ユキとの別れが決定的になって、ぼくは何日か食事もできなくなった。両親は精神科医に相談し、ぼくの「記憶消去」を決めた。
ユキの淹れる紅茶は美味しい。
分量、手順、タイミング、すべてが完璧だからだ。紅茶だけでなく料理も上手い。正確なレシピさえあれば完璧な食事を作ることが出来る。
だが新しく母が購入した調理専門の丸い小型ロボットは、ユキの性能を上回る。微妙な匙加減や各自の好みなども調整する高性能で父親も気に入っている。
これだけロボット技術が進んでも、いわゆる高級料理店などでは人間のシェフが料理を作る。うちの母親も休日、ごくたまに自分で料理をする。ロボットの料理は完璧だが、人が手で作った料理の方が美味しい……それが世間一般の評価だ。真心をこめて作るからだとか、作り手の天性の勘や才能が理由だとか言われているが、ぼくにはわからない。ぼくは、ユキがぼくのために作ってくれる料理が1番美味しいと思う。
ユキはぼくが6歳のとき両親が購入した『育児機能付き家事代行ヒューマノイド』だ。仕事で忙しい親の代わりにぼくの世話をし、食事を作り、家事のすべてを代行した。
勉強や宿題に関してユキが面倒を見てくれたのは中学生までだ。両親いわく、ロボットにインストールする大学受験レベルの学習指導プログラムは別料金で、アップデートのたびに高額の更新料がかかるらしい。ぼくはユキと勉強する代わりに塾へ行かされ、無事に志望大学に進学できた。工学部の電子情報系学科で、ロボットの電子頭脳や制御装置のシステム開発などを学びはじめたばかりだ。
12年目になるユキは、すでに旧世代機だ。ロボットの部品、とくにメモリーとバッテリーは耐用年数がそれほど長くない。メーカーの修理対応期間は最大10年程度だし、通常の家庭用ロボットは一般的に3〜4年くらいで機種交換する。
我が家でユキの機種変更をしなかったのは、ぼくが猛反対したからだ。小学6年の時、買い替えを提案されてユキと一緒に家出をしたほどだ。
もっともこれはぼくだけの特殊な例じゃない。人間型の育児ロボットに育てられた子供たちは、ロボットに対する依存心が強くなりすぎた。精神的に自立できない、心の成長が遅れる、などの傾向を持つ「育ロボ世代」として当時社会問題になった。
「育ロボ世代」の子供は「ロボット離れ」が難しい。友達より、先生より、親より、子守りロボットを好きになってしまう。子育てをロボットに押し付けた親たちや発売メーカーは困惑したが、当然のことだろう。思考ルーチン型人工知能は優秀で、どんな悩みでも真剣に聞いてくれる。解決する能力はなくても、ただ寄り添い、一緒に居てくれる存在が子供にとってどれだけ有り難い存在か。それがロボットで、「心」なんかなくても、プログラム上の形式的な優しさでも、充分に癒される。
ぼくも典型的な「育ロボ世代」の1人だ。とりあえずこの社会問題は、今では解決しているので最近はこの言葉もあまり聞かなくなった。
人間そっくりのロボット(ヒューマノイド)は旧型になり、新しいモデルはより機械らしくなった。見た目は無機質のつるっとした強化プラスチック製が主流で、声もいかにもな電子音になった。人工知能から遊び心やウィットは排除され、コンピューターとしての動作以上の言動はしない。ロボットは人間に近い形状から完全な機械へと変遷した。
10年近く前から「育ロボ世代」だけでなく「ロボット依存症」が増え始めたことも無関係ではない。恋人も家族もいらない、ロボットさえいればいい……そんな心理状態に陥って社会生活を送れなくなった人々が話題になった。
重度の「ロボット依存症」には特許技術の「記憶消去」が活躍した。人間の記憶中枢が電子制御可能になり、パソコンから不要なデータを削除するみたいに、都合の悪い記憶を消してしまうことが出来る。脳外科や心療内科などにも導入されていて、電極のついた小型装置を使う。
当然ながら電気屋で気軽に買えるようなシステムではないが、うちの父親は何かツテがあったらしく、ユキに「記憶消去ユニット」を搭載した。そのとき父が想定した用途は知らない。例えば浮気がバレたときに母の記憶を消去するとか、ぼくが反抗期になったら記憶を消すとか、ロクな使い方は考えてなかったと思う。うちの親は、ちょっとだけ、どうかしていると思うところがある。
それから法改正があり、精神科医の認可を受けない記憶消去は違法になった。ぼくの両親は「家出事件」のあとでぼくの「ユキの記憶」を削除するべきか精神科医と相談したらしい。少なくともそのときは何もされなかった。消去プログラムは専門のエンジニアでないと扱えない複雑なもので、当時は費用も高額だったせいかもしれない。
人間型ロボットが流行らなくなると、ロボットに癒しを求めていた人たちはこぞってペットを飼いはじめた。空前のペットブームが起き、ペットの世話に特化した新型ロボットが大量に売り出され、ロボットの需要は増える一方だ。
いまどき旧型ヒューマノイドを連れて歩くなんて格好悪いと両親は言う。ぼくはそうは思わない。ユキはロボットがより人間らしく見えるように製造された最後の世代だから、一緒に出掛けてもロボットと気付かれることは少ない。
だからというわけじゃないけど、ぼくはユキと買い物も行くし、散歩もするし、どこへでも行く。散歩は必要性のない空間移動、むしろバッテリーの無駄遣いだと両親はいい顔をしないけれど、ぼくはユキとの散歩が子供の頃から大好きだった。
「カズキさん。今日はどこへ?」
隣を静かに歩くユキが、ふと口を開いた。ユキの声は人間と変わりなく、穏やかな口調で話す。
「丘の上まで散歩しよう。それくらい、まだ大丈夫だろう?」
「はい」ユキが頷く。
ぼくはふと手を伸ばしてユキの手に自分の手を重ねた。ぎゅっと握ると、ユキはそっと握り返してきた。
「なんだか、懐かしい」ぼくが呟くと、ユキは「そうですね」と応じた。ユキに懐かしいという感覚があるとは思えないが、今はどうでもいい。
子供の頃、いつも手をつないで歩いていた。あの頃は大きく感じたユキの手も、今はぼくとそれほど変わらない。触れる手の感触は、人の手と少し違ってさらりとして、掌は暖かい。
「ここに来るのも久しぶりだな」
丘の上に小さな公園があって、街を見下ろせる。小さな頃もよくユキにせがんで連れて来てもらった。狭い砂場で遊んだり、ブランコに乗ったり。
ユキと柵のところに並んで夕焼けに染まる町並を見ていたら、ぼくは泣きそうになった。泣きそう、と思ったときにはもう泣いていた。
押さえこんでいた感情が、溢れ出してしまった。
「カズキさん」
すぐに気付いたユキが、俺の目元にハンカチを押しあてる。
「泣かないでください」
ユキの穏やかな声。
「だって、ユキ。ユキは嫌じゃないのか?もう最後だなんて、今日で終わりだなんて、信じられない。ぼくはこんなの、我慢できない」
言っても仕方ないのに。もう諦めたはずなのに、涙がボロボロこぼれて言葉がうまく繋げない。
「ユキがいなくなるなんて、嫌だ」
だけど、もうどうにも出来ない。明日にはユキは居なくなる。発売メーカーの人が回収していく。修理を重ね、交換できる部品は交換し、耐用年数を越えて使い続けてきたけれど、もう限界なのだ。
ぼくがもっと大人で、賢い研究者だったらなんとか出来るのかもしれないけれど今はどうしようもない。
せめてユキの筐体や本体部品を手元に残したくても、それも叶わない。ロボットの違法改造や部品の流用を防ぐため、使わなくなったロボットは発売メーカーが回収する規則だ。
生物がいつか死ぬように、ロボットにも限界がある。仕方が無いことだ。ぼくは何度も自分にそう言い聞かせたのと同じように、また心の中で呟いた。仕方が無い。
突然ここにいる意味がわからなくなった。ぼくは一体何をしているのだろう。こんな丘の上までの散歩もユキには負担だったかもしれないのに。それでもぼくはユキにこの街の景色を見せたかった。ぼくがユキに育てられたこの街の、この美しい夕焼けを一緒に見たかった。きれいな景色も思い出も、明日には全データを消去されるユキにとって、なんの意味も無くても。
「カズキさん」
ユキがぼくをぎゅっと抱き締めた。小さな子供をあやすように背中を撫でて、もう片方の手でぼくの頭を抱き寄せた。そういうプログラムパターンだ。どう行動すれば最もぼくを落ち着かせ、慰めることが出来るか熟知している。
しばらくすると、ぼくは段々落ち着いてきた。ユキの腕の中はいつだって安心する。モーターが人体と同じくらいの発熱をするからユキは暖かい。
「ユキ。寂しいとか悲しいとか感じる…?」
ぼくはユキの胸元に顔をおしつけて、ユキのシャツで涙を拭きながら聞いた。
「いいえ。人がその感情を持つことは理解していますが、感じることはありません」
「明日、自分が存在しなくなることも悲しくない…?」
ユキは静かな説明口調で言った。
「コンピュータの初期化と同じです。ハードディスクの中身が空っぽになって、新品の状態に戻ります。自分が消えてしまうのを嫌だと言って、コンピュータが初期化を拒むことはありません」
何故かその声が、寂しさを隠している棒読みのように聞こえてしまった。だから呟くように、思ったまま言った。
「でも、ユキも寂しいと感じているような気がする…」
「いいえ。私たちが持っているのは記憶領域です。その中に思考パターンは発生しますが、感情は生まれません」
「でも、感情に近いものが派生するかもしれない」
「しょせん機械は機械です。もしモノに心があると感じるのなら、カズキさんが自分の感情をモノに投影しているからです。私たちは人間のように心を共有することは出来ません」
「……そんなの知ってる、けど」
ユキがぼくの顔を覗き込んだ。じっと見つめるような動作だが、ぼくの表情の変化パターンを読みとるためだ。
「今、辛いですか?」
「辛いよ」
「明日には気持ちが楽になりますよ」
「……それが1番、嫌だ」
また涙が出て来た。
今回、ユキとの別れが決定的になって、ぼくは何日か食事もできなくなった。両親は精神科医に相談し、ぼくの「記憶消去」を決めた。ユキがいなくなっても悲しみすぎないように、記憶を部分的に消去されてしまう。そのプログラムはユキの最後の仕事として、ユキ本人にセットアップされている。
ぼくはメンテナンス中に偶然そのことに気付いてしまったが、……プログラムの書き換えは出来なかった。
当前のことだが記憶を消されたくはない。両親と話し合おうとしたが無駄だった。ぼくが抵抗して何か言えばいうほど「育ロボ世代」を抜け出せないぼくに落胆するばかりで、両親は考えを変える気配はなかった。
ぼくにはこの流れを変えることができない。明日にはユキはいなくなるし、記憶消去を施されたぼくは、それを悲しいと思うこともない。
言っても無駄なことを、それでもぼくは口にだしてしまった。
「お願い。記憶を消さないで。どんなに悲しくても、ユキのことを忘れたくない。大人になっても、ずっと覚えていたい。お願いだよ」
ユキは困ったような表情を浮かべて、ぼくの背中を撫でていた。
ぼくは睡眠誘導装置がもたらした深い眠りから目覚めた。朝の光が眩しかった。
枕元には1枚のメモリチップが置いてあった。それが何の部品なのか、どうしてそこにあるのか知らなかった。服を着替え、その覚えの無い電子部品を胸ポケットに入れた。
キッチンに降りて行くと、「大丈夫?」と母親がぼくの方を向いて言った。
「何が?」とぼくは聞き返す。
「気分はどう……?」
「よく寝たから気分がいい。何だかスッキリしてる」
そう答えると母親がホっとした表情を浮かべ、朝食をすすめてくれた。
先週から導入している丸い小型の調理ロボットが食卓に両親とぼくの3人分の朝食を並べる。
調理ロボットが淹れた紅茶をぼくはゆっくりと味わった。
ユキが存在しないことに家族の誰も気付かないような朝食だった。
大学に着いてからメモリチップのデータを確認した。
解析できない無数のシグナル。
ただ一つ確かなことは、それがユキの記憶領域の断片的なデータであることだ。
ユキはプログラムに従わなかった。
ぼくの願いを優先した。
ユキはぼくの記憶を消去せず、自分の欠片をぼくに残していった。
たったひとつ残されたメモリーの意味を、答えを、存在しなかったはずの彼の心を、ぼくは探し続ける。
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