2007年の晩夏、休刊直前の雑誌「シャレード」でこのシリーズのプロローグ編が前後編で掲載された。
やや駆け込み気味だったとはいえ、まさに同雑誌の有終の美を飾るに相応しいノスタルジックなグランドホテル形式の物語である。
魅力的な数多の全ての登場人物達が、物語展開上欠くことの出来ない動力源(エンジン)として有機的に繋がっており、作品全体を活性化させている類い稀な名作BLである。
これはシャレードレーベルの長編シリーズが長年培ってきた“お得意”の手法でもあり、同誌デビューの秘蔵っ子(?)である著者の渾身の一本にも見える。
…無論、ファンの欲目かもしれないが。
この作品は、(タイトルからも察せられる通り)瀟洒なフレンチレストランの再建を通じて“食卓の理想”を追求する物語である。
この題材を美味しく料理するフィクションは、媒体を越えて古今東西世界中に沢山ある。
映画の「フライド・グリーン・トマト」や「バグダッド・カフェ」、漫画ならひうらさとるの『パラダイス・カフェ』や佐々木倫子の『Heaven?』、あるいは三谷幸喜のテレビドラマ「王様のレストラン」等など。
最近映画化されたばかりの小川糸の『食堂かたつむり』なんかも、ココに列挙して良いだろう。
はてさて、では幸福な食卓(の記憶)に通じる理想のレストランとは一体何なのだろう?
それは、“美味しい”を知覚出来る心穏やかでかけがえの無い幸福な時間を共有する場(フィールド)。
即ち、まさに“プレイス・オン・ザ・ハート”である。
オレサマ系シェフの久我も、癒し系ナビゲーター兼ギャルソンの桃瀬も、そして我々読者も、ディレクトール鷺沼理人の人生経験に間接的に接触することで、否が応でも幸せの儚さを思い知らされる。
主人公兼ヒロインである理人は、ほとんど致命的と言っていい疵を心に抱えている。
幼い時代の過去の凍てついた記憶から、レストランに執念を燃やし、憎悪を滾らせ続ける孤独な彼の、“味方”はいつも少ない。
久我修司という野生味を帯びた精悍な“力”溢れる新進気鋭の暴力シェフによって、見かけで取り繕っていたそんな彼の内面は呆気なく暴かれ、ギリギリだった心の均衡は脆くも崩される。
サイは投げられた、のである。
二人のロマンスはここから始まり、愛と混乱で錯綜した舞台のような、映画のような、著者が仰るようにテレビドラマのような怒涛の展開が待っている。
乞うご期待。
故、続きが読みたくて辛抱堪らなくなるシリーズになること請け合いなので、三巻まとめ買い推奨。
以上。
初出は2003年とのこと。
たったの6年とはいえ、昨今のBL小説とは随分異なったアプローチが試みられている。
シャレードらしいといえばら・し・いのだが、ラブストーリーとは直接的には関係しない“肉親”のテーマがかなり重い。
小説の手法としては、ちょっと書き込み過多な印象を受け、個人的な好みからはやや外れた。
物語は、“魔女”の身内に対する攻撃を恐れて失踪したキーチ“姫”を救わんと“勇者”トモユキが奮闘する典型的なRPG様式。
…は、冗談(笑)。
が、そんなに本編の展開を逸脱してはいないと思う。
勇者トモユキは、キーチ姫周辺のNPCキャラとの対話で好感度を上げて彼の行方のヒントを得る一方、ラスボス戦に備えたキーワード(端的に言えば、いかなる状況下でも潰えない“愛の力”か?)を強化させていく(即ち、レベル上げ)。
アクシデントも味方に付けつつ、トモユキの不断の努力が実を結び、キーチ姫は無事彼の元に戻ってくる。
そして、ラスダンでは二人揃ってラスボス@魔女と対峙するのである。
しかし、最終的にキーチ姫が提示した攻撃カードが、どうしても私には最善のカードに見えない。
大団円の筈のエピローグも、だから一抹の不安を抱えたままで物語の幕を閉じているように感じられる。
果たしてキーチ姫は、今後この千賀子という名の肉親の魔女の悲鳴や懇願、あるいは下手したら最期の断末魔を、ストレンジャーとして冷静に受け止め、無視し、耳を塞ぎ続けることができるんだろうか?
彼の選択した行動を否定する気は無いのだけれど、決して“楽”なルートには見えない。
それは、私の中に千賀子的な“弱い”側面が少なからずあって、彼女を100%拒絶するのが難しいからかもしれない。
これは、読者@私の心構えの問題だな。
とまれ、そんな茨ルートにおいても“ちゃんと待ってる”、そして逃げても追いかけてくれる勇者トモユキの存在ははキーチ姫にとって唯一無二のかけがえのないパートナーであり、救済者なんだろう。
幾多の苦難を乗り越え、控えめながらも真摯に生涯の愛を誓う恋人達の姿は少し眩しい…。
つまり、なんだかんだ言って、この作品もこの著者らしい暖かかな甘さに満ち溢れてはいるんだな。
最後に余談。
コミカルで愛くるしい西河さんの挿絵は、数少ない癒しだった。
私は、重度の華藤えれなファンである。
この作品は、「小説リンクス」で不定期連載だった模様。
思うに、雑誌で連載中の方が楽しめる作品だったのではないだろうか。
小説誌における漫画作品は、コミック誌におけるソレとは異なり、漫画はあくまで箸休め的な目的で読まれることが多い。
どころか、そもそも小説しか読まない層には完全に読み飛ばされる宿命を背負っているとも言える訳で。
だから、これはあくまで予想だけど、本作品は普段小説しか読まない層を取り込むことを目的に生まれたのではないかな、と。
が、それが成功しているかと言えば甚だ微妙なトコロ…。
物語は、随所に散らばっているキーワードをそれぞれの登場人物の視点でリフレインさせながら慎重に回収し、見失われた導線(ミッシングコード)を繋ぐ展開。
偽りの中に見え隠れする真実を見定め、復讐という目的の為に隠蔽された愛情の在りかを思い出し、情報を鵜呑みにせず直感という名の信念を貫くことで目的を達成するユリアン。
彼らの手持ちのカードは回を重ねるごとに一枚づつめくれていき、二人の“ダウト”ゲームはラスボス戦と共に完了する。
なかなか捻りが効いていて、異国情緒もあり、たまにトンチキめいた会話シーンを間に挟むあたりが、実にこの原作者らしい。
往年のサスペンス映画的な様式美が、いかんなく発揮された意欲作である。
作画を担当された水名瀬雅良さんも、物語の肝である蠱惑的なユリアン/海里の身替わりシーンを筆頭に、登場人物達の二面性をその極限まで制御された表情の中に潜ませることに成功している。
前評判で懸念していた程、原作者と意思疎通の齟齬があるようには感じなかった。
否、細かな誤差は当然あるだろうけど、それはコラボ企画にとっては想定範囲内か良い意味の誤算のはず。
が、それにしてもBLという軸で眺めると、どうにも消化不良の感あり。
一つ原因を挙げるなら、BL的ロマンスの要素がサスペンスの紐を解く手段と化しているので、肝要なファクターとはいえ主題ではないあたりが微妙なのかもしれない…。
いや、もっと根本的な欠点の心当たりが無くもないのだが、あったかもしれない可能性を外野があれこれ邪推しても仕方なし。
とはいえ、私はこのテイストが嫌いじゃないどころか、むしろ大好物である。
要するに、冒頭の一文に全ては帰すんだな。
草間さかえさんの作品世界を、ドラマCDで再現出来るわけないと侮っていた。
あの空気、質感、背景、登場人物達の絶妙な間合い&掛け合い、意味深な視線の交錯…それらを音(声)だけで表現するのは無理だと思い込んでいた。
役者さんを筆頭に、このドラマCDの制作に関わった全てのスタッフに土下座して詫びたい。
本作品は、メインの四人の声優さん達がそれぞれ二役を兼任して、組み合わせも受け攻めもシャッフルした四組のカップルのオムニバスストーリーである。
即ち、たった一枚のCDがツーバイフォーで楽しめる構成。
しかも、ビックリするくらいどのキャラもイメージ通りで、集中して聴けば聴くほど頭の中で草間さんの画像が蘇り、ドラマの進行に合わせてコマ割りまでが再現される。
特に野島さんの演技は圧巻!…いや、私好みのキャラ(肉食系女王様&ツンデレオタッキー)だったから、余計になんだろうけど。
この短編集は、“君”との出会いを通じて“自己変革”のチャンスを掴む、未来志向型のラブというかライフストーリーが共通のメインテーマかと。
といっても、一連の主人公達が“恋人”や“恋愛”に流されやすいタイプという訳ではない。
むしろ、彼等は世間の通念(イメージ)に惑わされることなく、自力で自分の“業”を見つめつつ観念しつつ、逃げを打たずに孤高の人生を歩む気丈な人間だ。
いっそ腹を括った勇ましさのようなモノすら、彼らから感じられる。
だが、そんな自分を肯定してくれたり好意を持ってくれるホンモノのパートナーに巡り会えたら、やはり彼らでもその瞬間は明日を変えるチャンスになる。
可能性も視野も広がっていくから、“淋しさ/孤独からの逃避”とは全く違う意味で人が人と関わり続けることの価値が生じてくる。
草間さかえさんの作品の根底には、“傷み”を伴うノスタルジーが常にある。
だから、作品は美しくて懐かしくて理想的なんだろう。
BLであるとか否とかそんな瑣末な枠に囚われずに、ゆっくりじっくり何度も堪能できる美味しい作品ばかり。
よって、目下の私はこのドラマCDがヘビーローテーションになっているのだ。
“萌え”とも“神”とも少し異なる、マイフェイバリット作品。
ちょっと懐かしいテイストのスタンダードなBLで、だから安心して堪能できる素朴だけれど小粋な物語だった。
何だかんだ言って、私が繰り返し読み返したくなるBLというのはこのタイプ。
攻めの一陽は名前に反して、ややストーカー気質なネガティブツンサマ?
せっかくのイケメン設定なのに、視野狭窄気味でユーマ以外には吠えまくりの噛み付きまくりの残念な(犬)キャラ。
受けの佑磨は、比較的度量の大きいサバサバした性格なので、好対照をなしているとも言える。
とはいえ、彼が努めて淡白に振る舞うには彼なりの事情があり、単純にネガティブ×ポジティブという関係で換言できる訳ではない。
見かけとのギャップが大きいからこそ、二人は面白いし、大変魅力的なのだ。
若くて未熟で無力な青春時代には、どうにも出来なかった“心のキズ”あるいは“過ち”は、時の流れと共に彼らが社会的基盤を手に入れ、世間に揉まれて柔軟性を身につけていく過程で、ある程度リカバリーできる(折り合いをつけられる)ようになるモノ。
“過去”の楽しい思い出も辛い記憶も全部引っくるめて、彼らのかけがえの無い“現在”の土台になっているし、幸福な“未来”への次元も開かれていく。
学園祭用に急遽結成した一度限りのアマチュアバンドの“再結成”により、二人の間に生じてしまった無用の垣根は取っ払われ、商店街の活性化という当初の目的も達成されるというトントン拍子な大団円がホントーに心地好い。
一癖も二癖もある個性的な脇役達による、半畳/チャチャ入れも楽しく、メインのへたれカップルを盛り立ててくれる。
カルラ焼きが甘さ控えめで美味しいのは、佑磨が切磋琢磨して妥協せずに和菓子の道を極めた成果である。
同様に、この作品も下ごしらえがしっかりしているので、シンプルで甘さ控えめだけど、否、だからこそ豊かな作品に仕上がっているように感じる。
願わくば、二人のいちゃラブ番外編や先代編も読んでみたい。
本作品は、極めて映画的な構成の作品だと思われる。
否、漫画でも小説でもこの手の手法が駆使された作品は多いのかもしれないが、私の個人体験では映画が一番しっくりくる。
即ち、メタファーがそこかしこにあるゆる場面で潜まれていて、全てを開示/解釈するのは高等な“読み”のテクニックを有する作品である。
というか、はっきり言って困難である。
だが逆に言えば、“読み”の可能性が残されていること、常に読者に“解釈”を委ねられていること、その物語の奥行きの広さ/深さがこの作品の醍醐味でもある。
人の記憶に一生を賭けたメルナールの“記憶”の断片が、あるいは“本質”が、もしくは“愛情”が一人の少女に仮託されてカイとシスに受け繋がれていく顛末に、一つの幸福の在り処が見えてくる気がする。
私には、その“幸福”が割と確固たるものであるように思える。
少女はカイの隣人であり、メルナールの子供であり、ゴーストであり、天使であり、メッセンジャーであり、メルナールの“記憶”そのものなんだろう。
共に日陰/斜陽の人生を歩み続けているかに見える作中の全ての登場人物達が、それでも尚向日性(日なた)を志向し続けていること、未来の可能性を諦めていないこと、“とびら”が開かれていくことを信じていること、そんな彼らのひた向きさがとても愛しく魅力的である。
メルナールの致命的とも言えるミステイクが、シスとカイとジンを結びつけるキッカケであったことも意義深い。
こんな綿密に仕組まれた作品をBLジャンルで読めたことに、無上の喜びを感じずにはいられない。
BLジャンルがますます貪欲に多様な“萌え”を取り込んでいる昨今、私にとってせのおあきさんは最後の“砦”であり、“希望”である。
なぜなら、もう新規の(BL)作品で“昔”から変わらないこのテイストを味わうことは殆ど不可能だろうという予感があるからだ。
否、むしろソレは確信と言い換えても良い。
まさに、十年一昔。
時代の流行とか傾向とか空気いったものが、我々の気づかないうちに少しずつ変わってきた一つの証左である。
さて、ではせのおあきさんの作品に変わらずに貫かれているモノとは一体何なのか?
それを言葉にするのは、またとても難しい。
私はこの雰囲気を、(やはりせのおあきさんと同様に敬愛しているBL作家の高遠琉加さんの言葉を借りて)「天国が落ちてきた」状態(ステータス)だと思っている。
高遠琉加さんの作品を既読の方でなければ伝わならい“比喩”なので不親切で不十分だし、やや過激な表現だと知りつつも、コレが今のところ自分の説明できる精一杯の限界である。
登場人物達の何気ない一言、モノローグ、表情、癖、行為…。
それらが瞬間的に私の内側に潜む“理想”と重なり、心/魂ごと何処かに持ってかれてしまいそうな状態。
さりげない日常の物語の“奥”に潜んで、手をこまねいている非日常の特殊空間というべきか。
大したことないと高を括っていると、あっという間に“天国”のような場所に取り込まれてしまう感じ。
気付いたら、“好き”すぎて取り返しのつかない場所にいつの間にか立たされている。
今回の短編集では、私の場合特にラストに収録されている「刹那の踏切」。
地味系短編と侮るなかれ。
前振りもなく、不意打ちにソレは飛来してくる/落ちてくるから。
90年代の渦中(空気)を知る方には、特にオススメの作家の一人だと思う。