エロなし/女子少々
「そう。今までアンドロイドさんて、女性しか会ったことないんだけど、皆女優かモデルかって人だったから、そういうもんだと思ってて。和希くんの家に行った時も、アイドルみたいな人が出て来たらどうしようって緊張してたんだよ」
遠くで夏の名残の蜩が鳴いていた。どこか心細くなるような声と、藍色と鴇色が斑に入り交じる空を背景にして、ユキはいた。小さな公園の片隅にポツンと置かれたベンチに、ぼんやりと座って空を見ていた。隣にはいつも使っているエコバッグが、買い物でぱんぱんに膨らんで置かれている。
「ユキ」
和希が声をかけると、ビクッと肩を震わせた。
「うひゃっ、えっ!?あ、か、和希。な、なんでっ!」
素っ頓狂な声を上げて、飛び上がるように立ち上がったはずみに、バッグが倒れてしまう。勢いで、面白いようにバラバラと中身が散らばり出た。和希の足下には玉ねぎが転がって来て、スコンと足にぶつかって止まった。
「卵、大丈夫だった?」
転々と落ちている、あれこれを拾い集めながらベンチに歩み寄って行く。
アワアワと何でもお構いなしにバッグに突っ込んでいたユキが、ベンチから転落をまぬがれていた、卵パックに手を掛けたタイミングだった。
「ごめん、今日お母さん早く帰って来るって言ってたの忘れてた!急いでごはん作らないと!先に帰るねっ」
はい?
それ、返事になってないって。てか、俺、迎えに来たんですけど。
なんて言い出す隙さえ見せず、ユキは卵パックを片手に脱兎の勢いで走り去った。
事の起こりは数時間前。
「あれ、ユキ?」
休日の人混みの中に、和希はよく知っている姿を見つけて立ち止まった。
細い通りを隔てた向こう、駅前広場には噴水がある。待ち合わせの人達で溢れている中で、すぐに分かった。
初秋の午後の日はまだ十分強い。目に痛いほどキラキラ光る水の粒たちに半分隠れるように、立っている細い姿。風に吹かれて、ユキの髪も陽にキラキラ光った。
「誰か知っている人いたの?」
隣を歩いていた少女も、一緒に足を止めた。
彼女は遊び仲間の内の1人。つい最近2人で会って欲しいと乞われ、迷っていた。
こうして会っているのは、ユキの薦めだ。仲間とはいえ、あまり喋ったこともないし、と躊躇っていたのを、だからもっと知り合う為に2人で会うんでしょ、と背中を押された。
食事をして、話題の映画を見た後に、カフェでも入ろうかと歩いている途中だった。
「うん、あの噴水のとこ。オレンジのシャツ、うちのユキ」
「こっちだと逆光でしょ、よく分かったね」
彼女はすぐに探すのを諦めた。
「着てたシャツ、俺がバイトで初めの給料でプレゼントしたやつだから」
「やっぱり仲いいんだねぇ。ユキくんて、お料理上手で、毎日お弁当作ってくれて、頭良くて勉強教えてくれて、夏休みの宿題も手伝ってくれて、えーとそれから…」
雨が降ったら傘を持って迎えに来てくれて、母さんから叱られたらいつでも庇ってくれて、眠れない夜は眠れるまで側にいてくれて、病気のときは付きっきりで看病してくれて、おやつは手作りで時々一緒に作ったし、学校まで忘れ物も届けに来てくれたこともあった。
その内の半分位は、もう過去になってしまったけれど。
ユキが和希の視線に気付いたように、こちらを向いた。確かに目が合ったと思ったから、
「おーい、ユキ!」
手を振ったのに、ユキはツイと背を向けたと思うと、あっという間に雑踏に紛れてしまう。
「あれ?」
「分からなかったみたいだね」
少し距離があったし、声は届かなかったかもしれないけど。ユキはとても目がいいから、見えなかったなんてありえない。
あれは、分かってて逃げたんだ。絶対そうだ。目が合ったほんの一瞬、ユキの顏に浮かんだ驚きの表情。あっと言ってるような口の動きまで見えたんだから。
そもそも行動範囲が狭いユキが、なんで地元でもなく、和希の通っている高校がある最寄りの駅でもない、ここにいるのか?
母さんに頼まれたお使い、とか?
「ユキくんて地味っていうか普通の人だよね。私、もっと派手な人、想像してたんだ」
「派手?」
「そう。今までアンドロイドさんて、女性しか会ったことないんだけど、皆女優かモデルかって人だったから、そういうもんだと思ってて。和希くんの家に行った時も、アイドルみたいな人が出て来たらどうしようって緊張してたんだよ」
地味でも普通でもない。目立たないだけで、ユキは…。
急にさっきまでの映画で楽しかった気持ちも醒めてしまった。
ユキが普通の人、ってい言われるのは今に始まったことじゃない。
確かにユキは、華々しい美形じゃない。けど。目が綺麗、声が綺麗、いつも穏やかに笑ってて、いつも可愛い。
「ごめん」
「えっ、高梨くん?」
オロオロする彼女に、
「急用思い出した。ホント、ごめん。今日は楽しかった、誘ってくれてありがとな」
せめてもの、最大限の笑顔でお礼と、置き去りにすることを心から謝った。
急いで通りを渡って噴水の所まで行ったけれど、もうユキの姿はなかった。
「ユッキーなら、さっきお使いに行くって、出て行ったわよ」
家に入るなり、全ての部屋を見て回っていたら、母親がバスルームから髪を拭きながら出て来た。休日出勤の仕事が、予定より早く終わったらしい。
「何も、言ってないし」
和希はうろたえた。
「探し物してるだけかもとは、思わないのかよ」
「だって和希のどこだっけ?って皆ユッキーが覚えててくれてるじゃない」
正にその通りでございます。
お使いに行った、って…それじゃ出先で見たのは?本当にユキ?
いやいや、俺より先に帰って来て、又出たのかも知れないし。
ユキが戻ったらすぐ分かるようにと、リビングのソファで待つ事にする。けれども携帯ゲームも雑誌も、上の空。挙げ句に小一時間経っても、帰って来ないし。
「駅の向こうの商店街に行ったんじゃない?角のスーパーよりもいい野菜があるんだって。魚も、肉も、専門のお店はやっぱり違うって」
は?何それ、聞いてないし!!危うく母に八つ当たりしそうになった。
「迎えに行って来る」
財布と携帯端末を持って、和希は立ち上がった。
「はいはい、行ってらっしゃい」
ニヤニヤ手を振るのを見なかったことにして、外に出ると、夏の終わりの日が暮れようとしていた。
…未だかつてない、挙動不審。
まぁいい。いくら走って逃げたって、ユキの行き先は家なのだ。
ユキは二度も逃げたくせに、再びリビングに陣取った和希を横目でチラチラ見ながら、それでも食事の用意は完璧にこなして、早々に自室に引っ込んでしまった。
食事の後。
ユキの部屋のドアをノックする。
「ユキ、ちょっといいか?」
ガッターン、ドサドサ、ドコーン。数々のアグレッシブな音の合間に、うわぁぁぁと小さいながら叫ぶ声まで、中から響いて来た。
「ユキ!?」
「和希…」
現れたユキの額が赤かった。おまけに廊下から覗き見た部屋の中は、椅子が倒れ、本が床一面に散らばり、粉砕されたメディアケースがその隙間を埋めていて、音楽プレイヤーとヘッドホンは部屋の別々の隅に吹っ飛んでいた。
「うわ、どうしたんだよ、これ?」
「うん、ちょっと、色々と…」
ユキは曖昧に笑った。
部屋に入れてもらい、ドアを閉めるなり、
「ごめんなさい。今日は後を付けてました!」
いきなり頭を下げられた。
逃げた事を追求するはずが、予想外の展開で和希は咄嗟に言葉が出て来ない。
「どうしても気になっちゃって。和希が家を出て独りになったら、ますます和希のことばっかり考えてて…どこに行くかは聞いてたから、もしこれから行ってみて会わなかったら、買い物して帰るつもりだった。彼女といるの見たら、それでスッキリするだろう、って思ってた。でも、帰れなかった」
いくら女の子と2人で出かけるのが初めてだって、ユキはそんなに過保護だったっけ?
自分の左腕を掴んだ、ユキの右手が小さく震えていた。
「疚しい事したから、自己嫌悪で、和希にも噴水の所で見つかっちゃったし、どうしていいか分からなくなって、さっきも逃げた。ごめんね」
先に謝られたせいか、結構な衝撃の告白のはずなのに、怒る気にならない。
それよりもずっと一緒にいたのに、ユキがこんなにも動揺した姿を今まで見た事がなかったから、新鮮と言うか、ちょっと面白かったと言うか…。
「俺、最近変だ。落ち着きないし、ストーカー入ってるし。検診、行って来たばかりだけど、もう一度、ちゃんと見てもらった方がいいのかな」
「ストーカーって程じゃないし。ユキ、大げさ」
和希はプッと吹き出して、笑いながら、まだ自分の腕を掴んだままのユキの右手を解いて握った。
「落ち着きないのも、何か楽しいし、新キャラでドジッ子ってのもいいんじゃない?俺、好きかも」
「へ?ドジッ子って」
覗き込んだユキの瞳が不安定に揺れて、顏ごと逸らされた。
「何事も冷静なのが俺なのに、好きって言われても困るよ」
ボソボソ喋ったりするのも初めてで。うわぁ、何このユキ、どうする可愛いよ。
ユキの手を握る力が、思わず強くなってしまった。
「は、離してよ」
言ってる割には、自分から手を引いたりしない。だから。
「ユキって、俺の事好きなの?」
今の今まで、言った本人すらも考えた事のない言葉だった。口からポロリと自然に溢れ出たかのような。
「えっ!?」
ビックリ見開いた目で、見返して来たユキの口元がすぐさまムウッと曲がった。
「好きに決まってるじゃないか!中学に入った辺りから、恥ずかしいからいちいち言うなって、和希が言ったから止めてたのに。何で今更!俺はこの家に来てからずっと、和希もお母さんも大好きです!」
台詞とは裏腹に、挑むみたいに睨みつけられた。
「違うって、そっちの好きじゃなくて」
先に言ったのは自分の方なのに、
「恋愛の方の好きかって聞いたの」
急に恥ずかしくなった。
「恋愛の好き?それはないよ。だって、恋愛は俺には組み込まれてない要素だから」
ちょっと前までの動揺しまくりの姿はどこへやら、キッパリ言い切られて、今度は和希が驚く。
要素?そんなの…でも本人が言うんだから、間違いないんだろう。
俺、独りで盛り上がって勘違いしていたみたいだ。力が抜けて、ずっと握っていたユキの手を離した。
「気にしてもらってたから報告。あの子とはもう会わない。俺、態度悪くて傷つけたと思うし。うん、電話してちゃんと謝らないとな。邪魔してごめん」
どうして急に胸の中が重苦しくなったのか分からないまま、和希は廊下に出た。
バイトを休んでしまった。急用が出来たと嘘をついて。だって、そんな気分になれなかったから。
家に帰ると、ユキはソファでうたた寝をしていた。
そおっと起こさないように、側まで歩いて行く。
「俺、ユキに俺が好きなの?って言ったけど、好きなのは俺の方だった。昨日、あれから独りで考えて、分かったんだ。ずっと一緒にいたのに、今になってこんなの変だって、自分でも思う。自分には恋愛の要素はないって言い切ってたけど…新しく生まれて来るって事はないの?恋愛の好きも、家族の好きも、友達の好きも、好きの1つの形で。恋愛だけ別って、その境目はどこなの?俺の気持ちは前からユキのこと家族として好きなのとは、切り離せないのに。本当に好きになってもらえるって、ないの?」
気を使って近くまで来たくせに、普通のトーンで話しかけてしまった。ユキはよっぽどぐっすり寝ているのか、起きそうな気配はない。
「まったく、そんなにグースカ寝てたら留守番失格だぞ!」
目を閉じると少し幼く見えるユキの寝顔を見ていたら、凄く、凄く、キスしたくなった。
思い立ったが吉日、じゃなくチャンスの女神は前髪しかない、じゃなく。ごめん、ユキ。一度だけだから!
和希は慎重にソファの背に片手を突いて、顏を近づけて行く。あともう少し。狙いは外したくないから、目は閉じないでおく。
「うわあぁぁっ!」
突然突き飛ばされて、一体何が自分の身に起ったのか理解出来ずに、和希は呆然とした。頭、ゴンて言った。い、痛い。
ラグの上に横たわったまま、斜めから見上げたユキは…。
「和希のばかばかばかっ!」
見た事もない真っ赤な顏で、目がウルウルしていて、ぽやっと見とれてしまった。ユキってこんな表情もするんだ。もっと好きになっちゃったよ、困った。
「怒ってても可愛いな、ユキは」
間髪入れずに、クッションがボコボコ飛んで来た。視界を遮られている間に、ユキは出て行ってしまったようだ。
あんなに音を立ててドアを閉めるの、初めて聞いた。
口元が、どうしようもなく緩んで来る。
この痛みは、希望の証だ。
自室に逃げ込んだユキを捕まえる為に、和希はゆっくり起き上がる。
どうぞ、今度は何も飛んできませんように。