エロなし/せつない
「これは『成長』だよ、和樹」「成長?」「そう。決断することができたのは和樹が『成長』した証拠だ」
ふと見上げた空の青さにハッとして、高梨和希は足を止めた。午後の陽射しは暖かいが、頬に感じる風は突き刺すように冷たい。
高校からの帰り道。和樹は視線を戻して再び家路を歩き始めた。三年間通ったこの道とも来月でお別れだと思うと、見慣れた風景を脳裏に焼き付けなければならないような気持ちになる。
(…なんて。俺も単純だ)
マフラーの掛かった両肩をすくめて、和樹は感傷的な気分を打ち消した。
――高校を卒業することは、和樹にとってはもう一つの別れを意味している。
「ただいまー」
玄関で靴を脱ぎながら声を掛けると、スリッパを履いた足音が廊下を近づいてきた。
「ただいま、ユキ」
「おかえり、和樹」
ほとんど荷物が入っていない通学かばんを手渡すと、ユキはいつものように微笑んで出迎えてくれた。寒かった? と問われ、まあね、と応える。
ユキが高梨家に来て十数年。それなりに色々なことはあったが、両親と和樹とユキの四人で穏やかに暮らしてきた。ユキの見た目は青年のままだ。出会った日と同じ整った顔、ゆるくウェーブしたショートヘア、透明感のある声。変わることがないユキの身長を、和樹は昨年やっと追い越した。
ユキは男性型のアンドロイドだ。仕事で多忙な両親に代わり家事全般と和樹の養育係を担う彼は、購入した当時は最新型だったらしい。今や立派な旧型アンドロイドで、ここ数年は年に二回のメンテナンスが欠かせない。――けれど、もうメンテナンスに出す必要もない。
「晩御飯、何食べたい?」
「んー…親子丼」
パッと思いついたメニューを和樹が告げるとユキは不服そうな顔をした。
「また? 先々週の水曜日も食べたよ。その前の週の月曜日も、先月の」
「分かったよ。…じゃあラーメン」
「先週の日曜日に食べた。先々週は…食べてないか」
ユキの体のどこかから微かな機械音がした。検索している音だ、と和樹は思う。ユキは常に何かを検索していて、たまに音がする。人間が常に何かを考えているのと同じだが、人間からは音は聞こえない。ユキだって昔はこんな音を出したりしなかった。
メニューを決めて二人で買い物に行った。途中、父親から『泊まりになったからメシは要らない』というメールが届いた。母親は出張中なので一人分の食材を買って帰路につく。川沿いの道から眺めると、空は夕焼けに染まっていた。
「綺麗だな」
「そうだね。夕焼けは美しい」
オレンジ色に照らされて頷くユキの横顔を見ながら、和樹は(綺麗だな)と心の中で繰り返した。
夕食を終えて本を読んでいるうちに夜になった。進学先が決まっている和樹は、ここのところ時間を持て余し気味だ。それでも、友達と一緒に出かけて受験からの開放感を満喫する気分にはなれなかった。今は何よりも優先したいことがある。
「充電、終わったよ」
和樹が風呂から上がると、電源ケーブルに繋がれて休止モードだったユキが復旧していた。
「寝ようか」
そう言って、和樹はほんの少し血色が良くなったユキの頬に触れた。柔らかく、決して無機質ではないけれど、明らかに人間とは違う。ユキの設定温度は常に二十度でひんやりしている。
和樹はユキの手を引いて自室に入り、そのままベッドへと誘導した。もつれるようにして倒れ込み、ユキの両頬を固定してから触れるだけのキスをする。ユキの唇も同じように冷たくて、自分が異常なほど興奮しているような錯覚に陥った。
――両親が居ない夜=和樹と一緒に寝る夜
ユキの回路にはもうこんな計算式が記憶されているだろうか。ユキと別れると決めてから始まったこの習慣だが、望んでやっているのは和樹だけだ。
「…好きだよ」
そう囁くとユキは目を閉じた。そうするものだと和樹が教えたからだ。
ユキは汗をかかない。涙も唾液も分泌されない。だからユキの唇はいつも乾いている。
(…俺が…)
一度だけ、和樹はユキの口内に自分の舌を差し込んだことがある。しかし唇と同じように乾いた舌を感じた瞬間、冷水を浴びせられた気分になった。自分が見境のない野蛮な何かになってしまったという自己嫌悪と後悔に、数日はユキの顔を正面から見られなかった。ユキが何かを感じたはずはないのに。
――機械音。一人分の食事。冷たい肌。乾いた唇。
『夕焼けは美しい』
ユキの言葉。あれはユキ自身の感情ではない。「夕焼け=美しい」とユキの回路に記憶されている情報だ。
(俺が覚えておくから――)
和樹は唇を離し、ユキの体を抱きしめた。ユキと過ごす時間が濃密になるほど、ユキがアンドロイドであるという現実に今さら飲み込まれそうになる。和樹にとってそれは絶望そのものだった。
「泣いてる? どこか痛いの?」
心配そうに訊いてくるユキに「胸が痛い」と正直に言うと、真剣な顔で心臓のあたりを触診された。
「脈も鼓動も正常だ。朝になっても痛かったら病院へ行こう」
「そうだね」
和樹は笑いながらそう応えて寝室の灯りを消し、ユキの両目に手のひらを翳してスリープモードにした。休止モードと違い、人間に模した寝息が聞こえてくる。
あの機械音はもう聞こえない。そのことにひどく安心して、ユキの隣で和樹も目を閉じた。
和樹の両親がユキを買ってきたのは和樹が小学校に上がる頃だ。今でこそ多くの家庭にアンドロイドが普及しているが、当時はまだ珍しかった。その後、働き盛りに突入した両親は忙しさに拍車が掛かって不在がちとなり、ユキは和樹にとって一番身近な存在になった。
両親は和樹の兄弟を作ろうとしたのかもしれない。人間そのもの…とはいかないまでも、高性能アンドロイドに分類されるユキは、実際に兄のように和樹に色々なことを教えてくれた。寂しさを感じることはあったかもしれないが、もう思い出せないほどだ。
優しくて綺麗で、何でも知っているユキ。ユキは和樹の自慢のアンドロイドで、親友だった。
「――ねぇ、成長するってどういうこと?」
和樹が十歳になったばかりの頃、ユキにそんな質問をした。出会った頃と変わらない彼が、自分と――人間とどう違うのか、当時の和樹は理解しようと必死だった。
「『成長』というのは発達して大きくなることだよ。和樹も毎日、少しずつ『成長』してるんだ」
「ふーん。…ユキは成長しないよね」
背も伸びないし、体重も増えないし、髪も伸びない。そう言って和樹が指折り数えると、ユキは面白そうに笑った。
「僕はアンドロイドだからそういう変化はしないよ。けれど『成長』はしてる」
「えー? どのへんが?」
「僕は毎日、お父さんやお母さんや和樹から色々なことを教わって記憶してる。それに、メンテナンスに行く度にデータベースを更新してる。僕にとって『成長』とは情報が増えていくことなんだ。和樹と出会った頃よりも作れるメニューは増えたし、道も覚えた。英語だって教えてあげられるよ」
「…別にいい」
難しい言葉が沢山出てきて、和樹は一度に理解することを諦めた。
ユキの耐用年数が十年程度であることを和樹は物心ついた頃から知っていた。両親との会話やユキ自身の言葉を介して理解しているつもりだった。けれど――
「購入から十年目ですから、来年からメンテナンスを年二回に増やす必要があります」
それでも、持って十五年と考えておいてください。
定期メンテナンスに訪れたラボで担当者に言われた言葉は、頭が真っ白になるほどの衝撃を和樹に与えた。ユキの場合、終わりの日は突然やってくるという。
その日から和樹は、誰も居ないリビングで人知れず倒れているユキを見つける夢を何度も見た。ありがとうも言えずにユキと別れる夢。名前を呼んでも体を揺すってもユキは目を覚まさない。
(……嫌だ!)
だから和樹は――ユキとの別れの日を自分で決めた。
「…俺が高校を卒業したら、ユキを、し、終了させることにしたんだ」
「分かった」
ある夏の日。何度も考え、悩み、両親とも相談して出した結論をユキに告げた。緊張していた和樹とは対照的にユキの返事はシンプルだった。
「…あの…それだけ?」
「それだけって?」
「いや…。俺、すげー悩んで決めたんだけど」
拍子抜けして非難めいたことを言うと、ユキは少し考えた後で和樹の頭を撫でた。
「これは『成長』だよ、和樹」
「成長?」
「そう。決断することができたのは和樹が『成長』した証拠だ」
ユキは見慣れた笑顔で、他人事のようにそう言った。自分が終了すること――この世界から消えることは怖くないのだろうか。寂しくないのだろうか。
(…ないのか。アンドロイドだから)
ユキは消えることを寂しいとは感じない。和樹と別れることを惜しむ気持ちはない。そんな当たり前のことが、和樹にはひどく悲しく思えた。
ユキと一緒に寝るのは小学生の頃以来だった。疚しい気持ちがあったのではなく、ただ気恥ずかしくて、和樹は両親の居ない夜を選んでユキを自室のベッドに誘った。
「最後に和樹と添い寝したのは十年前の二月九日だね」
「…そう?」
ベッドの上で向き合って寝そべると、十年前よりもユキが随分小さく、近くに感じられて、和樹は急に落ち着かなくなった。
――目の前で微笑むユキはもうすぐ消えてしまう。ユキの分まで自分が覚えていよう。ユキが存在していたことを。ユキのひんやりとした温もりを。その感触を。
「…キスしていい?」
ユキを取りこぼしたくないという気持ちは、何故かそんな言葉になって和樹の口から漏れた。
「うん」
少しだけ機械音がしてからユキが頷く。きっと「キス」を検索したのだろう。そんなユキがとても健気に思えて、和樹は泣き出しそうな気持ちになった。
「大好きだよ」
ユキの唇にキスをして、その体を抱きしめた。初めてのキスは冷たい涙の味がした。
高校の卒業式は土曜日で、その夜、高梨家では四人揃って和樹の卒業祝いをした。ユキと過ごす最後の夜だということに誰も触れなかった。
そして翌日――。
「ユキ、ここに座って」
定位置であるダイニングチェアにユキを座らせて、和樹はその背後に回った。背中にある制御ユニットのカバーを開け、今まで一度も触ったことのないダイヤルを回す。
「右に三、左に三、また右に四…。十秒後に終了処理が開始されます、だって」
説明書を閉じて両親と頷き合う。ユキの正面に立つと、初めて聞く機械音が聞こえてきた。
「ユキ」
視線を合わせるように膝立ちになって和樹はユキの両手を取った。
「今までありがとう」
「和樹」
ダイニングを満たす明るい陽射しの中で、見慣れたユキの笑顔がとても儚いものに感じられる。
――カタカタ。ジージー。カタカタ…
「和樹、僕はね」
そう言ってユキは軽く和樹の手を握り返した。
「和樹自身が僕を終了させることを選んでくれて、とても誇らしかったよ」
――カタカタ。ジージー…
「…ユキ」
ユキが自身の感情を言葉にしている。そんなはずはない。ないのに――。
その光景を、和樹は不思議な気持ちで見つめた。
「和樹は良い子だ。良い男になった」
――ジージー…
「ユキ…それは」
深呼吸をした。涙が零れないように。声が震えないように。
「ユキが居てくれたからだよ」
そう告げると、ユキは嬉しそうに「うん」と頷いた。
「僕も和樹が大好きだよ」
「ユキ…」
「今までありがとう。君の幸せを祈ってる」
…カタン。
音が止むのと同時にユキは目を閉じた。部屋中に沈黙が満ちて、誰も言葉を発することができない。
(……ユキ。…ユキ)
終わってしまった。行ってしまった。
一瞬、抱えきれない感情がこみ上げてきて、和樹は握ったままのユキの手を強く掴んだ。
(…ユキ!)
――最後の最後、ユキは本当に人間のようだった。「好きだ」と返してくれたのも、「祈ってる」なんて言ったのも初めてだ。
「…良い男だってさ」
吹っ切るように笑って、和樹は立ち上がった。
「俺、頑張るよ。ユキに怒られないように」
「ああ…そうだな」
父親に背中を叩かれ、和樹は大きく深呼吸した。
『和樹』
自分の名前を呼ぶ優しい声を思い出す。これから先、何度も思い出して、その度に温かい気持ちになれる。きっと――きっとそうだ。
(さようなら、ユキ)
窓から空を仰ぐと、とても綺麗な青空で、和樹はその景色を脳裏に焼き付けようと強く思った。