あまあま/エロ少なめ
ここ数日、ユキと弟の智希が変だ。夕食後は大抵俺の部屋にいて受験勉強に付き合ってくれるユキが、ふとしたタイミングでいなくなってしまう。
キシッ、キシッと控え目にベッドが軋む音。低く抑えた吐息のような声。
この家に引っ越してきたのはユキがやって来たのとほぼ同じ時期、俺が七つの頃。それからもう十年になるが、これまでこんなに家の壁が薄いことを恨んだことはなかった。
――聞きたくない。聞きたくない。
タブレットに浮かぶ数式の列が全く頭に入らない。
俺は耳栓代わりに音楽が大音量で流れるイヤホンを耳に詰め込んだ。
ここ数日、ユキと弟の智希が変だ。
夕食後は大抵俺の部屋にいて受験勉強に付き合ってくれるユキが、ふとしたタイミングでいなくなってしまう。
少し経つと、決まって隣の智希の部屋からあの音が聞こえてくるのだ。
ユキは、海外出張の多い両親に代わって俺たち兄弟の面倒を見るという名目でやってきたアンドロイドだ。家事はもちろん、勉強も見てくれる。
「俺、彼女できちゃった」
夕食を食べながら智希が特有のあけすけな物言いでVサインをして見せたのはほんの二週間ほど前のこと。
そのあとユキに、キスの仕方教えてなどとふざけるので、頭を叩いて部屋に押し込めておいたのだが――。
はぁ、とため息をついて右の頬を机にくっつける。
二つ年下の智希は俺と違って自由で明るくてどこか危なっかしい性格で、子供心に不在がちな両親の分まで弟を守ってやらないとと思ってきた。
そんな俺にとってユキは一緒に家を守ってくれる仲間であり、何でも話せる友人であり、唯一甘えられる兄のようでもあり……互いに特別だと、そう思ってきたけれど……。
◇◆
ベッドの中で目を覚ますと、いつものように隣にはユキの寝顔があった。
いや、正確にはいつもとは違う。
いつもなら目を覚ますと先にユキが目覚めていて、俺が目を開く瞬間を待ち構えたように、添い寝のままで‘おはよう、和希’と告げるのだ。
「……何か疲れるようなことしてんのかよ」
自分が言った言葉に胸がチクリと痛んで、ユキの白い頬を指先で突く。
多くの人の美観に合うよう、静謐に整った横顔。
なだらかなきめの細かい瞼から伸びた長い睫毛ががぴくりと揺れて、ゆっくりとユキが目を開いた。
「おはよう、和希」
「……おはよう」
「和希、ベッドで寝ないと風邪引くでしょう。ここまで運ぶの、どれだけ大変だと思ってるんですか」
――ユキがなかなか帰って来ないから、寝ちゃったんだろ。
言いかけた言葉を胸のモヤモヤと一緒に飲み込む。
ユキ、智希と何やってんだよ。
ただ、何でもない事のようにそう聞けばいい。
けれど、もしユキと智希が俺の立ち入れない特別な関係になっていたとしたら。
胸の中に、得体の知れない感情が渦巻いていた。
顔の横に曲げられたしなやかなユキの腕。
ゆうべ俺を抱いて運んでくれたらしいのに、どうしてもその感触を思い出せない。
いつだってユキは優しいけれど、それは多分ユキにとって、特別なことでもなんでもないんだ。
「和希?」
ユキはゆったりと添い伏したまま、ガラス玉のような瞳でじっと俺を見ていた。
綺麗なそれを見ていると、触れたいような、突き放したいような、複雑な気持ちになってしまう。
「……ユキ、今日から智希んとこで寝ろよ」
今朝の俺には、それだけ言ってベッドから降りるのが精いっぱいだった。
◇◆
その夜、智希の部屋から聞こえてきたのはいつもの音ではなく、何か言い争う声だった。
「だから、もうしないと言ってるでしょう!」
珍しくユキが大きな声を出している。
「何でだよ! いいだろこんくらい! だいたいユキだってまだ」
「ちょ、そんな大声で」
智希の声を遮るようにたしなめたユキの声も負けずに大きくて、これはただ事ではないと部屋を飛び出した。
バン、と勢いよく智希の部屋の扉を開けると、ベッドの上にあぐらをかいた智希がユキの手を引っ張っているところだった。
俺を見てはっとしたように固まった二人を見た瞬間、ぶわっと心臓の血が滾るような熱さと、置いてけぼりにされたような寂しさが一緒くたになって押し寄せた。
「……離せよ」
つかつかと歩み寄り、智希からユキの手をひったくる。辛うじて大声を上げずにすんだが、心中は嵐のようで、低く抑えた声は震えていた。
「智希、ユキのこと傷つけたらいくらお前でも許さねえぞ」
なんとか言葉を絞り出した俺に、智希は信じられない言葉を吐いた。
「ああもー、わかったよ。じゃあもう兄貴でいいや」
状況にそぐわないのんきな声にカッと頭に血が上る。
「俺でいいってなんだよ! いいわけないだろ、この節操なし!」
「節操……なし……?」
智希はポカンとして俺とユキの顔を交互に見比べていたが、途端に理解したといった様子で笑い出した。
「兄貴、ちょっとこっち来て」
「何で」
「いいから来いって」
智希は笑い過ぎて出た目尻の涙を自分の肩で拭きながら、訝し気な俺の手を引いて強引にベッドに座らせた。
弟のくせに背も体重も俺より発育のいい智希に力で敵うはずもなく、あれよあれよとうつ伏せにされ、脊柱起立筋にぐっと親指を立てられる。
「うぅっ!」
「気持ちいだろー」
嬉しそうな智希の声に、思わず素直に「ウン」と返してしまってから、はたと気がついた。
「ま、まさか」
「そうだよ。ユキにマッサージしてもらってたの。ったく、何考えてんだよバカ兄貴」
腰を指圧されながら、自分のとんでもなく恥ずかしい勘違いを悟って頭に上っていた血がさあっと音を立てて引いていった。
「俺は兄貴と違って毎日部活やってんだから、筋疲労が半端無いわけ」
「う、うん……そう、だよな」
俺はもう、枕に顔を埋めて消え入りそうな声で返すしかない。
「大体、男同士でそんなことさ、あるわけ……ないとは言わないでおいてやるけどさ」
気遣うように俺の枕元に座ったユキがじろりと智希を睨みつけた気配を感じて、智希は言葉を方向転換させた。
その気遣いも、自分の勘違いも、何もかもが恥ずかしくて、青ざめた頬が今度は耳まで赤く染まるのを感じる。
「それにしても兄貴、腰ほっせえなぁ。少し運動でもしてもうちょい筋肉つけたら」
「うん……。っあ、痛……」
筋肉の間の痛気持ちいいポイントを指圧されて呻いたと同時に、信じられない力でユキに腕を引っ張られて智希の下から抜き出された。
「もういいでしょう。おやすみなさい、智希」
ユキに手を引かれてつんのめりそうになりながら廊下へと出る。
ニヤニヤしながら「壁、薄いからね」と舌を出す智希に、抱えたままになっていた枕を投げつけた。
◇◆
「嫉妬したのですか、和希?」
ベッドの上でユキに後ろから抱きすくめられたまま問われる。
夜に俺の布団にユキが潜り込むのはいつものことだが、こんな風に意志を持って密着されたのは初めてで、ユキの長い腕の中で俺の方が人形のように固まっていた。
生体と遜色なく作られたユキの身体は、その感触も、温度も、生きている自分と何ら変わりないように思える。
ただ、俺の心臓はうるさいくらいに鳴っているのに、ユキのそれは何の音もしない。その事実に、俺の気持ちはやり場のないものだと突きつけられているようだった。
「ユキ……そんなに強く抱き締めたら、苦しい」
「私も苦しいです」
首筋に顔を埋めたユキが、意外な返事を返してくる。
「和希を抱きしめると、胸が苦しくなる」
そう言いながら、ユキはますます俺を抱きしめる腕の力を強くした。
「私は知っています。和希が部活をしないのは、智希が帰ってきた時に温かい食事を用意しておくため。智希が寂しい思いをしないですむように、智希より先に家に帰っていようと思っていること」
「ユキ……」
「でも本当に寂しがりやなのは、和希の方で……寂しさを知っているから、周りの人の寂しさにも敏感で」
柔らかい唇が優しく首筋に押し当てられて、背筋が小さく震えた。
身じろぐと、太腿の付け根の辺りに硬い感触を感じて、はっとする。
「あ、あの、さ。ちょっと待ってよ、ユキ」
もぞもぞとユキの腕の中で身体を反転させて、向かい合う。
動揺した俺はチラチラと上目にユキを窺いながら場にそぐわない質問をした。
「それってさ、何のために、っていうか。ほら、ユキって子供とか作れないのに、何でそういう機能が備わってんの?」
ユキはしばらく質問の意味を考えていたのだろう、じっと俺を見つめ、しかしいくらもしないうちに「ああ」と得心して俺の手を取って問題の箇所に導いた。
「これのことですね?」
生殖など必要ないはずのユキの股間は勃ち上がっていた。
ずっと一緒に寝ていたからユキもそうなることは知ってはいたけれど、改めて触れてみると本当に人間のようで不思議な気持ちになる。
「この反応は、誰に対しても等しく起こるものではありません。それはつまり……アンドロイドでも、人を愛することが出来るという、しるしみたいなものではないでしょうか」
だんだん小さくなる声。ユキ、もしかして照れて……
顔を見ようと上向いた途端、それを阻止するかのように胸に抱き込まれた。
心音のないユキの胸。でもそこは温かい。
鼻先を埋めているだけで、胸の真ん中がじんわりと甘く痺れていく。心まで委ねてしまいたくて、ユキの背中に腕を回した。
「……和希だけ」
呟きに顔を上げる。
伏し目がちなユキの睫毛がゆっくりと上がって、俺の視線を絡め取った。
「これを使って繋がりたいと思うのは、和希だけです」
「ユキ」
名前を呼ぶより早く唇が重なって、柔らかく溶けていく。
風呂上がりのパジャマの裾から悪戯な手が侵入してきて、胸をまさぐられた。
「あ……っ、ユキ」
ささやかな尖りを指先で摩られ、たまらず脚を擦り合わせる。
「ユキ、ユキ」
ユキの首に手を回して夢中で唇を求める。いつからか、こんな風にユキに触れたくて、触れて欲しくて、たまらなくなっていたんだ。
押さえていたものが出口を見つけて一気に溢れ出していく。
「私は今、自分の感情に対する処理が追いつきそうにありません……多分、そんな風に名前を呼ばれたら、止まらなくなります」
「それは俺だって同じだよ……」
ユキは圧し掛かったまま両腕をシーツについて、俺を腕の囲いに閉じ込めた。
長い前髪の間から覗くユキの目は優しいだけではない色をのせて潤み、見下ろされるとキュッと胸が絞られたようになる。
「私に排泄機能が備わっていないことは知っていますね?」
「うん」
「つまり、私には人のように一度出せば終わりという区切りがありません」
「うん……?」
「つまり、和希が何度達しても、私が満足するまでは終われないということです」
「……え?」
綺麗に整った顔がこちらを蕩かすような微笑みを浮かべ、覆い被さってくる。心まで吸い取られてしまいそうなキスを受けながら、長い夜に引き込まれていった。
◇◆
「うわ」
目が覚めて、覗いた時計の針は午後の一時を指していた。
なんという盛大な寝坊をしてしまったことだろう。
起き上がろうとして、腰に痛みを感じてまた頭を枕に戻した時、ユキが入ってきた。
「おはよう、和希」
コートを纏ったユキからは、外の匂いがした。
「おはよう……ユキ、どっか行ってたのか?」
「はい。これを買いに」
手にシンプルな包みを乗せられて、寝転んだ姿勢のまま開いてみる。
中から出てきたのは、雪の結晶のチャームのついたボールペンだった。
「これが買いたくて、智希のマッサージをして小銭を貯めていました」
俺は思わず目を丸くしてユキを見た。
「そんなことしなくても、お金ならユキが管理してるだろ」
「ご両親から預かったお金はありますけど……私のお金で買いたかったんです」
だからって、智希から稼ぐところがズレているというかなんというか。しかしそんな俺の心の突っ込みなどつゆ知らず、ユキは得意げに目を輝かせている。
「この間見つけて、何とか買おうとがんばったんですよ。和希に学校で使って欲しいと思って。ほら、私は学校にだけはついていけないし。けれど、智希のマッサージをすると和希が嫉妬すると言うことがわかったので、もうしないと言いに行ったんです」
何も言わない俺に、ユキは一生懸命ことの経緯を説明している。
「これを見ると、学校でもユキのこと思い出すだろうな」
明らかに女の子の持ち物だと思われるだろう雪の結晶のチャームを指先で揺らすと、ユキは嬉しそうに顔をほころばせた。
本当に……そんなユキが愛しい。
「ありがとう」
起き上がって唇を寄せると、ユキの白い頬が淡く色づいた。
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