エロなし
「36度2分」日曜日の朝。ベッドに寝ている俺の額をユキのてのひらが覆った。ホッとしたように息を吐いて呟く、ユキの優しい声が耳に届いた。
「36度2分」
日曜日の朝。ベッドに寝ている俺の額をユキのてのひらが覆った。ホッとしたように息を吐いて呟く、ユキの優しい声が耳に届いた。
精密機械であるユキは、指一本だけでも正確な温度を感知する。それなのにてのひらをあててくれるのは、ユキがそれだけ俺を大事に思ってくれてるから…なんて思うのは自惚れかな?
透けるような白い肌に真っ直ぐな黒髪、長いまつげが二重の大きな瞳をさらに大きく見せている。
この美しさは人間には有り得ないよなぁ。
無意識にユキをじっと見つめていた俺を、ユキの綺麗な瞳が怪訝そうに見た。
「なんだ?」
「なんでもないよ」
俺は笑って首を振った。
ユキと一緒に暮らすようになって十年。家族としての愛情とは違う感情を、ユキに対して持ってることをユキには言えない。
「それよりお腹すいた!」
追及されるのも困るし、実際空腹だった。昨日は食欲がなくてお粥を少し食べただけだった。
「朝御飯!お肉食べたい!豚カツ!から揚げ!」
「朝から豚カツにから揚げかよ、アホか」
そう言ってユキが笑った。ユキの笑顔が俺の心をふわっと暖かくする。
「お前は本当によく風邪をひくよな。季節の変わり目に、夏風邪、冬も風邪。どんだけ俺に看病させる気だよ」
「好きでひいてるわけじゃないよ?」
「体力無さすぎんじゃないのか?寒中水泳でもしろよ」
「それ心臓とまるよね?」
「俺はとまらねぇ」
他愛ない会話を楽しみながらダイニングへ移動すると、ユキがすでに朝御飯を作ってくれていたみたいだ。すごくいい匂いがする。
「スープ温まってるからたくさん食え。そして体力つけろ」
「はーい、いただきます!」
俺は手を合わせてから、ユキが入れてくれたスープを幸せな気分で口に入れた。
アンドロイドは恋愛感情を持たない。そんなプログラムはされていない。だから、俺がどんなにユキを想っても、ユキから返ってくることはない。
だけどユキは俺を大切に思ってくれてる。それは恋じゃなくても、俺は幸せだ。
「和希」
翌日、夕方近くに学校から帰ったばかりの俺をユキが呼ぶ声が聞こえた。声のあとすぐ玄関に顔を見せた。
「ちょうどよかった。俺今からちょっと出てくるから。夕飯作ってあるから温めて食べろよ」
「え?どこ行くの?」
ユキがひとりで外出なんて滅多にないことだ。
問いかけた俺に「メンテナンスだ」という思いがけない返事がきた。
「メンテナンス?なんの?」
「俺」
「は?」
「俺のメンテナンス」
「ユキの…メンテナンス⁉」
やっと意味が理解できて後半は声がひっくり返ってしまった。
「ユキのメンテナンス…って!アンドロイドのメンテナンスは百年に一度ぐらいだって聞いたけど!ユキはまだ新しいよね⁉もしかしてどこか具合が悪いとか⁉」
急に不安に襲われる俺…だってユキは新品を買ったって父さんから聞いてたし!
俺の不安を見抜いてか、玄関で靴を履きながらユキが笑った。
「違う違う、勝手に壊すなよ。俺は旦那様がオーダーメイドで作ったやつだから、ちょっと特殊なんだよ。十年に一度は見せに来いって言われてんだ」
「父さんが?オーダーメイドで?」
初耳だよ。
「本当は一昨日がメンテナンスの予約日だったんだけど、お前が熱出したから日程を延ばしてもらったんだ。まだ予定では一月ぐらい先だったんだけど、急なキャンセルが出たから今日診られるってさっき連絡があったんだよ」
ユキはドアノブを素早く回して
「じゃあ行ってくるから、玄関に鍵かけとけよ」
そう言ってまだ呆然としている俺の横を通って出ていった。
ユキが作ってくれた夕食を食べて、お風呂に入った。まだユキは帰ってこない。時刻は午後九時になろうとしていた。
両親は昨年事故で亡くなり、この家はユキと二人だけになった。突然の訃報。悲しくて辛くて毎日泣いたけど、ユキはいつも優しく俺を抱きしめてくれた。ユキと過ごす時間は俺を安心させてくれた。
「…静かすぎる」
いつも一緒にいるユキがいない。こんなに長い時間をこの家で過ごすのは初めてだ。
ソファに座り、無意識に膝を抱えていた。
よほど遠いところまでメンテナンスに行ってるのだろうか?
それともメンテナンスに時間がかかってる?まさか、メンテナンスで不具合が見つかったとか…
そんなことを考えた瞬間、一気に不安が胸の中に押し寄せた。
もし不具合があったらどうしよう⁉治らないなんてことはないよね⁉
膝を抱える腕に自然と力が入った。
十年に一度なんて、他のタイプに比べてもっともっと精密なのかもしれない。たしかにユキは他のアンドロイドよりも群を抜いて美しく、皮膚の触感も人間と変わらない。きっとかなり高精度なんだろう。
もしかして、誘拐されたとか⁉
俺は無意識に立ち上がる。
「いやいや、ないない!アンドロイドはすごく強いし!」
でも人数が多かったら連れ去られたり…?
それともやっぱり不具合が⁉
悪いことを考え出したら止まらなくなってしまった。
時刻は午後十時を過ぎた。
「ユキ…!」
ユキまで帰ってこなくなったら…。
最悪の事態を考えてしまい、鼓動が速くなる。俺はクローゼットからコートを掴んで外に出た。
十一月も下旬に入って夜はかなり冷え込んでいた。空気が冷たい。
勢いで飛び出してしまったけど、ユキの行き先がまったくわからない。
「電話持たせておくんだった!」
ユキは家からほとんど出ない。休日は一緒に出掛けているし、平日の買い物は俺が学校に行ってる間に済ませていた。いつも一緒にいるのが当たり前で、ユキに電話を持たせていなかった。
とりあえず駅まで出ようか。いやでもタクシーで帰ってくるかもしれない。
「ユキ…」
俯いて呟いた俺の耳に、聞きたかった声が届いた。
「和希?」
顔をあげるとこっちに走ってくるユキがいた。
ユキだ…よかった…!
俺はホッとして泣きそうになる気持ちをグッと堪えた。
ユキがすぐにそばに来て、俺の腕を引き玄関に入る。
「なにやってんだよ、こんな寒いのに外に出て!また風邪が悪化するだろ!」
怒ったような口調は心配してくれているからだと、ユキの顔を見ればすぐにわかる。
ユキは俺を大事に思ってくれている。
実感して胸が熱くなる。
それが恋なら、もっと嬉しいのにな。
今度は胸が苦しくなる。
だけどユキは恋をしない。
でも、俺以外にもユキは恋をしないんだ。だから俺がしっかりしていれば、誰にも取られない。
そんなことを思っていた俺の額に手があたる。ユキのてのひら。
「よし、熱は無いな。熱いお茶でも入れるからソファに座ってろ。そしてさっさと寝ろ」
俺をソファに座らせてキッチンへ向かおうとするユキの腕を咄嗟に掴んだ。
「メンテナンスはどうだったの?」
「あ?あぁ、なんにも問題なかったよ。ただ場所がかなり遠くて交通がすげぇ不便でさ、まいった」
そう言ってユキがふわりと笑った。
あぁ、やっぱり俺はユキが好きだ。
「ユキが俺に恋をすることがなくても、俺はユキが好きだ」
「和希?」
同じ想いが返ってくることはないけど、俺の気持ちを伝えたかった。ユキに知っておいてほしかった。
言葉は、自然とこぼれていた。
真剣な顔の俺をユキは困惑した瞳で見つめる。
「ユキが好きだ」
微笑みながらもう一度、同じ言葉を口にしてユキを見つめた。ユキの瞳は真剣に俺の瞳を見て、そして微笑んだ。
「俺は、十年に一度メンテナンスをしなきゃいけない」
ユキの話が俺の告白に関係あるのかわからなかったけど、ユキの話を聞きたかった。
「十年で止まるわけじゃねぇんだろけど、わかんねぇから。俺は今回が初めてのメンテナンスだったし。特注だからいつどうなるかわかんねぇしな。大丈夫らしいけど、念のために十年ごとなんだってさ。だからお前が生きてる間は、真面目に点検しとかねぇと」
ユキは一旦言葉を切って、優しく微笑んだ。
「止まっちまったら、お前のそばにいられなくなるから」
目を離せない。ユキから。
その言葉の続きを、聞きたい。
「和希を愛してる。お前の鼓動が止まるときまで、俺は動き続けるから。だからお前も体を大事にしろよ。俺に看病ばっかりさせんじゃねぇぞ」
「ユキ…」
「ずっと、一緒にいよう」
「ユキ…!」
俺はユキを抱きしめていた。
ユキの言う「愛してる」が、俺と同じ気持ちなのかはわからない。でも、一緒にいるという約束を俺にくれた。
「ばーか。何泣いてんだよ」
クスッと笑って、ユキが俺の首に手をまわした。
ユキの温もりがこんなにも俺を幸せにする。
俺はユキを抱きしめる腕に、ゆっくりと力をこめた。
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