…裕行、外が綺麗だぞ」
「は?」
「…今すぐ写真を撮りに行こう。絶好の写真日和じゃないか」



 「ったく、あんたは何考えてんだよ」
 空は雲一つなく、温かい日差しが静かに降り注いで、確かに外は絶好の写真日和だった。枯れた木の梢や空をカメラに写しながら、ぶらぶらと外を歩いた。
 隣のハルは相変わらず無表情。でもどこか嬉しそうだった。
 子供たちが公園できゃっきゃと楽しそうに遊んでいた。そこを通った時、ハルはふと「…もし私が魔法を使えたとしたら、どうする」と唐突に聞いてきた。
「…なんだよ、あんたもそんなファンタジックな言葉使うのか」
 常に突然な男だが、そんな空想をするとは思いもしなかった。わかってはいたが、まさに変人そのものだ。しかしハルは、
「…ファンタジックでもなんでもない。予想もしなかったことが起こるのがこの世だろう」
といつにも増して真面目にそう言った。
「…魔法、か…そうだな…」
 真面目なハルにつられて、真面目に自分の叶えたいことを考えてみる。欲しいものならたくさんある。スニーカーだって、洋服だって欲しい。でも魔法って、そんな形のあるものを求めるものじゃないだろう。手に入れるなら、無形のもの__。
 隣にいるハルがじっと見ている。いつの間にかふたりの足は止まっていた。
「…気持ち、かな」
「え?聞こえなかった、もう一度言ってくれ」
「…あんたの…気持ち」
 あああああっ。俺は何を言っているんだ。得体のしれない男から「あんたの気持ちが欲しい」なんて言われて、引かれるに決まってるだろうが!
 しかしやはり予想のできない男。ハルは黙って間を置き、無表情で
「私に気持ちなどない」
とばっさり言い放った。
「…ちょっと、さすがに傷つくんですけど…」
「…傷つくもなにも、事実なんだからしょうがないじゃないか」
「気持ちのない人間なんかいるか」
 ハルを置いて、ずんずんと歩いていく。つめたい風が吹いてきて、ちょっと鼻がつんとして泣きそうになった。胸がきゅっと軋んだ。…ああ、風のせいじゃないかもな__。
「あっ、ちょっと待ってくれ、帰るのか」
「…うるさい、帰る」
 ちょっと走っただけで、ハルは呼吸が激しくなっていた。運動、苦手なのか…?肌とか白いし、インドア派なんだろうな…。
 ハルのこと、もっと知りたい。そんな思いが溢れ出して、到底自分では止められそうになかった。
 母さん、こんなの、普通じゃないよな。



 「ほんとに出てくのか」
 翌朝、身支度を整えるハルに、裕行は控えめにそう尋ねた。
「…当たり前だろう。世話になった」
「行くあてはあるのか」
「…さあな」
 見送りに外へ出ると、雨が降っていた。吐く息がいつもより一層白くなっている。
「…傘、本当に持っていかなくていいのか」
「いらない」
 裕行の服を身に纏っているハルの姿を見て、また胸が軋む。
「…ああそうだ」
 ハルが思い出したようにそう言った。
「…なに」
「魔法を信じるか」
 いつもの無表情。でもそこには確かに綻びがあった。信じるわけがないと答えるだろうと分かっていての質問のようだった。
 この男は最後まで何を考えてるか分からないやつだった。それに俺は何回も驚かされた。なら最後くらい、あんたを驚かせたっていいだろう。
「信じるさ」
 そう答えると、ハルは静かに目を見開いた。深くて黒い瞳が俺をじっと見つめる。そうして、覚えずふっと口許を緩めた。
「…きみのような人間も、居たって悪くはないな」
「…あんた、魔法使えたりするのか」
「きみ次第だな」
「…どういう意味だよ」
「そのまんまの意味だ。魔法があるかないかなんて関係ない。大事なのは信じるか信じないかだ。雲と同じさ」
「…ますます意味がわかんねえ」
「無形の雲はなぜか目に見える。でも最初は目に見えるものじゃない」
「ああもう!もっとわかりやすく言ってくれ」
「…困ったな」
 ふう、とハルが困ったように息をつく。するとしばらくして、
「私を抱かなかったのは、今まで会ってきた中できみだけだ」
と言った。
「…そうかよ」
「魔法を信じるって言ったのも、きみだけだ」
「それが何だよ」
 言い終わってすぐに、唇に冷たいものが触れた。目の前に整った綺麗な顔がある。それを理解するのに数秒かかった。
「あ、あんた」
「…こういうことだ」
 白い頬が、薄紅色にほんのり染まっていた。恥ずかしそうに俯いている。
胸が鼓動の速度を上げていく。
「…じゃあな」
 急いで立ち退こうとするハル。いつのまにか空は晴れあがっていた。
「まっ、待て!」
 そう言うとハルはびくん、と肩を震わせ俯きながらこちらを向いた。
「…また会えるか」
 またハルは目を見開く。そうして大きな眼でじっと裕行を見つめると、
「ああ」
と微笑んだ。



 冬はすぐに去って行った。そうして裕行は3年になった。将来はどうするかとかいろんな問題が裕行のもとに押しかけてくるようになった。
「…毎日毎日、つまんねえ…」
 桜がひらひらと舞い落ちている。満開の桜の木の下で、その薄紅色の花びらをカメラの画面いっぱいに写した。
 その色を見て、ふとハルを思い出した。今、どうしているんだろう。また名前も知らない男に抱かれているんだろうか。
 通学路の途中で、一眼レフを手に立ち止る裕行の横を、生徒たちが怪訝そうに眺めながら通り過ぎていく。
「どうした」
 生徒たちの喧騒の中に、ふと水のような透き通った声が確かに聞こえた。
 ハル…!あれは確かにハルの声だった。
 慌てて、周囲を見渡す。どこにいるんだ。
「ハル…!」
 裕行の後ろ、10メートルほど先に、裕行の服を身に纏った彼がいた。
「久しぶりだな、裕行」
 そう言って微笑んだ。
 
 
 冬は過ぎ、おおらかに花を咲かす春が、人々のもとに訪れようとしていた。

グッジョブ
コメントを書く

コメントを書き込むにはログインが必要です。