エロなし/バッドエンド
夕闇が迫る部屋の中で、俺はいなくなったユキのことを思い出す。俺の知っているユキは、もういなくなった。俺の目の前で、壁にもたれ、脚を投げ出すようにしてぴくりとも動かないユキは、俺の知っているユキとはまた違うアンドロイドになるのだろう。
二十二世紀、科学大国日本は、ついに家庭用アンドロイドの普及を開始した。
アンドロイドがいれば、なんでもできる。人間は彼らと共に育ち、生きていく。それが、開発者が唱えた家庭用アンドロイドのコンセプト。
ユキが家にやってきたのは、俺が小学校に上がる頃だった。
俺があまりにも手のつけられないクソガキだったから、せめて家事だけでも楽にできるよう、父が母にプレゼントした家庭用アンドロイド。個体にインプットされた性格は、思慮深く、何事につけても慎重で、完璧主義。それがまるで、テレビや写真集でしか見たことのない、誰にも踏み荒らすことのできない、静寂に包まれた白銀世界のようで、俺は彼を「ユキ」と名づけた。
俺が家事をしている母とユキの邪魔をすると、ユキはぞっとするくらい綺麗な無表情と抑揚の少ない澄んだ声で俺を叱った。
ユキの年齢は外見も精神も共に十八歳くらいに設定されており、当時の俺とは少し歳の離れた兄弟くらいの差があった。
だからだろうか。ユキは家事だけではなく、俺の教育も任されていた。小学生の俺がう○こだのち○こだのといったくだらない言葉で笑い転げていても、彼は淡々と俺の世話をした。
うるさくはしゃぎまわる自分とは、まったくもって正反対の、物静かなアンドロイド。まるっきり子どもである自分とは正反対の、大人びたアンドロイド。それがユキだった。
♢♦
暗くなった部屋の中で、俺だけが残されていた。正確には、俺と、動かなくなったユキだけが、残されていた。
家族が分散する。それ自体は悲劇かもしれないが、所詮よくある話だ。それだけだったら、俺は斜に構えて捉えることができた。高校生になってから二年が過ぎ、世の中にはどうしようもないことだってあるのだと諦められる程度には俺も大人になった。
別の場所で新しく家庭を持つことになった父と、実家のある田舎へ戻る母と、それから、一人この場所に残って学校へ通うことに決めた自分。
慣れ親しんだ2LDKのマンションから、一人暮らしにふさわしい1DKのアパートへ、これからの生活に必要な物はすべて運び終わっている。
あとひとつ、ユキの起動さえ終えれば、俺の引っ越し作業は完了する。
その直前になって、備え付けの家具とダンボール以外は何もない部屋にひとりで立ちつくして、俺は何もできないでいる。
この部屋に入った時は、太陽が自分の真上に来るような時間帯だった。あれから何時間経ったのだろう。いつの間にか太陽は雲に隠れて見えなくなっていた。光の射さない薄暗い部屋の中では、ユキの驚くくらい真っ白な肌がよく映える。
ユキを買ってきたのは父だ。だから、ユキの所有者、いわゆる「マスター」は父ということになっていた。けれど、起動させれば、ユキのマスターは俺になる。そのためのシステムリセット作業は、先ほど父を交えて行われたばかりだった。
俺はずっとユキが欲しかった。綺麗なユキ。大人なユキ。教育係として、歳の離れた兄弟として、そして親友として、俺と一緒に生きてきたユキを、ずっと自分だけのものにしたかった。
父が新居に連れていく気がないのなら、新しい家庭にユキの居場所がないのなら、俺がユキの新しいマスターになろうと思った。父もそのことを快諾してくれた。
たったそれだけのことなのに、ユキの記憶はなくなってしまう。新しいマスターと共に過ごすにあたって、前のマスターの記憶が混乱を呼び起こすといけないからという、開発側の配慮から搭載されたシステムだった。
父がシャットダウンのボタンを押すと、ユキの白い頬の上を透明な雫が伝った。アンドロイドの詳しい構造を、俺はまだ知らない。だから、ユキの肌を伝っていったものが涙なのかも分からない。なぜユキがそんなことをしたのかも分からない。
ただ、俺はそんなユキを見て、「さよなら」と、誰に言うでもなく呟いた。
「さよなら」と「ごめんなさい」と「ありがとう」が、俺の唇からは交互に紡がれ、部屋の隅に落ちていく。俺の言葉を受け取る人は誰もいなかった。父はそんな俺に気づかないふりをして、静かに部屋から出て行った。
ユキのリセットは、あっという間に行われてしまった。あっという間だったから、それが科学なのか魔法なのかも分からず、目を閉じたユキはただ眠っているだけなのだと、俺は今でも錯覚しそうになってしまう。
それが眠りではないとようやく気づけたのは、俺が動かなければユキも動かないということ、俺がユキを起こさせなければ彼の唇は開かないのだということに思い当たってからだった。
♢♦
夕闇が迫る部屋の中で、俺はいなくなったユキのことを思い出す。俺の知っているユキは、もういなくなった。俺の目の前で、壁にもたれ、脚を投げ出すようにしてぴくりとも動かないユキは、俺の知っているユキとはまた違うアンドロイドになるのだろう。
小学生の頃の俺は、ユキに迷惑ばかりかけていて――いや、違う。小学生の頃どころか、中学生になっても、高校生になっても、そして一人暮らしを始めようとしている今に至るまで、俺はずっとユキに迷惑をかけ通しだったのだ。
中学生の俺は、反抗期真っただ中だった。進路の悩みがあり、複雑な人間関係の中での葛藤があり、気づけば周囲の人間、特にユキにはよく八つ当たりをしていた。
その日は、俺が八つ当たりをしたのはユキではなく父であり、普段から俺の態度を見かねていた母が俺のユキに対する罪状を父に報告し、結果、俺は「夕食抜き」という古典的なお叱りを受ける羽目になって、自室に閉じこもっていた。
夜になると、腹が減る。腹が減ると、眠れなくなる。だからと言って、人目を盗んで冷蔵庫に食糧を漁るなんて惨めったらしいことはしたくなかった。
「和希、ここを開けて」
俺が部屋の隅に蹲っていると、ノックの後にそんなユキの声が聞こえてきた。
「和希は成長期だから、お腹が空いたままじゃダメでしょう。おにぎり、作ってきた。具はおかかだよ」
自分の好きな具を聞いて身体が空腹を訴えてくるものの、俺は「うるさい」とクッションを扉に投げつけた。
「父さんも、母さんも、先生も友達も、みんなうるさいんだ……人が頑張って答えを出そうとしてるのに、文句ばっかり言って……」
「彼らが口を出すのは、和希を心配してるからだよ」
再び俺が「うるさい」と遮る前に、ユキは言葉を継ぐ。
「でも、僕は何も言わない。心配もしてない。だって、和希にはもう目標があるでしょう? 八年と六か月前の土曜日、午後六時三十九分にそう言ってたよね」
「……は?」
「和希が外で遊んでてちっとも帰って来ないから、僕は迎えに言ったんだ。そしたら和希はまだ遊んでいたい、帰りたくないって暴れた。僕が無理矢理連れ戻そうとすると僕を突き飛ばして、結果として、僕の頭部のパーツが一部破損した。そしたら和希は泣きじゃくって、『俺が直す』って言って聞かなかった。僕が『無理だよ』って言うと、『だったらまたユキが怪我した時は俺が直すんだ。俺のユキだから』って余計に泣いた。僕が『パーツの再破損を前提で話を進めないで』って注意したら、『俺とユキは一緒にいるんだ。ずっと一緒なんだから、またいつか怪我することがあるかもしれない。今度は絶対俺が直す』って言った」
アンドロイドは記憶力が良い。いや、機械に記憶力なんていうのもおかしい話だけれど。それでも、単純に、俺はユキが小さな言葉の欠片も失くさずにとっておいてくれたことが嬉しかった。
「『僕とずっと一緒にいる』。それが和希の未来じゃないの?」
何を悩む必要があるの? ユキの声音からはそんな思いが滲み出ているようだった。
「……そっか。俺は、ユキとずっと一緒にいればいいのか」
「そうだよ」
部屋の外で頷くユキの姿が目に浮かんで、俺は泣き腫らした目をこすりながらドアを開けた。
「和希が今すべきことは、不貞腐れることじゃなくて、僕の作ったおにぎりを食べることだよ」
ドアを開けるや否や、ユキは俺の口にぐいぐいと形の良いおにぎりを押しつけてきた。
ユキといつでも、いつまでも一緒にいたい。だから、自分でユキを直したり、メンテナンスができるようになりたい。小さい頃に漠然と抱いていた希望が、今ならはっきりと思い出せる。
気づけば、机の上に白紙で置かれたままの進路希望調査用紙に書くべきことは、もう決まっていた。
高校生になったばかりの時、俺はようやく、待ちに待った成長期に入った。背は伸び、目線がようやくユキと同じくらいになったかと思うと、数か月も経たないうちに俺の背はユキを抜かしていた。
その日は仕事で留守にしている両親に代わって、ユキは夕飯に俺の好物ばかりを用意し、俺の帰りを待っていた。今日はパーティーなんだと言った。なんでも「身長175センチ突破おめでとう」のパーティーだそうだ。
テーブルに向かい合って、無言のユキを見つめながら、俺は唐揚げやハンバーグをもそもそと食べる。どうして何も言わないんだ、また俺が何か余計なことをしでかしてしまったのか、と内心あたふたし始めたところで、ようやくユキが口を開いた。
「……もう少ししたら、僕と和希はもう歳の離れた兄弟には見えなくなるね」
急に寂しそうな声で何を言うかと思ったら、これだ。
「いや、最初から見えてなかったと思うけど」
平凡な俺と比べて繊細すぎるユキの顔立ちは、たとえ俺たち二人がどう思っていようとも、周囲に歳の離れた兄弟で通すには無理があった。けれど、ユキとしてはずっとそのつもりでいたらしい。普段は完璧すぎるほどの完璧主義なくせに、こういう時だけ彼はどこか抜けている。
「じゃあ、これからは、兄弟じゃなくて……何になろう? 親友、とかかな?」
俺の茶碗に手際よくおかわりのご飯をよそいながら、ユキが尋ねる。
「俺はずっと親友だと思ってたけどな」
クールで、世話焼きで、ユキは年の離れた兄のようでもあり、親友でもあったのだと思う。
「じゃあ、僕は一人二役ができるんだ。お得だね」
「だろ?」
俺は美味い唐揚げを食べながら、得意げに何度も頷いた。
ユキとは幼い頃からずっと一緒にいて、あまりにも性格が正反対なものだから、たまには嫌になることもあって、俺がユキに愛想を尽かされそうになることもあって――。
それでも、ユキはずっと俺のそばにいてくれた。
この兄弟のような、親友のような、一人二役でお得な関係は、ずっと続いていくものだと思っていた。
♢♦
震える指で、ユキを起動させるスイッチを押す。それは、他者にあまり触れられる機会がない場所、親しい者しか触れられない場所にある。俺はユキの背中に腕を回して、そっと探った。細い腰のあたりにスイッチがあった。
この体勢だと、まるで俺がユキを抱きしめているみたいじゃないか。
そんなとりとめのない考えが頭の隅を過ぎった。
一瞬だけ、雲の切れ間から夕焼けが覗き、一筋の光が暗い部屋を橙色に照らし出す。
『なんで僕が和希の世話ばっかり……』
家事手伝いのために開発されたアンドロイドなのに子育てまで担わなければならないのが不満だったのか、ユキは頻繁にそうぼやいていた。手のかからない子どもだったならよかったのだろうけど、俺は壁にラクガキをしたり犬の糞を部屋に持ちこんでみたりはたまたユキと喧嘩になったら持ちこんだそれを思わずユキの綺麗な顔にぶつけてしまったり――。よくよく考えなくても、俺はユキに迷惑ばかりかけていた。
『なんで僕が和希の世話ばっかり……』
これから目覚める彼は、もうそんな言葉をぼやくことはない。
俺が馬鹿をやったとしても、喧嘩にすらならない。犬の糞を投げつけ合うことなんて、きっと二度とないだろう。アンドロイドは、マスターの命令に絶対従わなければならないから。マスターのすることに文句をつけてはいけないから。
「……これからも、俺のこと、よろしく頼む」
もう二度と同じ関係には戻らない……戻れないのに、俺は白々しくユキに声をかけた。ユキを抱きしめる腕に、かすかな振動を感じながら。
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