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第2回 BL小説アワード

使えなかった、ただ一つの魔法

純愛/切ない/三角関係

 僕は今でも、初めて君に会った日の事をはっきりと覚えている。三十七年も前の話だ。君も僕もまだ十八だった。

来栖みさ
グッジョブ



 森崎佑都はその日、六月の鈍い雨が降るキャンパスを傘も差さずに歩いていた。工学部の研究実験棟がある建物の中へ入ろうとした時、スマホが震えた。朝から嫌な予感はしていた。
 ――――父親が亡くなった事を知らせる電話だった。
 今年で五十三歳になる父親は二年前から肺癌を患い、治療のために入退院を繰り返していた。数日前から容態が悪化し、覚悟はしていたが、佑都はショックのあまり、その場に膝から崩れ落ちた。
「大丈夫か?」
 同じ学部の友人である英一に後ろから支えられた。礼を言おうとしたが、口が乾いて上手く動かなかった。スマホを握り締めた指先は冷たく、ほとんど感覚がなかった。
「顔色が悪い。何かあったのか?」
 父親が亡くなった事を告げると、英一は慰めるように肩を抱いてくれた。湿った雨の匂いと男の匂いがした。体温が上がる。その腕の力強さを、佑都の背中ははっきりと感じ取っていた。こんな時でも友人に劣情を抱いてしまう自分が情けなかった。
「駅まで送っていこうか?」
「いや、いいんだ。本当にありがとう」
「これ、持ってけ」
 英一は傘を差し出してくれた。佑都は少し迷ったが受け取った。礼を言い、降りしきる雨に向かって傘を広げた。来た道を戻り、重い足取りでキャンパスの坂を下った。

 病院に着くと、すでに父は息を引き取っていた。ベッドの傍で母親が静かに泣いていた。
 ――――親父、よく頑張ったな。
 銀行員だった父は病気になるまで仕事一筋の人間だった。自分が朝起きる頃にはすでに出勤し、自分と母が寝てから帰宅するような毎日だった。何年か単身赴任もしていた。銀行に入行してから三十年以上、仕事中心の生活を続けてきたのだ。独り息子だった佑都はいつも母と二人きりだったが、弱音も吐かず、真面目に働いている父を密かに尊敬していた。
 父は亡くなっても銀行員だった。生前、自分に何かあったらパソコンのフォルダを開けるようにと言われていた。実際、病室まで持ち込んでいたパソコンを起動させると、自分が亡くなった後、どうすればいいのか、何をすればいいのか、稟議書のようにやるべき手順が全て書かれていた。
 佑都は病院で必要な手続きを済ませ、自宅へ戻った。母親はショックで混乱していた。二十歳といえども一人息子である自分がしっかりしなければならない。父が残してくれたパソコンを頼りに、これからしなければならない事を考え始めた。
 パソコンのフォルダを弄っていると気になるフォルダが一つあった。「Z」とタイトルが付けられていた。
 Z――――ゼット。なんだろう。
 気になって開けると長々と書かれた文章が目に飛び込んできた。エッセイのようでもあり、小説のようでもあった。佑都は一度、コーヒーを淹れるためにキッチンへ行き、マグカップを持ってパソコンの前へ戻った。
 ――――読んでみるか。
 「Zへ」と書かれている最初のページをスクロールし、一行目から読み始めた。




【Zへ】

 こんな手紙を君に書くとは、あの頃は思いもしなかった。

 手紙というのはおかしいかな。僕は実際に手を動かしているが、紙にペンで書いているのではなく、画面に向かってこうやってポチポチと打っている。変な感じだ。でも、これはありがたい。僕は右手がほとんど動かなくなっている。ペンを握り締める力も、もう残っていないんだ。
 同情しないでくれ。少しお迎えが来るのが早いと思うが、遅かれ早かれ、皆、天国へ行く事になる。天国だと……いいけどな。銀行では色々と話せないような汚い事もした。それこそ自分が嫌になるような浅ましい事もね。でも、許してくれ。金を稼ぐのは綺麗事じゃ済まない。それは君が一番よく知ってるかもしれないな。
 そしてこのメッセージが君に届くかどうかも分からない。いや、届く可能性の方が低いだろう。それでも書かなければいけないと、強い衝動に駆り立てられて、僕は病院のベッドの上でよろよろとキーを打っている。

 僕は今でも、初めて君に会った日の事をはっきりと覚えている。三十七年も前の話だ。君も僕もまだ十八だった。信じられないね。自分に、今の息子の年齢より年下だった頃があったなんて、本当に信じられない。でも、十八だった。お互い高校を出たばかりの十八歳の子どもだった。僕と君はあの大学で出会ったんだ。

 今、思い出しても笑いが込み上げてくる。うちの大学には階段テラスと呼ばれる、校舎の壁が階段になっている建物があった。皆、そこへ腰を下ろして、弁当を食べたり、ギターを弾いたり、女を口説いたりしていた。階段テラスにはちょっとしたおまけのようなものがあった。ミニスカートを履いた女が上段に座ると、その中身が見える場所があった。君も憶えているだろ?

 当時、SF映画に主演したハリウッド女優の影響でミニスカートが流行していた。思春期をやり過ごしたばかりの男子学生は、こぞっておまけの場所に集まった。その日は上段に特別いい女が座っていた。顔が小さく、脚が長く、色の白い、少し生意気そうな顔をした女だった。
 僕は何気なくその群衆に近づいた。いつも以上の人数がそこから女をじっと見上げていた。後から来た君は男子学生の集団をどやしつけた。もちろん僕もどやされた。そして、物凄い勢いで階段を駆け上がった。
「おい、パンツ見えてんぞ。馬鹿女」
 美人にそう言い放つと、君はだるそうに階段を下りた。女は顔を真っ赤にして怒り狂っていた。それが五歳年上の友子だった。

 友子は学生ではなかった。大学内にある小さな本屋の店員だった。友子を見るために本屋に立ち寄る男子学生や講師の連中も多かった。自分も同じように友子を見るため、暇を見つけては本屋へ行くようになった。その日も興味のない本に顔を隠しながら、友子を盗み見ていた。
「方法序説――――デカルトに興味があるのか? それともあの女のパンツに興味があるのか?」
 後ろから声を掛けられて僕は飛び上がった。重いハードカバーの本が音を立てて落ちた。
「君は……」
「おまえ同じ学部のやつだよな。この前、講義室で見た。――――ああ、そうだ。よろしく」
 君は僕の方へ当たり前のように手を伸ばした。男らしく大きい、けれど美しい手だった。僕は引き寄せられるようにその手を握った。ゆっくりと上下する手。なぜかスローモーションのように見えた。
「腹減ってんだ。一緒に飯食いに行こうぜ」

 僕と君は同じ経済学部で学科も一緒だった。履修している講義も重なっているものが多く、親しくなるのにそう時間は掛からなかった。何より僕はひと目で君が気に入った。あの階段を駆け上がる颯爽とした後ろ姿や、実直な物言いが脳裏から離れなかった。気がつくと君は僕の隣にいた。背が高く、見た目も男前の君は、学内でも目立つ存在だった。どこにいても、僕はひと目で探し出す事ができた。

 こんな事もあったな。僕たちが大学に入学した頃は、すでに学生運動は時代遅れの遺物になっていた。風化して字が読めなくなった立て看板は、酔って歩けなくなった新入生を運ぶための担架代わりになっていた。皆、来たるべきバブル経済の波に乗り始めて浮かれていた。それでも革命を引きずった残党がいて、僕はその先輩グループとひょんな事から口論になった。
「生意気なクソガキが。女みてぇな顔しやがって」
 僕はキャンパス内にあるサークルの活動棟の裏へ連れて行かれ、大量の酒を飲まされた。ライターを近づけたら火が点きそうなアルコール度数の高い、ほとんど消毒液のような液体だった。飲まされてふらふらになっても解放してもらえなかった。そこに君が現れた。
「残りは俺が飲むから、こいつを放してくれ」
 君は残っていた酒を一気に喉の奥へ流し込んだ。喉が渇いた子どもが麦茶を飲むみたいに一升瓶の中身を全部飲んだんだ。驚いたよ。濡れた口元を拭うと、先輩に唾を吐き、僕を担ぎ上げて部屋まで運んでくれた。
「あいつら馬鹿じゃねえの。親の金で学生やってるくせに、何が革命だよ。そういう事は働いて税金納めてから言えってな。俺はな、官僚になりたいんだ。あいつらとは違う、本物の革命を起こしてやる」
 言葉は力強かったが、君の足元も充分ふらついていた。
「おまえはどうするんだ? 将来」
「僕は……多分、さ、サラリーマンになるよ。結婚して、家を買って、車も買って……ひっく……子どもを二人くらい作って、大きい犬を飼う……うぇっ」
「なんだ、その絵に描いたような夢は」
「……駄目か?」
「駄目じゃないが、もっとでかい夢を見ろよ」
「夢もいいけど……とりあえず水が飲みたい……ひっく」
「おまえ、結構、我儘だな。おまけに変なとこで根性あるよな」
 君は夜の歩道を歩き、時々、吐きそうになる僕を介抱しながら、先輩を罵り、夢を語った。
「大学生っていつまで続くんだろうな。なんか、永遠に続く気がするよな。毎日酒飲んで、飲まされて……こんなんでアル中にならないのがおかしいよな。あはは」

 僕と君は当時、流行っていたテニスサークルに入った。君は本当にテニスが上手かった。君には少しの事で動揺しない心の強さと冷静な判断力があった。そして強靭な体力があった。誰と試合をしても君が勝った。それなのに僕とのラリーでは負ける事があった。

 僕が友子に興味を持っているのを知って、君は友子に声を掛けるようになった。学食で一緒に昼食を取るようになり、気がつけば休みの日に三人で出掛ける事も多くなっていた。
 僕は友子が好きで友子も僕に興味を持ってくれた。けれど、僕たちは二人きりで会う事はほとんどなかった。二人きりだと上手く話ができず、ぎこちなくなるのだ。だからいつも君を入れた三人で会っていた。三人だと不思議と会話が続いた。お互いの固まった意識が君の鷹揚さに触れて柔らかくなり、緊張が解けていくようだった。

 あの頃はいつも間に友子を入れて三人で歩いていた。友子を通して見る君の笑顔が好きだった。
 僕も友子も君を心の底から信頼していた。君の温かく優しい性格――――それを隠すような言葉や態度の悪さも、僕たち二人は大好きだった。
「くそったれ! ど畜生!」
 君がよく言うこの汚い言葉を、僕も友子も愛していた。友子はよく君の真似をしていたよ。ドチクショウ! とあの腕を振るおかしなポーズと一緒にね。

 それでも君と友子はよく喧嘩をした。パンツ丸出しの馬鹿女とか、筋肉馬鹿野郎とか、お互いを罵り合っていた。最初は軽い言い争いだったそれが段々エスカレートして、最後は物の投げ合いになる。僕はいつもそのやり取りを笑いながら見ていた。少しだけ羨ましいなと思いながら。
 春は花見をして酒を飲み、夏は浜辺で酒を飲み、秋は山に登って酒を飲み、冬は炬燵に入って酒を飲んだ。本当によく飲んだと思う。友子は僕よりもずっと酒が強かった。最初に僕が潰れても、君たち二人はずっと楽しそうに飲んでいた。

 そんな時、ある事が起こったんだ。君は知らないと思う。もちろん友子も気づかなかっただろう。僕と友子はお互いの気持ちを知りながらも、まだそういう関係にはなっていなかった。
 君のアパートを訪ねた時、ドアの前で君と友子が言い争っている声が聞こえた。内容はよく聞こえなかったがお互い本気なのが分かった。友子は君の肩を両手で叩いた。その後、二人の唇が重なったように見えた。それが事実だったかどうかは分からない。けれど、僕には口づけのように見えた。友子は君を押し退けると階段の方へ走り去った。友子のサンダルが脱げて落ちる音が響いた。
 僕は凄く焦った。友子を君に取られると思った。
 あの日の夜、僕は友子と半ば強引に関係を持った。友子は嫌がらなかった。僕を好きだと、愛していると、泣きながら言った。友子が僕を好きだと言った気持ちに嘘はなかっただろう。それは今でも信じている。僕は彼女の愛をはっきりと感じた。

 その後から三人の関係は微妙に変化した。三人で会う回数は少しずつ減っていき、三人でいる時、僕と君はほとんど会話しなくなった。二人では会話できていたのに――――だ。僕はそれを寂しいと思っていた。僕は友子と恋愛しながら、君とも友情関係を築いていたかった。
 両方から誘われた時、三人で会いたいと思った。どちらかを断らなければいけないのが本当に辛かった。僕は友子を優先させた。その時の心の痛みがなんであったのか、当時の僕は知らなかった。

 就職活動が始まると遊んでばかりはいられなくなった。髪を切り、慣れないスーツを着て、説明会や面接に走り回った。僕は銀行を希望し、君は国家公務員の試験に向けて猛勉強を始めた。そんな時、あの事件が起こった。
 君が事故に遭って病院に運ばれたと聞いた。慌てて病院に駆けつけると、先に友子が病室に入っていた。友子は寝ている君の傍に震えながら立っていた。君の手をつかむと嗚咽するような声を洩らした。そして君の唇に――――キスした。
 多分、君は気づいてなかっただろう。友子もそれが分かっていたから君にキスしたんだ。僕はその光景を眺めながら、心臓が今にも飛び出しそうになっていた。息がまともにできず、眩暈がしてその場に座り込んでしまった。指先は冷たく震えていた。

 僕と友子は、その頃にはお互いを理解しあった本物の恋人同士になっていた。君ももちろん知っていただろう。だから、友子の動揺と君へのキスは酷い裏切りのように思えた。僕はその時から、妙な妄想に悩まされるようになった。友子は本当は君が好きで、君も友子が好きなんじゃないかと。
 僕は友子に迫った。僕を取るのか君を取るのか決めろと怒鳴った。友子は泣きながら君へのキスは誤解だと、ただ不安になって顔を近づけただけだと言った。もちろん僕はそんな言葉を信用しなかった。友子には二度と二人きりで会うなと言った。会う時は必ず僕を同席するようにと約束させた。そして僕は君と会うのをやめた。僕と友子の人生から君を――――消した。



 ――――佑都はそこまで読んで深い溜息をついた。コーヒーはすでに冷たくなっていた。この文章の「僕」は多分、父の事だろう。友子は母の名前だ。「君」が誰なのかは分からなかったが、それがZを指しているのは理解できた。佑都には思い当たる人物がいなかった。パソコンの中にある知り合いの名前を探ってみたが、Zに重なる人物はいなかった。母親に尋ねるのが一番早い。だが、佑都は本能的に、これを母親には見せてはいけないような気がしていた。父もそれを望んでいるように思えた。とりあえずもう少し読み進めてみよう。そう思って画面に視線を戻した。



 ほどなくして大学を卒業し、君とは会わなくなった。僕は大手の銀行に就職し、君はどこかの官庁に入庁できたと風の噂で聞いた。僕は日々の仕事に忙殺され、君を思い出さないようになっていた。三十歳を前にして僕は友子と結婚する事を決めた。お互いの家に挨拶を済ませ、結婚式の案内状を書いている時、ふと友子が顔を上げた。
 君に案内状を送りたいと言ったのだ。
 僕はそれを許した。いつまでも君を恨むのはおかしいし、僕たちは結婚するのだ。案内状を送ると君から連絡が来た。二人で会う事になった。あの日の事をきっと君も憶えていると思う。

 君と会うのは八年ぶりだった。君は学生の頃と何も変わっていなかった。
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
 君の笑顔を見て、僕はほとんど泣きそうになっていた。八年もの間、どうして君と会わなかったのだろうと後悔した。そしてそのきっかけを作った友子を初めて憎いと思った。
 酒が進んだ頃、君がぽつりと呟いた。
「俺はこの八年間、本当に辛かった」
 その言葉でやはり君は友子が好きだったのだと思った。
「……悪かったな」
「いや、いいんだ」
 相変わらず君は酒に強かった。僕はいつもより早く酔いが回っていた。
「仕事はどうなんだ?」
 僕が尋ねると君は少し疲れた顔をした。
「どこも一緒だよな。いかにヘマをしないか、マイナスを取らないか、ただそれだけのゲームだ。ライバルがミスをしないか口から涎を垂らしながら待ってるような世界だよ。全く、くだらない。くそったれの、ど畜生だよ」
 それは銀行も同じだった。仕事ができる人間が出世するのではなく、無傷の小心者が出世する世界だった。
「あの頃は楽しかったよな。毎日馬鹿みたいに酒飲んで騒いで、テニスして……おまえといた」
「そうだな。ホントに楽しかったな」
 君はグラスを傾けながら寂しそうに微笑んだ。
「なあ、秀和。もし魔法が使えたら、おまえはどんな魔法を使うか?」
 おかしな質問するなと思ったが、その当時、ファンタジー映画が大流行し、アイドルが魔女の格好で下手な歌を歌っていた。その影響かと質問の意味をあまり気にしなかった。
「そうだなあ。どこでもドアとか?」
「それは魔法なのか?」
「え、違うのか?」
「まあ、いいが。俺はな、一度でいいから過去に戻りたい。俺はたった一つ、過去に間違った選択をしたんだ」
「一つだけ? おまえはやっぱり凄いな。俺なんか間違った選択だらけで、どこをどう直したらいいのか自分でも分からないよ」
 店から出る頃になると僕は泥酔していた。タクシーがなかなか捕まらず、君と夜の街を歩いた。まともに歩けなくなって君に抱きかかえられた。
「おまえは知ってたか?」
「何を?」
「俺がおまえに酒を飲ませた理由だよ」
 タクシーに詰め込まれる寸前、君はぼそりと呟いた。

 ――――おまえをこうやって抱きたかったんだ。

 その言葉の意味はよく分からなかった。自分の幻覚かと思った。遠ざかっていく君をぼんやりと眺めながら、背中にまだ君の体温が残っている気がした。

 友子と結婚式を挙げた二年後、息子が生まれた。待望の男の子で僕と友子は人生で味わった事のない喜びを感じた。君とは年賀状のやり取りしかしていなかったが、それで君が結婚したのを知った。式は挙げなかったのか? 呼ばれなかったのを友子も気にしていた。
 その後、君から年賀状が来なくなった。二、三年してそれに気づいた。ある時、ゴミ箱の中にビリビリに破られた年賀状が捨てられているのに気づいた。不審に思った僕は破れた年賀状を繋ぎ合わせた。

 全てが繋がった気がした。僕は驚きのあまり息ができなくなっていた。

 その年賀状は君からのものだった。男の子――――可愛い二歳くらいの子どもが写っていた。名前を見て息を呑んだ。漢字は違ったが僕と同じ名前だった。
 僕はその時まで、友子は君が好きで、君も友子が好きなのだと思っていた。確かに友子は君が好きだった。けれど、君はどうだっただろう。そして、僕はどうだっただろう。

 キャンパスで君をひと目で見つけられた理由も、階段テラスで心臓がドキドキした理由も、君が僕とのテニスで負けた理由も、全て分かった気がした。
 初めて友子と寝た時、君に友子を取られたくないと必死だった。でも、今なら分かる。僕は君に友子を取られたくなかったのではなく、友子に君を取られたくなかったのだ。
 友子は純粋で優しく思いやりに溢れているが、頭のいい女だ。君を長い間、女の眼差しで見ていた彼女が、君が僕を愛している事実に気づかないはずがない。そして、僕が無意識のうちに君を求めていた事にも気づいていたはずだ。

 あのアパートで言い争いをしていた時、君は友子に告白されたんだろう? 君は本心を語って友子を罵った。友子は半ば当てつけのような気持ちで僕と寝た。それでも友子は君への気持ちを諦め切れなかったんだろう。事故に遭って意識のない君にキスしたいと思うほど……。

 僕と友子はずっと友達みたいな恋人同士だった。今でもそうだ。幼馴染みのようにお互いを慈しみ、信頼しあっている。だが、そこに強い情熱や執着はなかった。狂おしい気持ちは微塵もなかった。
 恋では――――なかったのだ。
 僕と彼女は似ていたのだろう。だから惹かれあった。お互いを兄と妹のように慕っていたんだ。
 勘違いしないでくれ。僕たち夫婦が愛しあっていないわけじゃない。二人の間にある愛情は今でも本物だ。ただ、二人は似ていた。まるで双子のようにそっくりだった。同じ精神構造を持っていた。お互いを兄妹のように慕いながら、一方で君に憎しみを感じるほどの強い愛情を持っていた。

 そう、僕も友子も君を心の底から愛していた。そして、そのもどかしい気持ちに答えを見つけられずにいた。同じだったからこそ強く惹かれあったんだ。もし二人の間に君が存在しなければ、僕たちは結婚していなかったかもしれない。
 僕はそこにとても不思議さを感じるよ。君がいなければ成り立たない関係。友子がいる事で成り立たなかった関係……。

 君は僕を愛していて、そして僕も君を――――。

 これは僕の幻想だろうか。いや、きっと違うはずだ。
 ――――おまえをこうやって抱きたかったんだ。
 君はあの日、僕に向かってそう言った。学生時代、毎日浴びるように酒を飲んで、僕たちはいつも酔っ払っていた。君に抱き上げられた事も一度や二度ではなかった。
 君は僕に口づけた事があるだろう? 事故に遭って意識のない君にキスした友子のように。

 僕たち三人はとても複雑で、とても哀しい業を抱えた関係だった。だがそれゆえに、美しく輝いたのだと僕は思う。
 長くなったね。なんだか疲れたよ。でも、こうやって自分の気持ちをここに記す事ができて僕は安堵しているんだ。

 君を愛している。
 ずっと愛している。
 それは信じてくれ。

                                        ――――H


 文章はそこで終わっていた。佑都はしばらくパソコンの前から動けなかった。
 佑都は相手の男を突き止めたいと思った。このメッセージを渡すかどうかはその後、考えよう。そう思い、パソコンの電源を落とした。
 佑都はZが言った「過去に起こした、たった一つの選択ミス」が気になっていた。それがなんなのかは分からなかったが、男の方も心に遺恨を抱えているような気がした。父親のメッセージを渡す事で解決する何かがあるのかもしれない。佑都はこの文章を何度も読み直した。

 葬儀の日。答えはすぐに出た。
 父の棺の前で泣き崩れた男がいた。背の高い、端正な顔立ちをした男だった。歳は取っていたが、仕事のできる特別な雰囲気と大人の色気があった。間違いない。あの男がZだ。佑都は周囲の人間に彼の名前と出身大学名を聞いた。そして、衝撃を受けた。心臓が止まるかと思った。

 ――――奈良田善行(ならたよしゆき)
 男の名前だった。出身大学ももちろん父と同じだった。
 Zは善の音読みの頭文字だろう。
 そして、苗字は佑都の友人である英一と同じだった。
 ――――奈良田英一(ならたひでかず)
 全てのピースがカチリと嵌るような音がした。
 やはりあの文章は小説ではなく、父が最期に書きとめた手紙だったのだ。Zが「僕」に対して「秀和」と名前を呼んでいるシーンが書かれていた。秀和は父の名前だった。
 ――――漢字は違ったが僕と同じ名前だった。
 佑都は一つの核心を持って大学へ向かった。

「英一、話があるんだ」
 佑都は階段テラスに英一を呼び出した。人目に付きにくい上段の角に並んで座った。
「色々、大変だったな。体調とか大丈夫なのか?」
「ああ、ありがとう。初めての事ばかりで大変だったけど、父が遺してくれてたんだ。何をすればいいのか全部教えてくれた」
 そう、教えてくれた。自分が何をすればいいのか。しなければ後悔するのか。
「君のお父さんはこの大学出身?」
「そうだよ。あれ、話してなかったか? 俺は親父と同じ大学に進学したくて死ぬほど勉強したんだ。親父とはあんまり話さないけど、大学時代の話はよく聞いたよ。凄く楽しかったって。人生で一番、楽しかったって。だから、おまえも絶対に大学へは進学しろって言われた」
「そうなんだ」
 佑都は小さく息をついた。自分も同じだった。父を尊敬していた佑都は一浪したが、同じ大学に進学していた。
「君のお父さんの名前は?」
「善行だよ。ぜんこうって書いて、よしゆきって読むんだ」
「そうなんだ」
「変な名前だよな。俺はえいいちって書いて、ひでかずと読む。どこ行ってもえいいちって呼ばれるから、もうそれでいいかと思うよ」
「そうかな。英一っていい名前だと思うよ」
「そうか。おまえにそう言ってもらえるとなんか嬉しいよ」
「俺さ、君に話があるんだ。凄く長い話なんだけど、聞いてもらえるかな」
「ああ、いいよ。俺、すげぇ暇だから」
 佑都は覚悟を決めた。大きく息を吐いた。

 ――――今日俺は魔法を使う。父が使えなかった、そしてZも使えなかったただ一つの魔法を。
 何かを応援するかのように二人の後ろを強い風が吹いた。



                                        (了)

来栖みさ
グッジョブ
2
ハタケカカシ 16/02/15 23:31

読ませる力のある作者さんだと思いました。
惹きこまれるいいお話ではあったんですが、作者さんの書きたい物を優先されたのかという気がします。
「魔法使い」というテーマからずれているように思いました。

にのにの 16/02/19 12:36

「魔法使い」というテーマでこれを持ってきたところに惹かれました。
ファンタジーに走らず、でもきちんとテーマをクリアしていて、しっとり読ませてくれる。
会話も淡々としているし話に抑揚がないけど、短編でこの内容だからこそ淡々としたこの文章運びがとても合っているように感じました。
三人称視点固定だったのですが、読んでいて一人称?いや三人称?となったので、いっそ一人称の方が読みやすかったかなーと思いました。
読ませてくれてありがとうございました。

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