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第2回 BL小説アワード

妙薬術師九尾の恋

時代物 舞台=江戸の町/玉茎(マラ)・しゃぶる・尻(ケツ)などの単語出てきます。エロ描写は、ほどほどです。

 「兄さん、お代はいいよ。その代り……彼は誰どきまで抱とくれ」 九尾が自在薬を塗り付けた人差し指で男の唇をなでながらこう囁くと、誘われた男たちは、誰一人として断れない。

十 玖馬
グッジョブ

 天高く、大鷹が一居飛んでいる。
 小刻みに羽ばたき風をつかむと、滑るように空を切って飛んでいく。
 大鷹は、大きく左に旋回し、山の中腹あたりの杉林に吸い込まれる。今まで広げていた翼をグッとすぼめ、黄色い脚を前に突き出し、杉木立の間を器用にすり抜けていく。そして、伸ばした太い脚の鋭い爪を大きく開き、地面をつかんだ。辺りをうかがい、強い日が差すその場所で翼を広げると、その下に、大きな濃い影ができた。大鷹がその影を包み込むように、バサッと羽ばたくと、そこに一人の少年があらわれた。
 長く艶やかな黒髪を垂らし、眩しそうに高い杉の先に見える、小さな空をみつめている。木漏れ日が射すその少年の額、鼻梁、唇に続く横顔の線は滑らかで、反射した光が少年の白い肌を際立たせている。少年は、満足したように腕を天に突きあげ、大きく伸びをした。そして、杉林の参道を行き、古寺の前で姿を消した。


 この古寺の一室に、稚児と旅支度をした若者がいる。
 稚児の名前は、九尾(ここのお)。九つの尻尾を持つ狐からとって付けられた。九尾は、この寺で修験者沈月ともに暮らしている。若者は、旅の途中に大怪我をして以来、この寺に半年ほど逗留していた。
 若者の肩までの背丈しかない九尾が、名残惜しそうに若者を見つめている。その視線に求められ、若者が九尾を抱き寄せた。
 抱きすくめられた九尾が、縮めた両手で若者の着物をギュッとつかむと、若者は背を丸め、九尾の首筋に顔をうずめた。愛しい香りに包まれた九尾。一番恐れているのは、若者の手が解かれること。離れてしまえば、もう二度と逢えない。
 九尾が聞き取れないような声で何か言う。若者が、首筋から顔を離し、九尾の瞳を覗くと、九尾は目も合わせずに若者の唇に吸いつく。小さな口を大きく開け、柔らかな唇を押しつけてくる。そして、寂しさを紛らわすように舌を絡めてきた。
 ――恥ずかしがり屋の九尾がこんなにも狂おしく求めてくる……若者もたまらず九尾の舌を千切れるくらいに強く吸ってしまう。「あっぁぁ」痛さのあまり九尾が唇を離す。
 「すまない。九尾……」若者は、九尾の濡れた真っ赤な唇に指をあてる。
 「……喜市様。この暑さの中では、お身体が持ちませぬ。旅立ちの前に、この薬を飲むと、滋養強壮の効がございます」
 若者は、最後まで細やかな気遣いを見せる九尾を愛おしく思いながら薬を口に含み、用意された水で飲みこんだ。
 「それでは、沈月様にご挨拶を……して……」最後までしゃべり終わらぬうちに、若者は床に崩れ落ちる。仰向けになり、目を見開き、両手を苦しさにひきつらせ、すぐに動かなくなってしまった。
 「違う……こんなはずじゃ。少し、多めの自在薬でこんな事になりはしない」
 人の心を操る自在薬。この薬で喜市の心を自分の思うようにしてしまえば、一人残され寂しい思いをせずにすむ。心を操り、引きとめる。ただそれだけのこと。思わぬ結末に九尾は、動転していた。
 廊下を歩く足音。近づいてくる。障子に映る大きな影が止まり、スッと開けられた障子の向こうに沈月が立っていた。


 床に倒れた若者の脇にしゃがみ込み、泡を吹いた口元を見て沈月は聞く。
 「九尾……。お前、何をした」
 九尾は、薬を飲ませたわけを震える声で話しだす。その目は、世話しなく動き、額には汗をにじませている。腰を抜かして辛うじて座っている九尾の姿には、未熟ゆえの愚かさが表れていた。
 「死んでいるのですか」
 「お前が殺したのだ。欲にまかせて薬を使ったばかりに、死ぬ理由のない人間を殺したのだ」
 「あぁ……ただ、私は、喜市様を行かせたくなかっただけ。離したくなかったのです」
 狂ったように床を殴りだす九尾。髪を振り乱しながら、床を這いずり回る。九尾の満たされない心が、寂しさを怒りに変えてしまっていた。
 沈月が一喝する。
 「それが、惚れるということぞ。九尾、この始末、どうつける」
 無言の部屋に、蝉の声がしみわたる。わずかに吹く風が、うつむいた九尾の頬をなでた。
 顔を上げる九尾。怒りが消えたその瞳は、一筋の涙を流した。


 それから一年が過ぎた秋、修行のため出羽に向かうことを決めた沈月が言った。
 「お前は、人の間で暮らすがよい。たくさんの人々と生きていくことで、お前の心が満たされ変わるであろう」
 九尾は、五つの頃に親をなくし、その後は沈月と二人だけで生きてきた。沈月の身の回りの世話をする代わりに、さまざまな教養を沈月から習うことができた。豊かな出会いだったと九尾は沈月に深く感謝している。ただ、出会った人が、あまりにも少なすぎた。九尾は、沈月の言葉どおり江戸に出ることを決めた。
 しかし、その前にどうしても聞いておきたいことがある。
 「沈月様、私はまた人を好きになってしまうのでしょうか。もし、好きになったときは、また殺してしまうのでしょうか」
 「お前、覚えておるか。お前が薬作りを覚え始めた頃のことだ。惚れた相手に自在薬を使わぬ私にこう言うたではないか。使わぬのは、私の意地なのかと。惚れた意地なのかと。お前も、惚れた相手には、意地を張れ。その意地を通せ」
 九尾は、「惚れた意地……」と心に刻む。
 「もう、お前の意地は、人を殺さぬ。己を信じ、喜市の死を背負うて生きよ」

 九尾、十四歳の秋。江戸に向かう。


 あれから十年の歳月が流れた。九尾は、江戸、深川の裏長屋で薬師を生業としている。
 あと十日もすれば暦は師走。冷たい空気に慌しさを感じる明け六つ半。町木戸はすでに開き、江戸の朝は、もう始まっている。表通りにあるほとんどの店は、朝の準備を終え、お客が来るのを待っている。
 ある店の軒先に、柱にもたれ行き交う人々を眺めている男がいる。長い黒髪をふわりと束ね、細い縦縞の着物からのぞく胸元は、白く艶めかしい。腕を組み、はすに構えたその男に、俸手振りが声をかけた。
 「九尾。こんなとこで朝からなにやってんだ?」
 九尾に声をかけたのは、弥助。魚を売るのが商売で、九尾の隣に住んでいる。弥助の朝は早く、暗いうちから魚河岸へ行く。喧嘩をしているように騒がしい人々に紛れながら、その日の商売もんにする活きのいい魚を買い付け桶に詰め込むと、天秤棒に引っ掛けて、江戸の町を売り歩く。明るく、気風のいい弥助が通ると、行く先々の長屋で女たちが声をかける。「今日は、なにがあるんだい?」「おまけしとくれ」「今晩、暇かい?」


 「いい男だろぉ。たまんねぇなぁ」
 そうつぶやく九尾の視線の先には、仕事に行く途中の若い大工の姿があった。
 「藤吉じゃねぇか。お前、あいつを見るためにいたのか?」
 近頃、この先にある高崎屋が、奥の改築をしている。藤吉は、毎日そこに出向いていた。
 若い職人だが、棟梁の信頼も厚い。年季奉公はとうに明け、身体つきも一人前の大工だ。腕のいい職人は、大工に限らずみんないい身体をしている。仕事が身体を作り、その身体が、よりいい仕事をする。そうやって、十年も奉公すれば身体も腕も一人前の職人となる。
 藤吉の身体は、特に目を惹く。腕の肉付きといい、首から背中の張りのある線、力強く丸みを帯びた肩、締まった腰から伸びる両足を細身の股引で包んでいる。いなせな大工そのものだ。


 九尾が藤吉に見惚れていると、素早い足音をたて、白い息を吐きながら仙太が近づいてきた。ストンと九尾の腿のあたりに両手で抱きつくと、見上げてこう尋ねる。
 「ココさんは、マホウ使いなのかい?」ココさんとは、九尾のことで、長屋の子供らは、九尾のことをそう呼ぶ。
 「マホウ使いだぁ?」
 「大家さんが教えてくれたんだ。ココさんは、摩訶不思議な法力を使うマホウ使いなんだって」
 弥助が口をはさむ。
 「こいつは、アレだぁ、摩訶不思議な薬でマラを操る、マラ使いだなぁ。物知り大家に言っとけぇ」
 仙太が、不思議そうな顔で弥助に聞く。
 「マラってなんだい?」
 「そうだな、今、ちょうどおまえさんの顔の正面にあるものだな」
 仙太は、九尾の股間をまじまじと見つめる。すると、突然、九尾の股間に頭突きをくらわした。
 痛さのあまり、吐きだす息を急に吸い込んで咽かえる九尾を尻目に、仙太は「マラは、おちんこぉ」と叫びながら駆け出していった。
 「あいつ、寺子屋の手習いの時間に『ここまら』なんて書きゃしねだろうな? おうっ! それより朝飯だ。マラ使い、帰るぞ」


 弥助のところで朝飯をすませた九尾は、生薬を薬研で粉にし、薬を準備している。
 普通の薬もあるが、ここに来る客の目当ては、長命丸、帆柱丸。あと、九尾自身も世話になっている通和散といった類いの薬だ。時には、客の注文に応じて作ることもある。
 九尾の薬には、印を結び、呪を唱えた紙を燃やして作った灰が混ぜてあり、これが妙薬の素になる。巷で売っている秘薬・媚薬のほとんどは、ただの気休めで、大した効果はみられない。それに比べると、九尾の薬は各段効力が違う。両国の薬研堀にある、あの四ツ目屋の主人が、こっそりと買いに来るほどに。
 商売の準備を終えると、九尾はつぶやいた。
 「それにしても、弥助と食べる飯は、美味いねぇ」


 「おう弥助。これを魚と換えてくんねぇか!」威勢のいい青物の棒手振りが、すれ違いざまに声をかけてくる。
 「持ってきな!」弥助は、自分の桶から鯵を取って渡すと、差し出された青菜と新香を受け取る。
 こうやって手に入れた食材で、弥助は、朝飯を手際よく作る。今朝は、白飯に青菜の味噌汁、焼き鯵に新香。特に何を話すでもなく食べる二人。食べ終わると弥助は「後は、頼んだ」と言い、ゴロンと横になって寝てしまう。あと片付けが九尾の役目で、食事代のようなものだ。片付けがすむと九尾は、いつものように煙管に刻み煙草を詰め、煙草盆をたぐりよせた。
 弥助の寝姿を眺めながら、雁首を炭火に近づけ火をつけると、壁にもたれてゆっくりと煙草を吸う。
 折り曲げた右腕に頭をのせ目を閉じている弥助。身体の側面に乗っかっている左手がポトリと手前の畳に落ちる。煙管をくわえた九尾は、それを見て楽しそうに静かに微笑む。さっきまで、江戸中を走り回っていた弥助。はだけた裾から、土埃に汚れた足が見える。目の前に横たわる緊張から解放されたその身体は、しなやかで優しく、触れるよりもずっと見ていたくなる。
 「ちっとも、そそられねぇなぁ」


 客は、夕方から来る。商いは現金商売。例外として、九尾好みの男限定ではあるが、別の支払い方法があった。
 「兄さん、お代はいいよ。その代り……彼は誰どきまで抱とくれ」
 九尾が自在薬を塗り付けた人差し指で男の唇をなでながらこう囁くと、誘われた男たちは、誰一人として断れない。その指先を男の股間に滑らせて、玉茎の先にチョンと触れれば、夜の獲物は九尾の手中に落ちた。


 「そろそろ、お客が来るころだ」
 この日も、九尾は、長屋の軒先に看板代わりの藍染の手ぬぐいをひっかけた。ふと、新道の方を見ると男が一人、こちらへ歩いて来る。九尾の胸がドクリと打つ。「藤吉……」と心の中で名前を呼ぶと、体中の毛穴がザワリと蠢いた。
 「薬師って、あんただったのか」
 九尾が軽く笑むと、藤吉は「惚れ薬を売ってくんねぇか」と言った。


 藤吉が土間の上り口に半身で腰かけている。スッと伸びた背すじ、キュッと腰に食い込んだ帯、それを支える尻と腿。
 ――今夜の獲物は、上物だねぇ。目を伏せて口元を小さくほころばせる九尾は、薬研を取り出し生薬を粉にし始める。その音だけが部屋に響く。九尾は、思う。藤吉ほどの男なら惚れ薬なんてなくても女に不自由はしないだろう。一体、何のために。
 「兄さんほどの男っぷりなら、こんなもんいらねぇだろぉ」
 「そうでもないさぁ」
 腕を組んだ藤吉は、肩越しにそう答え、ため息をつく。
 「頼まれもんかい」
 九尾がそう言うと、藤吉は「敵わねぇな」とつぶやきながら、今度は、九尾の方へ振り返る。
 「お上がんなさいよ」
 九尾の言葉に誘われ藤吉は畳に上がり、九尾のそばで腰を下ろして胡坐をかいた。九尾が茶を出す。
 「出入り先のお嬢さんに頼まれちまって。しょうがなくさぁ」藤吉は、茶を手に取った。
 依頼主は、高崎屋の娘お絹。役者狂いとして町でも評判だ。着飾って芝居を見に行くばかりか、気に入った役者を水茶屋に連れ込んでは遊んでいる。父親も手を焼くほどの放蕩ぶりだ。その上、商売人の娘らしく抜け目もない。藤吉に惚れ薬を買いに行かせるくせに金も渡さず、戸惑う藤吉に、こう言ってのける。
 「その薬師は、色男からは、お代をもらわないって噂だよ。その代りにその男のマラを欲しがるらしいんだけどね。あんたなら身体で払えるよ。必ず買ってきておくれよ。春之丞に飲ませるんだからさぁ。あんたもよく知ってる春之丞にね。はははぁー愉快だこと」
 春之丞とは、江戸で人気の役者の一人で、お絹の入れあげている役者だ。しかも、藤吉の恋人。おそらく、二人の関係に気づいているのだが知らないふりをし、ことあるごとに藤吉へ嫌がらせをしてくる。藤吉にとっても厄介な娘だった。


 「大工も大変だね」事情を聞いた九尾はそう言いながら、藤吉の間近に立膝をつく。九尾の着物の前が割れて、透けるような白い肌をした腿がのぞく。立てた膝に顎をのせ、頭を少し右に倒す。藤吉の顔を見つめる九尾。薬を渡しながら尋ねる。
 「お代は、どうしますか」
 「すまねえ。金は、ないんだ……」
 「そうですか」
 九尾は、薬から離した手を藤吉の股間に滑らせた。
 「兄さんのこれ……欲しいなぁ。俺の中に入れとくれ。そしたら、お代は要らないよ」
 ――覚悟はできてるだろ。そんな顔するんじゃないよ。と九尾は思いながらも続ける。
 「泊まってくかい……」
 「いや。明日も仕事が……」
 「雨脚が強くなってきたよ。このぶんじゃ、明日は仕事になんないぜ」
 「雨じゃ仕方ねぇ」
 静かな夜。満月がでている。雨は、降っていない。
 ――茶の薬が効いてきたね。九尾は、ほくそ笑んだ。


 九尾は藤吉の上にまたがるとスルリと体位を変えた。藤吉の顔に尻を向け相舐めの形になる。
 目の前に恋しい男の玉茎がある。ごくりと喉を鳴らして両手でそれを握る。はち切れそうな弾力が九尾の掌に伝わってくる。
 濡れた半開きの唇で玉茎の先にそっと触れる。「あぁぁ……甘露玉茎」そのままスッと根元まで唇を這わせたとき、藤吉が九尾の腰をグッと引き寄せ横に倒し、力強く左の腿を押し上げ股を割る。九尾の唇が束の間、藤吉の一物から離れる。「あぁあん」不満そうに喘ぐ九尾は、すぐに自分の袋の裏に藤吉の鼻筋を感じ、ゾワリと腰が疼く感触を喜んだ。
 藤吉は、形のいい鼻で玉茎の裏をグリグリと愛でると、たっぷりの唾液で濡れた舌で舐めまわしはじめた。
 「はぁぁっぁ……たまんねぇ。もっと、してくんねぇ」
 九尾の願いをかなえるように、藤吉は玉茎を喉の奥に届くまで咥えこみ、強弱をつけてゆっくりと先までしゃぶり上げる。
 「……いい乱れっぷりだ」そういうと藤吉は、九尾の先走りで濡れた手に通和散をのせ、唾液をたらして練り始めた。程よく粘ったころで、それを指に塗りつけ九尾の尻にヌルヌルと押し入れた。
 九尾の腰がよじれる。両手の指が藤吉の内腿に食い込む。快感に胸を反らせ、首を伸ばす。大きく開いた口の端から涎が垂れる。
 ひとしきり九尾の尻を味わい、指を抜いた藤吉は向きを変え、九尾の首筋を舐めながら乳首をいじりはじめた。「次にして欲しいのは、なんだ? 早く言ってみな。ほら……ほらッ言ってみな」と煽るように静かに囁く。
堪りかねた九尾が藤吉の肩を押し上げ懇願する。
 「兄さん、早く入れとくれぇ」
 藤吉は、通和散を塗り付けた玉茎を九尾の尻に押し入れた。


 九尾は、立ち上がると派手な丹前をひっかけ、煙草盆取って座り、煙管に刻み煙草を詰める。藤吉も起き上がると壁に背をつけて座りなおした。二人の目が合う。藤吉が火鉢に手をかざしながら、クスクスと笑い出した。
 「あんた何か仕込んだだろ?」
 「なぁ、兄さんのこの手ぬぐいおくれよ。麝香のいい香りがするね」澄まし顔でかわす九尾。本当は、自在薬を仕込んでいる。
 藤吉は、煙管をくわえた九尾を見ながら思う。春之丞とは、味わえないこの快楽。惑わされそうで、怖い。きっと、蠱惑から逃れようと抗っても、そんなものは呆気なく九尾の舌の痺れるような快楽に舐めとられてしまう。春之丞と新しい暮らしを始めようとしているときに、そんなことはあってはならない――
 「なぁ……春さんが心配だろ。そんなら、効き目の弱いこっちの薬を渡しなよ」
 九尾は、心の奥底から、あの時の感情が湧いてくるのを感じていた。
 ――役者が使う麝香の香り……気に食わないねぇ。
 九尾が藤吉に渡した薬は、喜市を殺したものと同じものだった。


 九尾は、沈月が言った言葉を思いだす。
 「惚れた相手に薬は使わん。野に咲く花を手折ったとて、枯れるのみ。野にあってこその生命。私は、そんな姿に惚れたのだ。薬で操られた心にそんな姿はない。たとえ思うようになったとて、虚ろに漂う心に惹かれはせん」
 藤吉に肩を抱かれながら、ぼんやりと考える九尾。
 ――きれいごとを……花なんて、引き抜こうが、ちょん切ろうが、花は、花。きれいな時に手に入れないで、好いた値打ちがどこにある。
 「どうした?」黙り込んでいる九尾に藤吉がたずねる。
 「……ねぇ、これ舐めとくれよぉ」
 九尾がこっそり自分の玉茎に眠り薬をひと塗りし、それを差し出す。藤吉は紅い舌で、玉茎をゆっくり舐め始めたが、すぐに、舐めながら寝てしまった。


 籐吉の寝顔に触れる。指を滑らせ輪郭をなぞる。九尾の言うままに薬を舐めて寝てしまった籐吉の顔を、九尾は両手で包み込む。口の前で合わせた親指に籐吉の寝息が触れる。
 ――好いた男と一緒にいたいだけ。
 藤吉の顔を包む九尾の両手が、その喉元に下りる。
 ――あの時も、殺したいと思って、殺したわけじゃない。
 寂しさが九尾をひと飲みにし、藤吉の首を絞めようとした刹那、九尾はそれを断つように、そばにあったホウロクを土間に投げつけた。
 ――でも、いつか殺ってしまう。


 満月の薄明かりに照らされた新道を目がけて、空から大きな影が近づいてくる。影は、地面スレスレを滑るように飛び、九尾が住む長屋の路地の入り口に音もなく降り立った。十年前、あの古寺があった山に舞い降りた大鷹が、影の正体だった。町木戸は、とっくに閉まり人通りはない。大鷹は誰にも見られることなく、長屋の前まで来ると、人に姿を変え、九尾の長屋の戸の前に立った。
 途端、中で何かが割れる音がした。戸を開けると、土間に陶器の破片が散らばっている。
 急に戸が開き、驚く九尾。
 「誰だっ」
 「俺は、九尾」
 「九尾は、俺だ」
 「そう。お前は、陰の九尾。俺は、陽の九尾」
 「ふざけるなっ!」
 陽の九尾は、気にもとめず上がり込む。
 九尾は、思い出す。昔、沈月が言っていた。人は、陰陽で対をなす存在。その片割れが自然界を浮遊していると。
 よく見れば自分にそっくりだ。
 「どうやってここへ来た?」
 「空からね。フワっと飛んできた。そうそう、あん時もいたんだぜ。お前が喜市を殺しちまったときも」
 九尾の表情が歪む。陽の九尾は、寝ている藤吉を横目に見ている。
 「隣の奴とは、うまくやってるみたいじゃないか」そう言って弥助が居る方の壁をコツコツと叩く。
 「弥助……」
 「そうだよ。ほかにもいるだろ。お前の周りに騒がしい奴らがたくさんさぁ。あのチビも」
 「仙太」
 「仙太なぁ、手習いの時に『ここまら』って書いてたぞ」
 九尾は、あの日の朝のことを思い出す。マホウ使いなのかと聞いてくる仙太。マラ使いだとからかう弥助。うつむいた九尾の口元が、自然とほころぶ。
 「くそ坊主、沈月からの伝言だ。『良い人々に出会ったな』だとよ」
 ふいに、陽の九尾の声が聞こえ顔を上げたが、もう、そこに陽の九尾の姿はなかった。
 静かに立ち上がる九尾。肩に引っかけていた丹前を脱ぐと、寝ている籐吉にそっと掛けた。
 

 「九尾さん、ちょっといいかい?」
 翌日の昼、訪ねて来たのは、両国、薬研掘に店を構える四ツ目屋の主人。
 この四ツ目屋、あらゆる種類の秘薬と張型などの玩具を扱う江戸一番の秘薬屋。主人は九尾を気に入っており、時々訪ねてきては、エロ話をひとしきり話し帰っていく。けれど、今日は様子が違う。
 「どうしました? 浮かない顔で。遊び過ぎですかい?」
 四ツ目屋の主人は、手を顔の前で振りそれを軽く否定すると、土間の上り口に腰掛けて「実はねぇ」と話を切り出した。
 懇意にしている高崎屋が娘のお絹のことで手を焼き、四ツ目屋に話を持ちかけた。主人の久兵衛は、番頭の長三郎の商売人としての才覚を高くかっており、早く絹と一緒にさせ店を任せたいと考えているが、絹が長三郎と一緒になることを嫌がって困っていると。その上、最近、役者狂いに拍車が掛かった絹が大工の藤吉に、役者に飲ませる惚れ薬を買いに行かせていると聞き、尻に火がついたという。
 「そこで、あんたの妙薬術師の腕を見込んでなんだが、お絹と長三郎をくっつけちゃあくんねぇかい」
 静かに話を聞いていた九尾は、欠伸をしながら立ち上がると返事をした。
 「考えときますよ……」


 今日は、歳の市。今年も残りわずか。
 笠を被った読売が、瓦版を読み上げながら歩いている。
 「人気役者春之丞と大工の籐吉の駆け落ち話ぃ。一枚四文だ。寄っといでぇ」
 スルリと落ちた一枚の瓦版が、風に運ばれ弥助の足下に飛んできた。弥助は、それを拾い九尾のところへ向かった。


 三日前の夜、江戸の気風と呆れた奴らのたくらみが、九尾の孤独を飲み込んだ。
 その夜、九尾は、お絹と春之丞がいる水茶屋に長三郎と乗り込んだ。騒ぐお絹に突きを見舞って気絶させると、春之丞を藤吉のもとへ逃がし、二人の駆け落ちに手を貸した。そして、惚れ薬を使って長三郎とお絹をくっつけた。
 昨日、お絹と長三郎の祝言を慌しく終わらせた高崎屋が四ツ目屋と連れ立って、御礼代わりの祝儀を九尾に届けに来たところだ。
 もう、欲しがるだけの恋は、しない――これが、妙薬術師九尾が見つけた、惚れた意地だった。


 弥助が戸を開けると、九尾は背を向け横になっている。声を掛けず土間の上り口に腰を下ろし、弥助は瓦版をサッと眺め懐にしまった。すると、いきなり後ろから九尾が身体をピッタリよせ、細い首を伸ばし弥助の顔を覗き込んだ。
 「ここに入れたのは、なんだい?」
 九尾は、弥助の右頬に顔を付け、白い手を弥助の懐に差し込む。瓦版をサッと取り出すと、弥助の顔の前でそれを広げた。
 束の間の沈黙のあと、九尾は瓦版で鼻をかみ、それをクシャッと丸め弥助の懐に戻したが、その手が微かに震えている。弥助が、懐中の九尾の手を優しく握った。
 「……俺の懐は、屑入れじゃねぇぞ」
 九尾は、こらえきれず弥助の背中にしがみつく。恋の残り火がくすぶる九尾の目には、涙が滲んでいた。


 その晩、九尾は、夜明け前に目を覚ます。
 立膝をついて煙管をもてあそぶ。トン、トン、トン……。喜市の匂いが鼻先をかすめる。そんな気がした。

 ――惚れた意地、通せましたよ。喜市さん……

 九尾は、煙管で畳をトンと強く叩き立ち上がると、麝香が香る手ぬぐいを取りあげ、外に駆け出す。新道までくると、それを濃い朝靄の中に投げ捨てた。

 惚れた意地通してひとり彼は誰に 未練の香放り捨て にじんで溶ける恋朝靄


 年が明け、元日。
 仙太が、空き地で凧上げをしている。そばには、九尾と弥助。
 すると、凧の向こうから黒い点が、近づいてきた。
 「鷹だよぉ」仙太が叫んだ。
 大鷹は、獲物を捕らえるように凧をくわえ、三人の前に舞い降り、凧を地面に落とす。そして、ワッサリと翼を広げると、すぐに飛び立っていった。
 弥助が凧を拾うと、「ここまほ」と書いてある。
 二人が不思議そうに仙太を見ると、柄になくもじもじしてる。
 「おいら、ココさんみたいなマホウ使いになりたいんだ」
 「九尾は、マホウ使いじゃねぇつってんだろ。マラ使いなんだよ」
 「違うやい! ココさんは、マホウ使いなんだよぉ」
 「おまえ、前は俺みたいな魚屋になりたいって言ってたじゃねぇかぁ。その前は、あれだ」
 「金魚屋」
 「そう! 金魚だ。その前が……大工」
 「そっ。んで、その前が、唐辛子屋!」
 「おまえ、全部は、なれねぇぞ」
 「だからさぁ、マホウ使いになれば、何でもなれんだろぉ!」
 「ほぉー。おまえ意外と賢いなぁ」
 「弥助よりはなぁ」
 「なんだぁ? 人のこと呼び捨てかぁ!」
 「弥助は、弥助だろっ」
 「てめぇ、九尾だけにココさんとか、さんづけしやがって!」
 九尾は、二人の騒がしいやりとりを嬉しそうに見ている。この弥助と仙太。長屋の人びと。四ツ目屋の主人、高崎屋の主人と番頭、お絹、春之丞。様々な人たちが九尾の日常に彩りをそえる。そして、九尾は藤吉に恋をした。
 これからも、きっと恋をする。たくさんの人たちに、囲まれながら……。

 九尾が澄み切った初春の空を見上げると、気持ちよさそうに一居の大鷹が飛んでいた。




*一居[ひともと]…鷹の数え方 一羽のこと

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