エロなし/メリーバッドエンド
僕の異変に気づいたユキが、ナースコールを押そうとするのがわかった。でも僕は、首を振ってそれを拒否した。
ユキ、今でも覚えているよ。君が初めて、僕の家に来た時の事。
僕はね、あまりにも君が綺麗で、あの時本当に驚いたんだ。真っ白な肌と、銀色の長い髪。白銀の君は、まるで雪の妖精だった。
君に『ユキ』って名前をつけたのは、僕だ。第一印象で、そう決めた。名前を呼ぶと、切れ長な君の瞳は、キラリと嬉しそうに光ったね。綺麗な綺麗な、銀の瞳。吸い込まれそうな、星の色。
あれから僕の時間には、いつだって君が居た気がするよ。仕事で忙しい両親よりも、君と過ごした時間の方が確実に長い。他のどんな友達も、君の存在には程遠い気がする。
ユキ。君は、家族以上に家族で、僕の一番の親友だ。この関係を、恋人と言ってもいいだろうか? 今僕が、愛していると伝えれば、君は一体どんな顔をするだろう? 愛に応える表情なんて、君の中にプログラミングされているのかな――?
言葉にならない言葉を散々頭の中で呟いて、僕はうっすらと目を開けた。
そこには相変わらず、ユキが座っていた。目が合うと、ユキは優しく微笑んだ。いつもの笑顔。僕が大好きな、ユキの笑顔。
僕の病気が発覚したのは、半年前の事だった。バスケットボールクラブに所属していた僕は、放課後の練習中に突然意識を失った。
ロボット工学が進歩していったように、今の医療技術は本当に凄くなっている。クローン臓器を簡単に作れるようになったし、癌の特効薬も完成した。
でも人間ってのは、上手い具合に減る仕組みになってるみたいだ。不治の病と言われていたものが治療可能になるにつれ、また新しい病気が増えていく。
僕はそれにかかった。新型ウイルスによる脳炎だ。感染源は不明。末期状態になるまで症状が表れないという、とても悪質なものだった。倒れた時には、そのウィルスは既に、僕の脊髄をも侵していた。
その日を境に、僕はどんどん弱っていった。もう身体を動かす事ができない。最終的には、脳からの指令が全てストップして、呼吸ができなくなり、心臓が止まるらしい。
怖いけど、でも平気だ。こうしてユキと二人きりで過ごせるだけで、幸せだから。ユキ、大好きなユキ。最期に見る光景も、どうか君であって欲しいと、僕は願うんだ。
「ユキ……」
か細い声で呼びかけると、ユキは僕の右手を握ってくれた。その感触はとても冷たいのに、何故かいつも温かい。
「ハイ、和希サマ」
「この人工呼吸器……外して、くれない?」
「それは、賛成しかねマス」
「君と、話したいんだ……。これがあると、喋り辛くて……」
ユキはじっと僕の顔を見つめた後、
「かしこまりマシた」
そう言って、人工呼吸器を外してくれた。
もう心肺機能が弱っているんだろう。呼吸器をつけていても苦しかった僕の息は、外してもあまり変わらなかった。
ユキが再び僕の手を握り、僕は言った。
「母さんは……?」
「着替えを取りに、家へ戻られていマス」
「そっか……。ちょうどいい。君と、ゆっくり話したかった……」
僕はできる限り笑顔を作って、ユキの方を見た。
「ユキ……僕は一つ、君に謝りたいんだ……。去年……受験期で、僕が荒れてた時……。なかなか成績が上がらなくて、イライラしてて……。慰めてくれた君に、酷い事を言った。『ユキはアンドロイドだからいいよな』なんて……」
「覚えていマス。でもそれは、酷い事だったのデスか?」
きょとんとするユキを見て、僕は少し笑った。
「酷いさ……。皮肉だもん」
「そうデショウか。我々の記憶容量は、人間のおよそ一億倍。あの頃の和希サマが、その能力を欲したのは、当然だと思いマス」
「そっか……君は、そう受け取れるんだな」
機械のユキに、人間の微妙な感情の動きを察する事はできない。そこが少し物悲しいけれど、でも僕は、そんなユキだから好きなんだとも言える。
「あれはね……そういう意味だけじゃ、ないんだよ……。アンドロイドの君には、両親の期待とか……将来の不安とか、そういうものが一切無いって、意味だったんだ……」
「ええ、その通りデス。和希サマは正しい」
「ま、そうなんだけど……」
埒が明かないと思って、僕はこれ以上、この話をやめる事にした。ユキと話していると、こういう事がよくある。そのたびに僕は、不思議そうな顔をしているユキが、歯がゆくて、愛しくて、どうしようも無い気持ちになる。
するとユキが、突然問いかけてきた。
「今も、ワタシが羨ましいデスか?」
「え……?」
「だって、和希サマがアンドロイドなら、こんな病気にならずに済んだ」
「うん、そうだな……確かにそうだ。でも僕は、人間側で良かったよ……。だって、今僕と君が逆転したら、僕は、君が死ぬのを見届けなくちゃならない……。耐えられないよ、そんなの……」
ユキは黙って、じっと僕を見つめていた。銀の瞳が、何だか濡れたように光っていた。
僕は言った。
「もう少し……生きたかった気もするけど……。でもそれって、辛いかもな……。ユキを好きなまま、生きるなんて……僕、ちょっとしんどいよ。絶対、報われないもん……」
その時、僕の手を握るユキの力が、少し強くなった。そしてユキは、長い睫毛を伏せて言った。
「回路が、ショートしてしまいそうデス」
「……へ?」
「この感覚を、悲しいと呼ぶのデショウか? あまりにも苦しくて、ワタシの体内が、爆発してしまいそうデス」
「ユキ……?」
「ワタシは今、人間が羨ましい。こんなにも悲しいのに、泣けないなんて、ワタシは何と、憐れな存在なのデショウ」
ユキの細い眉が、悲しげにしかめられた。
「以前、奥様にご同行して、ミュージカルを観に行きマシた。ロミオとジュリエットの劇デス。あの時は、わからなかったのに、ワタシは今、心中した彼らの気持ちが、よくわかる。ワタシは今、きっと、彼らと同じ心境なのだと思いマス。大切な人を失って、生きていけないという気持ちデス」
それを聞いて、僕は少し目を見開いた。
――アンドロイドには心が無い。
学校の先生が、そう言っていた。彼らは本当に人間っぽくできているけれど、その表情も、優しい言葉も、全て人口脳から発せられる電子信号によるものだと。人間を不快にさせないよう、計算され尽くしたものなんだと。
でも僕には、今のユキがそういう風に見えなかった。ユキの声からは、明らかに『気持ち』が感じられた。もしかしたら僕が、そういう風に考えたいだけかもしれないけれど……。
「君が本当に、そういう風に感じてくれてるんなら、嬉しいなぁ……」
言って、僕は力無く笑った。
悲しそうなユキの顔が、少しぼやけた。目がかすんできたんだ。視神経がおかしくなり始めたのかもしれない。呼吸も更に、苦しくなった。
「ユ、キ……」
言葉も上手く出てこない。言いたい事が頭の中に浮かぶのに、それが言葉という形にならない。そういえばお医者さんが、いずれはそういう風になるって言っていた。それにしても、あまりに突然だ。僕にはまだ、ユキに言ってない言葉があるってのに――。
「今、お医者サマを」
僕の異変に気づいたユキが、ナースコールを押そうとするのがわかった。でも僕は、首を振ってそれを拒否した。
「や、め……」
「和希サマ、しかし……」
ユキは困ったような声で言ったが、それでも僕は、断った。
もう、ユキの顔は見えない。白い輪郭が、ぼんやりとあるだけだ。
ああ、最期なんだな――。僕はそう悟った。最期に言いたい言葉があるのに……あと一言、あれが言いたいのに。それが、上手く出てこない。どうしても、ユキに伝えたいのに。
「あ……ユ、キ。あ……」
僕の呼び声に応じるように、ユキが椅子を立ったのがわかった。
すると僕の頬に、サラサラしたものが落ちてきた。何となくそれは、ユキの髪の感触に似ているように思えた。
そして次の瞬間、唇が、とても柔らかい何かで包まれた。それはしっとりと優しくて、僕の緊迫した心まで、甘く解いてくれるような感じだった。
その何かが離れていった時、僕の視界に、はっきりとユキが映った。
僕は目を疑った。何故ならユキは、泣いていたんだ。
銀色の瞳から零れる涙達は、まるで星屑みたいだった。その星屑が一粒、僕の頬に落ちる。それはちゃんと温かくて、感動した僕は、思わず笑ってしまった。
「何だ、ユキ。泣けるじゃないか……」
僕はユキの頬に触れ、涙をそっと指で拭った。
「愛しているよ」
やっと、言えた。良かった。この一言が、どうしても言いたかったんだ……!
ユキが泣きながら、僕の掌に頬ずりしている。何て綺麗な顔だろう。それは君の、愛の表情かい? ユキ……君の涙は、まさに奇跡だ。僕は今、この世で一番幸せな気がする。この瞬間の為に、僕は生まれてきたんだ。
ユキ、君が好きだ、大好きだ。
星になっても、僕は君を、愛してる――。
心電図が止まった。ピ――……という冷たい音が、病室内を支配する。もう、和希の呼吸は聞こえない。
「和希サマ……」
再び椅子に腰を下ろしたユキは、和希の安らかな笑顔を見つめて言った。
「貴方と過ごした、短いようで長い年月が、ワタシの中に奇跡の感情を生んだ。信じられない事デス。今すぐ貴方を追いかけたい。でもワタシは、ロミオのように、毒を飲む事ができマセン。自己防衛プログラムにより、ワタシは、自らを、傷つけら、れない」
ユキの声の調子が、徐々にゆっくりになっていく。
「だからワタシは、貴方の心電図と、ワタシの回路を、繋ぎ、マシた。貴方の心臓と、共、に……ワタシの、動力回路、が、壊れ……。これが、ワタシの、毒、杯……。愛……して、いま……す――」
ユキの意識が、ブツンと音を立てて途切れ、上半身が倒れた。
医師達が駆けつけた時、二人は折り重なるように眠っていた。ユキの胸からは、幾本もの銅線が、和希の心電図に繋がれていた。