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第1回 BL小説アワード

夜、優しいキスをする

いつもみたいな平手打ちではなく、思いきり殴られた拍子に唇が切れた。いつもは怒った父親をただ宥めるような言葉をかけるだけのユキが、そのときは「二人とも、やめて」と、今にも泣きそうな大声をあげてあいだに割り入ってきた。

森田大志
4
グッジョブ

 ベランダの床に座りこんだ僕のとなりで、エアコンの室外機が静かな音をたてて回っている。頬をつたう涙を何度も拭いながら、手すりの向こうに見えるマンションの、明かりの灯った窓を数える。「しばらく反省していろ」と、長いお説教のあと父親に言われて、ベランダに放り出された。外へ締め出されるのも日が昇っているときはまだいい。でも今日はもう夜の七時を過ぎていて、星も見えずただ月の光だけがぼんやりと明るくて少し気味が悪かった。
 ベランダの扉の鍵がカチリと開く音がして、勢いよく振り返る。
「お父さん、ごめんなさい。もう」
「和希くん」
 ガラスの扉を少し開けて立っていたのは父親ではなく、アンドロイドのユキだった。ユキは唇に人差し指を当てて静かにと、合図する。少し前までいた全身が銀色のアンドロイド、アールに代わりうちにやってきたのがユキだ。ユキはアールとは違い見た目も、ふとした仕草もまるで人間と区別がつかない。
「和希くん。これ」
 ユキはとなりに膝立ちになって、白いマグカップを差し出した。持ち手までほんのりと温かくなったマグカップには、ふっくらとした蒸しパンが焼けていた。
「夕ご飯食べてないから、お腹、空いてるでしょ」
「でもお父さんに」
 夕食は抜きだと言われた。リビングで怒られている間、ユキはキッチンにいたから全部聞こえていたはずだ。
「俊夫さんには、内緒」
 ユキは透き通った黒い瞳で柔らかく笑いかけたあと、小さな銀のフォークを僕の右手に握らせた。一度振り返って扉の向こうを確認したあと、フォークを蒸しパンに突きたてる。柔らかい生地の中にはとろりと溶けたチョコレートが入っていた。
「ありがとう、ユキ」
 空っぽになったマグカップを、となりにしゃがんだユキに差し出しながら呟く。
「どういたしまして」
 ユキに微笑みかけられて、とまっていた涙がまたぽろぽろと零れ落ちてきた。ユキによしよし、と頭を撫でられる。アールはこんなことしなかった。いつも命令されたことだけをこなして、自分が父親に叱られて泣いていてもただ遠くから見ているだけだった。
「ユキは、にんげん、みたいだ」
 涙でぐちゃぐちゃの顔をあげて言うと、ユキは眉を少し下げて困ったように笑顔をつくる。そしてその笑顔のまま、両手のひらで頬の涙をぬぐってくれた。
 その夜「ユキは、和希くんの味方だからね」と、囁かれたのを十年たった今でも覚えている。



 等間隔に並んだ街灯と、立ち並ぶお店の白い明かりで暗い空は霞み、星は見えない。整然とした駅前の大通りは、スーツを着た仕事帰りのサラリーマンが早足で行き交っていた。その人の波にのろのろと流されるように歩きながら、学校指定の四角い鞄に手を突っ込んで携帯電話を取りだす。学校を出たときから切っていた電源を入れると、数時間前から幾つもの着信履歴が並んでいた。
「和希くん、いまどこですか。塾から連絡があったよ。俊夫さんはまだ帰ってきてないから。さぼったこと内緒にするから、ね。早く帰ってきてください」
 録音された音声を再生すると、早口で喋るユキの声が聞こえてくる。その声を聞くだけで、ユキの心配そうな顔が浮かんできた。きっと今もひとりで自分の帰りを待っているだろうと思うと、このまままっすぐ家に帰ろうという気になった。
 扉をそろそろと開いて中を伺いながら「ただいま」と、声をかける。ぱたぱたと軽い足音を響かせながら階段を降りてきたユキは僕の姿を確認した途端、安心したように笑みをこぼす。
「おかえり」
 走り寄ってきたユキは正面から僕を抱きしめた。細い肩に顔が押しつけられ、たぶん今日の夕ご飯の匂いと、洗濯物の匂いと、人間とは違うアンドロイド独特の匂いがする。
「ユキ」
「和希くん、こんな時間までどこにいたの。心配したんだよ」
 ユキは強く抱きしめていた腕を解いて、黒い瞳でまっすぐと僕を見つめる。
「ちょっと、遊んでただけ」
「塾まで勝手に休んで。ダメでしょう」
 ユキは眉をさげて、唇をきゅっと結んだ。ユキに怒られても恐くはない。それでも僕は素直に「ごめん」と呟いた。
「どうしたの。学校でなにかあった」
 そんなに落ちこんでいるように見えたのかユキは表情を一転させ、心配そうに瞳を揺らしながら僕の両手を軽く握る。
「ううん、別になにもないよ」
 ただ何となく気分が乗らず、塾をさぼっただけでここまで心配され申し訳なくなる。それでもユキは「そっかそっか」と、大きく頷いた。
「たまにはそういう日があってもいいよね。でも今度からそういう時はユキに連絡ちょうだい。ユキ、何かあったんじゃないかって心配になるから、ね」
「わかった」
 ユキは微笑み、一度僕の手をぎゅっと握ってから「よし」と、気合いを入れるような声をあげた。
「とりあえず、お風呂はいるよね。ユキは夕飯の仕上げしよっかな」

 夕食のあとリビングのソファでテレビをつけっぱなしにしたまま、緑茶を飲む。熱いお茶が好きではない僕のためにユキはいつも、急須に茶葉をたっぷり入れてお湯を注いだあと、大きな氷をいれたコップに注ぎ一気に冷やして持ってきてくれる。
「そうだ。ユキ、今日はチョコケーキ作ったの。いま出そうか」
 ユキは皿洗いをしていた手をとめて冷蔵庫からラップのかかったチョコレートケーキを取り出した。白いお皿にケーキひと切れとピンク色のクリームを添えてソファまで運んでくる。
「ケーキなら緑茶じゃなくて、珈琲淹れなおしたほうがよかったかな」
「別に緑茶で大丈夫だよ」
 ユキの作るお菓子は美味しい。ユキは小さい頃からいつも僕の食べたいものをおやつに手作りしてくれた。今ではユキの趣味はお菓子作りだ。
「どう、美味しい」
 となりに座ったユキに向かって頷くと、ユキは嬉しそうに笑顔をつくる。
「今日はね、生クリームにこの前作った苺ジャム混ぜてみたの。今度は、洋酒を使ったケーキに…」
 そのとき玄関の方から鍵を回す音がして、ユキは素早く立ちあがる。
「俊夫さん、今日は早いね」
 呟きながら、廊下へと駆けていくユキの後ろ姿を見送る。僕は残りのチョコケーキにフォークを伸ばして一気に頬張った。すぐにリビングに戻ってきたユキは想像通り、
「俊夫さんが。話があるから部屋まで来なさいって」
 と、言った。そして「すごい機嫌悪いみたいだけど」と、心配そうに付け加える。
「あー、たぶん。今日、この間の模擬試験の結果が出て。結構点数やばくて。父さんの方にも、報告されてるから。それで」
 深く息を吐きだして立ち上がる。中学校までは、学校での都合の悪いことはユキにも協力してもらって隠すことができたが、高校では出席の有無や試験の結果、その他学校での生活態度まで全てデータとして保護者に送られてしまう。なるべく時間をかけて階段をのぼり、廊下の突き当たりにある父親の部屋をノックする。「入りなさい」と、くぐもった低い声が聞こえてくると、後ろに付いてきていたユキは励ますように眉を下げたまま微笑んだ。
 長いあいだ正座させられ、痺れた足で自分の部屋に駆けこんで寝台に倒れこむ。仰向けになって右腕で両目を抑えながら、息を整えた。扉が開く音がして「和希くん」と遠慮がちな声がする。人よりもよく聞こえる耳で、全部丸聞こえだったんだろう。両目を覆う右腕がそっと持ち上げられ、頬に手のひらが優しく触れる。
「腫れてる」
「大丈夫、痛くないから」
「冷やすもの、持ってくる」
 立ち上がって駆けていこうとするユキの腕を掴む。側にいてほしい。そんな言葉は、わざわざ口にしなくても伝わる。
「和希くん」
 ユキが左手を寝台の上につき僕の頬を撫でる。じんわりとした痛みに顔を歪めたとき、唇にユキの冷たい唇が重なる。軽く触れるようなキスに、口を開いてユキの上唇を噛む。
「……っ」
 ユキは唇を離しては、今度は強く押しつけてくる。初めてこんなふうにキスをしたのは、中学生のときだった。
 今ほど父親の言うことを要領よく受け流すことができなくて、一々反抗したあげくその日は大げんかになった。いつもみたいな平手打ちではなく、思いきり殴られた拍子に唇が切れた。いつもは怒った父親をただ宥めるような言葉をかけるだけのユキが、そのときは「二人とも、やめて」と、今にも泣きそうな大声をあげてあいだに割り入ってきた。
「大丈夫、和希くん」
 二人きりになってユキに触れられた瞬間僕は、自分でも訳がわからないほどに涙が流れてとまらなくなった。
「ユ、キ…っ」
 子どもみたいに泣きじゃくる僕にユキは初め狼狽えていたが、いきなり僕の頬を両手ではさんでキスをした。何度も優しく唇を押しつけながら、親指で頬をぬぐっていく。
「やっと、泣きやんだ」
 驚いて固まる僕の顔を見つめて微笑むユキの唇に、自分の真っ赤な血が滲んでいた。
 ユキは僕の顔の両側に手をついて半ば覆いかぶさるような体勢のまま、
「和希くんの口の中、甘い味がする」
 と、面白そうに言った。
「さっきのチョコケーキ、本当に美味しかったから、また作ってよ」
「いいよ」
 ユキは頷いたあと僕のとなりに横になる。部屋の中が静まり、窓の外の虫の声が聞こえてくる。十年も一緒にいれば、いまユキが黙っているのは僕を励ますためにどんな言葉で切り出そうか迷っているからだと分かる。しばらくしてユキは「あのさ」と、小さな声で喋りだした。
「ユキ、和希くんは、勉強ちゃんと頑張ってると思うよ。テスト前は遅くまで勉強してるの知ってるし。塾も、まぁたまには、さぼっちゃうことがあってもいつも頑張ってるし」
 僕は天井の照明を見つめたまま、何度も瞬きをした。テスト前の勉強中、ユキは時折様子を見にきて、珈琲を淹れてくれたり夜食を作ってくれたりする。父親に言われたからといって良い点数をとらなければ、とは思わないがユキにそれだけ世話を焼いてもらいながら、結果につながらない自分が嫌になる。
「俊夫さんはさ、結果がでないと意味がないって言ってたけど。ユキは頑張った時間もきっと無駄になってないと思うよ」
 まるで考えを読んだかのようにそう言うと、僕の腕を掴み体を横倒しにして黒い瞳で僕の顔を覗きこむ。
「それにしても。何もほっぺた叩くことないじゃんね」
「別に、平気だって」
 ユキは左頬にそっと触れたあと頭のてっぺんを優しく撫でた。髪の毛に細い指を絡めては、指の間からおとしていく。時折、肌に触れるユキの指先が気持ちよくて僕は目をつむった。ユキはしばらく僕の髪の毛で遊んでいたが不意に「俊夫さん、そろそろご飯終わったかな」と、呟いて上半身を起こした。
「和希くん。ユキ、お皿洗いしに…」
 寝台から降りようとするユキを、今度は僕の方から押し倒して唇を重ねる。
「……っ」
 ユキの細い髪の毛、ユキの白い頬に触れる。僕の、ひとり分の息遣いだけが、部屋にひびく。しばらく僕の肩をつかむようにしていたユキの両手が背中にまわって、そのまま優しくあやすように撫でられたとき、やっと唇を離す。
「和希くん、もう分かったから。今日は和希くんが眠るまでとなりに居てあげる」
 ユキは僕の唾液で濡れた唇で笑う。僕は正面からユキに抱きついて、寝台に倒れこんだ。胸に顔を埋めると、ユキの手のひらがまた背中を優しく撫でた。
「今日の和希くんは随分、甘えたさんだね」
 独り言のように呟くのが頭の上で聞こえる。こうして胸に耳を押しあててもユキの心臓の音はない。ただ自分の心臓の音だけが、いつもより早くてうるさくて、僕はなぜだか泣きたくなった。
「ユキ」
「なぁに」
「僕は、ユキが好きだよ」
 背中を撫でていたユキの手が止まり一瞬の沈黙のあとその手が、ぎゅっと痛いくらいに僕を抱きしめた。
「ユキも。和希くん、だーい好きだよ」
 小学生の頃から「ユキ、大好き」と、ことあるごとに言う僕にユキは今と変わらない声で、変わらない言葉を返した。ユキのなかで僕はまだ、暗闇でひとりになると泣いてしまう小さな子どものままなんだろうか。
「ユキ」
 埋めていた顔をあげてユキを見上げる。この細い首と、薄い唇と、長い睫毛。全部つくりもので、涙を流せない黒色の瞳が部屋の照明にあたって、きらきらと光っているように見えた。

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