エロなし
子供の頃に父親から槙村の家系は代々『魔法使い』であると打ち明けられた。ご先祖様にあたる祖先は高度な魔法も使えたと聞くが、今は時代が流れ『ひとつの魔法しか使えない』そうだ。
「俺、魔法使いになっちゃうかもしれない」
ランチタイムで混みあういつもの定食屋で、同期の江崎が突然そんなことを言い出し、槙村は口に含んでいたご飯を吹き出しそうになってしまった。
「なんだよ、急に」
「おまえ知ってるか?三十歳まで童貞守り続けると魔法使いになっちゃうって話」
店に入ってから、江崎がやたらため息を繰り返すので、何か仕事で気に病んでいることでもあるのかと心配していたのは事実だ。
それなのに、三十近い男の口から深刻そうな顔で『魔法使い』という言葉が出てきたら、吹き出しもする。
あと『魔法使い』というワードに特別ドキリとしたのには事情がある。
(俺は、生まれたときから魔法使いなんだけど)
子供の頃に父親から槙村の家系は代々『魔法使い』であると打ち明けられた。
ご先祖様にあたる祖先は高度な魔法も使えたと聞くが、今は時代が流れ『ひとつの魔法しか使えない』そうだ。
使える魔法は、その者の性格や特性によって生まれた時から決まっていて、その話を聞いたとき、ひとつ年上の兄はその魔法の存在に父親に言われる前に気付いていた。
兄が使えるただひとつの魔法は『瞬間移動』だった。とはいえ、移動先は自分が行ったことのある場所に限られ、陸続きであることが条件で、それほど万能ではない。
そして自分は魔法の存在をそのとき初めて知り、自分がどんな魔法が使えるのかがわかるまで、胸を踊らせたものだ。
『空を飛べる』『ものすごい速さで走れる』『金属を捻じ曲げる馬鹿力』……そんな魔法が使えたらいいのにと、子供なりに、夢を膨らませていたが、最終的に自分に与えられていた魔法は『記憶操作』だとわかった。
それは相手の記憶を消すことができる魔法だったが、兄と同様にその魔法には多少制限があり、相手の記憶が自分も共有していなければならなかったし、期間はおよそ二十四時間以内の記憶に限られた。
子供の頃の自分は、ひどくがっかりしたのを覚えている。兄の『瞬間移動』のほうが、まだかっこよかったからだ。
『記憶操作』なんてまったく使い道がない。
とはいうものの、自分の魔法の存在を知って兄が時々魔法を使ってほしいと頼んできたことはあった。
たとえば、家族揃って夕食をすませたあとで、成績の悪いテストを見せてたっぷり怒られたあとで、親の記憶を自分に消させるとか、その程度だ。
自分のためにその魔法を使ったことなど、ほとんどない。だから、魔法使いといえども、普段はほとんど忘れている。
どうやら、江崎のいう『魔法使い』の定義は三十歳にもなって童貞なんて、魔法使いに等しいくらいの確率という意味をさしているらしい。
「俺とおまえの誕生日まであと一ヶ月くらいか」
「そうなんだよ」
槙村は江崎と誕生日が同じだ。同期入社で初めて顔を合わせたときに、それがキッカケで仲良くなった。
江崎は底抜けに明るく、社内でもムードメーカーで誰からも好かれている。
それに比べて槙村は、寡黙で控えめで交友関係も広くないし、これといって特徴もない。
「おまえみたいなイケメンでモテればなぁ」
それなのに、もともと整った顔立ちの家系のせいか、見た目だけで告白されることが後をたたない。
学生の頃は、自分を巡って喧嘩になったこともある。それもあって女性が苦手だし、人と関わることもできれば避けたい。
そんな自分だから、江崎は誤解をしている。
「俺も、おまえみたいに早く童貞捨てたいよ」
実は、自分が江崎と同じく童貞であることを、いまだに言い出せずにいる。
おそらく自分は女性に困っていないと思われているから江崎は疑いもしない。
ただ、江崎と槙村は同じ童貞でありながら、同じ理由ではない。
機会があれば好きな女性も、彼女も作ることのできる江崎とくらべて、槙村はいわゆるマイノリティというやつで恋愛対象が男性なのだ。
小学生の頃に気付き、初恋の相手も今まで好きになった相手もすべて男性だった。
けれどその想いを誰かに伝えたことはない。
容姿だけで気安く声をかけてくるような人間を数多く見てきたせいか、人に対して不信感が強い。
まして、男性しか愛せないとなると交友関係も狭くなる。
直感で本能で行動する江崎に比べて、自分は論理的で慎重派だからだろうか、相反する性格の二人は気が合った。
他の誰よりも自分を信頼し、なんでも打ち明けてくれた。
槙村も、見た目に限らず腹を割って話してくれる人間に出会ったのは初めてだった。
その距離が友人から恋愛対象になるのに、時間はかからなかった。
けれどノーマルである江崎にこの想いを伝えるなんてできない。こうして密かに想い続けて八年近く過ぎた。
「また、おまえと誕生日を祝うことになるんだろうな」
江崎が自嘲気味に笑った。
『誕生日は、お互いに彼女がいなかったら祝おう』
入社してから今までいつも二人で誕生日を過ごしてきた。
カラオケで過ごしたり、飲み明かしたり、誕生日だからといって特別なことをするわけではないのに、江崎と過ごすのは楽しかった。
今年も一緒に過ごせたらいいのに、なんて言えるはずもない。
槙村はただ、取り繕う笑顔しか作れなかった。
「あー、食った食った」
満足そうに腹をさすりながら、会社に戻った。
まだ昼時のオフィスは人が戻ってきていないようで、人がまばらだった。
「魔法使いかー。どんな魔法使えるようになるんだろうな」
「江崎」
「んー?」
振り向いた江崎の目をまっすぐに見つめて念じる。
『俺と昼飯を食べた記憶、消えろ』
江崎の目に、差し込まれたように一瞬光が灯り、すぐに元に戻る。
「……」
「江崎、昼どこいってきたんだ?」
「あー、ひとりで定食屋行ってきた。おまえも来ればよかったのに」
「うん、今度行こうな」
「おう」
江崎はにっこりと笑って、自分の席に戻った。
こうして、自分は他人の記憶を消すことができる。
父親からは大人になったら魔法は使えなくなると言われていた。
兄は高校卒業の頃には使えなくなっていたと聞いたことがある。
それなのに、自分はもうすぐ三十になるというのに、こうしてまだ魔法が使える。
まるで、まだ大人になりきれていないと言われているかのようだ。
(自分の気持ちすら伝えられないんだから、まだ子供なのかもな)
深い溜息をついて、槙村も自分の席に戻った。
過去に、江崎には彼女ができたり、好きな人ができたこともあったが、どれも長続きしなかった。
話を聞けば、友達ならうまくいくのに、恋人になるとダメになってしまう。槙村はどうやら優しすぎるらしい。
そのたびに槙村は江崎を励ましたものだ。いつか、わかってくれる相手が現れるよと。
そしてまた自分の隣に帰ってきてくれたことに安堵した。
けれど、今回はさすがに一緒に誕生日を過ごすことはないと思い始めていた。
同僚からも先輩からも"童貞"だと自虐気味に公言しているだけあって、周囲はみんな知っていた。
笑いながらも心配しているのは、江崎の人柄に間違いがないことを誰もが知っているからだ。
江崎に彼女を作ってもらおうという謎の声がけが広まり、コンパにも頻繁に誘われていた。
その声に応えるかのように、江崎も精力的に出会いを求めているようで、浮いた噂もちらほら聞くようになり、誰もが江崎は魔法使いにはならずに済むのではないかと思い始めていた。
誕生日前夜。例年通りなら、すでに江崎から誘われているのに今年はまだ何も言われていない。
会社で顔を合わせても話しても、誕生日の話題になることはなかった。
周囲の期待に答えようと、頑張っているのを知っている手前、安易には聞けない。
自分と誕生日を過ごすより、有意義な出会いをしたその相手と過ごすほうがいいに決まってる。
そうなると、自分は、これから一人で過ごすのが当たり前になるのだろうか。
江崎は彼女と楽しい誕生日を過ごすのが、これからは当たり前になる。
そのうち結婚もして、子供も生まれて父親になって、自分とは違う人生を歩んでいくのだ。
江崎にとって魔法使いだなんて、ただの通過点にすぎない。
自分は役に立たない魔法しか使えない魔法使いのまま、一人の人生を歩んでいくのだ。
なんとなくだらだらと残業して、会社を出る。
誕生日前夜だろうが、ただの平日であることには変わらない。
今日は何を食べようか。コンビニで弁当でも買って帰るか、ぼんやりと考えていたときだった。
胸ポケットに入れていた携帯のバイブが震えだす。一定のリズムを刻み、いつまでも止まらないので、着信とわかる。
取り出して画面を確認すれば、江崎からの着信だった。
「もしもし……どうしたんだ?」
「槙村、これからうちに来れる?」
「え、あ……うん、行けるけど」
「じゃ待ってる」
それだけを告げて電話は切れた。
コンパは?出会いは?今日の予定は?聞きたいことは山程あるのに、何も聞かせてもらえなかった。
とにかく江崎の家に向かえばわかるのだろうか。
会社からも自分の家からもそれほど遠くない江崎の家に向かった。
決して足取りは軽くはない。
もしかしたら、江崎の自宅に新しくできた彼女がいるかもしれない。
きっと自分が寂しい思いをしているのではないか、と気を使ってその席に呼んでくれたのかもしれない。
いろいろな予想をするけれど、すべて江崎に相手がいる前提なのは、きっと後から傷つきたくないから。
今のうちに自分で浅めの傷をつけておけば、後から深い傷を負っても耐えられる気がする。
どんな相手を紹介されても、笑っておめでとうと言おう。幸せになれよ、と肩を叩いてやろう。
いつか、こんな日が来ることはわかっていたことじゃないか。
自分ではない誰かと江崎が誕生日を過ごす日がやってくることを。
その隣が自分じゃなくなる日がくることを。
「遅いぞー、槙村ぁ!」
玄関で迎えてくれた江崎は部屋着で片手に赤ワインのグラスを持っていて、どうやらすでに飲んでいるようだった。
部屋には肉料理のような匂いが充満している。
「なんの匂い?」
「おお!ローストビーフだぞ、すげーだろ」
「えっと……誰が作ったの?」
おそるおそる聞いてみた。心の準備はできている。
「は?俺に決まってんだろ」
「おまえ?」
「出来上がるまでに時間がかかったから、先に飲んじまったけどな!あがれよ」
「う、うん」
玄関には江崎の靴しかない。
部屋はいつもと変わらぬ殺風景な男の一人暮らしの風景で、中央の丸いテーブルに大皿に載せられた肉の塊が鎮座していた。
「イマドキの男は料理もできないといけないらしいぜ!味は保証するから、食べてみろよ」
槙村は肉の塊の前に座らされた。
部屋の中を充満していた香ばしい匂いはどうやら間違いなくこれのようだった。
江崎は槙村の分のワイングラスをテーブルに置き、持っていたワインをなみなみと注いだ。
そしてテーブルに置いてあったナイフとフォークで肉の塊を刻みだした。
「おー!見ろよ、この焼き加減と赤身のバランス、最高だな」
「いや、あのさ、いろいろ聞きたいことあるんだけど」
「後でいいだろ!まずは乾杯しようぜ」
「ああ」
「俺たちの三十歳に乾杯!」
酔って手元が危なっかしい江崎のグラスは槙村のグラスに勢い良く当たって鈍い音がした。
どうやら、このまま例年のように男二人だけの誕生日会を迎えることになるようだ。
しかし油断ならない。
今日はたまたま間に合わなかっただけで、すでに明日を過ごす彼女はできたのかもしれない。
「なぁ、おまえさ……」
「早く食べてみろって」
まず、いろんなことを確かめたい自分の気持ちなんて知るはずもなく。
江崎にフォークを手渡され、差し出された小皿からローストビーフの切れ端を口に運んでみた。
「ん……」
「どうだ?」
「普通に……うまい」
「だろ?だろ?たくさん食べてくれよな」
すっかり気分をよくしたのか、江崎は持っていたグラスをぐいっと飲み干してさらにワインを注いだ。
「童貞なくすためにいろいろしたけどさ、結果役に立ったのは料理教室だけだな」
江崎が自嘲気味に笑った。そんなことまでしてたとは。
「結局、相手できなかったのか」
「じゃなきゃおまえを呼んだりしないだろ」
「まぁ、そうだけど」
槙村も持っていたグラスを飲み干した。
「やっぱさ、おまえと過ごす恒例の誕生日がさ、一番落ち着くんだわ」
「え?」
江崎は、ふはっと吹き出して笑いながら、空いた二人のグラスにワインを注いだ。
「ずっと前から思ってたよ。おまえくらいなんでも話せる女が、どっかにいないかなって」
「おまえ相当酔ってんな」
「今まで出来た彼女もさ、無意識でおまえと比べてたんだ」
「俺と比べてどうすんだよ」
呆れた口調をしてるけれど、顔がおもわず綻んでしまいそうになる。
「ルックスもいいし性格もいいし、俺が女だったら絶対おまえを選ぶのにな」
きゅんと胸が締め付けられる。グラスを持つ手が震える。
江崎のひとつひとつの言葉が嬉しいはずなのに、あと一歩喜べない。
わかっていた性別の壁が重くのしかかる。
なんで、男なんだろう。どうして自分たちは男同士なのだろう。
どうして異性じゃなくてはいけないのだろう。
「これだっておまえに食べさせたかったんだ、一番に」
「……うまかった」
「だろ?きっと喜んでくれると思った」
「うん、驚いたけど嬉しかった」
「急に呼び出しても、おまえなら来てくれるって思ったから」
すごく幸せだと思った。
江崎にこんなにも信頼されていて、自分がオンリーワンだと言われているようでたまらなく嬉しい。
それなのに、どうしても伝えたい気持ちを、その言葉を、言うことを躊躇っている。
伝えてしまえば楽になれるけれど、同時に二人の関係が終わりになってしまう気がして。
軽蔑されて、蔑まれて、引かれて、自分への信頼を無くしてしまう気がして。
槙村は、ふと気付いた。
そうだった。自分は魔法使いだった。
今まで役に立たなかった魔法を、自分のために使うときが来たのだ。
「あのさ、江崎」
「んー?」
「俺、おまえが男でもいいけど」
槙村は腕を伸ばしてすぐそばにあった江崎の頬を撫でた。
酒のせいだろうか、ほんのりと熱い。
「槙村……?」
「むしろ男でよかった」
「それってどういう……ンッ」
江崎の唇に自分の唇を重ねた。
キスなんてしたことがなかった。人の唇がこんなにやわらかいなんて初めて知った。
唇を離して江崎を見ると、驚いた顔をしていた。それでも拒絶した顔ではなかったことに安堵した。
「おまえ、何して……」
「俺はずっとおまえとこうしたかった」
「は……?」
「ずっと江崎のこと、好きだったから」
「好きって?俺のこと?」
「そうだよ。入社してからずっと」
「マジで?長くね?ていうか、おまえモテてたじゃん。告白もされてたし」
「されたよ。でも俺はおまえが好きだったし、そもそも女には興味ないし」
滑り出した言葉は、もう止まらなかった。
どうせ江崎の記憶は、後から自分が消すことができるのだ。
今、何を伝えても忘れてくれる。それならば、すべて伝えてしまえばいい。
「ついでにいうと、俺もおまえと同じ童貞」
「はぁ?おまえずるいぞ!そんなことひとことも言わなかったじゃねーか」
「聞かれたことないし」
「なんだよ、おまえも明日から魔法使いじゃねーか」
「俺はもともと魔法使いだよ」
「は?なんだそれ」
それは言わなくてもいいことだったと、思わず自分で笑った。
「ごめん、もう無理」
「えっ……ちょっ……」
江崎の肩を掴んで、押し倒した。ドスンと音を立てて、江崎の背中が床に当たる。
上から見下ろした江崎の顔は困惑をした顔だった。
(そりゃそうだ。男から告白されてんだから)
「好きだったおまえにあんなこと言われたら、もう無理」
「待って、俺、まだ理解できてないんだけど」
「一度でいいからおまえを抱きたい」
「抱くって……俺を?」
「するのは初めてだけど、俺は今まで、おまえで抜いてたんだ。何度もおまえを頭の中で抱いた」
このまま無理矢理襲ってしまうこともできたけど、もし江崎が許してくれたら、たとえなくしてしまう記憶でも、自分にとって一生の思い出になるかもしれない。
溢れだした気持ちと言葉と、体まで繋がりたいだなんて贅沢に決まってる。
この先叶わないとわかっているから、せめて自分の中だけにこの思い出を残しておきたい。
「ったく……おまえは」
怒られるかもしれないと怯えていたのに、江崎は豪快に笑った。
「江崎?」
「俺のこと本当に好きなんだな」
「ごめん……」
「謝るなよ。それに抱きたいって、おまえは童貞捨てられるけど、俺は童貞のままかよ」
「……そうなるね」
いくらなんでも調子が良すぎるか。
いっそ、この状態で気持ちを伝えたことの記憶を消してしまおうか。
江崎の目を見つめると、その目はなぜか優しかった。
「もういいよ、好きにしろよ」
「え?」
江崎はそのまま両腕をのばして、槙村の首に回し、槙村の後頭部を愛おしそうに撫でた。
「他の誰にも言わないのにいつも俺にだけなんでも話してくれる。抱きたいなんて思うのも、俺だけだよな?」
「も、もちろん」
「なら早くしろよ、決心揺らぐだろ」
「……他の誰でもいいわけじゃない。江崎が好きだから」
「わかったよ」
再び、江崎の唇にキスをした。ぎこちないキスだったと思う。服を脱がせる手もところどころ震えたと思う。
そういうビデオだって今まで何度も見たけれど、実際にするのとはわけが違う。
戸惑うたびに焦るたびに、江崎と顔を見合わせて笑った。
二人であーでもないこーでもないっと言い合いながら、その行為を進めていった。
指を入れるとき、江崎は小さなパックに入ったローションを持ってきた。オナホ買ったときについてきたと笑っていた。
「ンンッ……あっ……」
「痛い?」
「違っ……その、今んとこ気持ちいい」
「ここ?」
「ん、やばい、そこやばいから……」
手探りで気持ちいいところを探しながら、初めて同士の二人が試行錯誤してするセックスはムードも何もなかったけれど、思っていたよりもずっと甘くて、気持ちよくて、そして幸せで。
ずっとずっと好きだった江崎とひとつになるなんて、夢のようで。
「槙村……マジで……」
「やめ、る?」
「そうじゃなくて……気持ちイイ」
「そっちなの?」
「そっち」
自分の背中に手を回して、しがみついてくる江崎が本当に愛しくて。
午前零時を過ぎて、二人が三十歳になった瞬間、二人は繋がっていた。
「誕生日おめでとう」
「おまえも、誕生日おめでとう」
たくさんのキスをして、何度も求め合った。
「江崎、好きだ。今までもこれからも」
「うん……」
そしてその夜は抱き合って眠った。
朝、目を覚ましたら、江崎は隣で寝息をたてて眠っていた。
槙村はそっとベッドから出て、床に落ちていた自分の下着を拾って履いた。
昨日は、夢のような時間を過ごした。
リビングで散々交わって、ベッドに移動してまた求め合った。一緒にシャワーを浴びてなお、また繋がった。
テーブルの上は食べかけのローストビーフとワインが残されていてまだ幸せなあの時間のままだったけれど、槙村は、江崎の中から昨日の記憶を消すと決めていた。
自分の気持ちを告げるつもりなんて、最初からなかった。
江崎は奇跡的に自分のわがままを聞いてくれた。二人繋がることもできた。
この記憶だけで自分はきっとこの先、ひとりの誕生日も当たり前のように迎えられるし、ひとりの人生も生きていける。
江崎もこの先、素敵な女性を見つけて、まともな人生を生きていけばいい。
今まで生きてきて自分の魔法が『記憶操作』でよかったと初めて思った。
「槙村……」
「ごめん、起こした?」
振り向くと、眠そうに目をこする江崎の姿があった。
早く記憶を消してしまわないと、消す内容が増えてしまう。
そして自分も気持ちが揺らいでしまう。
本当は忘れないでいてほしい。自分がどれほど江崎のことを好きだったかってこと。
江崎の体に刻んでおきたい。自分と繋がったあの夜のことを。
それが許されないのは自分が一番わかっている。
槙村はベッドに腰かけて江崎の顔を見つめた。
「ん?」
「おはよう」
「おはよ……」
『昨日の夜、俺がおまえに話した内容、セックスした記憶、全部消えろ』
これでいい。これでよかったんだ。
そう思いながら見つめるのに、いつものように江崎の目に光が灯らない。
言い方が間違っているんだろうか。
『昨日の夜、俺がおまえを好きだと言ったこと……』
「どうした?」
「ちょっと待って」
『昨日の夜、俺とセックスしたことを……』
「あ、そーゆーこと?」
心の中で、真剣に唱えていた槙村の唇に江崎の唇が触れ、ちゅっと音を立てて離れた。
「ちょっ……江崎っ!」
一気に集中力が消し飛んだ。
「なんだよ、今度は俺からキスしたっていいだろ」
江崎は確かに"今度は俺から"と言った。
「え?……覚えてるの?」
「はぁ?覚えてるに決まってるだろ、おかげで腰がいてーわ」
やはり江崎から昨日の記憶は消えていなかった。
「その……覚えてるなんて思わなくて」
なんで魔法が使えないのか、わからなかった。
記憶が消えるからと、自分の気持ちをすべて告げたのに江崎の中に残り続けるなんて予想外だった。
一気に血の気が引いた。不安が一気に押し寄せる。
もう元のような気の合う友達に戻れなくなるかもしれない。なんて取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
「記憶なくすほど飲んでねーよ。それに嬉しかったんだから、なかったことにするなよ」
「いやいやいや!俺たち男同士だよ?」
「はー?おまえが最初に告白してきたんじゃねーか」
「そ、そーだけど!」
「ていうか、たぶん俺も納得したんだと思う」
「何が?……うわっ」
江崎は突然、槙村の腕を引き寄せて抱きしめた。
「最初からおまえにしとけばよかったってこと」
「えっと……その」
「俺もきっと好きになれると思う、槙村のこと」
ぎゅっと抱きしめられながら、これは夢なんじゃないかと思った。
ずっと好きだった人に気持ちを伝えられて、ひとつになって、そして好きになってもらえるかもしれない。
こんなに幸せなことがあってもいいのだろうか。
「俺、魔法使いでもいいや、ずっと」
耳元で囁かれた江崎の言葉でふと思い出した。以前、父親が話していたこと。
『大人になると魔法が使えなくなる』
子供の頃に、大人になるという表現を使った訳は、おそらくこういうことなのかもしれない。
(する前だったら、魔法が使えたってことか)
今となってはどうでもいいことだ。
もう魔法が使えなくなっても、記憶を操作できなくなっても構わない。
これから二人で過ごす記憶は全部消さないで残していきたい。
そしてもっと増やしていきたい。
「うん。悪いけど、江崎はずっと魔法使いでいて」
「ちぇっ……あ、そういえば」
「何?」
「おまえ、もともと魔法使いだって言ったの、何?」
「えっと……それは……」
最後にこの失言の記憶だけは消えないものかと、頭を悩ませるのみなのである。
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