エロなし/車椅子
「和希。家族だろ」家族。時々、ユキが言う言葉だ。アンドロイドと人の共存の歴史はまだ始まったばかりだが、同じ姿形をしたものに対して人類が情や愛を抱くのに時間はかからなかった。
虚数軸の上に無数に書かれた数字と、波のようにうねる線。
部屋の中をぼんやりと照らすスタンドの光を頼りに、和希はフィルム状の薄い画面をじっと見つめ続け、そしてため息を吐く。
「駄目だ」
考えがまとまらなくてそう呟いた瞬間、目の前にある数字がばらけていく感覚がした。掴もうとした答えは砂のように手からこぼれ落ち、疲労感と軽い絶望が心へとのしかかる。
しかしこんな感覚、もう慣れたものだ。ここ半年は毎晩この感情を味わいながらベッドに潜り込む生活を繰り返している。
ふと時計を見るとちょうど日付が変わったところで、明日は苦手な美術の授業があることを思い出す。
やっぱり音楽を選択しておくべきだっただろうか。
そんなことを考えながら和希は椅子の右手部分に付いた黒いレバーを後ろへと倒した。
軽いモーター音がして、両脇についている車輪が後方へと回る。
車椅子の操作にももう慣れたものだ。いや、もはや慣れただなんて表現では済まない。
自分の足で歩けなくなったのはもう遙か昔のことなのだから。
和希は小学校に上がる前、ウイルス性の関節炎症状のおかげで股関節がうまく機能しなくなってしまったのだ。
――それ以来世話になりっぱなしだ。
感謝の気持ちを込めて肘掛けをぽんと叩く。そんな時だった。
コンコン、と控えめなノック音が部屋の中に静かに響く。声をかけられずとも扉の向こうにいる人物が誰なのか和希には分かった。
この車椅子と同じ時期にこの家に来た、彼。
「ユキ。入っていいよ」
とうの昔に声変わりをしたというのに、和希の声にはまだ少年のような響きが残っている。
少し間があってから、がちゃりと扉が開かれた。
「腹、減ってないか?」
身長百八十センチ程度と言った所だろうか。
ユキと呼ばれた大柄な男は、木製のお盆を片手で持ったまま立っていた。
あまり表情の窺えないその顔は見事に整っており、凜々しくつり上がった目と眉は知らない人が見ればまるで睨んでいるように思えるだろう。
「うわ、夜食だ。やった」
ベッドに転がる前で良かった。和希は嬉しそうな笑顔を見せて、また手慣れた手つきで車椅子を動かし机の前へと戻った。
「今日もあれを解いていたのか? えっとほら、名前は何だった」
「リーマン予想」
「そう、それだ」
「何回言っても覚えないなあ、ユキは」
「最適化の最中に、なぜか記憶野の下の階層に移行されるんだ。たぶんその単語自体は生活においてあまり重要じゃないってことだろうな」
「世紀の難問によくそんなこと言えるね」
淡々と説明をするユキに和希はくすくすと笑いながらそう返す。
ユキはそれに何も答えず、存外に丁寧な手つきで机の上にお盆を置いた。そこにはかまぼこと三つ葉が乗ったおいしそうなうどんと、小さなおにぎりが二つあった。
夜食と言うには少々多い気もしたが、小柄な和希も育ち盛りな高校生に変わりはない。いつも気づけば結局ぺろりと全てを平らげてしまう。
いただきます、と手を合わせてから和希はゆっくりと暖かい食事を口に運んだ。
「それでいつ解けるんだ? もう半年経つぞ」
「だから、そんな簡単な物じゃないんだって。二百年誰も解けなかった問題なんだから」
「けどお前は得意だろう。数学が」
「学生レベルの話でね」
机の脇に立って自分に話しかけてくるユキを時折ちらりと見ながら、和希はそんな風に言葉を返した。
決してどこかに座るようには勧めない。何故ならば彼はずっと立ち続けていても決して疲労することはないからだ。
ユキは、アンドロイドだ。
数十年前までは、一般家庭で生活補助用のアンドロイドを使うことなど夢物語だと思われていた。しかし科学は何度目かになるパラダイムシフトを体験し、アンドロイド産業は飛躍的な前進を見せた。
今では彼らがいない家庭の方が珍しい。
しかし、その中でもユキは少々特殊なタイプだった。彼の本分は家庭ではなく医療にある。
ユキが車椅子と一緒にこの家に迎えられたのも、歩行することが困難になった和希のためだった。
家庭用と違い、医療用は製造や運用コストが桁違いにかかる。基本的に学校や病院、老人ホームなどの団体や企業が所持するもので個人的に購入すると相当な金額になってしまうのだ。
そのため和希の両親は国のプログラムを利用し、国営企業からリースでユキを借り受けている。
つまり、彼は国の所有物なのだ。それを証明するかのように右腕には識別用のチップが搭載された赤いリングが巻かれている。
「美味いか?」
「うん。あと一杯くらい食べられそう」
「腹壊すぞ」
嬉しいのかそれとも単に和希の言葉が面白かったのか。ユキはわずかにだがその顔に笑みを浮かべた。
元々作業用のアンドロイドの素体を再利用して作られた彼は、もとより医療用として作られたアンドロイドより表情のパターンが少ない。
それに、顔の作りも人によっては威圧的に感じられるものだ。
初期型のものにはありがちな欠点だが、和希はそんなユキが好きだった。
確かに表情の変化には乏しいが、それを彼の個性――つまりは最適化されて来たプログラム上で発生した個体特有のクセなのだが――と受け止めている。
そんなことをぼんやりと考えながら、残り一つになったおにぎりを口に放りこんだ時だった。
どうして、とユキが言う。
「どうしていきなりこんな問題に挑戦してるんだ?」
ここ半年間、折に触れては聞かれていることだ。疑問に思うのも無理はない。
和希が睡眠時間を削ってモニターに向かうことは、ユキにとっては奇妙な行動として映っているのだろう。
「それは……ほら、僕数学得意だし」
誤魔化すような笑みを浮かべてそう言う彼に、ユキはわずかに眉をひそめた。
それは本当に些細な変化で、きっと和希以外なら見逃してしまうようなものだったが。
ユキは小さくため息をつき、床へと膝をついた。和希と視線を一緒にするためだ。
少し明るめの茶色をした光彩はこれ以上逃がさないというような強い意志を秘めていた。
「和希。家族だろ」
家族。時々、ユキが言う言葉だ。
アンドロイドと人の共存の歴史はまだ始まったばかりだが、同じ姿形をしたものに対して人類が情や愛を抱くのに時間はかからなかった。
ほとんどの人間にとって、共同生活を送る彼らは家族なのだ。それは和希も例外でない。
だからこそ――。
「……家族だからだよ」
ゆっくりと伸ばされた和希の手の先には、赤いリングがあった。ユキの右腕につけられたそれ。
「これをつけてる限り、ユキは『借り物』だ」
貸与されているとはいえ、正規の手続きを踏めば彼らを購入し手元に置くことは可能だ。しかしリース契約を結ぶ人間のほとんどは医療用のアンドロイドを買うほどの余裕がない人で占められている。
「ねえ、このリーマン予想って賞金がかけられてるんだ。解いたらいくらか分かる? 百万ドルだよ? これならユキを買って一生メンテナンスを続けられる」
「どうして突然そんなこと――」
戸惑いを見せるユキの言葉を遮り、和希は呟く。
「このままじゃ、僕らはいつか『分解』される」
それは口にするだけで胸を締め付けるものだった。
両者が密接になりすぎるが故の弊害。死別や修復不可能なまでの破損、その他何らかの事情で人間とアンドロイドが引き離されてしまうことを、世間では「分解」と呼んだ。
そして今、和希はその他に当たる事情を抱えている。それは。
「病気の進行が、始まったから」
ユキはただじっと沈黙を返した。そんなこと彼も承知だからだ。
成長に伴い和希の持病はゆっくりとだが悪化の一途を辿って行っている。
それにより命が奪われる訳ではないが、あと数年もすれば国の規定に従い和希の補助をするのに相応しいクラスのアンドロイドを借りざるを得なくなる。
制度を利用し国から補助を受ける限りはどうしようもないことなのだ。それに逆らうことは誰にもできない。
本人は多くを語らないが、ユキが過去「分解」を経験したことを和希は知っていた。
認知症が進行し、彼を判別できなくなった前の主人。規定上介護に特化したアンドロイドへの変更をせざるを得なくなり、自分の意思とは関係なくユキはそこを去った。
そして、和希の所に来たのだ。
その話を知ったとき、悲しみを覚えながら同時に嬉しさを感じた。
彼の前の家族がユキを手放してくれたから、自分の所に来てくれたのだ。自分の家族になってくれたのだ。
しかし今となればその事実は和希を苦しめるだけだった。
「ユキは僕と離れても、今までみたいに新しい家族を作れるかもしれない」
いつしか彼は自分を忘れてしまうかもしれない。
新しい家族を自分以上に愛してしまうかもしれない。
「その時、僕は――」
想像するだけで到底耐えられないほどの絶望が降って来て、言葉に詰まる。
「確かに、新しい家族を作れるかもしれない」
静かに言われたその言葉に胸を貫かれた気がした。鋭い痛みと同時に、涙がこみ上げてくる。視界はもう歪みきっていて、ユキの顔もよく見えなかった。
「けどな、和希」
彼の腕が自分に向かって伸びてきたかと思うと、ゆっくりと体を包み込む。
――だからって、平気なわけじゃない。低くかすれるような声が耳元でする。
「失った物は二度と返らない。それがお前なら、俺は……」
ユキも言葉に詰まってしまったのか、それともあえてその先を言わないようにしているのか。
少しの沈黙を挟んで、和希はすっと息を吸う。
「僕は、ユキの最初の家族じゃない」
今伝えなければきっともう何も言えなくなってしまう。全てを伝えなければ。
僕たちが、分解されてしまう前に。
「だから、最後の家族になりたいんだ」
望むことはそれだけ。ただ一緒にいられれば。離れたくない。
たった、それだけの願い。
ゆっくりとユキの背中に腕を回す。
モニターの上で踊る数字のように手の間からこぼれ落ちないよう、和希はそれに力を込めた。
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