エロなし/おじさん/母
「ユキ……」白昼夢でも見ている気分で和樹は名前を呼んだ。きゃっきゃっと楽しげに笑うユキ。ユキは自分の体の状態に気づいていないのか。
ユキは速く歩けない。
だから俺は歩調を合わせて川沿いの道をユキと並んでゆっくり歩く。
ユキは11年前のモデルのアンドロイドで、和樹が小学校に入学する際にやってきた。当時の和樹に年齢設定を合わせたモデルのため、見た目は人間でいう六〜十歳程度の少年だ。
和樹は今年十八歳になる高校三年生で、十一年前は変わりなかった二人の身長は頭二つ分ほどの差がついていた。
ユキの輪郭をなぞる精巧なシリコン樹脂でできた肌は、夕陽を浴びて透けてみえた。栗色の髪や睫毛が風に撫ぜられてさらさらと揺れる。
「手、もう平気か?」
そう尋ねると、ユキはこちらを見上げ右腕を俺の目の前に掲げた。手を握って開いてと何度か繰り返して見せる。
「ぜーんぜん平気!和樹の心配には及ばないよ」
ふふんと鼻を鳴らしユキは無邪気に笑った。
ユキはここ最近故障が多い。今回は腕がうまく使えなくなった。その前は左足が故障した。左足は修理に必要なパーツが揃わなかったため完全には治らなかった。そのため、ユキは走れなくなってしまった。
しかし、本人はそれを気にしてる風でもなくゆったりとした足取りで秋風を浴びながら気持ちよさそうに歩いている。
ユキの修理には隣町まで出る必要があった。ユキの製造販売を行っていた企業がアンドロイドの修理補償期間を八年と定めていたため、家の近くにある修理工場はどこも十年以上前に発売されたユキの修理を引き受けてはくれず、隣町にある個人経営の電器屋でいつもユキは診てもらっていた。
『ユキちゃんのモデルは今じゃパーツも全然流通してないんだよ』
電器屋の主人でアンドロイド修理技能士でもある安斎さんは困ったようにそう話していた。
アンドロイドは家族、そんな信念を掲げてどんなに古い型でも真摯に修理の依頼を受けてくれた。
和樹にとってユキは唯一無二の存在だ。小さい頃からいままでずっと一緒にいたし、これからもずっと一緒にいたい。だから、そんな和樹にとって安斎さんは救世主だった。
(ユキはいつか俺が治してやるからな)
和樹が声には出さず、そう決意すると同時にユキが声を上げた。
「ママからメールがきた!帰りにたまねぎとにんじん買ってきてだって!」
右目を閉じてふらふらと歩いている。右目を閉じている時はメールなどのSNSからの情報をチェックしているという合図だ。
「歩きながらそれするなって言ってるだろう」
ユキが転ばないように右手でユキの左手を取る。薄いシリコン樹脂の膜の下にある硬質な指がきゅっと和樹の右手を握りしめた。
「こうやって歩くと昔を思い出すね」
メールのチェックをやめて、ニコニコとユキはこちらを見上げる。
「ああ、ユキおまえこんなに小さかったか?」
悪戯っぽく笑い返すとユキはむくれたように唇を尖らせて、
「和樹は無駄にでかくなりすぎ」
と呟き、かわいらしい顔をつんと横に向けた。
母に頼まれたお使いをこなすべく、帰路を逸れてスーパーのある通りへ向かう。
小さな頭を揺らして歩くユキを横目に見ながら、和樹は少し冷えた秋の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
★
「和樹ー!遊ぼうよー!」
駄々をこねるように足を揺らしてユキは和樹の部屋のベッドの上で寝転がっていた。
「いつも勉強ばっかでつまんない!」
勢いよく起き上がったかと思うと、こちらに背を向けてベッドの横の勉強机へ向かう和樹を羽交い締めにするように、その背中に抱きつく。
「あー!もう!うるさいなあ!一回だけだぞ!」
あまりにも横暴なユキの態度にやれやれと首を振る。
ユキは最近配信されたレースゲームに嵌っていて、それを和樹と一緒にやりたくてしょうがないのだ。
和樹の友達兼お世話係としてやってきたユキだが、最近では和樹がユキの世話係をしているのではないかと和樹は思い始めていた。だが、なんだかんだいつもユキのわがままにつきあってしまう。和樹はユキに心底甘い。
ゲームのデータはユキの中のハードディスクに保存されている。子供の遊び相手として開発されたユキにはそのような機能も備わっているのだ。
テレビの横からケーブルを取り出すと、それでゲーム機とユキの項にあるプラグをつなぐ。無線でゲーム通信ができるアンドロイドはとっくに販売されており、またユキも必要なアプリさえ取り込めば無線でゲームができるようになるにも関わらず、ユキ自身はケーブルを使って遊ぶことを好んだ。
理由は、向かいの家で飼われている犬の気持ちになれるから、だそうだ。
「いまケンちゃんと同じ気持ち。和樹が僕と遊んでくれてうれしい」
ふざけてわんわんと吠えてみせるユキをよしよしとあしらいながら和樹はゲームの電源をつけた。
一度だけと宣言しておきながら和樹自身もレースゲームに夢中になってしまい気づけば夕飯時になっていた。
結果は五分五分。和樹はゲームが得意だし、ユキはアンドロイドにしてはゲームが下手なのだ。
階下から食器同士がこすれる音や、水の流れる音が聞こえる。
和樹もユキも遊びつかれて部屋でだらだらと過ごしていた。
「母さん、今日の夕飯なんていってた?」
「んー。たしかシチューかな」
そんな会話をしていると、階下から母が食事に呼ぶ声が聞こえた。
和樹は立ち上がると未だベッドに寝転がったままのユキを見下ろす。
「ユキもくる?」
「いやあ、疲れたからちょっと休むよ」
「ん。わかった」
ユキは和樹の返事を聞く間もなく両瞼をおろしてスリープ状態となった。
和樹はそんなユキをしばらく眺めていたが、母が呼ぶ声が再び聞こえて部屋の電気を消して食卓へとむかった。
★
「ユキ、おいユキ!俺が寝れないんだけど」
夕食を終え、和樹が戻るとユキは先ほどと変わらぬ状態で和樹のベッドの上に横たわっていた。いつも和樹はベッドで、ユキは和樹の部屋の隅に置かれた充電ができる椅子で休む。しかし、声をかけても身体を軽く揺さぶってもユキは一向に目を覚ます気配を見せない。
「はぁー」
和樹は諦めてベッドの端に追いやられた掛け布団をとり、床の上に寝転んだ。
ユキの目覚めが悪いのはここ最近からだ。原因はわかっている。メインのバッテリパックの寿命が近いのだ。もちろん安斎さんにこのことは相談してあるが、ユキの型番のバッテリパックはジャンク品で流通しているものもどれも腐っているものばかりで新品との交換はおろか、ユキのバッテリパックはよく今まで持ったとまで言われてしまった。手足の修理はなんとかできるが、バッテリパックが死んでしまったらついに手立てがないとも。
明日になってもユキが目を覚まさなかったらどうしよう。そんな不安に駆られる。部屋の天井をぼうっと見つめながら先ほどの食卓での会話を思い出す。
「和樹、アンドロイドの機械師になりたいって今も思っているの?」
母にそう尋ねられた。和樹はシチューのじゃがいもを頬張りながら頷く。
「機械師の学校って地方にしかないんでしょ? ユキちゃんのことが大切なのはわかるけど、ユキちゃんのために進路を決めることはないんじゃない? アンドロイドなら他にもあるんだし……」
「俺はユキじゃなきゃだめなんだよ!」
母の言葉に、つい声を荒げる。
ユキは幼い頃からずっと一緒にいた。今さら新しいアンドロイドを迎える気になれるわけがない。母も二人をずっと見てきたはずなのにどうしてそんなことが言えるのか。
怒りや悲しみがわきあがった。それに呼応するように言い知れぬ不安が煙のように立ち上り、和樹の心を覆った。
急かされるように和樹はシチューをかき込むとダイニングを出て自室へと向かった。
今の話をユキに聞かせるつもりはないが、ユキと話がしたかった。どんな言葉でもいいからユキの声が聞きたかった。
それから今にいたる。目を覚まさないユキを目の前にしていよい和樹の心には暗雲が立ち込める。
母の言いたいこともわかっていた。そもそも和樹に一人暮らしができるのかという心配や、あるいは和樹が一人前の機械師になる前にユキが……。
考えてまたため息をついた。いやなことは考えたくない。数時間前まで一緒にテレビゲームをしながら無邪気にはしゃいでいた横顔を思い出す。
(ユキ……)
瞼の裏できらりと光る星のようにユキがこちらを振り返る。
その顔を見る前に和樹は眠りに落ちていた。
★
それから三日間ユキは目を覚まさなかった。
その間、安斎さんを家に呼びユキを見てもらうもバッテリパックの劣化により覚醒の動作がうまくいっていないのではという診断だった。
覚醒をするように促すことはできても、覚醒できるかはわからない。
また覚醒できたとしてもこの症状はユキ自身の機能が停止しない限り続くだろうと告げられた。
和樹は不思議と冷静だった。目を覚まさないユキを見ると寂しくて悲しいのに、思っていたほどの衝撃はなかった。知らぬ間に自分の中でユキとの別れへの覚悟をしていたのかもしれない。そう思うと、己のあまりの薄情さに乾いた笑みがこぼれた。
「和樹くんは機械師を目指すんだろう?」
わざわざ和樹の部屋までユキの様子を見に来てくれた安斎さんがなにやら工具入れの中をごそごそとあさりながら声をかけてきた。急な話題に、和樹は少し面食らいながらも「はい」と頷く。
「これ、知り合いの機械師が以前譲ってくれたのを忘れていたよ。俺は修理技能士だから細かいところはわからない。きみが持っていた方がきっといい」
安斎さんはそう言いながら一枚の古い紙を和樹に手渡した。
アンドロイドの設計図だった。そこにはユキの型番が書かれていた。
「作るとしたら一からだ。バッテリパックだけでも作ってもらえるかと知り合いの機械師に依頼しようとしたらとんでもない値段でね」
安斎さんは首をすくめると床に置いていた工具を片付け始めた。
和樹は拡げた設計図をひたすら見つめていた。
視界が揺らぎ文字が滲む。せっかくもらった大切な設計図を汚さぬように腕で目元を拭った。
「……ありがとうございます」
声が震えて恥ずかしかったが、それ以上に嬉しかった。
自分ですら諦めかけたユキとの未来を諦めずに背中を押してくれる人がいたこと、そしてその未来をつなぐ大切な設計図が目の前にあること。
最後に、と安斎さんがユキの電源スイッチを入れる。何度も繰り返してきた作業だが、この三日間ユキが目を覚ますことはなかった。
(……)
「今日もだめかな」
呟き、安斎さんが立ち上がろうとすると、独特の起動音が部屋に響いた。まもなく、ユキが目を開ける。
「おはよう、和樹… あれ?安斎さんもいるの…?」
心地よい昼寝から目が覚めたような調子でユキが話し出す。ふふ、と少し笑うと安斎さんは和樹の部屋から出て行った。
「ユキ……」
白昼夢でも見ている気分で和樹は名前を呼んだ。
「和樹、なにそのアホ面」
きゃっきゃっと楽しげに笑うユキ。ユキは自分の体の状態に気づいていないのか。
「ユキ、気分はどうだ」
思わずそう声をかけた。どこか不具合はないか、身体の核となるバッテリパック劣化の下でユキは平気なのか。
「うーん、少し眠いかも。でも少し身体動かしたいな」
そう言うと三日間寝たきりだった身体を起こし、ユキは立ち上がった。
「和樹、散歩してよ」
★
首輪の代わりに手をつないで和樹とユキは近くの川沿いの道を歩いていた。
ユキは歩くだけでも少しぎこちなくつらそうに見える。なるべく家から離れないように、近くの道を歩く。
道中でユキは花に触れたりトンボを目で追ったりして遊んでいた。
夕焼けのオレンジ色の光がユキを暖かな色に染めていた。透き通るような肌は熱を持ち、細い髪は日を浴びて金色に見える。
「和樹」
ふいにユキが立ち止まる。和樹も同じように立ち止まり、前へ伸びた影を見つめていた。つないだ指が微かに強張る。
「和樹、僕とずっと一緒にいてくれてありがとう」
ささやくようにユキは呟いた。言葉は出なかった。
ユキはこつんと、和樹の肩に寄りかかるように頭を乗せた。その頃にはすでに和樹は嗚咽も隠さずに泣きじゃくっていた。
小さな頭を優しく撫でる。細い髪が指に絡みついた。
柔らかな笑みを浮かべ、ユキはうっとりと目を閉じる。
ユキは速く歩けない。そして、おそらく和樹も。
二人は寄り添うように歩調を合わせて川沿いの道をゆっくり歩いていく。