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第2回 BL小説アワード

Le Souvenir

エロなし

 本当は分かっていた。自分のしてきたことが、ひどいことだと。けれどそれを繰り返してきた。自分はここで許されるような立場でも、涙を流せる立場でもない。現に今も、人には忘れた方がいい記憶もあるのだと、信じこむようにして、思っている。

小魚飯田
グッジョブ

【Le Souvenir】

 世の中には、魔法使いと呼ばれる人がいる。ほんの少し特殊な力に目覚めてしまった、ほんの一握りの人々だ。けれど、彼らは頑なに自分の魔法を使おうとしない。人間は未知の能力に出会えば恐怖と拒絶を覚えるし、魔法使いだってもう二度と迫害はごめんだと考えている。
だからこそ、彼らの存在は、「いるかもしれない者」として、ひっそりと語り継がれてきたのだ。皆を虜にする彼女の笑顔は魔法なのかもしれない、ほっぺたが落ちそうなくらい美味しい料理を作るあの人は魔法使いなのかもしれない、そんな程度に。
 しかし、時には強かというか図太いというか……自分の魔法を使って上手く生きていこうとする魔法使いも、一定数は存在している。


***

 
 記憶は優しい、なんて甘ったれたことは言いたくない。それは現在進行形で、呪詛のようにジュンの心を苛み、ぐちゃぐちゃにかき回しているからだ。
 もう一歩も進みたくない。歩きたくない。今自分が立っている床はアスファルトだが、もうこれが布団でも構わない。このまま倒れて、二度と起き上がらなくてもいいのなら、それもある意味幸せじゃないか。それはジュンが忌み嫌う記憶に蝕まれているからこそ生まれた想いでもあるし、もう数日も水以外何も口にしておらず腹が減っているからこそ芽生えた自暴自棄だった。
 濃い灰色のアスファルトから顔を上げたのは、良い香りが漂ってきたから。
 ジュンの目線の先には可愛い黒猫のベルがついた扉があって、扉の横には造花に彩られた黒板メニュー。本日のオススメは、季節のタルトとハーブティー。日当たりのよい土地を生かし、店内にも陽光を取り込むことをコンセプトにしているのか、ガラス張りの扉からは、白を基調にした店内がよく見えた。
 こじんまりとした店だ。店員はひとりもおらず、レジにはコックコートを着たパティシエが一人だけ。まるでひとりおままごとを見ているようだと、ジュンは思った。
 けれど、それ以上に気になったのは、パティシエの物憂げな表情だ。いかにも「不幸を抱えています」といった表情で、誰も人が来ないのをいいことに、頬杖をつき溜息を吐いている。
 ここがいい。ここをターゲットにしよう。
 そう決めて、ジュンは一銭も持っていないのに、“Le souvenir”の看板が掲げられた扉を開けた。


 こちらの気が抜けてしまいそうなくらいふわふわした「いらっしゃいませ」の声をくぐり抜け、ジュンはレジに駆け寄った。店主が驚いた顔をして、頬杖から顔がずるりと落ちる。こういうことは相手に隙を与えないことが大切だ。隙を与えず、こちらのペースに持ち込み、目的を果たす。
「実はさ、俺、魔法使いなんだよね」
 ここで「出てけ」と怒鳴られることは既に経験済み。そんな相手を屁理屈で丸め込んでこその成功。こちらは魔法を提供し、向こうは食べ物を提供することを契約させる。ジュンの頭の中には、今まで何度も成功させてきた計画があったのだが――。
「へえ、そうなんだ。イマドキ珍しいね」
 さらりと流されてしまった。春先になるとよく現れる変な子の一人だと思われてしまっているのかもしれない。けれど、それすらジュンは想定済みだ。
「アンタさ、最近不幸なことがあったんだろ。もう耐えられない、生きていくのがつらいってくらいの」
 ここで、たいていの人は驚き、ジュンのことを信じる。どうしてアンタには俺のことが分かるんだ? アンタは俺を理解してくれるのか? と。そこにまた、畳みかけてやればいい。「分かるよ。俺には魔法が使えるんだ。だから、アンタが辛そうにしている原因を取り除いてあげる」――。
 けれど、目の前の男の反応は、今まで出会ってきた誰とも違った。
「そうだね。のんびり生きていても、辛いことはいっぱいあるね」
「じゃあさ、俺がその記憶、消してやるよ」
 人の記憶を消す。それが、魔法使いであるジュンが使える、たったひとつの魔法だった。綺麗さっぱり忘れさせることもできるし、僅かな記憶を抜き取り、辻褄を合わせ、都合の悪いことだけを忘れさせることができる。この能力が原因でジュンは家を追い出されてしまったし、この能力を利用して、今日までを食いつなぐことができたのだ。
「変わった子だけど、体力はありそうだから……まあ、合格かな」
「だったら」
 俺が魔法を使ってアンタの記憶を消す代わりに、何か食いものをくれ。
 そう契約を持ちかけようとしたのに、ジュンの前に置かれたのは、甘い生クリームをまとったケーキでも、こんがりとしたきつね色に焼かれたクッキーでもなく、新品の黒いギャルソンエプロンだった。
「基本は厨房スタッフだけど、お客さんが来た時はレジも打ってもらおうかな。時給は900円で、早朝とか多忙時は1000円にしちゃう」
 しちゃうってそんな適当な。というか、俺はバイトしに来たわけじゃない。
 そう言おうとしたのに、物憂げでぼんやりとした印象からは裏腹に、店主はマシンガントークで口を挟む隙も与えない。
「そんな適当なって思うかもしれないけど、個人経営だからね。結構ゆるゆるなところも多いよ。履歴書を提出してもらおうかとも思ったけど、君、着の身着のままって感じだしねえ……。もしかして、ワケありの魔法使いさんかな? でもウチもえり好みしてられないし、警察沙汰にならないんだったら住み込みでもいいよ? ちょうど2階の僕の部屋の隣が空いてるから。よかったら賄いも出すよ。食費と光熱費はお給料から差っ引かせてもらうけど、結構いい条件なんじゃない?」
 最初は、自分の魔法と引き換えにちょっと食べ物を分けてもらえればよかった。けれど、何が何やら分からないままに話が進み、住む家まで確保してしまった。ただし、条件は魔法ではなく労働なのだが。
 この街ではまだやりたいこともある。思ってもいなかった条件に、ジュンは静かに頷いた。


***


 客が来ない。見事に来ない。確かにこんなに暇では溜息だって吐きたくなるだろう。
 バイトを始めてから数日。店内から見えるのは、いつも客がいないという同じ景色。裏返しの“Le souvenir”の看板を見つめながら、最初の内ではどういう意味だろうと、学のないジュンには何語かも分からないままに考えを巡らせ暇潰しをしていたものだけれど、もうそんな一人遊びにも飽き飽きしてしまった。その結果、ジュンはすっかり出会った時の店主(名前はコウというらしい)と同じ姿勢で店番をしている。
 そんなコウはといえば、厨房で新メニューの開発中だ。この店のメニューといえば適当で、メニュー表もなく、その日のコウの気分で作ったものが店内のガラスケースに並ぶ。けれど最近のコウは定番かつ名物となるようなメニューを作ろうと、パティシエとしてのやる気を出して奮闘中らしい。
「ジュンちゃん!」
「ジュンちゃんって呼ぶな」
 コウは厨房の扉を開け、ひょっこりと顔を出しながら訪ねてくる。手には泡立てられた卵黄入りのボウルを持ち、頬には薄力粉がついたままだ。
「ジュンちゃんは何か好きなお菓子やケーキってある?」
 ちなみに、ジュンはコウに何度も「ジュンちゃんって呼ぶな」と言っているが、聞き入れてもらえた試しはない。
「……マドレーヌ」
「わぁ! かわいい趣味!」
「うるせえ!」
 何もジュンとて「貝殻の形が可愛い」とかいう乙女な理由でマドレーヌが好きなわけではない。
「……紅茶に合うんだよ。アッサムとかウバとか、個性の強い香りと味の紅茶がガキの頃は苦手だったのに、真似をしてどうしても飲んでみたいって泣きじゃくって、苦肉の策に持ってきてもらったのがマドレーヌだった。そいつと一緒だと紅茶も不味くなくて……シンプルなのに、実は魔法のかかった菓子なんじゃないかって。だから好きだっただけ」
 恥ずかしがりながらもジュンが素直に打ち明けると、コウは目を輝かせて「じゃあとっておきのマドレーヌを作るね!」と笑う。
「そろそろ贈物用の焼き菓子セットも開発しなきゃって思ってたから、ちょうどいいね」
「その前にこの店が潰れちまうんじゃねえの?」
「大丈夫。毎週来てくれる常連さんが2,3人いるから」
 たった2,3人だけなのかよ。
「新商品のマドレーヌがヒットして、そのお客さんの口コミで評判が広がれば、大繁盛間違いなしだよ!」
 あまりにも希望的すぎる観測だけを残して、コウは再び厨房の奥へ引っ込んでいった。
 店主がただの道楽でやっている、お気楽な店。材料費や調理機材のお金を差っ引けば、たぶん赤字になっているだろう。
 それなのに、店内が寂れているということもない。経営者は危機感を抱いていない。どこかが潤っているように感じられる店。
 ジュンにとっては、魔法よりもこの店の方が不思議に思えてしかたなかった。


***


 悪夢を見て夜中に目が覚める。自分がそんな繊細な人間だなんて信じられないが、こうして何度も最悪の寝覚めを体験しているあたり、否定はできない。
 叫びはしなかったものの、荒い呼吸を繰り返していたせいで喉はからからに渇き、水でも飲もうかとジュンは部屋のドアを開けた。
 既に深夜の1時を過ぎている。朝の仕込みのため既に寝ているだろうと思っていたコウの部屋からは、かすかに明かりが漏れていた。
「――でね、面白いんだよ。その新しく入ってきたバイトの子。ジュンちゃんっていうの」
 半開きになっているドアから、ジュンはそっと中を覗き込む。こんな夜中に来客なんているはずがないと思いながらも、数少ない可能性は否定できなかった。しかし、部屋にはコウ以外の誰の姿も見られない。
「マドレーヌが好きって言ってた。可愛いよねえ。……覚えてる? 前にジュンが、人を幸せにするような素朴な味の焼き菓子も店に置きたいって言ってたの」
 一瞬自分の名前が出てきたのかと思い、ジュンはびくりと肩をすくませたが、話の流れからして別人だろう。その別人のジュンに、ジュンのことを話しているようだが、別人のジュンの姿はない。
 コイツ、本格的に頭をおかしくしたんじゃねえの?
 初めて出会った時の、あの不幸に打ちのめされた人独特の無気力な表情を思い出し、ジュンはぞっとする。いたたまれなくなって乱暴に声をかけた。
「いい年して何ぶつぶつ独り言呟いてるんだよ。キモい」
「あ、ジュンちゃん」
 起こしちゃったかな、ごめんね、でもちょうどよかったよ、とコウはジュンを部屋に引っ張り入れる。
「ジュン、紹介するね。この子がさっき話してたジュンちゃん」
 ジュンが連れていかれた先には、小さな写真があった。華奢で色白で、見るからに儚げな男性が、少年のように無邪気な笑顔を、こちらに向けている写真。
「さっきからコレに話しかけてたわけ?」
「そう。コレっていうか、遺影だけど。交通事故で亡くなったんだ。彼はホテルで、僕は地元でパティシエの修行をしていて、いつか一緒にお店を持てたらいいねって話してた。ようやく一人前になれる程度には成長して、これからお店を出そうかっていう時の事故だったんだよ」
「ふぅん……。親友だったの?」
「ううん。恋人」
 その単語に、ジュンは少しだけ目を瞠る。
「……俺にそんなこと話して、ここはホモがやってるケーキ屋だって噂を流しても知らねえぞ」
「ジュンちゃんはそんなことしないし、そんなことで差別する人がいるところだったら、僕は今、こうしてここに店を構えたりしていない」
 それから、ジュンはこの店の成り立ちも少しだけ聞いた。彼の恋人だったジュンの両親は、二人の恋仲に理解を示していてくれたこと。そんな彼らの援助で、コウはこの店を持つことができたのだということ。そして、その援助金は、おそらくジュンの事故の賠償金から出ているのだということ。客が来ないのに潤っているという違和感は、そこから来ていたのだろう。
「だったら、彼のためにも、この店をもっと繁盛させてやろうとは思わないのかよ」
「うん。思ってるには思ってるんだ」
 ただ、彼自身、最近まではジュンの死から立ち直ることができなかったのだという。忘れたい、思い出したくない、そう思えば思うほど、ふとした日常的な動作をこなす度に彼のことを思い出す。
「完全に立ち直れたかっていうと、それも嘘になるけどね」
 四十九日も過ぎたというのに、いまだに彼のことは夢に見る。夢に見て、隣に彼の温もりがないことに寂しさを感じたら、コウは今のように写真に話しかける。大丈夫だよ、聞いて、最近こんなに面白いことがあってね、と。
「たぶん、僕は彼のいない寂しさからは、ずっと立ち直れないと思うんだ」
「……そんなんだったら、俺が魔法で、記憶、消してやるのに」
 ジュンの提案に、コウは静かにかぶりを振った。悟ったようなその態度に、思わずジュンも向きになる。
「なんで!? その記憶が辛いとは思わねえの!? 忘れた方がマシだって、考えたりしねえの!?」
「辛くないわけじゃないよ。でも、彼がいたからこそ僕はここにいる。僕はそんな今の僕自身を否定する気はないし、それに、僕が彼のことを忘れたら、誰が僕しか知らない彼のことを覚えていられるの?」


***


 翌朝、寝不足の目をこすりながらレジの横に立ち、ジュンはイラついていた。昨夜のことは結局、体のいい惚気に利用されただけみたいだ。
『ジュンはね、どちらかと言えばかっこいい系なんだけど、僕の隣にいる時、それはそれは可愛かったんだ』
 コウは恋人のことをジュンと呼び、バイトのことはジュンちゃんと呼ぶ。どうりで、ちゃんづけを止める気配がないわけだ。
『安心してね。ジュンちゃんみたいな可愛いやんちゃ系不思議ちゃんはタイプからは外れてるんだ。いくら一つ屋根の下でも襲ったりしないよ』
 恋愛対象外通告が遺憾だというわけじゃない。むしろあんなヤツはこっちからお断りだ。なのに、ジュンはずっとイラついていた。
ふと店の扉が開いてベルが鳴り、ジュンは顔を上げた。入ってきたのは優しそうなおばさんだ。彼女はしばらく店内を見回してから、ジュンのもとにやってくる。
「贈物用の焼き菓子はありますか?」
「焼き菓子は……」
 コウは開発にいそしんでいるが、いますぐ店に並ぶような気配は、当然ながら、ない。
「まだないんですよ」
「そう。まだ開発中なのね」
 口ぶりからして、コウののんびり加減をよく知っている人のようだった。おそらく、数少ない常連のうちの一人なのだろう。
「コウちゃんに聞いて楽しみにしてたのよ。紅茶にぴったりのマドレーヌは外せないんですって。ほら、紅茶ってものによっては渋かったりクセがあったりするでしょう? でもマドレーヌの甘みにはぴったりで、子どもも美味しい、魔法みたい、ってマドレーヌと紅茶を交互に口に運んで……」
 そこまで話したところで、ふと女性の話が止まった。自分は何を言っているのだろうと、呆然とした表情で。
「あら……ごめんなさい……違うわ。私には子どもがいないの。きっと、近所の子に食べさせた時のことね……」
 おばさんのボケに付き合う気など、さらさらない。ジュンが「さっさとしろ」という意味を込めて注文を促すと、彼女は生菓子を3つほど買って帰っていった。
 帰り際、扉を開ける前に、彼女はもう一度、ジュンに話しかけてきた。
「ねえアナタ、どこかでお会いしたことはないかしら?」
「……気のせいですよ」
 やはり、人間にはなくてもいい記憶があるのだ。なのに、コウはどんなに辛い記憶でも必要なのだという。ジュンがイラついていたのはきっと、そんな意見の食い違いに対してだ。


***


 バイトにも慣れてきた頃、ジュンは一度だけ魔法を使ってみた。相手はふらふらと店に入り込んできたお姉さんで、脱力するようにイートインスペースに座り込んでは、ケーキを5個も10個も注文した。
 こんなに食べられるのかと疑問に思い、気を利かせていくつかをテイクアウトにしようかとジュンが尋ねたところ、彼女は急に泣き出した。彼氏がひどい人だったの、私よりもっと可愛い子を好きになったから別れたいって、私、頑張ったのに。途切れ途切れの断片を繋ぎ合わせると、彼女が男に捨てられたばかりだということが分かった。
「……彼のこと、忘れたいですか?」
 ジュンがそう尋ねると、彼女は「お兄さんが忘れさせてくれるの?」と無理に笑った。苦しそうな笑顔だった。
 ジュンは頷いて、彼女の手に額を当てる。そして「忘れろ」と念じれば、それだけで魔法がかかる。もう何度も踏んできた手順だ。
 彼女は晴れやかな顔で“Le souvenir”を後にした。自分が何を悲しんでいたのか、なぜ手に8個ものケーキが入った箱を持っているのか、疑問に思うこともなく。
「どうしてあんなことしたの」
 疑問ではない。問い詰めるような声で、コウは言う。先日の苛立ちを抱えたままで、ジュンは自慢するように言ってしまったのだ。今日、魔法を使ったんだ、と。
 コウは明日の仕込みを終えて、ジュンは店内の清掃を終えた。その磨いた床の上に正座させられて、ジュンは説教を受ける羽目になっている。
「人の記憶を奪うということは、その人の過去を、在りし日の気持ちを奪うということだ。もしかしたら、彼女はその悲しさを糧に変わるかもしれない。それが良い方向か悪い方向かは分からないよ。でも、そう考えると、人の記憶を消すということは、過去だけじゃなく未来を、その人の人生も奪うことになる。それはいけないことだって、ジュンなら分かるよね?」
「……分かるわけねえだろ」
「どうして?」
 ジュンが怒る時を初めて見たが、無暗に怒鳴ることはせず、「なぜ」「どうして」と問うていく。まるで小さい子に対する叱り方のようで、話がさっさと終わるわけでもなくて、イライラする。
「だって、彼女は言ったんだ!」
 あんなヤツのこと、忘れたい。忘れた方がマシなことだって世の中にはあるのだ、と。
「それは、彼女の話であってジュンの話じゃないでしょう?」
 ジュンはそう思うの? 言葉には出さずとも、コウはそう問いかけてる。
「思ってるよ! だから魔法使いなんてイタい身分名乗って、消したい記憶があるヤツらの手伝いをしてきたんだ!」
 そうやって魔法と引き換えに金を受け取り、飢えを凌いで生きてきた。だからジュンにとって、人間には忘れた方がいい記憶もあるということは、常識なのだ。
「じゃあ、どうして? そう思うようになったのは、いつから? 何も考えずに魔法を使ってきたわけじゃないんでしょう?」
「仕方ねえだろ! そう考えてる親の元で育ってきたんだから!」
 苛立ちは頂点に達し、面倒臭さも相まって、ジュンはすべてをぶちまけた。
 言われたのだ。母親に。人にとっては、いらない記憶も――記憶どころか、いらない存在もあるということを。
 ジュンの家に父親というものはいなかった。ジュンの幼い頃に亡くなり、母が女手一つでジュンを育てていた。それだけならただの美談だったのに、ある日、ジュンは母が恋人らしき男性に、電話で話しているのを聞いてしまった。
『あの子なんて、いなければよかったのに』
 それからのことは、あまり覚えていない。ただただ激昂して、泣きながら母の前に飛び出し、彼女の額に手をかざしていた。
『だったら、俺のことなんて全部忘れればいい!』
 それが、ジュンの初めて使った魔法で、彼がまだ16歳の時だった。
 魔法にかけられた後、目を開いた母は、ジュンに知らない少年を見るような眼差しを向けた。いや、実際に魔法は成功したわけだから、彼女にとって、ジュンは文字通り「知らない少年」だったのだ。
 ジュンはそのまま家を飛び出して、街を彷徨った。この能力が魔法であり、ひっそりとした金儲けに使えるのだと気づいてからは、金を得る度に遠くへ行った。
「ジュンちゃんは、優しい子だね」
 捲し立て息も切れ切れになるジュンを黙って見つめていたコウは、ようやく口を開いたかと思うと、たった一言、そう言った。
「優しくなんかない……」
「優しいよ。自分の記憶より、お母さんの記憶を消す方を選んだんだもの。歪だけど、彼女を思いやったんだ」
 間違っていたのかもしれない。でも、君は優しい子だよ。
 そう言ってコウは膝をつき、ジュンを抱きしめる。
 けれど、ここで素直になってはいけない気がした。
 本当は分かっていた。自分のしてきたことが、ひどいことだと。けれどそれを繰り返してきた。自分はここで許されるような立場でも、涙を流せる立場でもない。現に今も、人には忘れた方がいい記憶もあるのだと、信じこむようにして、思っている。
 この街に辿り着く前、ジュンは偶然、自分が記憶を消した人間に出会った。記憶を消しても、事実が消えるわけじゃない。その人はあまりにも辛いことがあったから記憶に混乱が見られるのだと、周囲に同情されながら生きていた。その顔はあまり幸せそうには見えなかった。
 不意に、確かめてみようと思った。自分のかけてきた魔法が正しかったのか、あれは人を幸せにする行動だったのか。
「そう。だからジュンちゃんはこの街に来たんだね。初めて魔法をかけた人が……お母さんが、ちゃんと幸せそうに暮らしているか、見に来たんだ」
 すると、コウは突然ラッピングされた菓子を差し出した。あの日に話していたマドレーヌは、試作品がもう完成したらしい。
「実は僕も魔法使いなんだ。君とは正反対の、ね。記憶を思い出させる方の魔法使いなんだ」
 ジュンは驚いて彼を見上げた。普段から腹の底が読めないコウではあるが、嘘を吐いているわけでもないのだろう。彼の声と眼差しは真剣だった。
「そんなこと……一度も……」
「流石に言えないよ。お菓子に魔法を使ったなんてバレたら、お客が減るもの」
「菓子にって……」
「もともと、記憶と味覚は密接に結びついているらしいんだ。その仕組みを利用して、僕の作ったお菓子に、魔法の呪文を一言二言……そうやってできたのがこのマドレーヌだよ。はい、食べてみて」


 それから、思い出してみて。
 どうしてジュンちゃんはマドレーヌを好きになったの? 子どもなのに、誰の真似をして紅茶を飲もうとしたの?


 記憶の中に、母親と自分がいる。
 テーブルに向かい合って、一緒におやつを食べている。
 今日のおやつは、マドレーヌと、母親の真似をして飲みたかった紅茶。
 大好物にはしゃぐ俺に、彼女は笑顔を向けている。そして、唇をそっと開いて――。


『二人で一緒に食べると、もっと美味しいでしょう、ジュンちゃん』


 目の前の空間がはじけ飛ぶ。そして欠片となったそれは、ジュンの心の中をキラキラと舞った。呼応するように涙が溢れ出す。


「僕のこの魔法を使ってさ、ジュンちゃんがかけた魔法、解きに行こうか」
「……いい。そんなの。今幸せに暮らしているのかもしれない。余計な混乱を引き起こすかもしれない」
 ジュンは流れてきた涙を乱暴に拭おうとした。けれどその手をコウに止められ、涙は指で優しく拭い取られる。
「それでもさ、ジュンちゃんとお母さんは、向かい合って話し合うことが必要だよ」
「……どこにいるのか分からない」
「街中を探そう。それでもし見つからなかったとしても、僕のマドレーヌを食べて思い出してくれるかもしれないから、お店も二人でやっていこうか。オンライン販売ができるくらい繁盛するといいよねえ」
 急に現実的なことを言い出すコウに、ジュンはなんだか笑ってしまった。


 しばらくして、ジュンのギャルソン姿がマシになってきた頃、この店につけられた名前の意味を訊いてみた。コウは笑いながら「フランス語でね、思い出っていう意味なんだよ」と教えてくれた。

小魚飯田
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