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第2回 BL小説アワード

Key of Love

エロなし/記憶欠落

 俺と喜多嶋が共有した時間。俺が喜多嶋に対して抱いていた感情。 できれば、失った過去を取り戻したかった。すべて。

伊佐治祝
グッジョブ

 ふと、どこか違和感を覚えることがある。
 たとえば、キーケースのカギ。
 自宅マンションのカギのほかに、もうひとつカギがついている。それがなんのためのカギなのかわからない。
 たとえば、マンションの部屋。
 なぜか空間が半端に空いている食器棚、クローゼットに掛かっていた明らかに自分とはサイズの違うワイシャツが一枚。
 自分のなかからごっそり欠けているものがある、そう漠然と感じているのだが、いまの俺にはなんの手掛かりもなかった――。

     *

 寒さが厳しくなってきた十二月のある日、友人の村下から電話がはいった。
『小堺ひさしぶり、元気にしてるか?』
「……繁忙期真っ最中で、忙殺されてるよ」
『まさかまだ会社か?』
「そのまさかだよ」
 平日の夜十時過ぎ、社内のフロアにはひとがまばらになっていることもあり、俺は携帯を耳にあてたまま自席のキーボードに向かう。
「で、こんな時間帯にどうしたんだ?」
『おまえ、今週末に時間はないか?』
 最近、平日は毎日午前さまなので、週末は部屋の掃除でもしてゆっくりとしようと思っていたところだ。
「デイトなら自分の奥さん誘えよ」
『毎日がデイトみたいなモンだよ』
 村下は結婚して三年は経つはずだが、相変わらずラブラブなようだ。
「それで、俺を誘う理由は?」
『――喜多嶋が入院したんだってよ』

     *

「わるかったな、車出してもらって」
「構わないよ、たまには運転しないとバッテリーも上がるしな」
 土曜日の午後、俺は助手席に村下を乗せて車を走らせていた。
 窓の外を流れていくのは、田園風景。とうに刈り入れの時期を終えてひっそりとしており、どことなく寂寥感がただよう。
 その向こうに見えてきた白い建物が、今日の目的地である大学病院だった。
 ――学生時代の友人である村下が告げた「喜多嶋」という名前に、俺はまったく心当たりがなかった。だが、村下が俺を誘うくらいだから当時つきあいがあった人物だろう。
 覚えていない、知らない、と告げることもなんとなくできず、俺は見舞いにつきあうことにしたのだ。
 記憶にない相手を見舞うのはちょっと申し訳ない気もしたが、一歩下がって相づちを打っていればなんとかなるだろう。
 砂利が敷かれた駐車場に車を止め、エンジンを切った。
 地上九階建て、約六百床といわれてもなかなかイメージが沸かないものだが、病院の建物を間近にすると、規模がおおきいことがよくわかる。
 車を降りた俺たちは、通用口から病院のなかに入った。
 今日は一般外来が行われていないからだろう、普段なら患者が待っているロビー部分は照明が落とされているためどことなく薄暗く、静寂に満ちている。
 村下の案内でエレベータに乗り込み、目的階に降り立った。
 俺が抱く病棟のイメージというのは、リノリウムの床に白い壁といったものだ。
 だが、ここの廊下は絨毯張り。壁も白一色ではなくところどころにパステルカラーが配されており、外の光がよく入る設計なのかあたたかい感じがする。
 ナースセンターに立ち寄り、カンタンな諸注意と病室の番号を聞いてから、俺たちは目的の部屋に向かった。
 病室の扉の横には部屋番号の数字が書かれている。プライバシーに配慮しているのか、患者の名前は書かれていない。
 開け放たれた扉から入ると、そこは四人部屋――カーテンを閉めているベッドもあったが、
「喜多嶋」
 村下が声を掛けると、入口はいってすぐのベッドの上の人物が、こちらを向いた。
 なんとなくはかなげな印象を受けるのは、ここが病室だということはもとより、俺や村下よりひとまわりは体格がちいさいことや顔色がどことなく青白いこともあるだろう。
「ごめん、話し中だったか?」
「いえいえいえいえ、お見舞いの方ですか?」
 ベッドの上の本人ではなく、ベッドわきにいたツナギにジャンパーを羽織った茶髪の男が、にこやかにいった。ちょっと胡散臭い感じがするが、俺たちと同年代の男だ。
「こちらは?」
 村下が少々警戒気味に喜多嶋に尋ねた。
 もちろん、喜多嶋にも村下が知らない友人や知人はいるはずだが、たぶんいままでに逢ったことがないタイプなのだろう。
「あっ、ご紹介が遅れまして。ワタクシ、こういう者です」
 男はツナギの胸ポケットから名刺を取り出すと、営業マンよろしく俺たちに差し出した。
「『便利屋グラシア……ス』?」
「そのとおり。『便利屋グラシアス』の安西と申します。ご依頼があれば、ペット探しからお部屋掃除、お引越しなどなどなんでも承りますので、どうぞよろしくおねがいいたしますー」
「その便利屋さんが、どうしてこんな場所へ?」
 俺は素朴な疑問を投げ掛けた。
「はい、今日は喜多嶋さんのご依頼を受けて、お洗濯と買い出しを引き受けに来たんですよ」
 安西はそういいながら手にした紙袋を掲げてみせる。中には洗濯ものが入っているのだろう。
「じゃあ、次回は明後日に伺いますね。仕上がったお洗濯ものはそのときにお持ちします」
「よろしくおねがいいたします」
 では、ごゆっくりーといいながら、安西は病室から立ち去った。

「せっかくの休日にわざわざ来てくれてわるかったね。ふたりとも、立っていないで椅子に座ったら?」
 喜多嶋に促されて、俺たちはベッドわきに置かれたパイプ椅子に腰掛けた。
「これ、僕と小堺からのお見舞い。おまえのリクエストどおりに買ってきたけど、ホントにこんなのでよかったのか?」
 持参したビニール袋の中身は、スポーツドリンクやゼリー飲料、カップ麺といった保存食ばかり。お見舞いの定番である花やお菓子、果物といったものとは掛け離れている。
「いいんだよ。これだったら保存も効くし、体調がいいときに自分のペースで食べられるだろう」
 わるいけれど仕舞ってくれるかな、そんな喜多嶋のたのみに、俺は村下から袋を受け取るとサイドテーブルや冷蔵庫に収納していく。
「喜多嶋、おまえ会社は?」
「休職の手続きをとった。会社からは、復職できる日を待っているといってもらえたよ」
「よかったな」
 巷では、病気を理由に解雇を申し渡されることもあると聞く。復帰を待っていてもらえるのは、会社の体制がしっかりしていることともあるだろうが、きっと喜多嶋のことを買ってくれているのだろう。
「それにしても、水臭過ぎるぞ。どうして連絡くれなかったんだよ。おまえ、ご両親はいないしひとり暮らしだろ?」
 普段温厚な村下がちょっと怒ったようにいうと、喜多嶋はふっと笑う。
「おまえらひとがいいから、ぼくのことを気にしていろいろ買って出てくれようとするだろう? 村下のところは、奥さんひとりめ妊娠してるところなんだし、ぼくのこと気遣うくらいなら、まず奥さんのこといたわらなきゃ」
 喜多嶋と村下のやりとりから、なんとなく喜多嶋の置かれた状況が見えてきた。
「だから、便利屋なのか?」
 俺が確認するように問うと喜多嶋は答えた。
「そのとおり」
 身近なひとに迷惑を掛けるくらいなら、いっそドライに金銭を介して他人におねがいした方がいい、そういうことなのだろう。
「でも、おまえ治療がいつ終わるかわからないんだろ?」
「それは……」
 俺の指摘に喜多嶋は思わず言葉を詰まらせる。
 村下から事前に聞いていた病名を、俺はネットで調べていた。ひとによっては治療が何年にも渡り、悪化すれば死ぬことだってある病だ。医療費もかなり掛かるらしい。
「保険には入ってるだろうし、貯金だってあるかもしれない。でも、頼れる相手には頼ればいいだろ」
「だけど、ぼくにはなにも返せるものがないから……」
 うつむき加減でさみしげにいう喜多嶋の顔を見ていたら、何故か胸がぎゅっときしんだ。
 俺は学生時代の友人だったという喜多嶋という人物について、これっぽちも覚えていない。いないはずなのに……、やはり俺は喜多嶋を「知っている」らしい。そんな確信が持てた。
「俺だって村下だって、見返りを求めているわけじゃないんだ。いつか、俺たちが困っているときに手を差し伸べてくれればいい」
 俺は自然に口にしていた。知らない相手にではなく、目の前にいる昔からの友人に対して。
 俺の言葉に喜多嶋ははっとしたように顔を上げた。
 どうして、喜多嶋は俺を見ながら、苦しそうな泣きそうな顔をするのだろうか。そこは喜ぶところではないのか?
 俺はそんなことを考えていた。

     *

 翌日曜日――俺はとあるマンションにいた。喜多嶋が住んでいるというマンションだ。
 昨日の帰り際、なにかして欲しいことがないかと尋ねた俺たちに、喜多嶋がひかえめにいったのが、観葉植物の世話だった。
 俺は喜多嶋から預かったカギを使って、玄関のドアを開ける。
「おじゃましまーす……」
 俺はそういいながら玄関で靴を脱いで上がりこんだ。
 村下から、喜多嶋の入院が急だったという話を聞いている。
 もともと、昨年の健康診断結果があまり芳しくなく、病院に行くよう促されていたらしい。しかし、日々の忙しさにかまけて一年間無視していたところ、今年の健康判断で強制的に再検査を申し渡されたようだ。
 検査結果がかなり悪くすぐ入院するよういわれたらしいが、ひとり暮らしで身内が誰もいないということから、入院準備のために三日待ってもらったのだと喜多嶋本人がいっていた。
 きっとあわただしい三日間だっただろうというのは、想像に難くない。
 その割には、南向きの部屋は適度に生活感はありつつもスッキリ片づいており、家具もシンプル。余分なものがなにもないあたり、家主の性格が垣間見られる。
『ぼくの寝室の机の上に観葉植物が置いてあるんだ。流石にその世話まで頼むことはできなくてね』
 喜多嶋の言葉を思い浮かべながら、俺は寝室に続くドアを開けた。
 テーブルが一台とセミダブルのベッドがひとつ、壁にはつくりつけのクローゼット――こちらも実にシンプルな内装だ。
「これか……」
 そんなテーブルの上にぽつりと置かれている、グラスがひとつ。
 発砲煉石(ハイドロボール)が満たされたグラスから、長いつるを伸ばしているのはポトスだ。葉っぱは青々としているが、発砲煉石の表面はカラカラに乾いていた。
 冬場は一週間から十日くらいに一度のペースで水を与えていたそうだが、喜多嶋が入院してから軽く半月は経っている。乾いていてあたりまえだ。
 洗面所でポトスに水を与えようかと思って、ふと、部屋の片隅に置かれたダンボール箱が三箱置かれていることに気づいた。箱の側面を見ると、かわいらしい動物のイラストと『便利屋グラシアス』の文字が印刷されている。
 ふたが開きかけていたのでチラリと中を覗くと、雑貨が入っているらしい。入院先に送るために用意したのかと思ったが、量が半端に多そうだ。
 俺は、箱の口からはみ出ていた新聞紙にくるまれたものを取り出した。新聞紙を開くと出てきたのは、白地にワンポイントでロゴがあしらわれたマグカップ。そのフォルムに見覚えがあった。
 ――なぜなら、俺が自宅で使っているマグカップとまったく同じものだったから。
 そのマグカップはとある雑誌の販促グッズで、カンタンに市場に出回るものではない。俺が使っているものも、元はあいつが部屋に持ち込んだものだ。
 あいつが――…。
「?」
 不意に頭がくらりとして、俺は思わずテーブルに手をつく。
 あいつって、誰だ?
 俺が喜多嶋から頼まれたのは、観葉植物の世話だけだ。
 だが、好奇心には勝てず、俺はそのダンボールの口を完全に開いた。
 中に入っていた洋服は、どれも喜多嶋のもののようだ。夏服も冬服もある。キレイにたたまれたワイシャツのブランドとサイズに見覚えがあった。
 それは、俺の部屋のクローゼットに一枚だけ掛かっている、俺よりひとまわりちいさなサイズのワイシャツと同じものだった。
 新聞紙にくるまれている食器類は、どれもひとり分。そして、どの食器にも見覚えがあった。なぜなら、俺が自宅で使っている食器とまったく同じシリーズだったのだ。
 このところ感じている違和感。俺の脳裏に掛かったもやの向こうに、誰かが居る。その
誰かが、俺にはわからなかった。
 だけど、その糸口が少しつかめたような気がする。
 俺は、尻ポケットに入れてあった財布から、昨日もらった名刺を取り出した。
 つかんだ糸を自分の許に手繰り寄せるために。

     *

「あれ? 今日も来てくれたんだ……ひとりで?」
 ベッドに横になった喜多嶋は、ちょっと驚いたようにいった。
 顔色が昨日より悪いようだ。ベッドの脇には点滴が掛けられており、規則正しくぽたんぽたんと輸液が落ちている。
「いいよ、起きなくて」
 上体を起こそうとしていた喜多嶋を制し、俺はベッドわきのパイプ椅子を引き寄せて座った。
「観葉植物はどうだった? 枯れてなかった?」
「ああ、大丈夫そうだった」
 よかった、喜多嶋は安堵したように笑う。
「そうだ、預かっていたカギを返すよ」
 そういって、俺はキーケースを取り出すと喜多嶋に握らせた。
 喜多嶋は手の中のカギを見てはっとした表情を見せた。
「これは……ぼくが渡したものと違う」
「俺がいつも持ち歩いてるキーケースだよ」
「どうして」
「おまえのキーリングも俺のキーケースも、ぶら下がってるカギは同じなんだ。どちらを持っていても同じだろう?」
「!」

『お電話ありがとうございます、あなたの街の便利屋グラシアス・安西ですー』
 俺が喜多嶋の部屋で携帯を使って連絡をとったのは、あの便利屋だった。
 前日と変わらず愛想のよい軽快な口調の男に、俺は喜多嶋の病室で名刺を貰ったものだと告げ、以前喜多嶋の依頼で荷物を運び出したのではないかと確認した。
 依頼主の依頼内容を漏らすのは信用問題的によろしくない、一瞬身構えた気配はあったが、
「あいつ、間違って俺の私物も一緒に運んでしまったみたいで……」
 俺が喜多嶋が便利屋を呼び出したマンション――つまり、俺がいま住んでいるマンションの住所とダンボールの中身を細かに伝えたところ、警戒心がとけたらしい。
 それは、喜多嶋のいま置かれている状況や、喜多嶋の病室で顔を合わせていることにもよるだろう。
『半月ほど前の平日の午後、喜多嶋さんからご依頼を受けて、お荷物をダンボール三箱分、運び出すのをお手伝いしましたよ』

「ご入院する前に整理したいということでした――そう、便利屋は話してたけれど、なにを整理したかったんだ? 俺との関係か?」
「そうだよ」
「!」
「――っていったら、納得してくれるのか? 第一、おまえはぼくのことなんか、なにも覚えてないんだろう?」
「どうして、断言出来るんだ」
 俺が喜多嶋のことを覚えていないという事実は、誰にも話していない。
 俺の指摘に対し、喜多嶋は黙り込む。
 俺が昨日喜多嶋から借りたキーリングには、カギが二本ついていた。一本は自宅のカギ、もう一本は俺のマンションのカギだった。
 そして、俺のキーケースについていた用途不明のカギは、喜多嶋の部屋のカギだったのだ。どちらも実際に試してみたから間違いない。
 血縁でもない相手にカギを預け合うなんて、近しい相手しか考えられない。
「俺がおまえのことを忘れている、おまえはそれを知ってるんだろ」
「それは、その……」
 俺の欠けている記憶は喜多嶋がらみのことばかり。その原因が喜多嶋にある、と俺は確信を抱いていた。
「教えろよ、どうして俺はおまえのことだけ忘れているんだ?」
 ベッドに横になり点滴につながれ動けない喜多嶋を責めるのは、気がとがめる。
 だが、ここでひいたら、たぶん理由を明かされることは二度とない。
 俺と喜多嶋が共有した時間。俺が喜多嶋に対して抱いていた感情。
 できれば、失った過去を取り戻したかった。すべて。
 俺の視線から逃れられないと思ったのだろうか。
 やがて、喜多嶋は息を突くと、観念したように弱々しく語り始めた。
「物心がついたころから、ぼくの家族は母ひとりだけだった」

     *

「父親のことは知らない。保険の外交員をしながら母が、女手ひとつでぼくを育ててくれたんだ。息子のぼくがいうのもなんだけど、母は社交的で営業成績もなかなかのものだったらしいよ。
 だから、聞いたんだ。どうすれば人とうまく話せるのか、ってね。
 母は秘密を明かすようにぼくにいったんだ。『これは魔法よ』」
「まほ……う?」
 いきなり、突拍子もない単語が出てきて、俺は戸惑う。
「『うちは魔法使いの家系なの』そう初めて聞いたときは、なんだそれ? ぼくが子どもだからごまかそうとしてる? なんて思ったけれど、そうじゃなかった」
「魔法が使えるなら、なんでもできるんじゃないのか?」
「魔法使いが万能だと誰が決めたんだよ?」
 俺の素朴な疑問に皮肉めいた笑みを浮かべる、喜多嶋。
 確かに、なんでもできるのであれば、病に伏せることもないだろうし、こうして俺から責めたてられることもなかっただろう。
「母が得意としたのは、物理的なものではなく受動的なもので、ひとの抱く強い感情を和ませることに長けたひとだった。
 もし時代が違っていたら、巫女か教祖にでもなれたんじゃないかな。本人もそれはよくわかっていたと思うよ。
 だから、必要以上に能力を使うことをよしとはしなかった」
 持っているものを極力使わず生きることが、どんなにむつかしいことか。
「そんな母がいのちをかけて魔法を使った場に、ぼくは立ち合ったんだ。
 あれは、ぼくが中学のころ、母が運転する車が事故に巻き込まれた。ぼくは助手席に乗っていて、おおきな傷を負ったんだ。痛みと遠のく意識のなか母を見ると、血を流した母は虫の息だった。
 そんななか、母はぼくに微笑むといったんだ。『最期の贈りもの……よ』とね。
 次に目が覚めたらぼくは病院のベッドの上で、母の葬儀はとうに終わっていた」
 たったひとりの家族を見送ることもできなかった、喜多嶋少年のことを思うと、胸がきしんだ。
「母の死を聞いても、全然かなしくもつらくもなかった。つよがりじゃなくて、それが事実。涙のひとつも出なかったんだ。薄情ものだと思うだろ? でもぼくにはわかったんだよ。これが母からの『最期の贈りもの』だってね」
 最期の能力をふりしぼって、母親がひとり息子に与えたのは、自分の死にまつわるかなしみをぬぐい去ること。苦しまないように、思い悩まないように、ひとりでも生きられるように、それが母親なりのやさしさ。
「いっそ大切なひとを作らなければいい、そう思い至るまでにさほど時間は掛からなかった。そうすれば、わかれのつらさもなにもかも、味あわなくても済むだろう?」
「喜多嶋……」
「だけど、ぼくは見誤った。それが……きみだよ」
「俺?」
 喜多嶋はちいさくこくりとうなづくと、言葉をつなぐ。
「進学先でぼくはきみと知り合った。ひとのいい村下とは違った意味で、きみは気さくで強引で……ぼくが意識的につくっていた壁をドカドカドカっと蹴倒すような感じだったよ」
 そう、喜多嶋は「俺」のことを語りだした。
「きみはぼくの手を引っ張って先に進もうとする。最初は嫌々足を動かしていたはずなのに途中から一緒に駆け出して、最後にはきみと笑ってるんだ。
 うっとおしいやつだなと思っていたはずなのに、行動を共にすることが増えるにしたがって、ぼくはきみと友だちで終わりたくないと思うようになった。
 きみがほかの誰かに笑い掛けたりすると、内臓がぎゅうっとなった。
 ぼくは母の血を継いでいたけれど、もともと能力は微々たるものでね。母に能力の制御の仕方は仕込まれたけれど、使う必要も感じなかったし使う気もなかった。不自然に曲げた感情なんて向けられても、むなしいだけだしね。
 だから、ぼくは小細工なしに自分からきみに想いを告げたんだ。そして、きみはこんなぼくを受け容れてくれた」
 少し遠くを見るように、目を細める喜多嶋。思い浮かべているのは目の前にいるこの俺ではなく、時間を共有していた過去の「俺」のこと。
 部屋のカギを交換するような間柄だったのだ。「俺」は喜多嶋のことを、喜多嶋は「俺」のことを、深い意味で想い合っていたということは、想像に難くない。
「だけど、病気がわかって……それが、下手をすると命に関わるものだということを知って、ぼくはこわくなった。自分の前に死が待ち構えていることがこわいんじゃなくて、きみのやさしさがこわかった」
「俺のやさしさが?」
「ぼくが入院したら、間違いなくきみはぼくの面倒を見てくれようとするだろう。好きなひとの負担になんかなりたくない。だから、入院をするまでの三日の猶予の間に、ぼくは自分で打てる手をすべて打つことにした」
 会社への病欠の申請、保険や高額医療の事前手続き、入院の準備、そして、身辺整理――。
「きみが気づかないうちにきみの部屋からぼくの荷物を全部引き上げて、仕上げにきみの中からぼくのことを消した。
 どう能力を使えばいいか、方法だけは知っていた。ぼくの能力はわずかだけれど、強くつよくねがえばできるはずだった」
「ところが、俺は自分のなかの違和感に気づいてしまった」
 だから、こうしてふたたびふたりきりで相まみえている。
「それでおまえはどうするんだ? 『俺』との思い出だけ抱いて生きていくのか?」
 薄く笑う喜多嶋の表情が、肯定を示していた。
「おまえは『俺』がそんなにやわな男だと思っていたのか? 恋人を見捨てるような薄情なやつだと」
「ち、ちがう。むしろ逆だから……」
「なら、どうして信じてくれなかったんだ。俺にひとことの相談もしなかったんだ。
 一緒に喜ぶのも苦しむのも楽しむのもかなしむのも、恋人の権利だろう? 俺の権利を勝手に奪わないでくれ」

     *

 蒸し暑い夏がやってきた。
 窓の外はカンカン照り、最高気温は三十五度を優にまわっているはずだ。
 俺はぐるりと室内を見まわした。
 食器棚の食器はふた組ずつ納められ、服がひとり分増えたことでクローゼットの空きもなくなった。テーブルに置かれたポトスは俺が世話をするようになってから、さらに長くつるを伸ばしている。
 俺はあの冬の日のことを思い返す。

「それで、俺の記憶はどうなるんだ? できるものなら取り戻したいんだが」
 俺の問いに喜多嶋は目を伏せる。
「一度封をしたものは戻らないよ。ムリをして取り戻そうとしたら、きみの精神に傷がついてしまう。だから、もうぼくのことは構わないでいてほしい」
「いやだね」
 俺は間髪入れずに否定した。
「おまえは俺の意思を無視したんだ。その報いを受けてもらわなきゃ困る。
 そして、恋人を不安にさせた俺も連帯責任だ。今度こそ恋人に……おまえに信じてもらえるように、誠意を尽くすよ」

 あのとき、俺は喜多嶋に対して少々きつめの物言いをしたが、実は意外と楽観的だった。
 もう一度、喜多嶋に恋すればいい。「俺」が選んだ相手なのだ。俺は「俺」のひとを見る目を信じていた。
 俺は時間をみつけては、入院中の喜多嶋に逢いにいった。
 最初は、どういう距離感で接すればいいか、お互い間合いをはかっていた。
 喜多嶋は投薬と検査と治療で精神力も体力もごっそりと奪われ、つらそうなときが多かった。情緒不安定になって涙を流したり、感情を荒げる日もあった。
 その度に自己嫌悪に陥っていたようだが、俺の前ではなにも装う必要はない。「俺」の前なら遠慮してずっと我慢したのではないかと思うと、俺はうれしかった。
 時折、喜多嶋からの依頼を受けて、あの便利屋の男が現れた。
 彼は喜多嶋に付き添う俺については特になにもいわず、都度依頼に応えていたが、
「元鞘におさまったんですね」
 どうぞお倖せに、そう別れ際にいった日から彼は現れていない。
 ――そして今日、喜多嶋が退院する。
 しばらくは自宅療養になるというので、俺は喜多嶋を俺の部屋に滞在するよう誘った。
 日中は仕事があるから四六時中一緒にいることはできないが、なにかあったときに助けにはなるはずだ。
 もともと、週末はふたりで部屋で過ごすことが多かったらしい。とはいえ、暮らすとなるといろいろもどかしい部分も出てくるだろう。
 喜多嶋に関する俺の記憶は、やはりいまも戻らないままだ。そんな俺に対して時折、喜多嶋はせつない表情をするときがあるけれど、それは仕方ないことだ。
 一度空いてしまったものを完全に埋めることはできないけれど、それ以上のもので満たしたい。
 部屋に戻ってきたときに空調が効いているようタイマーを掛けると、俺はドアにカギを掛けた。
 喜多嶋と交換したままのキーリングにつけられたカギは、二本。
 いずれ、このカギが一本に――同じ部屋がふたりの居場所になればいいと思っている。

伊佐治祝
グッジョブ
1
センチミリ 16/02/21 20:27

この魔法は切ない…!
この作品に出て来る魔法使い達が何を思って魔法を使ったのかを考えると胸が締め付けられます。
しかし魔法によって与えられる救いをぶっ飛ばし、
辛いかもしれない未来に立ち向かうことを選んだ主人公の強さは、
この話に出て来る魔法使いにより強い救いを与えたんだと思います。

キーアイテムの使い方がすごい!

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