年上受/リーマン
「違う、違う、みんな夢だ」 あえぐように、吐き出した言葉は小さく消えた。「そう、夢です。夢だけれど、現実です。俺、言いましたよね、魔法使いだって。好きにさせるって」
彼から普段は密やかに香り立つフレグランスが、今は部屋中に濃厚に満ちていた。
抱き合うと体温が上がるせいなんだろうか?と少しずつ静まって行く二つの心音を聞きながら、並木笙一はぼんやり考えていた。
「そういちさん」
寄り添って寝ていた彼の、耳に心地よく響く声で呼ばれた。
「大丈夫?」
長い指が汗に濡れて額に張り付いていた前髪を掻き上げる。笙一は閉じていた目を開けた。
「んー。俺、お前のこの匂い好き」
間近にあった気遣わしげな彼の表情が、ふわりと解けた。
「そういちさんに好きって言ってもらえて嬉しいです。俺も今まで使った中で、一番好きな香りだから」
「ちょっと変わった匂いだよな。森林浴してる気分になる」
「いいですね、森林浴って」
「俺、香水って付けたことないから分からないんだけど、どこに付けてんの?女の子だと耳の後ろとか、手首に付けてるじゃん。お前は違うよな 」
首の辺りでもないのは、少し前にすごく近くにいたから確認済みだ。
わざと出した訳ではないけれど、女の子のフレーズが気に入らなかったらしい。微妙に口角が下がった彼にちょっと嬉しかったりする。
「俺は足首に付けてます」
「へー、足なんだ。どれどれ」
起き上がって彼の足の方へ顏を近づけかけたところで、不意に背後から腰の辺りを掴まれて、笙一はギョッとした。
「おいっ!」
足首の香りを確認出来ないまま、うつ伏せにベッドに押さえ込まれてしまった。
「もう一回、しましょう」
「ちょ、明日も平日だしっ」
返答の代わりに、うなじを強く吸われた。
「バカっ、見える所はダメだって」
「ネクタイを緩めなきゃ、見えませんよ」
彼が囁いた耳に舌を差し入れて来て、笙一はビクリと体を震わせた。
スマホのアラームを手探りで止める。更にエアコンのリモコンを探り当て、暖房のボタンを押した笙一は、モゾモゾと頭まで布団の中に潜り込んだ。
普段から寝起きの悪い身では、ぬくぬく暖かい場所から体が一回り小さく圧縮されるような心地になる冬の寒さに、身を晒す気になかなかなれない。
社会人になったらスパッと起きられるようになるかと思ったのに。社会人になってそこそこ経った今でも、学生時代と全く変わらない。
二度寝してしまわないように目は閉じない。拡散していた意識が少しずつ形を成して来るに連れて、昨夜の夢が頭の中で再生され始めた。
(も、やだぁ、…のバカぁ!)
うおー!どこのかわいい女の子のつもりじゃぁぁ!!
ウダウダしていたはずの笙一は、カッと目を見開いて布団をはね除け勢い良く起き上がった。
夢の中だとて、己の吐いた言葉は身の置き所のない程いたたまれない。
男と、なんてどうかしている。笙一はグッと毛布の端を握りしめた。エッチな夢の相手は女の子だろう?Sなのにここの所必ず相手は男なのだ。
いつも同じ男が愛しげに”そういちさん”と名前を呼ぶ。自分も確かに男の名前を呼び返しているのに、目覚めると覚えていないのが常だった。色々な表情を間近で見たはずの男の顏も、手で掬った水が指の間から零れて行くように、輪郭しか残っていない。
それなのに不思議と男が身に纏っている香りだけ、鮮烈に覚えていた。
深い森の木の間を吹き抜ける、野の花の気配を乗せた風のような香り。もし現実に存在していたら、すぐに分かると思えるくらい記憶に焼き付いていた。
香り付きの夢を見る理由には、何となく心当たりがある。
ドアの向こう、キッチンのコップに差してある小さな花束達。1つ1つは慎ましやかでも、部屋中はふんわり優しい香りでいっぱいだ。それに感化されているのだ。
欲しいなんて言っていないのに、アイツがくれるから悪い。
男とどうこうな夢を見るきっかけだって、アイツのせい、な気がする。あんなこと、言うから。
それと。のんびり構えていたら、彼女いない期間がそろそろ半年になろうとしていた。無意識の欲求不満が、変な夢を見させているんじゃないか?
何となく長続きしなそうで、今まで合コンで彼女は探さないで来たが、ここは方針を曲げるしかない。
善は急げと飲み会大好きな同期の友人に、直近の合コンのメンバーに加えてもらう段取りは付けた。
もうすぐこんな夢ともおさらばだ!
ファイティングポーズで気合いを入れていたら、スマホから少々大きめの音量でボン・ジョビのイッツ・マイ・ライフが流れ出した。
起床リミット!
笙一は慌ててベッドから飛び降りた。
「だからー、女の子はみんな社外の子だったろ?」
主催者である同期の友人は、まぁまぁ、と笙一の肩を叩いた。
合コン会場の居酒屋の個室の隅っこで、笙一は声を潜めて幹事である同期の友人に詰め寄っていた。
「そんな怖い顔すんなって!アイツの参加はイレギュラーだもん。俺だって、いい感じになりかけてた里沙ちゃんアイツに取られちゃって、しょんぼりなんだから。てかほとんどの女の子、アイツに持って行かれちゃうなんて想定外だろ。びっくりするようなイケメンでもないから、油断したわ。総務のヤツから聞いた話、本当だったんだな」
合コンのメンバーは、同期の友人の大学時代の友人と、その知り合いと聞いていた。
万障繰り合わせて定時で仕事を上がった時、アイツ…寺崎みちるはまだ外出先から戻っていなかった。
男性メンバーが一人、急な仕事の用事で遅れるとかで、全員揃わないまま乾杯でスタートした。
「すみません、遅くなってしまって」
だから個室のふすまを開けて現れた後輩に、驚愕のあまりあんぐりと開いた口が、しばらく閉まらなかった。
「あれ、並木さんじゃないですか」
果たしてそいつ寺崎は、笙一と同じ部署で後輩だった。
遅れて合流するはずの友人がどうしても仕事を抜けられなくて、男女の頭数が合わなくなるからと急に頼まれちゃったんです、うんぬん。
よりによって寺崎は、話が弾んでいた女子と笙一との間に入って座った。その女子晴香が寺崎の為に喜んで席をずれてあげていたのも、忌々しい。
「お仕事、お疲れ様でーす」
とすかさず晴香からビールのお酌が入り寺崎が、
「ありがとう」
とニッコリした時点で、笙一の存在は消し飛んだ。僻じゃなく、事実ありのまま。つい最近、体験して身に染みて知っている。寺崎は同期の友人が言うように、誰もが認めるイケメンではないけれど、何と言うかとにかく魅力的(同期女子談)なヤツなのだ。特に笑顔は最強で。
ニッコリを見た晴香の向かいの子も、メニューを差し出しつつ身を乗り出して来た。
「私、綾乃~。名前教えて」
寺崎の名前はちょっと変わっている。
"寺崎みちる"と印刷された名刺を受け取った仕事相手は、十中八九"芸名みたいですねぇ"と返して来る。
案の定、フルネームを聞いた女子達は一気に湧いた。
「えー、ホントに?」
「やだー、かわいい。みちる、だって」
でもって、女の子たちは一気に"寺崎くん"ではなく"みちるくん"と呼び始めるのだ。
出遅れなんて、ハンデじゃないのだ。
"みちる"の次は、背が高いのは英国人のお祖父さんに似たから。全然外の血が入って入るようには見えなくてもクオーターだとか、ちょっと凡人に非ずな話題が控えている。
この道は、いつか来た道。
先月の、かわいい子が多いと評判の総務部と営業部との合同忘年会で、散々見せられた光景だから、知っている。
寺崎の顔立ちは、確かに日本人そのものだ。純日本人とは決定的に違うのが腰の位置の高さ。つまり足が長い。背が高いだけでなく胸板が厚いから、スーツ姿がそこらへんのヤツと明らかに違って、しっくり馴染んでカッコいいのだ。
新人として入って来たときから、寺崎だけはスーツに着られていなかった。本人は、着慣れているからです、と言っていたけれど、身近に接して分かった事だ。
笙一も背だけはそこそこある。違いは、母親曰く、いくらいいもの着せてもアンタって案山子に洋服着せてるみたいなのよねぇ、と。
寺崎は肩幅だって、広い。
上着を脱ぐと、よーく分かるんだから。
笙一は楽しそうな女の子達を横目に、心の中でちょっとずれたことを呟いた。
キラキラした目をした、新入社員時代の寺崎は可愛かった。
入社してから三年目にして、初めて研修の新人の面倒を任された。笙一の勤めている会社はの研修は、各部署を短期ずつ体験する方式だから、期間限定の後輩だ。
寺崎は教えた事を覚えるのが早いだけでなく、対人の間合いの取り方が絶妙だった。堅苦しからず、馴れ馴れしく感じる程砕けすぎず。言葉にするとただそれだけなのに、これが意外と難しいのだ。先輩社員としてしっかりしなくては、と初めは緊張していた笙一も、いつしか仕事の合間の雑談と同じ位、一緒に仕事をするのを楽しんでいた。
部署内の評判もよく、寺崎くんが配属になるといいね、と言う声があちこちから聞かれ、笙一もそうなったらいいな、と思っていた。
残念ながら叶わなかったけれど。
あれから数年、予期せず寺崎は笙一の所属部署に戻って来た。家庭の事情で急遽退職することになった先輩社員の後任として、他支店から転属して来たのだ。その寺崎の最初の仕事は先輩の引き継ぎ業務ではなく、ミスをした笙一のサポートだった。
笙一が寺崎の指導係だったことを覚えている面々は、並木がサポートされる側になるなんてなー、とゲラゲラと声を揃えて笑った。
「来ていきなり嫌なこと手伝わせちゃって、ごめんな」
休憩スペースの自販機の前で、コーヒーを手渡しながら謝る笙一に寺崎は、
「いいんです。ちょうど先方の都合が悪くなって外出が中止になったので。並木さんの手伝いが出来てよかったです。これだって、立派な仕事じゃないですか」
まったく嫌みを感じさせなかった。
期待の新人から、期待に違わず仕事のデキる若手社員に成長した寺崎は、すぐに部署に馴染んだ。
昨年末の営業部と総務部の合同忘年会の時のこと。お開きになった後、金曜日の夜ということもあって、同僚達は二次会がどうのと店の外でいくつかのグループに別れて、スマホ片手にワイワイやっている。
「付き合い悪くてごめん、俺、明日用があるから今日は帰るな」
輪の端にいた同期にこっそり告げて、お疲れ様と、笙一は駅に向かった。
一人になって、思い返す。寺崎は女子社員たちに大人気だったっけ。両隣席のポジション争いから始まり、お酌と質問攻めだった。
それでも他の男性社員達から特に大きな不満が出なかったのは、女の子に囲まれていながらも、幹事の手の回らない分の細々した部分を自然に引き受けていたからだ。
少し歩いた辺りで、
「並木さーん、一緒に帰りましょう」
寺崎が走って追いかけて来た。
てっきり二次会にも参加するものと思っていた笙一は驚いた。
「二次会、誘われたんじゃなかったのか?」
追い付いて、横に並んだ寺崎は少し息を切らしながら、
「並木さんが参加しないなら、俺も帰ろうかと」
なぜか嬉しげに笑った。
女の子、よりどりみどりだったくせに、意味不明だ。後輩のくせに何なのお前!?
「俺、お前のこと嫌い」
ぽろりと言葉が口から転がり出ていた。
「だから一緒に帰る気ないから」
年上なのに大人げない!と頭の片隅で非難の声がする。でも言ってしまった物は仕方ないじゃないか。後ろめたさに顏を背けて、さっさと立ち去ろうとした笙一の腕を、
「待って下さい」
寺崎が掴んだ。
声の調子よりも、掴まれた腕に感じた力の強さに、あ、怒らせた、と胃の辺りがヒヤリとなった。
「でも俺は、並木さんが好きなんです」
詰られる、と覚悟していた笙一は目を瞬いて寺崎を振り返った。
ネガティブな言葉をぶつけられたのに、目に映った表情は穏やかだった。
寺崎は笙一の腕を放すと指で、宙に何やら文字を描くような仕草をした。パッと、その手の中に小さな花束が現れた。
「手品」
さっきまで忘年会の席で、女の子を相手に花を出して見せていたから知っている。
色とりどりの花に女の子達は大喜びで、小さな花束を宙に投げ上げると花びらに姿を変えて、テーブルに落ちる前に淡く光って消えた。
「はい。これは並木さんに」
差し出され、とっさに受け取ってしまってから、笙一はハッとする。
「花って…俺は女の子じゃない」
「俺が花を出すの、ずっと見てましたよね。だから並木さんは、花が好きなんだと思って」
ずっと見ていたか?見ていた、かも知れない。花じゃなく、女の子を侍らせてる寺崎を忌々しく。
「これね、手品じゃないんです」
「は?」
内緒話を子供がするように、寺崎は身を屈めて笙一の耳元に唇を寄せて囁く。
「俺、実は魔法使いなんです」
「うひゃ」
言葉と共に吐き出された息がくすぐったくて、笙一は耳を押さえて飛び退いた。
なんてこと!変な声を出しちゃったじゃんか!
「寺崎、お前飲んでいない振りで、結構酔ってるな!?」
「酔ってません。本当に手品じゃないんです。英国人の俺の祖父さんが魔法使いの家系で、娘の母は普通の人だったのに、その子供の俺は素質があるからって、受け継いだんです」
花だけじゃなく、こんなものも出せますよ。
再び指が文字を書くと、寺崎の手には水のペットボトルが握られていた。
「並木さんこそ、結構飲んでましたから、水分取ってください」
魔法使いって、平成のこの時代にそんなファンタジー与太話を本気にするとでも。
祖父が英国人とか、いかにもな設定があるもんだから、手品よりも魔法っていう方が、女の子ウケするのかも知れない。
なんたって英国は、ハリーポッターの原産地だし。
差し出されたペットボトルを受け取り、折角なので半分程水を飲んだ。
「ありがとな」
「いいえ」
「寺崎、本当に魔法使いなら、当然箒で空も飛べるんだろ?ぜひとも俺も乗せて飛んでくれよ」
「飛べますけども…飲酒運転は禁止です。しかもこんな冬の夜は、軽くコートを羽織っただけじゃ寒くてたまらないですよ。もっとちゃんと防寒対策してからでないと」
からかい半分のつもりが、かなり真顔で返された。
「オープンカーの比じゃなく寒いです。そうですねー、春になってもっと暖かくなったら、でどうですか?俺2人乗りも上手いんです」
笙一は突っ込む気力もなくなった。
「ハイハイ、春になったらな。忘れんなよ」
これ以上空想の世界に付き合っていたら、酔いが回って来そうだし帰りますか。
「じゃな」
「並木さん、全然本気にしていないみたいですね。俺のこと嫌いって言っていましたけど、必ず好きにさせますから。これだけは本気にしてくださいね」
笙一は絶句した。好きにさせる?
「じゃあまた来週に。おやすみなさい」
会釈をして、寺崎は背中を向けた。
思考を停止したまま、笙一は大通りの向こうに見える駅の入り口に寺崎が消えるまで、呆然と見送ってしまった。
同じ部署で働いている間柄だったら、嫌われているよりも、好かれている方が仕事もやりやすいに決まっている。
"好きにさせる"
とはそういう意味なのだ。
その日から時々、寺崎は笙一に花束をくれるようになった。
女の子じゃあるまいし。物で釣ろうったって無駄だからな!と思いながらもつい受け取ってしまう。忘年会の帰りに貰った花を一人暮らしの部屋に生けたら、疲れて帰った時の部屋の空気が優しく感じられたからだ。香りのせいなのか、雑然とした中に明るい色彩が加わったせいなのかは分からないけれど。
そして夢を見る。
どうやったって男の自分が男と…ありえないのに。夢の中の笙一は、ひどく幸せだと感じている気持ちが、否定出来ないでいる。
「ごめんな、八つ当たりした。幹事してくれたのにモンク言って」
笙一はトイレに行って席に戻る途中に、同期の友人にそっと謝った。
「いいって。ほかの奴らもこれじゃ悔しいだろうから、近々リベンジコンパするぜ」
「おお、前向き」
「へこたれてたら可愛い女の子とは知り合えないからな」
拳と拳を軽くぶつけ合う。
モテ男の隣に戻ると、
「何を楽しそうに話してたんですか?」
座るなり聞いて来た。
女の子とキャッキャウフフで楽しそうなのは、寺崎の方じゃん。
「同期の内緒話」
ちょっと気を悪くしたらしい気配を察して、笙一は内心でウヒヒと笑った。
いつも人当たりのいい、面と向かって"嫌い"って言われても揺れなかった相手の気持ちを動かせたのは、ブラックと言われようとも変な小気味良さがあった。
あれ?どこかで、同じこと思ったような?
酒の入った頭ではさっぱり思い出せず、笙一はすぐに諦めた。
今日は飲み放題なんだし、切り替えて飲むぞー!
「あれぇ、お前、女の子をお持ち帰りじゃなかったのか?」
と言ったのは覚えている。コンパが開かれた店から、駅に向かって歩いている途中だったと思う。
その後、電車で運良く座れた。睡魔に身を任せ気持ち良く眠っていたのを、しつこく揺り起こされて、腹が立つからその手をピシャっと叩いてやったのも、何となく覚えている。
スマホの目覚ましではなく、自然に目が覚めた。
笙一は、うっすらと目を開けた。白が基調のカーテンが光を通して、部屋の中は薄明るい。
珍しく、昨日はあの夢を見なかった。合コン効果?
いつものように布団の中に潜り込もうとして、笙一は、違和感に襲われた。
家の布団の色って水色だったよな。これ、どう見ても茶色だ。
変に思いながらも、まだボンヤリしていた笙一も、玄関のドアが開いた音を耳にして、体に緊張が走った。
何となくそぉっと起き上がって見回した部屋の中は、どうやっても自分のアパートではなかった。白い壁は同じでも、ベッドと反対側の壁際にはローチェスト、隣にテレビラックがあり、液晶テレビとDVDデッキが乗っている。
フローリングの床に敷かれた、橙色のラグの上にはノートパソコンが置かれた白のミニテーブル。
カーテンは白地に鳥と木の模様だ。
ここ、どこだ?
昨夜の記憶の検証をする間もなく、廊下との境にあるドアの磨りガラスに人影が映った。
ドアを開けて入って来たのは寺崎だった。
笙一は知らずの内に止めていた息を、ふぅ、っと吐き出した。
「並木さん、起きたんですね」
何故に、多分仕方なく連れて帰ったダメダメな先輩に向かって、爽やかに微笑むのか。
「寺崎、ごめん。俺ちゃんと帰れるつもりで迷惑かけて。泊めてくれて、ありがとな。俺…やらかしたりしなかった、よな?」
飲むとたまに酷く眠くなるだけで、酒癖は悪くないはず。でも心配になって、笙一は恐る恐る尋ねた。
「んー、並木さん、電車降りた後吐いちゃって。連れて帰って、着替えさせるのも大変でしたよ」
急に深刻な顔になった寺崎に、笙一はひーっと限界まで息を吸い込んだ。
「俺…そんなにとんでもなく迷惑かけたのか。本当に、悪い、ごめん、許して!!」
ベッドの上に正座をして、米つきバッタの如く何度も頭を下げる笙一に、
「なーんて、嘘です。並木さん、電車の中で寝ちゃって、幾ら起こしても起きなかっただけです。しょうがないから、おんぶして連れて帰って来ましたよ。並木さんて背がある割に、軽いですね」
いくら軽くたって、成人男性一人分の重さなら十分大荷物だよ!
布団の上に突っ伏した笙一の髪を、寺崎がサラリとなでた。
「顏、上げて下さい。俺としては、いつもと違う並木さんが見られて嬉しかったから、迷惑なんて思ってないです」
密やかに、笑う気配がした。
嬉しいって、お前のこと嫌いって言った先輩の弱みを握ったからか?
情けない気持ちで体を起こした笙一に、寺崎は持っていたコンビニ袋を差し出した。
「これ、買って来ました。朝食は出来ているけど、並木さん、先に風呂は入りますよね?」
「うん。貸してもらえると嬉しいけど…」
何、これ?
目で問えば、
「パンツです」
後輩に、パンツまで買って来させちゃったよ!
カーッと赤くなった笙一の髪を、また、寺崎はなでた。
なでなで、されてしまった。
先輩じゃなく格下、…いっそ子供扱い?
でも、ちっとも嫌じゃなかったのがどうかしてる。
「並木さん、もう服脱いじゃいました?バスタオル、渡すのを忘れたんで。脱いじゃってたら、入っている間に置いときますけど」
同性同士なんだし、服脱いでるとか気にしなくてもいいんじゃない?
「まだだから、貰う」
「すみません、うっかりして」
寺崎から受け取ったバスタオルを置く場所を探して、見回した脱衣所の、洗面台の脇の小さな棚。シェービングフォームやらワックスやらとは別の段に置いてある、ちょっと変わったデザインのボトルが目についた。
「なあ、寺崎。この瓶何?もしかして、お肌の手入れをする何とか、みたいなの?」
「何とか、って。メンズコスメってやつですか?」
笙一の言い回しがおかしかったらしく、寺崎は声を出して笑った。
「お前、意識高そうだからさ。使ってんのかな、って」
「意識高いって…。手入れをしていなくはないですけどね。これは違います。これ、香水です」
「えーっ、香水って…。寺崎、そんなの付けてたっけ」
笙一はマジマジと、寺崎の全身を見渡した。今まで接して来た記憶を辿ってみたけれど、寺崎から特別な香りがしたことはなかった、と思う。
「会社に行く日は付けてませんよ。香りって、結構好き嫌いがあるし、営業ですしね。休みの日だけ、付けてるんです」
「あ、そかそか。休みの日だけね。よかった、一瞬本気で俺の鼻がおかしくなったのかも、って心配しちゃったよ」
「ちょっと付けてみますか?」
不意に思い出す。ドクッと心臓が、やけに大きく鳴った。夢の中のアイツも、付けていた。あんなの、所詮、夢だ。いくら香りを感じても、夢は夢だ。
「気に入らなかったら、シャワー浴びれば落ちますし」
「うん、じゃ、ちょっとだけ」
寺崎はボトルを手に取ると、
「ちょっとスウェットの袖まくって、手首出してください」
「えっ、香水って足首に付けるんじゃなかったの?」
「へぇ。足首に付けるって、よく知ってますね。並木さんも付けてるんですか?」
夢で得た知識で、現実は正解か分からないのに。うっかり口に出してしまった。
カーッと顏に血が昇る。
でもこれ以上余計な事言わなければ、きっと知ったかで済む。
「俺は寺崎みたいにおしゃれじゃないから、付けてないけど」
「試し付けは、手首でいいんです。売り場で足は出せないですしね」
笙一は赤い顏を押さえているのとは反対の手を、差し出す。
袖をたくしあげる寺崎の掌が、手首の上を滑る。髪をなでられたときには感じなかったその熱さに、体が震えた。
…みたいだ。
シュッと吹き付けられた水分が、ヒヤリとするのと同時に、ふわりと立ち上る香り。瞬く間に、狭い空間いっぱいに広がった。
え、何?この香り…笙一は香りを胸に吸い込んだ。知っている、これ。
ドキドキと心臓が、さっきよりももっと大きな音を立てて、走り出す。
もう一呼吸したとき、記憶が鮮明に蘇った。
体中を撫でて行く、熱い掌。追いかけるように、あちこちに口づけを落として行く、熱い唇。もどかしくて、みちる、みちる、と呼べば目線を合わせて微笑んでくれた。心地よい体の重みと、抱きしめた広い背中の、確かな感触。
みちる、好き。俺も、笙一さん、好きです。
何度も呼んだ名前を、見つめ合った顏を、どうして忘れていたのか。
…でも、あれは全部夢だ。
クラクラする頭に、傾いだ笙一の体を、寺崎の腕が抱き止めた。
「笙一さん、ちゃんと思い出してくれましたか?」
「違う、違う、みんな夢だ」
あえぐように、吐き出した言葉は小さく消えた。
「そう、夢です。夢だけれど、現実です。俺、言いましたよね、魔法使いだって。好きにさせるって」
「好きにさせるって言ったくせに、お前何も行動起こして来なかったじゃないか」
ぷい、と顏を背けても抵抗しない笙一を、寺崎は体が完全に密着する距離に抱き寄せた。
「花をプレゼントしたし、仕事も頑張りました。笙一さん、仕事ができないヤツはダメだって、言ったでしょう?」
「俺が新人のとき、仕事を教えてくれた笙一さんはとてもかっこ良かったです」
「教えた、ってたってたったの二週間じゃん。寺崎は何も分からない新人だったから、たまたまよく見えただけだって。こないだ俺、ミスしてお前に手伝って貰ったばかりじゃないか」
「入社して、一番最初に配属された部署が、笙一さんのいた営業部だったから、刷り込みかも知れないですね。でも正式に配属先が決まって、それが笙一さんの所じゃなかったから、ガッカリしたし、笙一さんの課で退職者が出るから誰かを転属って聞いて、俺、ダメ元で希望出したんです。なのに嫌いって言われてしまって、本当は凄いショックだったんですよ」
「平気そうだったじゃん」
「平気じゃなかったから、ズルしたんです。夢の中で笙一さん、俺のこと好きって何度も言ってくれましたよね?」
「覚えてないし」
寺崎は、背けていた笙一の顎を捉えて正面を向かせた。
「キス以上の事だって、いっぱいしたのに。思い出して下さい」
もしかしたら、これも魔法にかけられているのかも知れない。
でなければ、こんな…
笙一は寺崎の手を外すと、伸び上がって唇を合わせた。
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